聖武天皇と光明皇后の仏教ニューエージ

天武天皇とその妻の持統天皇は、朝廷を飛鳥の地以外のどこかへと移動させる必要を感じていたようですが、どこへ移動させるかということはかなり悩ましい問題だったようです。というのも、大和朝廷脱飛鳥計画は天武天皇の前の天智天皇の時から熱心に行われていたのは間違いないと思いますが、一度目は難波宮を建設して大坂へ脱出するも、関係者の仲間割れで元の木阿弥になり、大津宮を建設して琵琶湖の方に脱出したこともありましたが、壬申の乱で血塗られた歴史を背負ってしまい、あまり大津へ帰りたいとも思えない、はて、やっぱ飛鳥…?みたいなところもあったのではないかと思います。

しかし、思い切って陰陽師まで動員して藤原京という中国の長安をモデルにした新しい都を建設することに踏み切ります。建設はかなり進んだようなのですが、遣唐使から帰ってきた人が、「ちょっと違う」と言うので、改めて遷都先を探すことになり、奈良の都の平城京が建設されることになりました。本格的に長安をモデルにした都市建設が行われ、当初は長年使用される首都して期待されていたようですが、天皇家の内輪もめはひどいは、藤原氏も権力争いに参加するは、疫病でばたばた人が死んでいくわということで、奈良の都は咲く花の匂うが如き今盛りなりとうたわれたとはいえ、やっぱりなんか暗いんですよね。

で、陰謀が渦巻き疫病が流行する中、それでも清く、そして美しく生きようとしたの天皇が聖武天皇とその奥さんの光明皇后でした。聖武天皇は天武天皇のひ孫になるんですが、天武天皇の子孫たちが殺し合ったり病死して減少していきましたから、ひ孫の段階で既に後継者不足が懸念される中の大切な男子だったようです。父親の文武天皇も早世していますんで、当時としては、この子だけは健やかに育ってほしいと願いを込めて育てられたのではないでしょうか。妻の光明皇后ですが、こちらの父親は藤原不比等です。藤原氏は常に天皇家に女子を供給することで、天皇家の外戚として権力を維持してきましたが、その最初のケースが光明皇后です。

藤原氏は天武天皇にとっての宿敵の天智天皇と一緒に天下取りをした系統ですから、実は天武系皇族が繁栄している時代には分が悪かったんですけれど、藤原不比等が恵まれない境遇の中、懸命に皇室に使えて信用を築き、その息子たちである、いわゆる藤原四兄弟が団結して藤原氏の国政参加を不動のものへとしていきます。この過程では、天武系皇族として将来を期待された長屋王の謀殺も含まれていますから、天智系と天武系の仁義なき戦いは奈良時代に入っても続いていたと見るべきですね。そんな風におっかない藤原四兄弟も疫病で死んじゃいますから、本当に奈良時代の人って大変ですね。

そのような殺伐とした時代の中で、聖武天皇と光明皇后は本当に深く愛し合っていた夫婦と考えられているんですが、二人は男子を授かります。この男子の名前が基王(もといおう)と言うんですけど、生まれて一年もせずに亡くなってしまうんですね。当時はまだまだ、乳幼児が亡くなってしまうケースは多かったんでしょうね。この基王の死についてですね、さきほどの藤原四兄弟は長屋王が呪詛したんだと言い出したわけですよ。長屋王は基王がいなければ、天皇になれるかも知れないから、きっと呪い殺したんだ。みたいな話になるんですね。で、いずれにせよみんな死んじゃったわけです。

当時の聖武天皇の立場であれば、非常に大きな心痛だったということは言葉を尽くさなくても想像がつきますよね。自分の息子が早世してしまって悲しんでたいら従弟が謀殺されてしまうわけです。で、その従弟を死に追い込んだのは奥さんの兄弟ですからね。なんかもう、めちゃくちゃですよね。ですが、聖武天皇は強い人でした。ただ悲嘆に暮れるのではなく、その悲しみをバネにして、東大寺大仏殿の建設に乗り出します。息子さんの供養もあると思いますけど、奈良時代の血塗られた犠牲者たちをまとめて大仏様のお力でお救いください、平和な都にしてくださいという願いがこめられていたんだと思います。

