京都にまつわる体験、エピソード、雑感、知識、トリビア等をお聞かせ下さいませんか?切り口はお任せします。

坂本龍馬が殺された3日後くらいに伊東甲子太郎が殺されていますけれども、殺された場所が油小路という場所なんですね。前回京都に行ったときに、伊東が殺された場所を確認しようと思ってホテルから油小路まで歩いて行ったんですけど西本願寺の目と鼻の先だということが行ってみて分かったんです。西本願寺は新選組の屯所で、伊東を殺した新選組にとって油小路は宿舎に近い戦いやすい場所であったというようなことにも気づくことができました。

近藤勇が伊東を自宅に呼んで酒宴を催し、伊東はほろ酔い気分で帰っていたところを襲われているのですが、私は近藤の京都の自宅がどこにあったのか分からないのですけれども、西本願寺の屯所の近くということは間違いないのだろうというようなことも分かってですね、そうすると、伊東を狙った新選組の面々の当日の心境とか、そういうのがいろいろ想像できて、なかなか興味深い経験になったのですね。

地理的なことを考えてみます。伊東は新選組から分かれて孝明天皇の御陵を警備する御陵衛士という武士グループを形成したわけですが、この御陵衛士の屯所は高台寺に近いあたりにあったはずですから、京都市街の東の隅の方に伊東たちが暮らしていて、西の隅の方に新選組が暮らしていたという構図になります。伊東配下の面々が伊東の死を知り、遺体を引き取るために油小路まで出向いて待ち伏せしていた新選組と死闘になります。

時間的なことを考えると、酒宴が終わって伊東が殺されて、知らせが御陵衛士の屯所に届き、彼らが新選組が待ち伏せしているのも覚悟の上で遺体を引き取りにいこうと決心を固め、油小路へ出向いていったとなると、油小路での斬り合いは深夜から早朝にかけてなされたのであろうと推察できます。夜が明けて近所の人が外に出てみたら指がいっぱい落ちていたとの証言が残っていますから、戦いは朝になる前に終わっていたはずです。

旧暦の11月の京都の深夜から明け方にかけてですから凍えるほどに寒かったに違いなく、伊東の血で濡れた仙台袴がカチカチに凍っていたそうですが、御陵衛士を待っている間の新選組隊士もガクガク震えながら待ったのか、或いはアドレナリンが出まくって寒さを感じなかったか、などというようなことも想像を巡らせることができ、文字通り彼らの息遣いのようなところまで自分の脳内で迫っていける感覚になれてなかなかよかったです。



西郷隆盛さんの敬天愛人という思考の境地になぜなれたのでしょうか?自殺未遂、2度の島流しなどを経験してなれた境地なのでしょうか?どんな人間も汚い事をしてくる人間も平等に愛せる境地になぜなれたのですか

西郷隆盛は徳川慶喜を本気で殺すつもりでしたから、おっしゃっているような博愛の人物とはちょっと違うかなと思います。明らかにサイコパス傾向があり、目的のために手段を択ばない人物ですから、倒幕を目標にすると本当に実現してしまうという底知れぬ恐ろしさがありますけれど、この目的達成思考で「利他」を目標にした場合、普通では考えられないような大きな愛を発揮するのではないかというように私は西郷のことを捉えています。島流しにされている最中、漢籍を読むなどして、利他の概念・理想を知り、サイコパス的に徹底して実践したんじゃないかなと思います。



坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、この中でもっとも過大評価されていると感じる人は誰ですか?

「坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、この中でもっとも過大評価されていると感じる人は誰ですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

坂本龍馬ですかねえ。うさんくさいというか、怪しいというか、西郷隆盛が便利に使っていた男なんだけど、だんだん図に乗ってきたので殺された(んじゃないかな)というか、大政奉還のアイデアも彼のオリジナルじゃないですし、亀山社中・海援隊の事業も西郷とイギリスのための政商みたいな会社ですからねえ。ただ、それでも、これだけ多くの人に愛されるんですから、プレゼン能力は半端なかったんでしょうから、女性にはもてたでしょうねえ。やっかんじゃいますね。



もし、今も徳川幕府が続いていたらどんな日本になっていたと思いますか?葵紋の入ったF35だったのかな。

「もし、今も徳川幕府が続いていたらどんな日本になっていたと思いますか?葵紋の入ったF35だったのかな。」というquoraでの質問に対する私の回答です。

幕府官僚の特徴はリスクをとらないということです。ですから、外国に攻めていくようなリスクもとらなかったでしょうから、侵略戦争は起きず、敗戦国になることもなかったでしょう。

