坂本龍馬‐人物と時代

坂本龍馬には少なくとも二つの出自があります。一つは土佐藩の下級武士というもの。もう一つは土佐屈指の大金持ちの息子さんというものです。

土佐藩では武士の身分は大きく二つに分かれており、一つは藩主山之内家について山之内一豊とともに土佐に入ってきた譜代の家臣で上士と呼ばれました。もう一つは山之内が入って来る前に長宗我部氏に仕えていた武士で、下士と呼ばれていました。上士と下士は礼儀作法、道の譲り合い、衣服、役職、給与等々で厳しく分けられており、上士は文句なしの支配階級、下士は明らかに被支配階級だったようです。

ただ、坂本龍馬の場合、ご実家が超大金持ちですから、別にそれで困ることはあまりなかったようですし、下士の身分もお金で買い取ったようです。下士の生活は極貧だったようですから、下士の身分を売って生活がましになるならまだその方がいいと思った人もいたのでしょう。

このような事情から坂本家には二つの入り口があったそうです。一つは商人としての立派な構えの入り口、もう一つは下士としての地味で質素な入り口です。お金を注ぎ込んで豪華な入り口を作っても良かったのでしょうけれど、「下士の分際で」と言われることを避けたのだろうと思います。

さて、坂本龍馬は後に脱藩し、女性にモテ、大きな政治構想を語り、薩長同盟を成立させ、大政奉還のアイデアも彼によるものだと言われています。多くの人が、一介の素浪人が日本の歴史を動かしたのですから、そりゃあ、多くの人が憧れるのも納得です。

ただし、坂本龍馬にはわりと潤沢な実家からの仕送りがあったため、他の脱藩浪人と比べれば余裕があります。気持ちの余裕は女性にモテる要因になったでしょうし、大きな政治構想も気持ちの余裕から出るもので、やはりこのようなややほら吹き気味なところも、自身堂々と語ることで、やはり異性にもてる要素になったのではないかと思います。江戸で留学した際には剣術を学んでいた千葉道場の娘さんまで惚れさせていますので、なかなかのやり手です。薩長同盟についてはどうも西郷隆盛がバックについていて、坂本龍馬はそのエージェントみたいなところがあったようなのですが、西郷が自己愛を満たそうとするタイプではなかった分、坂本龍馬の活躍ぶりに目が移るようになっていったのかも知れません。長州の桂小五郎としても、龍馬が間に入ってくれたことでやりやすかったかも知れません。ついでに言うと大政奉還とか立憲主義みたいのは横井湘南、西周、徳川慶喜などが既にある程度、考えをまとめていたようですから、それを龍馬の発案とするのは、やや彼を過大評価しているように思えなくもありません。

坂本龍馬は陸奥宗光のように、彼の部下であったことが政治的な武器になり出世した人も居た上に、暗殺されるという最期を迎えているため、新政府での印象は強く、語り継がれる存在ではあったようです。ただし、さほど有名だったというわけでもなく、土佐藩閥の人々が日露戦争の際、皇后の枕元に坂本龍馬が現れて「日本海海戦では日本が勝つから心配するな」と言って去って行ったという、毒にも薬にもならない話を新聞記者にリークしたことにより、一機に名前が広がって行ったようです。戦後であれば司馬遼太郎さんの貢献は大きかったでしょう。徳川慶喜は維新後になるまで坂本龍馬を知らなかったと言いますから、彼本人が政治の中心に躍り出るところは一切なく、エージェントに徹していたようにも思えます。

坂本龍馬の暗殺については諸説あり、簡単に結論できることはないですし、永遠に結論は出ないでしょうけれども、龍馬は二度も土佐脱藩の身であり、幕府官吏からは指名手配を受けており、薩摩のエージェントでありながら、大政奉還後の新政府には徳川慶喜を推そうとしたそうで、敵は山のようにいる状態でした。自由に生きることは素晴らしいことですが、どうも敵を作り過ぎてしまったので、誰にも殺されてもおかしくなかったとは言えそうな気がします。



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近藤勇‐人物と時代

近藤勇はもともとは日野の農家の出身だそうですが、市谷の剣術道場の養子に迎えられ、やがて道場主になります。彼の道場には沖田総司、土方歳三など後に新選組の主要なメンバーとして活躍する人物が出入りしていたのですが、彼らが歴史の舞台に登場するのは十四代将軍家茂の上洛と関係しています。

