『かもめ食堂』を学生にみせた話

時々、学生に小林聡美さんの『かもめ食堂』を見てもらいます。毎年一回は必ず見せているので、私も結果としては何度となく見ることになってしまいました。何度も観ると、映画のもう少し深いところも見えてきます。また学生の反応から、気づかなかったことに気づくこともできます。何度も同じ映画を観ることは大切なことです。細部に込められた演出の工夫にも気づきやすくなりますし、そういったことを積み重ねることで、物語を作った人が込めた「映画の心」が見えて来ることが時々あります。

わざわざフィンランドまで来て食堂を経営する小林聡美さんにも必ずなんらかの事情があるはずです。映画の冒頭で家庭環境について少し述べられていますが、その事情とは、小林聡美さんと母親とのことまで遡ることなのかも知れません。

かもめ食堂を手伝う片桐はいりさんも、「どうしても」な事情があったから、目をつむって指でさした場所がフィンランドだったというだけでフィンランドに来ています。そこに語られざるいろいろな過去、おそらくは悲痛な過去があったに違いありませんが、それは観客は想像するしかありません。

もたいまさこさんは過去20年間ご両親の介護に捧げてようやく自由な身になったというわけで、お金は遺産とか生命保険とかが充分に入ってきたので、さあ、これから自分の人生を…と思うものの、何をやっていいかはよくわからないという感じです。

三人の日本人の女性がどのような過去と事情を持ったとしても、それが具体的に現在進行形で描かれるということはありません。その役割は、小林聡美さんたちからはゆったりのんびりとしているように見えるフィンランド人が背負います。コーヒーショップの経営に失敗して奥さんと娘とも離れてくらすことになってしまった40代くらいの男性、理由もなく旦那に出て行かれ、丑の刻参りでもするしかない中年の女性、友達が全然いない日本おたくの若者の男性など、彼、彼女たちの悲しみや喪失感は現在進行形であり、生きることの辛さや悲しさを日本人の登場人物の前にさらけ出しています。フィンランドに行けば自分の問題は解決するかも…という甘い日本人の期待は、実際のフィンランド人の人生の生老病死の悲しみについて聞かされることで砕かれてしまいます。はっきりと砕かれたというみせ方はしていませんが、よく見ればわかります。「どこへ行っても悲しい人は悲しいし、寂しい人は寂しいんじゃないんですか」という言葉に集約されているのかも知れません。

孤独を覚悟し、受け入れてかもめ食堂を経営する小林聡美さんの姿は凛としていて絵になります。何にも甘えず、自分のできることをやるという姿勢で臨んだ食堂が満席になったからこそ、プールで見ず知らずの人から拍手されるという祝福の場面の挿入されるのではないかと思います。

事情を抱えながら凛として自分のやりたいことに臨み、成功を収めるというのは相当な人生修行の末にようやくなされることのようにも思え、映画の中の小林聡美さんはそういう粋に達しているようにも見えます。人生を考える上で深みのある映画と思います。私もまた来年学生にみせることで、また新しい気づきを得られるかも知れないと思えます。そういう映画です。



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『かもめ食堂』の覚悟と孤独と救い

『かもめ食堂』は女性を中心に絶大な支持を得た伝説的な映画です。私も周囲の人に聞いたら、女性はだいたい「とても好きだ」と答えます。友人の中には『かもめ食堂』の影響で新婚旅行にヘルシンキに選んだという人もいます。

男性からはそこまで支持されているとも感じませんが、男性でも、何度も繰り返し観るうちに小林聡美さんの凛とした役に共感や感情移入ができるようになると思います。ヘルシンキで日本料理のお店をするというのはかなりの覚悟が必要です。お店を開けば固定費用がかかります。居酒屋さんならお酒で売り上げを伸ばすことができますが、このお店はそういうわけでもありません。ロンドンやパリのようにチャラい夢見がちな場所でもありません。日本人目当ての商売でもありません。正々堂々真っ向勝負でストックホルムの人を相手に日本食で商売しようという静かな冒険です。客は集まらないと思うのが普通です。主人公はお店を構えて客が来ないなら無理して集めないという姿勢を貫きます。内心不安に違いありません。しかし、自分のスタイルは守ります。

もたいまさこさんが「いいわね。好きなことをやっていらして」と言うと小林聡美さんは「嫌いなことをやらないだけです」と答えます。さりげない会話ですが、壮絶です。嫌いなことをやらないと覚悟して、いろいろ捨てて断捨離したら、ヘルシンキで日本食屋さんをする選択肢が残ったというのは壮絶な人生です。日本で同じことをやるのは主人公的にはダメなのです。自分を貫いた結果、そうなってしまうというのは妥協なき人生という意味で憧れもありますが、そうでもしなければ生きられないという意味では背後にある苦しさを想像しないわけにはいきません。

私は片桐はいりさんが変な顔をしないで普通の役で出ているのをこの映画で初めて見たと思ったのですが、学生にみせると片桐はいりさんのアップで笑いが起こります。人の顔を見て笑ってはいけませんと注意しようかとも思いましたが、大学生はもう大人ですし空気を壊したくなかったのでわたしは気づかないふりをしました。自分の防衛を優先しました。ごめんなさい。

傷ついた人を癒す力がある作品です。アル中のおばさんが立ち直ります。逃げた男も帰ってきます。希望を与える作品です。実際には深い孤独が隣合わせです。映画を一回観ただけでは分かりません。しかし、何度も観ると行きずりの日本人の女性三人が肩を寄せ合い孤独と絶望に戦っています。緊張感を失くせば負けてしまいます。常に自分を保つ気力と覚悟が必要です。

最後は客でお店がいっぱいになります。客はみんな地元の人です。北欧の人が日本料理をおいしいおいしいと満足そうに食べる姿は理屈抜きに日本人の自意識を満足させます。そういう面は『カリオストロの城』に通じるものがあるのかも知れません。最後にお店が満席になるのは祈りのようなものだと思います。自分を貫き、信じて歩けばきちんと結果を出すことができるのが人生だ。人生とはそうであってほしい。ヘルシンキまで行って日本食屋さんをやらないと自己実現できないほど不器用な人でもちゃんとやれる。成功できる。そんな祈りや願いが込められているのだと思います。そこに観る人は共感するし、感動するし、静かで優しいカタルシスを得ることができるのではないかという気がします。




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