第二次山本権兵衛内閣

第二次山本権兵衛内閣の最大にして焦眉の急でもあったことが関東大震災対策です。前任の加藤友三郎首相が病没したことをうけ、次の人選が模索されている中での不測の事態を受けて急いで組閣が行われました。

この内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁を担当した後藤新平は30億円の復興予算を打ち上げ、物議を醸します。大正9年の一般会計が13億円とかそれくらいですので、30億円は今で言えば、国家予算が100兆円くらいですので、200兆円くらいという感じかも知れません。とてつもない金額で、公債、外債で何とかするという手段はあったかも知れないのですが、こういう時に公債という手段をすぐに発案しそうに思える高橋是清も反対意見で、予算は大幅に削られ、最終的には6億円に足りないくらいの規模のものになってしまいます。それでも当時としてはかなりの金額だったのかも知れません。

時々、関東大震災の余波が経済的な発展の遅延という形で現れ、満州にフロンティアを求める遠因になったという説明を読むことがありますが、実際には関東大震災の結果、東京はよりモダンな都市に変貌し、30年代には相当に成熟した都市文化を形成していきます。当時は大阪の方がモダン度は高かったようなのですが、30年代になれば全然大阪に負けてないくらいのところまで行っていたとも言えそうなので、飽くまでも結果としてですが、東京は一機に世界都市にステップアップすることになりましたから、関東大震災とその後の日中戦争を経済的な観点から結びつけるのはいかがなものか…と思わなくもありません。経済という意味ではその後の世界恐慌と昭和恐慌が日本人の不安をより強める要因になったと思いますが、高橋是清がうまくやっていますので、やはり経済的な理由だけで昭和の日本の拡大主義を説明するのは無理があるのではないかという気がします。

ただ、心理的な衝撃は大きく、もはや海外に新天地を求めるしかないのではないかという心境になった人、あるいはそう信じた人は多かったかも知れません。昭和恐慌も不安を輪にかける形になり、海外志向、または拡大志向が強くなるというのは理解できそうな気もします。谷崎潤一郎の場合は関東大震災で「こんなところには居られない」と考えて関西に移り住み、結果として『春琴抄』と『細雪』という代表作と書くことになります。近代文学で関西を最も美化した作品と言ってもいいように思えます。『細雪』を読んで関西で暮らしたいと思うようになった人は多いのではないかと私は想像しています。谷崎は他にも関東と関西の美食の違いのようなものを書いていて、和食の関西の勝ち、洋食は関東の勝ちと結論しています。

いずれにせよ、関東大震災の復興のために奮闘した第二次山本権兵衛内閣ですが、裕仁摂政宮がアナーキストの青年に襲われる虎ノ門事件が起き、その責任を負う形で総辞職します。摂政宮は慰留したそうですが、それでも辞意は固かったとのことです。アナーキストの青年が摂政宮を襲撃しようとした背景には、関東大震災後に大杉栄が甘粕正彦大尉に殺害される(陰謀論もあるようですが…)など、官憲による社会主義者やアナーキストへの弾圧があり、復讐心と義侠心の混在したような心境で虎の門事件を起こしたのではないかと思えます。

第二次山本権兵衛内閣が終了した後は、清浦奎吾がリベンジマッチで内閣を組織することになります。

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第一次山本権兵衛内閣

第三次桂太郎内閣が失意の崩壊現象を起こした次に成立したのが第一次山本権兵衛内閣です。第一次山本権兵衛内閣の功績はなんといっても軍部大臣現役武官制の廃止です。

山本権兵衛内閣が成立する前、第二次西園寺公望政権では上原陸軍大臣が二個師団増強を要求し、ダメなら陸軍大臣を辞めると言い出し、陸軍から新しい人材の推薦がないことで、政権が終了しています。

また、第三次桂太郎内閣では、今度は海軍の方から予算増額を要求され、斎藤実海軍大臣が「ダメなら辞める」と言い出し、右往左往させられます。内閣の崩壊を防ぐために天皇の勅書によって斎藤実を内閣に引き止めますが、そこが弱みで議会から攻撃されるという知れば知るほど桂太郎命運尽きたりという印象が強くなり、気の毒に思えてきます。