当時、公武合体の妙案として打ち出された家茂と孝明天皇の妹の和宮との婚姻が具体化していきましたが、その条件として家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷を約束しなくてはなりませんでした。

将軍が京都を訪問するのは三代将軍家光以来200年ぶりのことであり、当時としては相当なビッグイベントとして受け取られたはずですが、警備等々の経費が嵩むため、家茂警護のために浪士の募集が行われ、近藤勇と門下生が応募しました。各地からの浪人が集合しており、浪士隊と呼ばれました。この中には後に近藤たちに暗殺される芹沢鴨とその仲間も入っていたわけです。

清河八郎という人物が浪士隊を個人的な手勢にしようと目論み、浪士隊は清河に率いられて江戸に帰ることになったのですが、近藤たちと芹沢鴨たちは京都に残ることを選択し、浪士隊から離脱することになります。その後の新選組の活躍を考えれば、近藤たちの人生をかけた大勝負だったとも思えますが、悲劇的な結末まで考慮すれば、この時おとなしく江戸に帰っていれば、無事に明治維新を迎え、近藤や土方も普通の人生を歩んだかも知れないとも思えます。

近藤たちが後に京都で結成した新選組は幕末の歴史の中で、典型的なパッと咲いてパッと散るタイプの活躍を見せた存在と言えますし、パッと咲いて散る感じに憧れる人が多いので、現代でも魅力的な題材として扱われるのではないかとも思えます。

しかし、新選組の歴史をよく眺めてみると、その血塗られた歩みに対し慄然とせざるを得ません。特に内部抗争の激しさには残酷という言葉以外の形容詞が見つかりません。

芹沢鴨の腹心である新見錦を陰謀で切腹に追い込んだ後、芹沢鴨も大雨の夜に愛人と眠っているところを襲撃し、謀殺しています。その後は山南敬介が脱走後に捉えられて切腹。新選組に加入した後に御陵衛士という名目(孝明天皇の陵墓を警備するという名目)で分離した伊東甲子太郎も暗殺されており、伊東甲子太郎の残党と新選組の間では油小路という場所で壮絶な斬り合いが起きています。

このようにして見ると、近藤勇という人物には土方や沖田のように最後まで慕ってついて来た人物がいたため、兄貴肌の人を惹きつける魅力があったに違いないと思うのですが、一方で、内部の粛清に歯止めをかけることができなかったというあたりに彼の限界を感じざるを得ません。

因果応報と呼ぶべきなのかどうか、鳥羽伏見の戦いでは、新選組は伊東甲子太郎の残党に狙い撃ちで砲撃されています。また、江戸に逃れた後に流山で地元の若者を集めて訓練していたところを新政府軍に見つかり、捕縛されるのですが、近藤勇は大久保大和という偽名を使い難を逃れようとします。この時も、伊東甲子太郎の残党の一人である加納鷲雄に見つけられてしまい、近藤勇であると見破られ、近藤は新政府軍によって斬首されるという最期を迎えることになります。切腹ではなく斬首した辺りに、長州藩がどれほど近藤を憎んでいたかを想像することができるのですが、新選組による池田屋襲撃は、飽くまでも江戸幕府の下部組織の立場による公務の実行であったこと、その後の治安維持活動もやはり公務の一環として行われていたことを考えると、近藤勇を犯罪者のように扱う処置は残酷過ぎるのではないかと思えなくもありません。

新選組に集まっていた人材の多くが普通の人で、普通の人が時代の分かれ目に出会い、自分の可能性を追求しようとしたところに魅力があるのだと思います。特に土方歳三の場合、鳥羽伏見の戦いで敗けてから、函館戦争までの生き様が見事であり、彼が失敗から学んで成長したと思える面もありますので、いずれ機会を設けて土方についても語ってみたいと思います。



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西郷隆盛‐人物と時代

西郷隆盛は幕末維新史の人物の中でも特に人気のある人物だと言っていいと思います。彼の性格的な特徴を考えるに、何をやるにも正面から徹底的に取り組むひたむきさ、いつ、どんな時でも失敗を恐れずに行動する豪胆さがあり、味方にすれば心強く、敵に回せば大変に厄介な人物であったろうと思えますが、同時に、常にぎりぎりのラインまで追求するため、剣が峰の上を歩き続けるような危うさがあり、成功する時は期待以上の成果を収める可能性がある一方で、失敗する時は周囲も巻き込んで潰れていくという面があるように思えます。