奥さんの光明皇后も聖武天皇と一緒に、仏教信仰を厚くする生き方を選びます。奈良時代美術の中でも特に人気の高い阿修羅王の像が今も興福寺に保存されていますが、この像は光明皇后が基王がもし生きて成長していたら、こんな風になるだろうなと想像した姿を像という形態に作成させたものなんです。光明皇后の哀切に満ちた心境を想像することができますよね。奈良時代の初期から中ごろにかけてのこの時代、仏教芸術が花開きますけど、これって聖武天皇と光明皇后が辛い現実に向き合う必要から仏教へと傾倒していったことと関係があって、当時は仏教はまだまだ新しい外来の宗教ですし、目に見えない法則とか真理によって世界できてるっていう斬新な考え方がベースになってますから、現代風に言えば、スピリチュアル夫婦って言えると思うんです。時代は仏教ニューエージだったわけですね。そんな風に思うと、天平文化って今も教科書に書いてますけど、当時の人たちが新時代の萌芽を感じて胸を膨らませていた、そんな鼓動が感じられる芸術文化って言えるような気がしますよね。

光明皇后は恵まれない人たちのために、お風呂屋さんをしていたんですね。で、誰でも無料でお風呂に入れて、光明皇后自身がそこで働いて、人々の背中を流していたそうなんです。で、ポリシーとして、どんなに汚い人がきても必ず体を洗ってあげるという信念を持って頑張っていたそうなんですが、ある時、それはあまりに酷くて、ちょっと断ろうかと真剣に悩む感じの人がお風呂へ来たらしいんですよ。で、光明皇后は悩んだものの、意を決して、丁寧に洗ってあげます。皮膚の病を患っている人だったみたいなんですが、膿を吸い出してあげたりもしたと言われています。そうすると実はそのお客さんは如来様だったということが最後になって分かります。如来様は大変に満足されて天へとのぼって行かれたそうなんですが、光明皇后は、ああ、自分はこれをやってきて良かったという自己肯定感を得られるみたいな、そういう話のようなんです。

この話って、なんかに似てるなあと思ったんですが、千と千尋にそっくりなんですね。宮崎駿さんが光明皇后のことを知らないわけないですから、千と千尋の元ネタは光明皇后なんじゃないでしょうかね。




奈良時代をがっつりざっくりと語る

奈良時代を語るには、まずは壬申の乱から入るのがいいかも知れません。壬申の乱で勝利した天武天皇は、目に見える形で勝利者になったことで、天皇家の威信を確立することができるようになったと言えると思います。

古事記、日本書紀の編纂が行われ「天皇家公認の歴史」が整備されたことにプラスして次の持統天皇が伊勢神宮を天皇家公認の氏神にした(と言える)ことにより、天皇は他の豪族とは明確に峻別され、神聖化、神格化へとつながっていきます。

蘇我氏のような外戚が天皇位ののっとりを計画することがあったのに対し、奈良時代、平安時代を通じて権力を伸長させた藤原氏がそういう素振りをみせることもなかったのは、天武天皇の時代に天皇が決定的に神聖なもので、他の血筋ではそれに代わることができないと明確化されたことに理由を求めることができるのではないかという気がします。

天武系の天皇が数代続いたことにより天智天皇とタッグを組んでいた藤原の人々がしばらくの間権力に充分に手が届かなかったことも、もしかすると藤原氏が天皇位奪取を計画すらしなくなったことの要因かも知れません。その後、藤原氏は天皇に自分の娘を嫁がせ続けることで、結果として貴族社会を制覇し、天皇家とはほぼ一体といってもいいほど濃い血のつながりを持つことを政権運営の主たる策略としていきます。

天武・持統時代には天皇が中国の皇帝と同様な別格かつ唯一の存在として認めさせるという目的があったために、律令制度を充実させていこうとした他、首都も唐の長安風のものを建設しようと考えるようになり、日本で最初の「都市」と呼べるかも知れない、藤原京の建設が行われます。ただ、藤原京は遣唐使から帰って来た者から「ちょっと違う」という指摘を受け、新たに首都計画が練られ、平城京への建設へとつながっていきます。