植民地化される心配は無用です。幕末、幕府はかなり強力な近代的陸海軍を持って居ましたので、欧米諸国が簡単に手を出せるような相手ではなくなっていました。

近代化されないことも心配無用です。渋沢栄一、福沢諭吉、榎本武揚など、幕府の近代化に取り組む官僚は多く、人材としては薩長を凌駕していたと私は思っています。議会制民主主義への理解も強く、薩長藩閥が議会設置をだらだらと引き延ばしたようなことも、幕府主導であれば、なかったのではないかと思います。

従いまして、幕府が存続した場合、日本は侵略戦争をしない近代的文明国家として国際的に名誉ある地位を築くことになったと思います。




井伊直弼殺害事件‐徳川幕府の終わりの始まり

ペリーが日本にやってきて以来、西洋を受け入れるか、それとも拒絶するかについて、日本国内で激しい侃々諤々の議論がなされましたが、その裏テーマとして、徳川幕府の主流は果たして誰なのかという権力ゲームが行われていました。思想面と血統面での争いがあざなえる縄の如くに絡み合っていますので、私なりに解きほどいてみたいと思います。

当時の徳川幕府が荒れた理由は、水戸徳川家の息子さんである徳川慶喜が一橋の養子に入ったことにあります。水戸徳川家は徳川家康の遺言で絶対に徳川将軍を継承できない立場だったのですが、そのために水戸徳川の人たちはどうしてもいじけてしまい、将軍よりも天皇に関心が強くなって、尊王思想を基本とする独特な皇国史観の体系を形作っていきました。有名な水戸黄門が大日本史を編纂したのも、将軍になれないことへのいじけ心から、天皇中心思想を軸にした歴史書を作ろうと思ったからなんですね。

で、水戸黄門から200年、水戸徳川はひたすら尊王思想を強めていったわけですけれど、そこの息子さんである慶喜が一橋の養子に入ったのはかなりの大事件だったわけです。というのも、一橋は本来、当時の徳川の主流だった徳川吉宗の子孫が継承できる家柄で、ここの当主になる人は直球で将軍候補になります。徳川慶喜を一橋の養子に入れたのは、12代将軍の徳川家慶で、家慶の息子さんの家定が長生きできないであろうと考えて、頭が特別にいいことで有名だった水戸の慶喜を家定の次にの将軍にしようというプランがそこにはあったわけです。

当然、慶喜の実家である水戸徳川家はフィーバー状態になります。水戸徳川の当主である徳川斉昭も、幕政に参加するビッグチャンス到来と信じ、慶喜が将軍になる前から態度がでかくなり、あちこちに口も出すようになり、それだけ人望を失っていきました。人望がないうえに思いつきで西洋軍艦を設計させたら進水式と同時に船が沈むという大恥までかいています。

一方で、幕府の中枢の官僚たちは、まさか水戸徳川が幕政に介入してくるとは考えていませんでしたから、嫌がることこの上ないという感じになってしまい、徳川幕府は開国という非常に難しい時期に、内部分裂で苦しむという状況に陥っていたわけなんですね。

幕府官僚たちが嫌いに嫌いまくった徳川斉昭を抑え込むためのカウンターパートとして、幕府守旧派の意見を代表して政治の表舞台に登場してきたのが、非常に有名な井伊直弼です。彼は幕府内部世論を背景に大老に就任し、表の仕事としては安政五か国条約を結ぶなど、日本の開国を進めていきましたが、裏の仕事としては、傍若無人な水戸の徳川斉昭を抑え込むということに熱心に取り組みました。

幕府は井伊直弼グループと徳川斉昭グループに分裂し、仁義なき戦いに発展します。ぶっちゃけ徳川斉昭グループはほとんど孤立していたに等しいと言ってもいいのですが、なんといっても持っている切り札が一橋慶喜で、将来の将軍候補ですから、やたらと強いわけです。

井伊直弼vs徳川斉昭の第一ラウンドは、第14代将軍指名争いでした。順当にけば慶喜が指名されることになるわけで、慶喜で押し切ろうとした人々を一橋派と呼びました。井伊直弼たちは、対抗馬として、なんと吉宗の実家である紀州徳川の藩主である徳川慶福を担ぎ出してきます。吉宗が紀州徳川の実家を出てから既に100年。ぶっちゃけ慶福と吉宗の血筋なんて全然遠いわけですけど、それでも水戸徳川の方がもっと血筋的には遠いので、なんとかここは慶福で押し切り、とにもかくにも徳川斉昭を牽制しようというわけで、彼らを南紀派と呼びました。紀州のことを南紀と呼ぶので南紀派ですね。和歌山みやげとして有名な南紀和歌山那智黒キャンディーの南紀です。那智黒キャンディーの黒糖を使った癖になる甘さは一度食べると忘れることはできません。