若いころの西郷隆盛が才能を発揮した有名な例としては、島津氏の分家の御姫様である篤姫と十三代将軍家定との婚礼が行われる際、薩摩藩邸から江戸城まで行列が組まれましたが、その時の行列や婚礼道具の準備等の仕切り役が若き西郷吉之助であったということを挙げることができます。巨大な大名である島津氏から、将軍家への嫁入りですので、行列等々の準備はほとんどロジスティクスと呼べる規模のものだったと思いますが、島津斉彬が西郷を見込んでそれを担当させたあたりに、彼がもともと尋常ならざる才能を持っていたことを示しているように思えます。

一方で、斉彬の死後、島津氏の家長となった島津久光との関係は険悪なもので、島津久光に対して「あなたのような田舎者には理解できない」という趣旨の発言を面と向かってしており、嫌いな人物を侮辱する際にも遠慮なく率直であったことが分かります。

彼は安政の大獄の関係などもあって、二度も島流しに遭っていますが、能力の高さ故に呼び戻され、京都へ向かい、禁門の変の際には幕府・会津藩の軍が苦戦する中に登場して長州藩を撤退に追い込むという活躍を見せています。やはり軍事、即ちロジスティクスの才能に長けていたことを示すエピソードということもできると思います。

徳川慶喜と同盟することによって国政への参加の機会を伺っていた島津氏ですが、後に反慶喜へと方針が変わり、慶喜を共通の敵とする薩長同盟が結ばれることになります。慶喜は大政奉還をすることで一旦は薩長同盟の矛先から逃れることができましたが、島津氏の兵士が京都御所を占領した状態で行われたいわゆる小御所会議で慶喜の処遇について議論が行われた際、土佐の前藩主の山之内容堂が慶喜を強く弁護したためになかなか結論に至らないという状況が起きたのですが、休憩時間に西郷が「短刀一本あればことが足りる」、即ち山之内容堂を殺せばいいじゃないかと言ったことは大変有名なエピソードです。良くも悪くも目的のためには手段を選ばない彼の性格が良く出ているように思います。

戊辰戦争でも随所で西郷の豪胆さが発揮されますが、新しい時代を作ると言う大事業に新政府軍関係者がおっかなびっくりに取り組んでいる中、西郷が不退転の決意で、いつ死んでもいいという覚悟で状況に取り組んだことが、結果としては明治維新を成功させる大きな要因になったように思えます。

しかしながら、おそらく彼は性格的におとなしくしていることが難しい面があり、それが欠点と言えるのではないかとも思えます。明治維新後、岩倉使節団が欧米視察のために出発した後、西郷は留守政府を任されることになりますが、その間に西郷を中心に征韓論が盛り上がりを見せます。それまで幕府と外交関係を結んでいた朝鮮半島の李朝が、新政府との外交関係の樹立に難色を見せたことで、征韓論が盛り上がったわけですが、西郷隆盛が自分で朝鮮半島へ行くと言ってきかず、帰国した大久保とも意見がかみ合なかったため、明治六年の政変で西郷は多くの官吏たちとともに政府を去り、鹿児島へと帰ります。やはり留守政府をじっと守るということが、成功するかどうか分からないということに大胆にチャレンジする彼の性格に合わず、明治六年の政変につながったのではないかと私は個人的に推測しています。

さて、西郷は西南戦争で敗れて切腹して果てるという最期を迎えたわけですが、西南戦争以前の戦いでは常に万全を期し、勝つために手段を選ばなかった豪胆な西郷のイメージとはかけ離れた形での最期だったように思えます。西郷が鹿児島で挙兵した大義名分は東京へ行き新政府の非を大久保に問い質すということだったようですが、実際には西郷が開いていた塾の門下生が新政府の施設を襲撃し、門下生を引き渡すのは忍べず挙兵に至ったようです。ですので、西南戦争の際は、西郷は勝つことを目的としておらず、門下生たちとともに最期を迎えようという、ある種の慈悲の心に徹していたため、勝つための周到さというものに欠き、死に場所を求めて敗走するような展開になったのだと理解することができると思います。西南戦争の場合、西郷の目的は勝利することではなく、門下生とともに死ぬことでしたので、それに徹していたと言うこともでき、徹底して目的達成を目指すという彼の性格や行動パターンは最期まで一貫していたと考えてもさほど真相と大きくかけ離れていないのではないかと思います。