それまで、天皇ごとに宮が移動したり、政変があったり天変地異があったりするとすぐ遷都するというやり方を捨て、平城京を恒久的な首都するという意図があったと見られます。

持統天皇はそもそも天武天皇が亡くなった後は自分の息子の草壁皇子を天皇にする計画で、ライバル視された大津皇子は反逆の疑いをかけて殺してしまいます。ところが草壁皇子が病死してしまい(毒殺だったとしても不思議ではないかも知れません…)、持統天皇が一旦政権を引き継いで、どうにか草壁皇子の息子であり自分の孫にあたる皇子を文武天皇に即位させることに成功します。他にも皇子がいる中で、なんとか苦しいところで一線を守ったというところかも知れません。

文武天皇の后に藤原不比等の娘の宮子を送り込むことに成功し、首皇子(後の聖武天皇)を出産したことが藤原氏浮揚の要因となりますが、それはもう少し後になってからです。

文武天皇が若くして病死してしまい、とりあえず文武天皇の母親が元明天皇に即位します。元明天皇の時代に平城京遷都が実現します。その後時々難波宮に遷都したり恭仁京に遷都することもあり、ちょっとブレることもありますが、結局は平城京に帰ってきます。元明天皇の次はその娘(文武天皇の姉)が即位し、その後におそらく奈良時代で最も有名であろう聖武天皇が即位します。

聖武天皇と光明皇后の間には基王が誕生し、将来の天皇と目されますが、一年も経ずして亡くなってしまいます。興福寺の阿修羅像は光明皇后が基王が成長した時をイメージして作らせたものだと言われています。聖武天皇と光明皇后にはそのような人間的な愛情に関するエピソードがあるため、好印象な人が多いと思います。

聖武天皇の時代、当初は天武天皇の孫の長屋王が政権の中枢を握りますが、藤原不比等の息子たち、いわゆる藤原四兄弟が長屋王の失脚を謀ります。長屋王は反逆の疑いをかけられて自害に追い込まれます。藤原四兄弟はそれぞれに北家、南家、京家、式家の祖となりその後の藤原氏の全盛の基礎を固めるのですが、四兄弟たちは長屋王の死後に次々と病死します。当時の人なら、きっと長屋王が祟ったのだと思うに違いありません。周りで人がばたばたと亡くなり、更に藤原広嗣の乱が九州で起きたこともあり、聖武天皇は仏教に傾倒していき全国に国分寺を作らせたり、大仏殿の建築を命じたりするようになります。また、常に陰謀が渦巻いている奈良の都が嫌になり、同時期に短期間ですが恭仁京へ遷都したり、紫香楽宮へ遷都したりしています。

聖武天皇は娘の孝謙天皇に位を譲り、孝謙天皇は聖武天皇の遺言に従って道祖王を立太子しますが、その後いろいろ言いがかりをつけて廃太子されることになります。

藤原四兄弟が亡くなったことで藤原氏の勢力が後退し、橘諸兄が政治の世界の実力者になります。藤原南家の藤原仲麻呂が成長すると、光明皇后が藤原氏の出身者であることと、その娘で皇位についた孝謙天皇もバックについたことで藤原仲麻呂が橘諸兄を制して権力の中枢を握ります。天皇家と藤原氏が並立し、或いは事実上一体化してこのまま華やいだ平安の世界へ行くのかと言えばさにあらず、藤原仲麻呂の台頭をよしとしない橘諸兄の息子の橘奈良麻呂は長屋王の息子の黄文王と天武天皇の孫の道祖王を抱き込んだ政権転覆を計画します。密告により計画は露見し、黄文王、道祖王は拷問で死に、橘奈良麻呂も同じ運命をたどったと考えられています。

孝謙天皇が退位を表明すると、藤原仲麻呂の推薦で天武天皇の孫の淳仁天皇が即位します。これでようやく淳仁天皇と藤原仲麻呂の天下、晴れて華やかな平安時代に突入するかと言えばまたしてさにあらず。

