大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。
岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。
有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。
松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。
その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。
徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。
不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。
しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。
土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。
ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。
では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。
敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。
ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。


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