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徳川慶喜‐人物と時代

250年続いた徳川幕府の最後の将軍が徳川慶喜という人物だということは広く知られていることですが、ここでは徳川慶喜という人物のやや特殊な性格や来歴が徳川幕府の消滅と密接に関係しているという観点から考えてみたいと思います。

徳川慶喜という人の最も大きな特色は、そもそもの来歴として、彼が水戸徳川家出身の人物であるということです。水戸徳川は慣例として絶対に将軍を狙えない立場にあったため、たとえば八代将軍の相続争いは尾張徳川と紀州徳川の間で行われたわけですが、水戸徳川はその相続争いには参加できなかったわけです。水戸徳川では水戸光圀以来の天皇崇拝思想の発展が見られ、徳川幕府の重要な一角を占める立場でありながら、徳川政権よりも朝廷を重視しようとする傾向が見られたのは、ここに述べたような水戸徳川の特別な立ち位置と関係があると私は思っています。

ではなぜ徳川慶喜が将軍になれたのかと言うと、慶喜が徳川三卿の一つである一橋徳川家の養子に入ったからです。八代将軍徳川吉宗以降、吉宗の出身母体である紀州徳川の人物が将軍職を独占できるようにとの発想法で新設されたのが徳川三卿なわけですが、これによってたとえば尾張徳川では徳川幕府を支持するというモチベーションが失われてしまい、戊辰戦争の時は早々に官軍につくという展開を見せています。

徳川慶喜が一橋の養子に入ったということは、紀州徳川の血統ではない人物が徳川三卿の一つに入り、将来の将軍候補として嘱望される立場になったということですから、水戸徳川関係者の意気が大いに上がり、慶喜を積極的に将軍に就任させようとするグループが形成され、これが一橋派と呼ばれるようになります。水戸徳川の人物が将軍職を継承することにリアリティが生まれたことで幕府官僚サイドで動揺が生まれ、慶喜の将軍就任にだけは抵抗したいという意思が生まれ、紀州徳川の徳川慶福を推薦するグループが形成され、こちらは南紀派と呼ばれました。大老の井伊直弼を中心にした南紀派が押し切り、十四代将軍は慶福が継承し、名を家茂と改めます。紀州徳川出身の徳川吉宗が八代将軍を継承した後も、紀州徳川家は温存されていたわけですが、これはそれ以前の徳川の慣例とはかけ離れています。五代将軍綱吉、六代将軍家宣はそれぞれ自分の藩を持っていましたが将軍継承と同時に藩は廃止されています。その慣例を破り、徳川吉宗は少しでも紀州系の人物の輪を広く残しておくために紀州徳川を温存し、結果として一橋派が台頭した際、紀州系によって制されていた徳川官僚の最終カードとして慶福が推薦されたのだと言うこともできると思います。

そもそも、吉宗以降は徳川三卿の人物が将軍継承順位としては優先でしたので、紀州の慶福が必ずしも優位であったとは言い難いのですが、水戸徳川に対するアレルギーが幕府官僚内部に存在していたのだと見て取ることができるとも言えるように思います。徳川慶喜の実父である徳川斉昭が頑なな尊皇派で口うるさく、慶喜が将軍に就任すれば斉昭が幕政に口を出す切っ掛けを得ることになりますから、それが嫌がられたのだとも言えるでしょう。

十四代将軍継承問題が決着した後に、井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる粛清弾圧が行われますが、事の本質は一橋派の粛清であったわけで、それはこれまでに述べたような理由で、井伊直弼としてはできるだけ早期に一橋派の芽を摘んでおきたいと考えたのだと見ることもできます。そして弾圧に対する復讐として水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が起き、井伊直弼は殺害されてしまうことになります。

