岸信介内閣‐日米安保の改訂

石橋湛山が病の床に着き、政務が事実上執れなくなったことにより、岸信介が首相臨時代理に指名され、次いで国会で首班指名を受け、その後で自民党の総裁指名を受けるという流れで岸信介内閣が登場します。

戦前から満州で「暗躍」していたとも囁かれ、東京裁判で戦争犯罪人の指名を受けながらも不起訴とされ、戦後はCIAのエージェントだったとも噂される、なかなか凄い人生です。よほどうまくやらなければ命を狙われる可能性もあったでしょうから、そういう闇と隣り合わせに生きた人という印象が強いです。

岸信介内閣と言えば、なんと言っても日米安保条約の改訂とそれに伴う安保闘争について触れないわけにはいきません。吉田茂がサンフランシスコ条約を結んだ当日の午後、密やかに署名した日米安保条約は一般的には片務性が強いものと説明されますが、中身としては事実上、アメリカの占領状態が維持されるといったものだったと理解していいと思います。

即ち、日本は外交権も回復できるし、内政に関する干渉をアメリカから受けることは形式上認められないけれど、日本国内には米軍基地が維持され、アメリカ軍はそれを自由に使うことができ、日本は何をされても文句が言えないという実態は残ったとも言えるように思います。

ただ、アメリカ軍の兵士が日本人主婦を狙い撃ちにするような事件が起きたことで、日本国内で反発ムードが漂い、後の安保闘争へと発展していきます。

岸信介の時代に改訂された日米安保条約は、双務性を高めることに主軸が置かれており、日本はアメリカと共同して地域の平和と安定を図るということになっています。アメリカは基地を維持することはできるけれど、その運用についても日本側の同意が必要ということになっており、占領的な状態からはより一歩抜け出すことができる、日本の独立性をより高めることができる内容であったとも理解されています。

一方で、日本とアメリカが協力して平和と安定の維持に貢献するということは、それ以前であれば、アメリカは戦争をしたい時に日本の基地を便利に使っていたというだけなのに対し、新しい安保条約では日本はアメリカの戦争に協力しなくてはいけないという要素も持ち合わせることになるため、より深刻な問題をはらんでいたとも言えるかも知れません。

戦後の日本は生きるも死ぬもアメリカと一蓮托生、場合によっては心中すると覚悟を決めることで世界最大の大国のアメリカの庇護の下で、わりとぬくぬくとやってこれたわけですが、オバマ大統領の引き具合がわりと激しく、どうもこれからはそんなに甘くはなさそうだという観測も出ています。トランプ大統領が圧してくるか引いてくるか分かりませんが、日本がより「自主的」にアメリカの戦争に協力させられることになる可能性もあり、そこはちょっと見定めがつかないところではありますけれど、そういう枠組みが生まれたのが岸信介内閣の時代ということで、良くも悪くもメルクマールと言えそうです。

安保闘争の紛糾ではアイゼンハワーの来日が中止になるほどの大騒ぎでしたが、最終的には紛糾を収めるために池田勇人を後継にして岸内閣は退陣することになります。池田勇人の時代まで来るとようやく、平和の香りが漂うような気がしてくるのは私だけでしょうか。

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石橋湛山内閣‐リベラル首相の短命内閣

石橋湛山は東洋経済新報を基盤にリベラルな経済政策を主張し、日本の植民地主義にも反対で、植民地を広げるよりも貿易で繁栄を追及すべきとする「小日本主義」と呼ばれる思想を持っていた人だったと考えられています。

時代が戦後に入ると第一次吉田茂内閣で大蔵大臣を務めますが、後に公職追放されてしまいます。石橋湛山のような軍拡否定主義者が公職追放されることに疑問が残ってしまいますが、東京裁判では検察側「高橋是清軍拡主犯説」みたいなものを否定する証言をしたり、戦時補償債務でGHQと対立したりというのがあったので、そういうのが陰に陽に影響したのかも知れません。

戦時補償債務問題では、石橋湛山は政府がこつこつ戦争によって生じた国民や企業への損害を補償していきたいと考えていたようなのですが、連合国サイドでは日本人を甘やかすんじゃねえという考えがあったようです。

後に占領が終わり、公職追放が解けると鳩山一郎内閣に通産大臣で入閣します。吉田茂の政敵に入閣したことから、石橋湛山の公職追放には吉田茂が絡んでいたのではないかという噂もあるようです。

鳩山一郎時代には、中国やソ連と「等距離」な付き合い方を模索していたようですが、当時のアメリカはそういうのはあまり気に入らなかったようです。朝鮮戦争が停戦して間もないころですし、停戦はしたものの終戦ではないので、国際政治の観点から言えばアメリカはソ連・中国とは潜在的な敵同士ですので、そういう意味でアメリカは石橋湛山が気に入らなかったようです。

鳩山一郎の次の自由民主党総裁選挙では、アメリカ一辺倒主義の岸信介と石橋湛山で争いますが、第一回投票では岸信介が若干の優位で一位、石橋湛山が二位だったものの、決選投票では石橋湛山が三位の石井三次郎と同盟して石橋湛山が勝利します。角福戦争なみのドラマチックな展開です。

ただ、直後に病床についてしまい、国会答弁にも立てない容体になってしまったことから65日で退陣してしまいます。石橋湛山については、高い見識を持っていた人という印象が強いですが、その理由としてはこの時の引き際の良さも影響しているかも知れません。

石橋湛山の次は岸信介が首班指名を受けることになります。

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