幕府内での支持の厚みは井伊直弼の方が圧倒的だったのですが、徳川斉昭は水戸の人物らしく思想面で井伊直弼を攻撃します。即ち、井伊直弼が開国したのは、家康から家光にかけて完成された鎖国という国是を破壊するもので、神の国である日本をダメにするものだというわけですね。水戸は皇国史観のメッカみたいなところで、伊勢出身の本居宣長みたいな全国の国学の学者たちともつながりが深いため、その方面から井伊の一番痛いところを突いてきたわけです。井伊直弼が開国派で尊王攘夷の武士たちに批判されたと説明されることが多いですが、その本質は直弼と斉彬の権力争いであったということは改めて強調しておきたいと思います。このときの一橋派の中に、その後の政局で慶喜を支え続けた福井藩主の松平春嶽もいました。

この将軍後継指名争いは職権を握っていた井伊直弼が勝ちました。紀州藩主徳川慶福が14代将軍に決まり、彼は徳川家茂と名を改めて江戸城に入ります。井伊直弼の凄いところは、それで終わりとするわけではなく、将軍の威光も後ろ盾として使えますから、勢いで一橋派の面々を逮捕しまくったことです。これを安政の大獄と言います。思想面の対立であったかのように装われていますが、実質的には将軍後継争いに関わる人間関係の遺恨が原因で起きたのが安政の大獄なわけです。

この安政の大獄により、水戸斉昭と息子の一橋慶喜はともに犯罪者認定され、外出禁止が命じられました。徳川家の人物が家臣筋の井伊直弼によって外出禁止にされたというのは、江戸幕府史上初のことであったはずです。松平春嶽の命令で慶喜擁立に尽力した福井藩主の橋本佐内はなんと斬首という極めて残酷な扱いを受けています。武士であればせめて切腹。そもそも将軍の後継者争いというあくまでも権力ゲームに過ぎないことで死人を出すというのは、井伊直弼は明らかにやりすぎと思います。他にも西郷吉之助の親友の月照という僧侶が一橋派に与したとの理由で追われる身となり、おそらくは島津久光の命で西郷吉之助によって殺されています。西郷の立場を概観するに、親友の月照が慶喜擁立に与する以上、少なくとも心情的には慶喜擁立派だった可能性がありますが、戊辰戦争の時にはぎりぎりまで慶喜を殺すことに努力を傾けています。月照を慶喜のために失った以上、慶喜には死んでもらうという私怨なんかもあったのではないかと私はちょっとうがった見方をしてしまいます。

さて、水戸藩士たちがいきりたちました。そりゃそうです。主君の徳川斉昭が井伊直弼によって犯罪者扱いされたのです。しかも徳川斉昭は外出禁止が解ける前に病死しました。獄中での死と同じです。井伊直弼は一橋派のネガティブキャンペーンが功を奏し、当時、尊王攘夷派の武士たちからは日本をダメにする政治家ワースト1みたいな目で見られていたため、水戸藩士たちは井伊直弼を殺すことは単なる私怨だけではなく、日本を良くすることだとすら信じるようになり、彼の命を狙うとの決心を固めました。

桜田門外の変では、元水戸藩士たちが犯人だという風に教科書などには書かれますが、彼らは水戸藩に迷惑をかけてはいけないので、まずは脱藩してから井伊直弼殺害に及んだわけです。

当日の朝、井伊直弼の屋敷から江戸城桜田門までおよそ400メートルほどの距離で、本来なら直弼の行列はすぐに江戸城内に入ってしかるべきですが、そこを狙われて直弼は絶命します。当日は雪だったため、護衛の武士たちは刀に水が入らないように布を被せていたために抜刀が遅くなり、撃退できなかったとも言われています。

尚、江戸時代、殺されるというのは最大の不名誉であるため、武士が殺されると、その家は断絶します。有名なものだと吉良上野介が赤穂浪士に殺害された事件で吉良家は廃止され、上野介の息子さんも座敷牢みたいなところに入れられて病死しています。20代前半でしたから、本当に病死かどうかも怪しいわけですが、要するに人間扱いされていません。井伊直弼は彦根藩主ですから、通常なら彦根藩が廃止される事態になるはずなのですが、やはり本当にそんな風にすると、幕府がめちゃくちゃになってしまうとの判断があったからなのか、当時の正式な発表は病死でした。誰も信じていない、大本営発表みたいな発表でしたが、まあ、いかに恥を忍ぼうとも、彦根藩を守るということで関係者一同結束したのだろうなということが分かりますね。