幕政を仕切っていた井伊直弼は開国推進派で、安政五か国条約のような不平等条約を結んだことに対する思想的な反動が事件の背景にあったと説明されることもあると思いますが、基本的には思想とは関係のない怨みや復讐心のような側面が強かったのではないかと私は思っています。徳川慶喜は安政の大獄が始まってから井伊直弼が倒れるまでの間、蟄居謹慎ということになり、現代風に言うと外出禁止命令を受けていたわけですが、慶喜本人が何らかの犯罪行為をしたわけでもなんでもありませんので、慶喜という人物の内面には父親から受けた尊王思想の薫陶と同時に、幕政に対する不信感、幕府は存在しなくても別にいいのではないかという、彼らしい革新的な発想が生まれたのではないかと推測できると思います。

徳川慶喜の人物像を知る上で、もう一つ重要な点は生母が皇族の人物であるということも見逃せないのではないかと思います。後に慶喜が京都で政治の中心を握ることができるようになった理由として、彼が孝明天皇から厚い支持を得ていたことを無視することはできませんが、孝明天皇が慶喜を支持した背景には慶喜の生母が有栖川宮家の出身の人物であったということを挙げることができると思います。血統という概念は前近代的なものですから、あまり血統だけで全てを説明することは個人的には好まないのですが、当時の近代への移行期には、まだそういったことが説得力を持っていたのだと言うことはできます。

そのように考えますと、徳川慶喜は徳川家の人物でありながら、徳川官僚からは冷淡な扱いを受けた一方で、朝廷の支持は厚かったわけですから、慶喜本人が脱幕府の新しい政治を構想するようになったとしても、全く疑問ではないと言えます。

徳川幕府が滅亡した要因として、ペリーの黒船艦隊来航による幕府政治の影響力の低下や、財政的な困窮などが挙げられることがよくありますが、私はやや違った風に考えています。安政五か国条約で徳川幕府は関税自主権のない不平等条約を結んだわけですが、それまで入って来なかった関税という新しい収入源が生まれ、徳川幕府は経済的に潤っていたようです。徳川慶喜と松平春嶽が幕府政治の中枢に登場した時、彼らは幕府陸海軍を創設し、特に海軍は近代的で強力であったことが知られています。そういった近代的な装備を準備できたのも財政的な余裕があったことを示すものだとも思えます。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、徳川幕府は大政奉還の起案から朝廷の了承までの二日間で消滅したことになるのですが、これは慶喜のほとんど独断で京都で書類上の手続きをしただけのことに過ぎず、江戸の幕府官僚は何も知らされないまま事態が進行しました。逆に言えば、大政奉還したからと言って幕府の官僚組織は全くダメージを受けていなかったとも言えます。この大政奉還についても、徳川将軍が追い詰められてやむを得ず行ったというイメージを私は持っておりません。幕府は不要であると確信した徳川慶喜が自分を中心とした新しい近代的政府を樹立する目的で積極的に大政奉還したというイメージで捉える方が、より真相に近いのではないかと考えています。

尤も、徳川慶喜を中心とした新政府の樹立はありませんでした。彼は最後の最後で政争で敗れて二度と京都に入ることができず、完全に失脚します。大政奉還から完全に失脚して江戸へ脱出するまで僅かに数週間ですので、頭脳の良さを称賛された慶喜であっても、ぎりぎりのところで計算が狂ったと見ることもできるでしょう。

私はもし徳川慶喜を中心とした近代政府が樹立されていた場合、日本は帝国主義を伴わない近代国家になったのではないかとついつい想像してしまうのですが、慶喜中心の近代政府の樹立は、やはり難しかったかも知れないとも思います。慶喜は幕府官僚の支持を得ておらず、一方で大久保・西郷の薩摩コンビは執拗に慶喜失脚を狙う状態が続きました。慶喜の権力維持の根拠は孝明天皇の支持の一点にかかっていたと言っても良く、孝明天皇が病没した後は有力な支持基盤を失った状態でした。慶喜にとって頼れる者は自分の頭脳以外には無く、人は必ずミスをするものですから、大久保・西郷という天才的な人物たちが連携して慶喜を追い込もうと意図している状況下ではいずれは誤算により失脚していたと見るべきなのかも知れません。








徳川慶喜と島津久光

徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。






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佐藤正美著文春文庫版『大君の通貨』に学ぶ

難しい本です。文春文庫版は読みやすく改訂されているらしいのですが、それでも充分に難しいです。文章がきれいで、小説風で柔らかい雰囲気の文体にはなっていると思うのですが、それでもやっぱり難しいです。