孝謙上皇が道鏡と恋愛関係になった(らしい)ため、藤原仲麻呂が苦言を呈すると孝謙上皇は切れまくって淳仁天皇の権威は認めないと宣言。藤原仲麻呂は戦争で決着をつけようとしますが、孝謙上皇サイドが勝利し、藤原仲麻呂が殺され、天武天皇の孫の塩焼王も殺されます。淳仁天皇は淡路に流罪。淡路で殺されたと考えられています。その他の天智系の皇子たちも流罪となり、天武天皇の系統の皇位継承者はほぼいなくなります。天武天皇の孫たちが多く藤原仲麻呂の側に味方したという事実は、孝謙上皇・道鏡同盟を認めない天武系皇子たちの反乱とも言えますが、天智系の子孫には皇位継承はないと考えられていた時代の天武系の皇子が藤原仲麻呂と結束したことは、正当性がどちらにあるか、或いはどちらが正規軍かという問いと立てるとすれば、藤原仲麻呂・淳仁天皇・塩焼王たちの側にあるのだと考える人が多かったということかも知れないという気がします。

人材がいないので孝謙上皇が重祚し(たことになっている)、亡くなった後は天智系の白壁王が光仁天皇に即位し、現代までその系統が受け継がれていきます。白壁王の妃である井上内親王が聖武天皇の娘で、戸部親王をもうけており、天智系と天武系の融合という要素が見られますが、光仁天皇の即位後に井上内親王と戸部親王は、天智天皇の孫の難波内親王を呪詛したという理由で幽閉され、同じ日に亡くなっていることから殺害された可能性が高いと見られています。道鏡は関東へ左遷されますが、殺されなかったのはお坊さんだったからなのかも知れないですが、あれだけのことをやらかしておいて殺さなかったのは究極に運が良いのかも知れません。

光仁天皇の即位には藤原百川の強い推薦があったとされており、井上内親王と戸部親王が除かれた背景には、藤原氏による天武色の一掃という強い執念が働いていたように感じられます。長い長い天智系と天武系の決着がつけられたと捉えることもできるかも知れません。その後、光仁天皇と百済王家の血統と言われる高野新笠という女性の間に生まれた山部親王が桓武天皇に即位し、長岡京遷都、続いて平安京への遷都になります。

平城京は恒久的な首都として建設されたはずでしたが、道鏡のような人物が出るなど、仏教寺院の力が強くなってきたことから、その勢力を忌避するために遷都したとも考えられていますが、上に述べたように奈良時代は天武系の人々が次々と殺され、大変に後味が悪く、そういう怨念渦巻く土地から離れたかったというのも私は個人的にはよく理解できます。そうは言っても桓武天皇の時代には弟の早良親王が排斥されていますので、奈良時代の権力争いは実に恐ろしいという感想がどうしても強くなってしまいます。

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聖武天皇と光明皇后のスピリチュアルな愛

飛鳥・奈良時代は皇族、貴族の間での足の引っ張り合いと殺し合いがあまりに多く、その時代にはいわゆる「古代のロマン」が語られる一方で、そういう血なまぐさい時代でもあったと思いますので、私は当時の人々の心境を考えるとき、ぞっとしなくもないです。

そういう時代の中で、聖武天皇と光明皇后の二人については奈良時代の激しい政治家のぶつかり合いの中で、ちょっとほっとする二人の姿が浮かんできます。

聖武天皇は光明皇后とともに仏教への信仰が厚く、東大寺に大仏を建立させたり、全国に国分寺を建てさせたりしたことで知られています。ですが、今とは仏教に対するイメージが違います。仏教はまだ日本に渡って来てから200年くらいかどうかという時期で、実際に浸透したのはもっと後の時代になるはずです。仏教はまだまだ新しい価値観、思想、スタイルで、今風に言えば聖武天皇と光明天皇はスピリチュアル夫婦だったという気がしなくもありません。

