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坂本龍馬が殺された3日後くらいに伊東甲子太郎が殺されていますけれども、殺された場所が油小路という場所なんですね。前回京都に行ったときに、伊東が殺された場所を確認しようと思ってホテルから油小路まで歩いて行ったんですけど西本願寺の目と鼻の先だということが行ってみて分かったんです。西本願寺は新選組の屯所で、伊東を殺した新選組にとって油小路は宿舎に近い戦いやすい場所であったというようなことにも気づくことができました。

近藤勇が伊東を自宅に呼んで酒宴を催し、伊東はほろ酔い気分で帰っていたところを襲われているのですが、私は近藤の京都の自宅がどこにあったのか分からないのですけれども、西本願寺の屯所の近くということは間違いないのだろうというようなことも分かってですね、そうすると、伊東を狙った新選組の面々の当日の心境とか、そういうのがいろいろ想像できて、なかなか興味深い経験になったのですね。

地理的なことを考えてみます。伊東は新選組から分かれて孝明天皇の御陵を警備する御陵衛士という武士グループを形成したわけですが、この御陵衛士の屯所は高台寺に近いあたりにあったはずですから、京都市街の東の隅の方に伊東たちが暮らしていて、西の隅の方に新選組が暮らしていたという構図になります。伊東配下の面々が伊東の死を知り、遺体を引き取るために油小路まで出向いて待ち伏せしていた新選組と死闘になります。

時間的なことを考えると、酒宴が終わって伊東が殺されて、知らせが御陵衛士の屯所に届き、彼らが新選組が待ち伏せしているのも覚悟の上で遺体を引き取りにいこうと決心を固め、油小路へ出向いていったとなると、油小路での斬り合いは深夜から早朝にかけてなされたのであろうと推察できます。夜が明けて近所の人が外に出てみたら指がいっぱい落ちていたとの証言が残っていますから、戦いは朝になる前に終わっていたはずです。

旧暦の11月の京都の深夜から明け方にかけてですから凍えるほどに寒かったに違いなく、伊東の血で濡れた仙台袴がカチカチに凍っていたそうですが、御陵衛士を待っている間の新選組隊士もガクガク震えながら待ったのか、或いはアドレナリンが出まくって寒さを感じなかったか、などというようなことも想像を巡らせることができ、文字通り彼らの息遣いのようなところまで自分の脳内で迫っていける感覚になれてなかなかよかったです。



鳥羽伏見の戦いと徳川軍の敗因

大政奉還という劇的な政権移行が行われた後も、朝廷は徳川慶喜を頼りにしており、外交を含む当面の各行政事務は徳川が執行することになり、新しい政権にも徳川慶喜を入れた、徳川中心の新政府づくりの流れが生まれます。

岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛は徳川慶喜の智謀に恐れをなしますが、最終手段として武力による御所制圧という結局はかつて長州が試みたことと同じ手段に訴えます。

有名な小御所会議が慶喜を排除した形で開かれ、慶喜の官位と徳川氏の領地の剥奪が決められ、松平春嶽と徳川慶勝が二条城へ行き、その決定を慶喜に伝えます。慶喜は即答を避け、また軍事的な衝突も回避するために徳川軍とともに大阪城まで撤退し、様子を見るという作戦に出ます。慶喜の腹の内ではそのうち慶喜抜きの新政府は瓦解に近い状態となり、泣きついてくるだろうという計算があったと言われています。しかし孝明天皇が亡くなってしまった後ですので、慶喜は以前ほどの優位性が得られたかどうかはちょっと何とも言えないところです。

松平春嶽と徳川慶勝が再び大阪城の慶喜を訪問し、官位と領地の返上について確認しますが、同時に近日中の慶喜上洛についても合意されたと言われています。松平春嶽は心中では慶喜にシンパシーを抱いていたとも言われていますので、新政府内部に慶喜親派がいることと、近日の慶喜上洛が合意されたことは、慶喜的には自分の狙い通りに物事が動きつつあると見ていたかも知れません。実際に慶喜が会議にも出席することになれば、弁舌で負けることはなく、しかも元将軍で母親は宮様という圧倒的な威光がものを言い、主導権を握れると睨んでいたのではないかと思います。