何が難しいのかというと、貨幣交換の比率のごちゃごちゃとした計算が意外に厄介です。丁寧に説明してくれているのですが、それでも途中で何度も訳が分からなくなりそうになります。何度も繰り返し説明してくれているのでどうにか内容についていった「つもり」にはなっていますが、本当に理解できたかどうか自分でもちょっと怪しい気がします。

幕末、幕府が発行していた銀貨はどんどん質が落ちていて、それでも国内での金との交換比率を変化させなかったため、幕府は銀貨を出せば出すほど儲かるのですが、アメリカのハリスやらイギリスのオールコックやらがやってきて、アメリカの銀を日本の銀で計量し、それに相当する金貨を得ようとし、そうすると海外の金と銀の交換比率に比べて日本の金は不当に安くなってきているので、それを香港なり上海なりに持ち出して再び銀に換えれば濡れ手に粟の大儲けということになっていたという内容です。私の理解が正しければ。

それが要因で幕府は財政難を極め、国内は狂乱インフレに陥り、小室直樹先生風に言えば急性アノミー(無規範)が生じて幕府は潰れて新政府ができたという流れです。ついでにいえば、荒れに荒れたドルとの交換レートを何とかするために貨幣制度を見直して円を作ったということも言えるかも知れません。

通常なら、幕府の高官の無知蒙昧による失政として説明されるべきところを、この本ではハリスやオールコックの側が不十分な情報に基づいて誤解し、幕府に詰め寄り、ある意味ではつけこんで大いに儲け、その結果幕府が潰れたという視点で書かれています。

オールコックが書いた『大君の通貨』やハリスの『日本滞在記』などに書かれていることと同時に書かれていないことをよく吟味し、むしろ書かれていないことに注目し、行間を読み、裏を見透かし、新しい幕末史を描いているため、はっきり言って傑出しておもしろく、寸暇を惜しんで読みたくなる本です。いい本に出合えたという実感で、読後感は素晴らしいものです。素直に著者に敬意を持つことができます。

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近藤勇と伊東甲子太郎

伊東甲子太郎は、幕末の動乱の中で、ありあまる才能を持ちながら、それを発揮しきれずに不運な最期を遂げた人物で、大勢にはほとんど影響しなかったとはいえ、印象深い人物と言えます。

役者のように美しい顔立ちをしていて、剣術も一流、西洋の事情にも通じており、江戸で道場を開いていた時には相当に人気があったといいます。

門下生の藤堂平助が近藤勇の新選組に加入していた縁で、伊東も招かれて京都へむかいます。新選組の参謀で、近藤勇と同格の扱いとなり、その大物ぶりが知れるのですが、おそらくは政治の中心が京都に移っていることや、世の中が激しく変動していることに気づいていた彼は京都の政局に参加して自分の才能を発揮してみたいという願いを持っていたのだろうと思います。

ただし、想像ですが近藤勇にとっては自分より優れていると思える人物が仲間にいることは居心地の良くないことでしたでしょうし、伊東にとってもそれは同じだったかも知れません。2人は一緒に西国視察と遊説を行いますが、京都へ帰還後は伊東が孝明天皇の御陵を守備するとして御陵衛士という聞いたこともないような集団を形成し、新選組とは袂を分かちます。新選組には局を脱する者は切腹という恐ろしい掟がありましたので、表面的にとはいえ円満に伊東たちが新選組から出て行ったという一事だけをとってみても、近藤・土方は伊東に切腹させられるだけの力がなかったことが分かります。

水戸学も学んだことがある伊東はおそらくはある程度思想性のある仕事を京都でやりたかったのでしょうけれど、新選組は武闘派の色が濃すぎて自分の理想とは違い、がっかりしたのかも知れません。

私はもしかすると伊東が出ていったことで近藤はほっとしたのではないかと想像していて、伊東を殺す決心を先に固めたのは土方ではなかったかとも思います。

坂本龍馬が暗殺された時、伊東は現場に残された刀の鞘が新選組の原田左之助の物だと証言していますが、坂本龍馬が暗殺された日の夜、近藤勇が「今日は誠忠組が坂本龍馬を殺したのでいい気分だ」と言ったとの話もあるので、私は新選組暗殺説は採らないのですが、そうなると伊東の証言は何となく怪しい感じのするもので、伊東のその時の哀しい心のうちをついつい想像してしまいます。