その背景にはちょっと前に壬申の乱があり、天智天皇と天武天皇の系統で皇族が分裂し、皇位継承権の高い天武天皇系(聖武天皇も天武系)の争いがひどくなり、大津皇子が「反逆の疑い」で殺される、自分の治世になってからも長屋王が同じく「反逆の疑い」で自殺させられる、藤原氏の鼻息は荒い、息子の基王が早世するなど、悲嘆に暮れざるを得ない悲劇が身辺で続いたからに違いないように思えます。そういう時代に新しい仏教にすがろうとした心の中を想像すると、ああ、きっと純粋な人だったのだなあという感想が生まれてきます。

聖武天皇の死後、光明皇后が東大寺に聖武天皇の遺品を奉納しているのも、微笑ましい、心の和む、夫婦愛という言葉が頭に浮かぶエピソードです。光明皇后は慈善事業に積極的な人で、公共のお風呂を作って貧しい人や病人を招き、ハンセン病で皮膚全体に膿が溜まっている人が来たときは口で膿を吸い出し、思いっきり汚い客が来たときも根性で体を洗ってあげます。実はどちらも本当は如来様だったというオチがついているのですが、私には一つ目のエピソードがナウシカの原型で、二つ目のエピソードが千と千尋の原型だと思えてしかたありません。

その後、娘が孝謙天皇に即位すると、阿倍仲麻呂の乱、道鏡事件と、また嫌な事件が続くようになり、桓武天皇まで来て「もう、こんな陰謀渦巻く奈良は嫌だ」と遷都が始まります。遷都の主目的の一つは奈良の仏教勢力を政治に介入させないためで、でっかいお寺が引っ越さないのなら自分たちが引っ越す、という強行突破みたいなところもあり、聖武天皇の努力がかえって仇になっていたというように思えなくもありません。時代の皮肉のようなものですが、それでもやっぱり、聖武天皇と光明皇后の夫婦愛を想像すると心が和み、いい話だなあ、いい人たちだなあと思うことができ、少しいい気分になれます。

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奈良時代の藤原氏の世渡り

天智天皇の死後、大海人皇子が吉野にくだって兵を集め近江朝と戦う壬申の乱が起きます。壬申の乱では大海人皇子が勝利し、天智天皇の息子の大友皇子は自殺し、藤原鎌足の一族の中臣金は処刑され、その他の藤原系の人々も流罪になります。藤原鎌足は天智天皇の側近中の側近でブレーンだったわけですが、壬申の乱で敗れてその勢いを失ったと言えます。

不比等は当時少年だったために咎を受けず、普通の人生、どちらかと言えば恵まれない方の人生を歩むはずだったに違いありません。しかし、持統天皇の息子の草壁皇子が病死し、草壁皇子のその息子の軽皇子が文武天皇に即位するのに貢献したとして、不比等は一機に出世し、奈良朝の藤原氏の台頭の基礎を作ります。娘の宮子が文武天皇の夫人となり後の聖武天皇を出産したことで、不比等は皇子の祖父ということになり、更にその基盤が固まっていきます。天皇の系統では天武系が続いていますが、朝臣の系統では天智系が復活してきたと捉えることもできると思います。

不比等の死後は藤原四兄弟が藤原氏による政権中枢の独占を狙い、天智系の皇族の長屋王を自殺に追い込みます。危機を乗り越えた後はライバルを蹴落とすというなかなか恐ろしい構図が見られます。この構図は菅原道真の時と同じで、藤原氏が単に運が良かっただけでなく、慎重かつ大胆、そして明確な強い意思を持って権力確保に邁進していたことが分かります。

もしそういう人が職場にいて敵視されるといろいろ面倒です。自分も野心を持っていたら全面戦争覚悟になりますし、そうでなかったとしても、普通に仕事をがんばっているだけで嫌がらせを受け、失脚の機会を伺われ、あることないこと触れて回られ、ちょっとしたミスや隙につけこまれてきます。そんな人が周辺にいたらそれだけで本当に疲れます。