後に、戊辰戦争が始まった鳥羽伏見の戦いでは、幕府の形成が不利だとみると、極めて早い段階で彦根藩は官軍についていますが、これはやはり、当時の徳川宗家の主君で徳川慶喜で、徳川慶喜の実家の水戸藩は彦根藩の仇みたいなものですから、慶喜のために戦う義理はないと彦根藩の兵隊たちが思ったとしても全く不思議ではありません。

幕府は戦う前から既に内部から崩壊し始めていたということも見えてきます。桜田門外の変は、幕末の歴史の中ではわりと前半に出てくるエピソードと言えますが、すでに徳川慶喜と西郷吉之助という幕末最大のスーパースターがかかわっていたということで非常に興味深いです。

井伊家の人にとっては災難だったに違いありませんから、井伊直弼には敬意を払いたいと思います。あの時代にあまり混乱を招くことなく西洋列強と渡り合い、不平等条約とはいえ、それを結ぶことによって日本の国際的な地位をある程度安定させたことは、日本の植民地化を避けることに大いに貢献したに違いありません。その点は高く評価されるべきではないかなと思います。



坂本龍馬‐人物と時代

坂本龍馬には少なくとも二つの出自があります。一つは土佐藩の下級武士というもの。もう一つは土佐屈指の大金持ちの息子さんというものです。

土佐藩では武士の身分は大きく二つに分かれており、一つは藩主山之内家について山之内一豊とともに土佐に入ってきた譜代の家臣で上士と呼ばれました。もう一つは山之内が入って来る前に長宗我部氏に仕えていた武士で、下士と呼ばれていました。上士と下士は礼儀作法、道の譲り合い、衣服、役職、給与等々で厳しく分けられており、上士は文句なしの支配階級、下士は明らかに被支配階級だったようです。

ただ、坂本龍馬の場合、ご実家が超大金持ちですから、別にそれで困ることはあまりなかったようですし、下士の身分もお金で買い取ったようです。下士の生活は極貧だったようですから、下士の身分を売って生活がましになるならまだその方がいいと思った人もいたのでしょう。

このような事情から坂本家には二つの入り口があったそうです。一つは商人としての立派な構えの入り口、もう一つは下士としての地味で質素な入り口です。お金を注ぎ込んで豪華な入り口を作っても良かったのでしょうけれど、「下士の分際で」と言われることを避けたのだろうと思います。

さて、坂本龍馬は後に脱藩し、女性にモテ、大きな政治構想を語り、薩長同盟を成立させ、大政奉還のアイデアも彼によるものだと言われています。多くの人が、一介の素浪人が日本の歴史を動かしたのですから、そりゃあ、多くの人が憧れるのも納得です。

ただし、坂本龍馬にはわりと潤沢な実家からの仕送りがあったため、他の脱藩浪人と比べれば余裕があります。気持ちの余裕は女性にモテる要因になったでしょうし、大きな政治構想も気持ちの余裕から出るもので、やはりこのようなややほら吹き気味なところも、自身堂々と語ることで、やはり異性にもてる要素になったのではないかと思います。江戸で留学した際には剣術を学んでいた千葉道場の娘さんまで惚れさせていますので、なかなかのやり手です。薩長同盟についてはどうも西郷隆盛がバックについていて、坂本龍馬はそのエージェントみたいなところがあったようなのですが、西郷が自己愛を満たそうとするタイプではなかった分、坂本龍馬の活躍ぶりに目が移るようになっていったのかも知れません。長州の桂小五郎としても、龍馬が間に入ってくれたことでやりやすかったかも知れません。ついでに言うと大政奉還とか立憲主義みたいのは横井湘南、西周、徳川慶喜などが既にある程度、考えをまとめていたようですから、それを龍馬の発案とするのは、やや彼を過大評価しているように思えなくもありません。