旧暦の11月、真冬の京都で伊東は近藤と対面して酒食を共にし、その帰り道に油小路で新選組に襲撃されて命を落とします。伊東ほどの人物がこんな形で命を取られるというのは気の毒に思えてなりません。

伊東の残党が死体を回収するために油小路に来るのを新選組の方では待ちかまえていて、伊東の残党たちもそれは覚悟していたため、斬り合いになりましたが、伊東の残党のうち加納道之助など生き延びた者が今出川の薩摩藩邸に匿われ、ほどなく鳥羽伏見の戦いが起きたときは加納たちが大砲で新選組を狙い打ちしていたと言われています。土方は薩長の戦線が横一線で厚みのないことを見抜き、背後に回ろうとしましたが加納たちの砲撃によってそれが阻害されたのだとすれば、土方の動きはおそらく徳川軍逆転の唯一のチャンスだったかも知れませんので、伊東の死で加納たちが明確に薩長に回ったことは目立たないところで鳥羽伏見の戦いの戦局を決定づけたと言えるかも知れません。

近藤勇が流山で新政府軍に捕縛された際、近藤は自分は大久保大和であるとの偽名を使いましたが、新政府軍に従軍していた加納に見つかり、近藤勇だということがばれるという顛末になっており、命運尽きるとこのような落語みたいなことも起きるのか…と思ってしまいます。




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鳥羽伏見の戦いと徳川軍の敗因

大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。

岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。

有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。

松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。

その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。

徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。

不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。

しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。

土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。

ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。

では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。

敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。

ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。




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禁門の変で京都に直接の進軍を試みた長州は孝明天皇から朝敵指定を受け、幕府の命令による西国の諸藩の兵を集めた、いわば正規軍が編成され、長州を包囲します。長州藩では藩論が二分し、恭順派と抵抗派で激しい議論が戦わせられますが、恭順派が勝利し、一旦は和平交渉が行われます。
ところが徹底抗戦派の高杉晋作が藩内でクーデターを起こして勝利し、長州藩の態度は硬化。戦端が開かれるという展開になります。

諸藩の兵力は長州藩によって各個撃破されますが、その後幕府軍歩兵が投入され、東方面の戦線は膠着状態に入ります。高杉晋作は西方面の戦線に着目し、九州上陸を画策します。海軍力では幕府軍が圧倒的な戦力を有しており、通常であれば関門海峡を渡ることはとても不可能なことのように思われましたが、巨大な幕府艦隊に対して夜間の接近戦をしかけるという奇策をかけ、坂本龍馬も参加して、これを突破。高杉晋作とその兵力は小倉城を目指して進撃していきます。

小倉藩は幕閣の小笠原氏が藩主をつとめており、長州征討の現地司令官を担当し、各藩に命令する立場にありましたが、長州の積極的な攻勢に対して諸藩は消極的で戦意に乏しく、小倉藩は次第に追い詰められていきます。長州サイドがグラバーから買い入れた最新のミニエーゲベール銃を大量に保有していたことも戦局を分けたとも言えます。幕府軍こそ最新の装備を揃えてはいましたが、長州征討に駆り出された藩の中には火縄銃数十丁というところもあったでしょうから、そういうところはそもそも勝負にならなかったはずです。

熊本藩の細川氏がアームストロング法を所持しており、小倉城の手前に布陣。長州の兵はアームストロング法に阻まれて前進できないという事態に陥ります。長州の兵隊にとって小倉上周辺は「敵地」ですので、戦闘の長期化は兵站の疲弊を招く恐れがあり、仮にここでの膠着状態が長期にわたれば、結果は違っていたかも知れません。

しかし、小倉藩の弱みは細川氏の軍だけにしか頼れなかったという点にあり、まことに心細いもので、結果として細川氏の軍だけが常時最前線に立たされるという厳しい状況が生まれ、細川軍に疲労と不満が蓄積され、最終的には戦闘の継続を拒否し、撤兵します。

アームストロング砲のプレッシャーから解放された長州軍は前進を開始しますが、小倉藩は小倉城に放火して後退。戦闘はその後しばらく続くものの終始長州の有利で推移します。ここに来て小倉軍の戦線が完全な崩壊を見せるという事態に陥らなかったことには、小倉側が背水の陣にならざるを得ず、徹底抗戦したためと考えることもできます。

