天下統一をなしとげた秀吉は、次の目標として東アジア制服を計画するようになりました。この段階ですでに秀吉はご乱心状態だったとみるべきですが、天下統一をしてしまった後で、武将たちももう戦争とかやるのが嫌になってきていましたから、どうでもいいからとにかく豊臣政権で行こうよ、という空気もあって、しかもみんなが空気を読んだものですから、秀吉ご乱心でも豊臣政権は続きました。
で、秀吉の計画では、明王朝を征服したのちに、当時の後陽成天皇には北京にお引越しいただくという壮大なもので、東南アジア各地の王様にも服属命令の手紙を出してますし、朝鮮半島の李王朝には、北京までの道先案内人をするようにとの要請の手紙を出しています。東南アジアから返事が来なかったのはもちろんことですが、朝鮮の李王朝からもはっきり断られたものですから、秀吉はおかんむり、激おこぷんぷん丸になってしまって、朝鮮半島を武力で征服すると決心してしまいます。
で、諸大名も秀吉様の新たなドリームにおつきあいしなくてはいけなくなったわけで、福岡にお城をつくって前線基地とし、諸大名を集めて、パーティやりながらじっくり長期戦ということになりました。
このとき、朝鮮半島で実際の戦争をしたのが加藤清正と小西行長です。加藤清正は武闘派タイプでソウル・ピョンヤンどころかさらに北上して満州地方に入り、満州族と交戦したと記録されています。極めて旺盛な戦闘意欲を持っていたらしく、虎を退治したなどの話も残っています。
一方の小西行長は実家が商人ということもあって、戦闘行為そのものよりも、戦闘を支えるロジスティクス、要するに兵站の方に関心があって、商人ですから、そういうことにも長けていて、物資の輸送や敵との交渉に才能を発揮していったみたいです。
で、武闘派の加藤清正からすれば、正面切って勇敢に戦うわけではない小西行長に対して非常に悪い感情を持つようになったそうです。小西行長の方も加藤清正のことは嫌いだったみたいです。二人の性格や肌合いはあまりにも違いすぎたというわけですね。小西行長は、同じく文系タイプの石田三成と仲が良かったですから、後の関ケ原の戦いと、朝鮮半島での秀吉家臣の武将のいざこざは陰に陽に影響しています。
加藤清正がいけいけどんどんで北へ北へと攻め進んでいった一方、小西行長は平壌まで来たところで動きを止め、李王朝及び明王朝との交渉を始めようとしています。このあたりの事情は遠藤周作さんの『鉄の首枷』という作品に詳しいですが、小西行長はどのみち秀吉が北京を征服することなんかできっこないと見定めた上で、和平交渉を行い、戦後の主導権を自分が握るというなかなかこすい考えを持っていたようなのですね。なぜこすいのかというと、現場が独自の判断で戦略を立てるようになってしまうと、後方の指令基地と必ず齟齬が生まれるため、戦争そのものがガタガタになってしまうからなんです。
それでも小西行長は独自路線を突き進みました。で、ついに和平交渉の使者が日本へ送られるところへと漕ぎつけます。小西行長は明王朝・李王朝に対しては豊臣秀吉が降伏するということで使者を出させ、秀吉に対しては戦法から降伏の使者が来ますと伝えることで、要するにどちらも自分たちが勝ったと思わせることで戦いを終わらせようと画策しました。途中で行長の打算に気づいた清正が慌てて帰国して、その和平交渉に異議あり!と言おうとしましたが、一歩間に合わず、和平交渉が進んでしまいます。ところが、秀吉を日本国王に任ずるとの文言が出てきたので、あ、これは明の冊封体制に入れられるんだな。あれ?なんで?日本勝ってないの?と日本側が気づきすべてが台無しになります。秀吉も小西行長に騙されていたことに気づき激怒しましたが、行長は特に罰せられることもなく、朝鮮半島の戦争が再開されました。
小西行長は李王朝側に加藤清正の動きを細かく伝えるようになります。まるでスパイです。当初は李王朝サイドも、まさか小西行長が加藤清正をはめようとしているとは思いませんでしたから、日本側からもたらされる情報は嘘なのではないかとの疑いを持ったようなのですが、いつも正確な情報が届くため次第に信用するようになったそうです。これってどういうことかというと、小西行長は加藤清正が戦死すればいいのなあと思って、どうも先方に情報を流していたらしいんですね。こんなことで殺されたら加藤清正としてはたまりませんよね。途中で加藤清正もこのことに気づき、これで両者の反目は決定的になったらしいです。
私、思うんですけど、小西行長みたいなタイプを友達にするのだけは絶対に避けるべきだと思います。中学とか高校で、こういうタイプに出会うと、たとえば自分の秘密を話すと、他の人に言って歩きかねません。密かに裏切るタイプですから始末に負えません。そうだと気付けばすぐにでも手を切るべきタイプだと思います。加藤清正もそうしたかったのかも知れませんけれど、同じ秀吉の家臣というポジションですから、なかなか完全には手を切れなかったのでしょう。
朝鮮半島の戦いの後半戦では蔚山の戦いが行われ、加藤清正が籠城して非常に困難な戦いを強いられました。のちに秀吉が報告を聞いて、武勇が足りない!みたいな感じで関係する武将たちが叱責されています。加藤清正は秀吉に余計な告げ口をしたのは石田三成だと考えるようになり、豊臣家臣は加藤清正を中心とする武将グループと、石田三成や小西行長を中心とするお奉行様系グループに分断されていきます。これが家康につけいるすきを与えることになっていったのでした。
朝鮮半島の戦争は秀吉が死ぬまで続きましたが、秀吉が亡くなると停戦になり、本物の和平交渉へと外交の課題が変わっていきます。もともと日本が朝鮮半島で戦争しなければならない理由はなかったため、秀吉がいなくなればあっさり停戦が成立したというわけです。徳川幕府はこのような負の遺産から李王朝との外交を始める必要があったため苦労が多かったようです。李王朝からすれば、一方的に被害にあったため、簡単には妥協してくれないとか、そういうこともあったと思います。
朝鮮半島での戦争は歴史のあだ花のようなものでしたが、ここで様々な人間関係が決まっていき、状況は関ケ原の戦いへとなだれ込んでいきます。