上の二つの内閣崩壊の要因は山県有朋の作った「軍部大臣現役武官制」に求めることができ、この仕組みが続く以上は内閣は軍部の言いなりにならざるを得なくなりますので、海軍の人である山本権兵衛がいわば自分の出身母体の利権を捨てるという英断によって行われます。陸軍大臣の木越安綱は山本権兵衛に協力し、賛成にまわったため、その後陸軍では冷遇されてしまいますが、私個人は必要を認めれば自分の利権を自ら捨てるというのは教養人に必須の素質と思っていますので、私の木越安綱に対する印象は頗るいいものです。

その後、ドイツのシーメンス社から海軍の主要な人物に贈賄が行われていたという事件が発覚し、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれていきます。シーメンス事件は山本権兵衛を追い詰めるために山県有朋による陰謀だったという説もあり、もしかしたらそうかも知れないのですが、私の山県有朋に対する印象があまり良くないので、そういう悪い情報ばかりを集めてしまっているのかも知れません。

山本権兵衛内閣の総辞職を受けて徳川家当主の徳川家達が元老会議で次の首相に指名されますが、徳川家の人々が反対して辞退します。次いで山県有朋の子飼いとも言える清浦奎吾が首相に指名されます。ところが組閣しようにも海軍から海軍大臣を出すのを断られ、清浦圭吾は軍部大臣現役軍人制維持論者でしたので(山県の子飼いならそうなります)、現役軍人以外の海軍大臣を選ぶわけにもいかず、組閣を断念。世に言う幻の鰻香内閣と呼ばれる展開を見せます。

こうして元老会議は半ば渋々大隈重信を次の首相に指名することになります。第二次大隈重信内閣では第一次世界大戦が起きるは、対華21か条の要求が出されるはでなかなか忙しい感じになってきます。

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第二次西園寺公望内閣が陸軍大臣と山県有朋からの二個師団増強要求を拒否したことにより、陸軍は必殺の軍部大臣現役武官制を盾にとって陸軍大臣が辞任。内閣不一致で崩壊します。

慣例的に首相を指名する立場だった元老たちも次第に老いて行き、適切な人物が見当たらなくなり始めており、山県有朋は渋々第三次桂太郎内閣の組閣を認めることになります。ところが、今度は海軍大臣の斉藤実が「海軍の予算を増やさないなら海軍大臣はやらない」とまたしても必殺軍部大臣現役武官制を利用して桂太郎を右往左往させますが、桂太郎は天皇の詔書を引き出して斉藤実を留任させます。

で、ちょっと待て。という反応が議会と新聞の両方から出てきます。なんでもかんでも天皇の詔勅で押し通すつもりかと、それは天皇の政治利用ではないかというわけです。第一次護憲運動です。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が手を組んで桂批判を叫んで止まず、元老院では山県と対立、議会ではオール野党という状態で桂太郎は危機に陥ります。立憲政友会が内閣不信任決議案を提出しますが、桂太郎は大正天皇から立憲政友会に向けて「桂太郎に協力してやれ」という主旨の詔勅を引き出しますが、却って油に火を注ぐ結果を招き、立憲政友会はそれを拒絶。桂太郎は苦し紛れに議会を停止します。もはや憲法が半分停止した状態と言ってもいいかも知れません。国会議事堂の周辺には群衆が集まり、東京市内は騒乱状態になったと言います。極端に言えば革命前夜です。

ロシアの血の日曜日事件は、穏やかな群衆のデモ行進に軍に発砲させたことでニコライ二世は決定的に支持を失い、ロシア革命につながっていきましたので、天皇の詔勅を利用して事を収めるほかに手段を持たなかった桂太郎がちょっと間違った決心をしていたら、革命になっていても全くおかしくはなかったと思えます。

第三次桂太郎内閣は62日間で総辞職。その二か月後、桂太郎本人も失意の中で病死してしまいます。藩閥によって構成された元老による小手先の政治技術が通用しなくなったとも言え、藩閥政治の終わりの始まりと捉えることもできるのではないかと思います。山県有朋は密かに桂太郎下しが成功してほくそ笑んだのではないかとも想像してしまいますが、元老の内側で潰し合いを続けた結果、元老という慣例そのものの問題点を露呈することになってしまったとも言えそうです。

第三次桂太郎内閣の次は第一次山本権兵衛内閣が登場しますが、山本権兵衛は軍部大臣現役武官制を廃止し、再び政党政治への道を開いていこうとします。大正デモクラシーのエネルギーが漂い始めてくるという感じでしょうか。

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