その狙いが崩れるのは江戸で薩摩藩廷を出入り浪士たちが市中で強盗を繰り返すという事件が頻発し、薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたことですが、これによって大阪城で不満を抱えたまま我慢していた兵たちの怒りが爆発。徳川慶喜がしぶしぶ同意するという形で徳川軍が京都を目指して進軍します。徳川軍のフランス式歩兵連隊は鳥羽街道を通り、会津軍は伏見街道を通ったとされています。

徳川・会津軍は慶喜上洛の名目でいわば無害通行を主張して京へ入ろうとしますが、薩摩・長州軍がそれを認めず、両者は交渉しますが、ほどなく交渉決裂ということで実力勝負ということになります。

不可解なのはなぜ徳川軍が敗けたのかということに尽きます。会津軍は必ずしも薩摩・長州軍に比して近代化が進んでいたとはいえず、会津藩が注文した大量の最新の銃が戊辰戦争が終わった後に届き、代金を支払う主体が存在しなくなっていたという珍事も発生していますが、これは翻ればこの段階では薩長に対抗できるだけの近代装備はまだ整っていなかったことの証明と言えるかも知れません。そのため、伏見街道で会津が敗けたことは全く不可解ということもできません。

しかしながら、徳川軍は大金をはたいて充分な海軍力と最新式の陸軍力を持っており、既に列強も簡単には手出しできないほどまで強くなっていて、仮に戦局が長期化すれば、海軍力を使って瀬戸内海を封鎖し、山陽道にも艦砲射撃をかけることで薩長の兵站を遮断するという奥の手があり、そもそもそこまでしなくても徳川の歩兵連隊がきちんと使われていれば薩長が一日で敗走した可能性も充分にあったと考えることができます。勝海舟は後に薩長軍は横一列で厚みがなく、どこか一か所でも突破できればそれで勝てたと回想しています。もちろん、勝海舟は現場にいたわけではなく、後から他の人から聞いてそういう見立てをしているわけですが、兵員の差から考えてもおそらくその見立てに相違あるまいとも思えます。

土方歳三が薩長軍には厚みがないことを見抜き、背後に回って挟撃しようとしますが、伊東甲子太郎の残党が近藤勇を銃撃して重傷を負わせたり、新選組の陣地に砲撃を加えたりと狙い撃ちしてそれどころではなくなり、撤退せざるを得なかったようです。

ただ、初日の戦局は一進一退だったものの、翌日、薩長側に錦の御旗が翻り、それにびびった徳川軍が敗走したとされています。私は錦の御旗にびびって敗走したというのが本当かどうかについては懐疑的です。錦の御旗は楠木正成以来使われたことがなく、要するに誰も見たことがないものですから、果たしてそのような旗がたてられたところで、そうだとすぐにわかるかどうかという疑問が残ります。私だったら旗手を狙い撃ちさせます。慶喜が水戸学を叩き込まれていたことと関連付けた説明もよくありますが、慶喜本人は大阪城にいて現場にはいなかったわけですから、関係ないようにも思います。幕府軍関係者が後日、敗戦の理由について述べる際に「錦の御旗が出て来たから…」と言い訳に利用し、薩長側も天皇を担ぐことで自分たちの正当化を図っていますので、その言い訳は薩長にとっても都合がよく、明治に入ってから、双方関係者がそういうことで話をまとめたのではないかという気がしてなりません。

では実際になぜ敗けたのかと言えば、一点突破する意思を持っていなかったのではないかと推量する他なく、覚悟が決まっていなかったと考える以外にはありません。慶喜本人が「このままでは俺は切腹だ…」と保身で脱走していますから、そもそもいろいろダメなわけです。

敢えて言えば、徳川慶喜は井伊直弼の安政の大獄の結果、政治家としてのデビューが遅れ、実際に自分がイニシアチブをとれるようになった時には既に徳川の命運は尽きていたようにも思え、そこは気の毒に思えまし、慶喜からすれば既に内側からダメになってしまった幕府のために腹を切るのはバカバカしいと思ったとしても責められないような気もしなくはありません。

ただ、徳川慶喜は「百言あって一誠なし」と評されるタイプで保身が全てみたいなところがある人ですから、小手先の議論では勝てても、大久保・西郷のようなタイプが死ぬ気でいどんてきた場合にはやっぱり勝てなかっただろうなあとも思えます。