長州優位の状態で停戦が成立し、講和の使者としては干されていた勝海舟が人脈力を買われて広島へ送られます。長州は朝敵指定が解除され、面目躍如。風前の灯だったはずの長州藩は息を吹き返し、幕府打倒に邁進していくことになります。

ここで気になるのは圧倒的な兵力を誇っていたはずの征討軍がなぜかくも赤子の手をひねる如くに負けたかということなのですが、最大の要因は諸藩の寄せ集めであったため、指揮あ上がらず、それぞれの大名は戦争させられるのを迷惑だくらいに感じていて、積極的な動きを見せようとしなかったことにその要因があるように思えます。大軍よりも少数精鋭の方が充分に役に立つということは源義経や楠木正成の例で証明されているとすら言えるかも知れません。

それを悟ったからこそ、徳川慶喜は直参の兵力で改めての長州攻略を構想しますが、徳川慶喜自身がわりとポジショントークに終始する人で、もし幕府軍精鋭だけで戦線を形成し、おそらくは失敗した場合は自分の責任問題になると考えてそれを撤回。この段階で徳川幕府崩壊は決定的なものになったと考えることもできるかも知れません。

以上のようなことを総合すると、責任感のある上司と少数精鋭の二つが成功の要因ではないかと思えてきます。長州征討ではその両方がなかったために、負けるのは必定だったとすら言えるかも知れません。




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徳川慶喜と勝海舟

勝海舟はもともと家柄的にはそんなによかったわけではありませんが、オランダ語と航海技術の習得によって見出されるようになり、幕政にも参加していくようになります。

勝海舟は幕府を中心とした日本連合のような大艦隊を造り、列強に対抗するというような構想を描いていたようですが、国政は幕府が独占するものと考えていた幕閣たちから敵視され、どちらかと言えば浮いた存在になっていきます。

神戸に操練所を設けて坂本龍馬などの浪人を集めて食客三千人みたいな感じになっていき、そのことも幕府関係者から背を向けられるという展開を見ますが、結果としてはこのことが勝海舟の財産になっていきます。

勝海舟の回想録を読めばよく分かりますが、とにかくよくしゃべる。言いたい放題。甚だしいとすら言える我田引水の議論が多く、そういうことで嫌われていたのではないかと思います。アメリカに行く咸臨丸には艦長として乗り込みましたが、正使の木村摂津守とは折り合いが悪く、一水夫として乗り込んだ福沢諭吉も後年、これでもかと勝海舟を非難しています。

徳川慶喜も勝海舟を寄せ付けようとはしませんでした。多分、嫌いだったのだと思います。

嫌われまくって一旦は幕政を身を引くことになった勝海舟ですが、第二次長州征伐で失敗し、その講和のための使者として長州との交渉に臨むため広島へ行くように命じられることで、政治に復帰しています。勝海舟が広島に行っている間に慶喜は将軍に就任しており、海舟の言によると「いつのまにか君臣の関係になってしまった。私は徳川の家臣ですが、あなたの家臣ではありませんよと言った」とのことで、慶喜と海舟という頭の切れる者同士、おそらくは近くにいてもお互いに傷つけあうだけだったでしょうから、慶喜的にも「こいつ、面倒くせぇ」と思ったのではないかという気がします。

その後は江戸に居たわけですが、鳥羽伏見の戦いで徳川軍が惨敗し、あろうことか徳川慶喜が大阪から脱出して江戸に帰還。慶喜は政治からは降りるという決心を固めたことで、後は官軍との話し合いで慶喜の生命と江戸の街を守らなくてはいけないということになり、西郷隆盛とも面識があり、いろいろ顔が広い勝海舟が交渉役になります。神戸の操練所でやっていたことがここで役に立ったと言うこともできると思います。

明治維新後、勝海舟は徳川家中の世話人のような立場になり、あれこれと面倒を見て徳川慶喜に関しては朝敵指定の解除に漕ぎつけ、その後随分経ってからですが明治天皇と徳川慶喜の会見の実現にも尽力しています。その時のことを『氷川清話』では「慶喜は涙を流して自分に頭を下げた」と得意げに語っており、こんなことを他所でしゃべる部下にいたらいやだろうなあと私は一人ごちました。

どうであれ、慶喜にとって勝海舟は命の恩人であり、江戸を戦場にしなかった功労者だという点では変わりありません。能力のあるものは嫌われてなんぼなのかも知れません。



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