坂本龍馬は陸奥宗光のように、彼の部下であったことが政治的な武器になり出世した人も居た上に、暗殺されるという最期を迎えているため、新政府での印象は強く、語り継がれる存在ではあったようです。ただし、さほど有名だったというわけでもなく、土佐藩閥の人々が日露戦争の際、皇后の枕元に坂本龍馬が現れて「日本海海戦では日本が勝つから心配するな」と言って去って行ったという、毒にも薬にもならない話を新聞記者にリークしたことにより、一機に名前が広がって行ったようです。戦後であれば司馬遼太郎さんの貢献は大きかったでしょう。徳川慶喜は維新後になるまで坂本龍馬を知らなかったと言いますから、彼本人が政治の中心に躍り出るところは一切なく、エージェントに徹していたようにも思えます。

坂本龍馬の暗殺については諸説あり、簡単に結論できることはないですし、永遠に結論は出ないでしょうけれども、龍馬は二度も土佐脱藩の身であり、幕府官吏からは指名手配を受けており、薩摩のエージェントでありながら、大政奉還後の新政府には徳川慶喜を推そうとしたそうで、敵は山のようにいる状態でした。自由に生きることは素晴らしいことですが、どうも敵を作り過ぎてしまったので、誰にも殺されてもおかしくなかったとは言えそうな気がします。



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近藤勇‐人物と時代

近藤勇はもともとは日野の農家の出身だそうですが、市谷の剣術道場の養子に迎えられ、やがて道場主になります。彼の道場には沖田総司、土方歳三など後に新選組の主要なメンバーとして活躍する人物が出入りしていたのですが、彼らが歴史の舞台に登場するのは十四代将軍家茂の上洛と関係しています。

当時、公武合体の妙案として打ち出された家茂と孝明天皇の妹の和宮との婚姻が具体化していきましたが、その条件として家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷を約束しなくてはなりませんでした。

将軍が京都を訪問するのは三代将軍家光以来200年ぶりのことであり、当時としては相当なビッグイベントとして受け取られたはずですが、警備等々の経費が嵩むため、家茂警護のために浪士の募集が行われ、近藤勇と門下生が応募しました。各地からの浪人が集合しており、浪士隊と呼ばれました。この中には後に近藤たちに暗殺される芹沢鴨とその仲間も入っていたわけです。

清河八郎という人物が浪士隊を個人的な手勢にしようと目論み、浪士隊は清河に率いられて江戸に帰ることになったのですが、近藤たちと芹沢鴨たちは京都に残ることを選択し、浪士隊から離脱することになります。その後の新選組の活躍を考えれば、近藤たちの人生をかけた大勝負だったとも思えますが、悲劇的な結末まで考慮すれば、この時おとなしく江戸に帰っていれば、無事に明治維新を迎え、近藤や土方も普通の人生を歩んだかも知れないとも思えます。

近藤たちが後に京都で結成した新選組は幕末の歴史の中で、典型的なパッと咲いてパッと散るタイプの活躍を見せた存在と言えますし、パッと咲いて散る感じに憧れる人が多いので、現代でも魅力的な題材として扱われるのではないかとも思えます。

しかし、新選組の歴史をよく眺めてみると、その血塗られた歩みに対し慄然とせざるを得ません。特に内部抗争の激しさには残酷という言葉以外の形容詞が見つかりません。

芹沢鴨の腹心である新見錦を陰謀で切腹に追い込んだ後、芹沢鴨も大雨の夜に愛人と眠っているところを襲撃し、謀殺しています。その後は山南敬介が脱走後に捉えられて切腹。新選組に加入した後に御陵衛士という名目(孝明天皇の陵墓を警備するという名目)で分離した伊東甲子太郎も暗殺されており、伊東甲子太郎の残党と新選組の間では油小路という場所で壮絶な斬り合いが起きています。

このようにして見ると、近藤勇という人物には土方や沖田のように最後まで慕ってついて来た人物がいたため、兄貴肌の人を惹きつける魅力があったに違いないと思うのですが、一方で、内部の粛清に歯止めをかけることができなかったというあたりに彼の限界を感じざるを得ません。

因果応報と呼ぶべきなのかどうか、鳥羽伏見の戦いでは、新選組は伊東甲子太郎の残党に狙い撃ちで砲撃されています。また、江戸に逃れた後に流山で地元の若者を集めて訓練していたところを新政府軍に見つかり、捕縛されるのですが、近藤勇は大久保大和という偽名を使い難を逃れようとします。この時も、伊東甲子太郎の残党の一人である加納鷲雄に見つけられてしまい、近藤勇であると見破られ、近藤は新政府軍によって斬首されるという最期を迎えることになります。切腹ではなく斬首した辺りに、長州藩がどれほど近藤を憎んでいたかを想像することができるのですが、新選組による池田屋襲撃は、飽くまでも江戸幕府の下部組織の立場による公務の実行であったこと、その後の治安維持活動もやはり公務の一環として行われていたことを考えると、近藤勇を犯罪者のように扱う処置は残酷過ぎるのではないかと思えなくもありません。