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長州征討戦の幕府の敗因

長州征討戦の幕府の敗因

禁門の変で京都に直接の進軍を試みた長州は孝明天皇から朝敵指定を受け、幕府の命令による西国の諸藩の兵を集めた、いわば正規軍が編成され、長州を包囲します。長州藩では藩論が二分し、恭順派と抵抗派で激しい議論が戦わせられますが、恭順派が勝利し、一旦は和平交渉が行われます。
ところが徹底抗戦派の高杉晋作が藩内でクーデターを起こして勝利し、長州藩の態度は硬化。戦端が開かれるという展開になります。

諸藩の兵力は長州藩によって各個撃破されますが、その後幕府軍歩兵が投入され、東方面の戦線は膠着状態に入ります。高杉晋作は西方面の戦線に着目し、九州上陸を画策します。海軍力では幕府軍が圧倒的な戦力を有しており、通常であれば関門海峡を渡ることはとても不可能なことのように思われましたが、巨大な幕府艦隊に対して夜間の接近戦をしかけるという奇策をかけ、坂本龍馬も参加して、これを突破。高杉晋作とその兵力は小倉城を目指して進撃していきます。

小倉藩は幕閣の小笠原氏が藩主をつとめており、長州征討の現地司令官を担当し、各藩に命令する立場にありましたが、長州の積極的な攻勢に対して諸藩は消極的で戦意に乏しく、小倉藩は次第に追い詰められていきます。長州サイドがグラバーから買い入れた最新のミニエーゲベール銃を大量に保有していたことも戦局を分けたとも言えます。幕府軍こそ最新の装備を揃えてはいましたが、長州征討に駆り出された藩の中には火縄銃数十丁というところもあったでしょうから、そういうところはそもそも勝負にならなかったはずです。

熊本藩の細川氏がアームストロング法を所持しており、小倉城の手前に布陣。長州の兵はアームストロング法に阻まれて前進できないという事態に陥ります。長州の兵隊にとって小倉上周辺は「敵地」ですので、戦闘の長期化は兵站の疲弊を招く恐れがあり、仮にここでの膠着状態が長期にわたれば、結果は違っていたかも知れません。

しかし、小倉藩の弱みは細川氏の軍だけにしか頼れなかったという点にあり、まことに心細いもので、結果として細川氏の軍だけが常時最前線に立たされるという厳しい状況が生まれ、細川軍に疲労と不満が蓄積され、最終的には戦闘の継続を拒否し、撤兵します。

アームストロング砲のプレッシャーから解放された長州軍は前進を開始しますが、小倉藩は小倉城に放火して後退。戦闘はその後しばらく続くものの終始長州の有利で推移します。ここに来て小倉軍の戦線が完全な崩壊を見せるという事態に陥らなかったことには、小倉側が背水の陣にならざるを得ず、徹底抗戦したためと考えることもできます。

長州優位の状態で停戦が成立し、講和の使者としては干されていた勝海舟が人脈力を買われて広島へ送られます。長州は朝敵指定が解除され、面目躍如。風前の灯だったはずの長州藩は息を吹き返し、幕府打倒に邁進していくことになります。

ここで気になるのは圧倒的な兵力を誇っていたはずの征討軍がなぜかくも赤子の手をひねる如くに負けたかということなのですが、最大の要因は諸藩の寄せ集めであったため、指揮あ上がらず、それぞれの大名は戦争させられるのを迷惑だくらいに感じていて、積極的な動きを見せようとしなかったことにその要因があるように思えます。大軍よりも少数精鋭の方が充分に役に立つということは源義経や楠木正成の例で証明されているとすら言えるかも知れません。

それを悟ったからこそ、徳川慶喜は直参の兵力で改めての長州攻略を構想しますが、徳川慶喜自身がわりとポジショントークに終始する人で、もし幕府軍精鋭だけで戦線を形成し、おそらくは失敗した場合は自分の責任問題になると考えてそれを撤回。この段階で徳川幕府崩壊は決定的なものになったと考えることもできるかも知れません。

以上のようなことを総合すると、責任感のある上司と少数精鋭の二つが成功の要因ではないかと思えてきます。長州征討ではその両方がなかったために、負けるのは必定だったとすら言えるかも知れません。




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徳川慶喜と孝明天皇

徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。




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