岡田啓介内閣‐226事件

海軍出身の斎藤実の内閣が帝人事件で退陣したものの、「失政」による退陣とは言い難いとの判断が働き、西園寺公望はいわば憲政の常道の延長戦的な手法で斎藤と同じ海軍出身の岡田啓介を後継首相に指名します。

岡田啓介はロンドン軍縮会議をまとめた人物でもあり、軍縮路線の人物であったとも言えると思いますが、在任中にはロンドン・ワシントンの軍縮条約からは脱退します。

西園寺公望が政友会に全く政権を回さないため、しびれを切らした政友会が美濃部達吉博士の天皇機関説を攻撃して止まず、軍部からは軍拡圧力が止まず、名目上挙国一致内閣を作ったものの、十字砲火を浴びて立ち往生してしまいます。天皇機関説を否定する「国体明徴声明」を出したり、第二次ロンドン条約には参加しなかったりと、諸方面をなだめることに右往左往しますが、議会で多数を握る政友会が内閣不信任決議案を出したことを受けて岡田首相は衆議院の解散総選挙に打って出ます。

結果、岡田を論難して止まなかった政友会は大きく議席を減らし、民政党は過半数にこそ及ばなかったものの第一党となり、これで岡田への論難は止むかと見られましたが、なんと選挙結果が出た数日後に226事件が起きてしまいます。

一般には真崎甚三郎が自分を首班とした内閣を作ることを策謀し、若手の将校たちを煽って起こさせたものと考えられていますが、当時は西園寺が海軍に連続して首相の座を与えていたことが政友会と陸軍の双方に焦りを与えていたとも言え、首相指名権を持つ西園寺と陸軍・政友会との間に深刻な軋轢があったことがうかがい知れます。

首相官邸を襲撃した反乱将校たちは岡田啓介首相の義弟を首相と間違えて殺害し「これで内閣は倒れるので、次は西園寺公望を殺して重臣たちに真崎甚三郎首班を認めさせる手筈が整った」と思ったのも束の間、岡田首相が生きて首相官邸から脱出したことが分かった上に、西園寺も無事。昭和天皇大激怒の話も入ってきて、失敗を認めざるを得なくなっていきます。

権力争いのために統帥権だの天皇機関説だのをやり玉に挙げて論難したり、人を殺してでもと息まくあたり、本当にがっくりくる話ばかりです。

岡田啓介首相は確かに無事に脱出できたとは言うものの、恐懼に耐えず、辞表を提出します。西園寺公望は後継首相として岡田内閣で外相を務めた広田弘毅氏を指名します。陸軍には絶対に首相の椅子は回さないという西園寺の決心が垣間見えますが、論難しては政権を潰す政党政治にも限界を感じていたようにも見受けられます。文官でただ一人、A級戦犯で絞首刑の判決を受けるという広田氏の最期を想うと、こんな複雑な時に首相をやらされて気の毒としか思えません。時代はいよいよきな臭くなっていきます。

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