新選組に集まっていた人材の多くが普通の人で、普通の人が時代の分かれ目に出会い、自分の可能性を追求しようとしたところに魅力があるのだと思います。特に土方歳三の場合、鳥羽伏見の戦いで敗けてから、函館戦争までの生き様が見事であり、彼が失敗から学んで成長したと思える面もありますので、いずれ機会を設けて土方についても語ってみたいと思います。



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西郷隆盛‐人物と時代

西郷隆盛は幕末維新史の人物の中でも特に人気のある人物だと言っていいと思います。彼の性格的な特徴を考えるに、何をやるにも正面から徹底的に取り組むひたむきさ、いつ、どんな時でも失敗を恐れずに行動する豪胆さがあり、味方にすれば心強く、敵に回せば大変に厄介な人物であったろうと思えますが、同時に、常にぎりぎりのラインまで追求するため、剣が峰の上を歩き続けるような危うさがあり、成功する時は期待以上の成果を収める可能性がある一方で、失敗する時は周囲も巻き込んで潰れていくという面があるように思えます。

若いころの西郷隆盛が才能を発揮した有名な例としては、島津氏の分家の御姫様である篤姫と十三代将軍家定との婚礼が行われる際、薩摩藩邸から江戸城まで行列が組まれましたが、その時の行列や婚礼道具の準備等の仕切り役が若き西郷吉之助であったということを挙げることができます。巨大な大名である島津氏から、将軍家への嫁入りですので、行列等々の準備はほとんどロジスティクスと呼べる規模のものだったと思いますが、島津斉彬が西郷を見込んでそれを担当させたあたりに、彼がもともと尋常ならざる才能を持っていたことを示しているように思えます。

一方で、斉彬の死後、島津氏の家長となった島津久光との関係は険悪なもので、島津久光に対して「あなたのような田舎者には理解できない」という趣旨の発言を面と向かってしており、嫌いな人物を侮辱する際にも遠慮なく率直であったことが分かります。

彼は安政の大獄の関係などもあって、二度も島流しに遭っていますが、能力の高さ故に呼び戻され、京都へ向かい、禁門の変の際には幕府・会津藩の軍が苦戦する中に登場して長州藩を撤退に追い込むという活躍を見せています。やはり軍事、即ちロジスティクスの才能に長けていたことを示すエピソードということもできると思います。

徳川慶喜と同盟することによって国政への参加の機会を伺っていた島津氏ですが、後に反慶喜へと方針が変わり、慶喜を共通の敵とする薩長同盟が結ばれることになります。慶喜は大政奉還をすることで一旦は薩長同盟の矛先から逃れることができましたが、島津氏の兵士が京都御所を占領した状態で行われたいわゆる小御所会議で慶喜の処遇について議論が行われた際、土佐の前藩主の山之内容堂が慶喜を強く弁護したためになかなか結論に至らないという状況が起きたのですが、休憩時間に西郷が「短刀一本あればことが足りる」、即ち山之内容堂を殺せばいいじゃないかと言ったことは大変有名なエピソードです。良くも悪くも目的のためには手段を選ばない彼の性格が良く出ているように思います。

戊辰戦争でも随所で西郷の豪胆さが発揮されますが、新しい時代を作ると言う大事業に新政府軍関係者がおっかなびっくりに取り組んでいる中、西郷が不退転の決意で、いつ死んでもいいという覚悟で状況に取り組んだことが、結果としては明治維新を成功させる大きな要因になったように思えます。

しかしながら、おそらく彼は性格的におとなしくしていることが難しい面があり、それが欠点と言えるのではないかとも思えます。明治維新後、岩倉使節団が欧米視察のために出発した後、西郷は留守政府を任されることになりますが、その間に西郷を中心に征韓論が盛り上がりを見せます。それまで幕府と外交関係を結んでいた朝鮮半島の李朝が、新政府との外交関係の樹立に難色を見せたことで、征韓論が盛り上がったわけですが、西郷隆盛が自分で朝鮮半島へ行くと言ってきかず、帰国した大久保とも意見がかみ合なかったため、明治六年の政変で西郷は多くの官吏たちとともに政府を去り、鹿児島へと帰ります。やはり留守政府をじっと守るということが、成功するかどうか分からないということに大胆にチャレンジする彼の性格に合わず、明治六年の政変につながったのではないかと私は個人的に推測しています。

さて、西郷は西南戦争で敗れて切腹して果てるという最期を迎えたわけですが、西南戦争以前の戦いでは常に万全を期し、勝つために手段を選ばなかった豪胆な西郷のイメージとはかけ離れた形での最期だったように思えます。西郷が鹿児島で挙兵した大義名分は東京へ行き新政府の非を大久保に問い質すということだったようですが、実際には西郷が開いていた塾の門下生が新政府の施設を襲撃し、門下生を引き渡すのは忍べず挙兵に至ったようです。ですので、西南戦争の際は、西郷は勝つことを目的としておらず、門下生たちとともに最期を迎えようという、ある種の慈悲の心に徹していたため、勝つための周到さというものに欠き、死に場所を求めて敗走するような展開になったのだと理解することができると思います。西南戦争の場合、西郷の目的は勝利することではなく、門下生とともに死ぬことでしたので、それに徹していたと言うこともでき、徹底して目的達成を目指すという彼の性格や行動パターンは最期まで一貫していたと考えてもさほど真相と大きくかけ離れていないのではないかと思います。



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徳川慶喜‐人物と時代

250年続いた徳川幕府の最後の将軍が徳川慶喜という人物だということは広く知られていることですが、ここでは徳川慶喜という人物のやや特殊な性格や来歴が徳川幕府の消滅と密接に関係しているという観点から考えてみたいと思います。

徳川慶喜という人の最も大きな特色は、そもそもの来歴として、彼が水戸徳川家出身の人物であるということです。水戸徳川は慣例として絶対に将軍を狙えない立場にあったため、たとえば八代将軍の相続争いは尾張徳川と紀州徳川の間で行われたわけですが、水戸徳川はその相続争いには参加できなかったわけです。水戸徳川では水戸光圀以来の天皇崇拝思想の発展が見られ、徳川幕府の重要な一角を占める立場でありながら、徳川政権よりも朝廷を重視しようとする傾向が見られたのは、ここに述べたような水戸徳川の特別な立ち位置と関係があると私は思っています。

ではなぜ徳川慶喜が将軍になれたのかと言うと、慶喜が徳川三卿の一つである一橋徳川家の養子に入ったからです。八代将軍徳川吉宗以降、吉宗の出身母体である紀州徳川の人物が将軍職を独占できるようにとの発想法で新設されたのが徳川三卿なわけですが、これによってたとえば尾張徳川では徳川幕府を支持するというモチベーションが失われてしまい、戊辰戦争の時は早々に官軍につくという展開を見せています。

徳川慶喜が一橋の養子に入ったということは、紀州徳川の血統ではない人物が徳川三卿の一つに入り、将来の将軍候補として嘱望される立場になったということですから、水戸徳川関係者の意気が大いに上がり、慶喜を積極的に将軍に就任させようとするグループが形成され、これが一橋派と呼ばれるようになります。水戸徳川の人物が将軍職を継承することにリアリティが生まれたことで幕府官僚サイドで動揺が生まれ、慶喜の将軍就任にだけは抵抗したいという意思が生まれ、紀州徳川の徳川慶福を推薦するグループが形成され、こちらは南紀派と呼ばれました。大老の井伊直弼を中心にした南紀派が押し切り、十四代将軍は慶福が継承し、名を家茂と改めます。紀州徳川出身の徳川吉宗が八代将軍を継承した後も、紀州徳川家は温存されていたわけですが、これはそれ以前の徳川の慣例とはかけ離れています。五代将軍綱吉、六代将軍家宣はそれぞれ自分の藩を持っていましたが将軍継承と同時に藩は廃止されています。その慣例を破り、徳川吉宗は少しでも紀州系の人物の輪を広く残しておくために紀州徳川を温存し、結果として一橋派が台頭した際、紀州系によって制されていた徳川官僚の最終カードとして慶福が推薦されたのだと言うこともできると思います。

そもそも、吉宗以降は徳川三卿の人物が将軍継承順位としては優先でしたので、紀州の慶福が必ずしも優位であったとは言い難いのですが、水戸徳川に対するアレルギーが幕府官僚内部に存在していたのだと見て取ることができるとも言えるように思います。徳川慶喜の実父である徳川斉昭が頑なな尊皇派で口うるさく、慶喜が将軍に就任すれば斉昭が幕政に口を出す切っ掛けを得ることになりますから、それが嫌がられたのだとも言えるでしょう。

十四代将軍継承問題が決着した後に、井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる粛清弾圧が行われますが、事の本質は一橋派の粛清であったわけで、それはこれまでに述べたような理由で、井伊直弼としてはできるだけ早期に一橋派の芽を摘んでおきたいと考えたのだと見ることもできます。そして弾圧に対する復讐として水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が起き、井伊直弼は殺害されてしまうことになります。

幕政を仕切っていた井伊直弼は開国推進派で、安政五か国条約のような不平等条約を結んだことに対する思想的な反動が事件の背景にあったと説明されることもあると思いますが、基本的には思想とは関係のない怨みや復讐心のような側面が強かったのではないかと私は思っています。徳川慶喜は安政の大獄が始まってから井伊直弼が倒れるまでの間、蟄居謹慎ということになり、現代風に言うと外出禁止命令を受けていたわけですが、慶喜本人が何らかの犯罪行為をしたわけでもなんでもありませんので、慶喜という人物の内面には父親から受けた尊王思想の薫陶と同時に、幕政に対する不信感、幕府は存在しなくても別にいいのではないかという、彼らしい革新的な発想が生まれたのではないかと推測できると思います。

徳川慶喜の人物像を知る上で、もう一つ重要な点は生母が皇族の人物であるということも見逃せないのではないかと思います。後に慶喜が京都で政治の中心を握ることができるようになった理由として、彼が孝明天皇から厚い支持を得ていたことを無視することはできませんが、孝明天皇が慶喜を支持した背景には慶喜の生母が有栖川宮家の出身の人物であったということを挙げることができると思います。血統という概念は前近代的なものですから、あまり血統だけで全てを説明することは個人的には好まないのですが、当時の近代への移行期には、まだそういったことが説得力を持っていたのだと言うことはできます。

そのように考えますと、徳川慶喜は徳川家の人物でありながら、徳川官僚からは冷淡な扱いを受けた一方で、朝廷の支持は厚かったわけですから、慶喜本人が脱幕府の新しい政治を構想するようになったとしても、全く疑問ではないと言えます。

徳川幕府が滅亡した要因として、ペリーの黒船艦隊来航による幕府政治の影響力の低下や、財政的な困窮などが挙げられることがよくありますが、私はやや違った風に考えています。安政五か国条約で徳川幕府は関税自主権のない不平等条約を結んだわけですが、それまで入って来なかった関税という新しい収入源が生まれ、徳川幕府は経済的に潤っていたようです。徳川慶喜と松平春嶽が幕府政治の中枢に登場した時、彼らは幕府陸海軍を創設し、特に海軍は近代的で強力であったことが知られています。そういった近代的な装備を準備できたのも財政的な余裕があったことを示すものだとも思えます。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、徳川幕府は大政奉還の起案から朝廷の了承までの二日間で消滅したことになるのですが、これは慶喜のほとんど独断で京都で書類上の手続きをしただけのことに過ぎず、江戸の幕府官僚は何も知らされないまま事態が進行しました。逆に言えば、大政奉還したからと言って幕府の官僚組織は全くダメージを受けていなかったとも言えます。この大政奉還についても、徳川将軍が追い詰められてやむを得ず行ったというイメージを私は持っておりません。幕府は不要であると確信した徳川慶喜が自分を中心とした新しい近代的政府を樹立する目的で積極的に大政奉還したというイメージで捉える方が、より真相に近いのではないかと考えています。

尤も、徳川慶喜を中心とした新政府の樹立はありませんでした。彼は最後の最後で政争で敗れて二度と京都に入ることができず、完全に失脚します。大政奉還から完全に失脚して江戸へ脱出するまで僅かに数週間ですので、頭脳の良さを称賛された慶喜であっても、ぎりぎりのところで計算が狂ったと見ることもできるでしょう。

私はもし徳川慶喜を中心とした近代政府が樹立されていた場合、日本は帝国主義を伴わない近代国家になったのではないかとついつい想像してしまうのですが、慶喜中心の近代政府の樹立は、やはり難しかったかも知れないとも思います。慶喜は幕府官僚の支持を得ておらず、一方で大久保・西郷の薩摩コンビは執拗に慶喜失脚を狙う状態が続きました。慶喜の権力維持の根拠は孝明天皇の支持の一点にかかっていたと言っても良く、孝明天皇が病没した後は有力な支持基盤を失った状態でした。慶喜にとって頼れる者は自分の頭脳以外には無く、人は必ずミスをするものですから、大久保・西郷という天才的な人物たちが連携して慶喜を追い込もうと意図している状況下ではいずれは誤算により失脚していたと見るべきなのかも知れません。








徳川慶喜と島津久光

徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。






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