では、反撃すればいいかというと、そういう場合は大抵、相手の方が用意周到で、勝つことに情熱を注いでいますのでよほどの覚悟が求められることになります。平和にそこそこな感じで生きていきたい人にとっては迷惑なことこの上ないに違いありません。藤原氏が倒された側の怨念を恐れたのも、周到な追い落としをかけていた自覚があったからではないかとも思います。不比等と藤原四兄弟の時代、壬申の乱の敗者の側にいたにも関わらず、復活して再び権力に届いていくという時の心境を想像すると、当時、計り知れないほどの高揚を彼らにもたらしたに違いありません。きっと、権力闘争が好きだったのだろうと思います。そうでなければ情熱的に相手を潰すことはそうそうできません。相手も人間ですのでハンパな潰し方では潰れませんから、命をかけたチキンゲームです。怖くなったらやられてしまいます。

ただ、権力闘争はやり過ぎると結局は仲間割れに至ってしまいます。藤原道長の時代になると藤原氏内部での追い落としが激しいですし、保元の乱もいわば藤原氏内部で喧嘩し過ぎて凋落し、清盛が台頭して貴族の時代そのものが終わっていきました。

権力闘争はほどほどが良さそうに思います。

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後白河天皇即位に見る天皇家の母親の力

天智天皇と天武天皇の世代を超えた確執

まず、天智天皇ですが、この人はなかなかの策謀家です。もちろん、中臣鎌足という稀有なブレーンを得ていたからですが、飛鳥時代後半はこの二人が一世を風靡します。歴史の表舞台に華々しく登場したのは言うまでもなく乙巳の変によって蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家を滅亡させたことによりますが、その後、先頭には立たずに軽皇子を孝徳天皇に即位させ、自分は黒幕になります。

蘇我入鹿殺害の時に蘇我氏を裏切らせて自分の仲間に引き入れた蘇我倉山田石川麻呂に難癖をつけて家族もろとも自害させ(要するに殺害し)、孝徳天皇のことも多分、増長してきたから気に入らなかったのだと思いますが、暗殺した可能性が大変高いです。孝徳天皇の息子の有馬皇子も内乱準備を共謀した罪で絞首刑です。要するに天智天皇と中臣鎌足で乙巳の変協力者を順番に殺して政権の果実を自分たちに集中させるという作業を一歩づつ続けたという言い方もできるように思います。当時のことを映像で想像しただけでも恐ろしいです。孝徳天皇の次の天皇は自分の母親の皇極天皇を重祚させて斉明天皇とし、やはり自分は黒幕に徹します。

母親の死後、ついに自身が即位しますが、そこで大きく躓いてしまいます。白村江の戦いで敗戦し、びびった天智天皇は大津に遷都します。白村江の戦いの時には額田王に和歌を詠ませて戦意高揚も図りましたが、回復不可能なほどの大敗北で、同盟国の百済からの亡命者を大量に受けれることにもなりました。当時、飛鳥地域周辺をくるくる移動して遷都するのが普通で、ちょっと離れた難波宮も放棄しているにもかかわらず、当時としては相当に引っ込んでしまった場所と認識されたであろう大津に引っ越すというのは相当に焦っていた、唐の侵攻に本気でびびっていたことが分かります。

唐の侵攻はなく、日本は敗戦国として遣唐使を送って服属の意思を示すという流れになります。天智天皇は戦争指導に失敗した責任者ですので、結構求心力はないです。周りの人も「えー、近江…?」と思っています。当時の人は飛鳥が一番理想的な土地に決まってるじゃんと信じていたからです。頼りにしていた鎌足も亡くなってしまいます。ピンチです。

さて、そのような窮地に立たされていた天智を支えていたのが弟の大海人皇子です。この兄弟は内心、相当に憎み合っていたようですが、権力維持のために協力し合います。ただ、大海人皇子は内心穏やかではなかったことでしょう。恋人の額田王は天智天皇にとられる。弟に生まれたという理由で自分は永遠に命令される側。才能もあり、英明な人物なだけに、いずれどこかで逆転してみせるという思いがあったに違いありません。

天智天皇が亡くなる時、「次の天皇は息子の大友皇子にするから後はよろしく」と大海人皇子に伝え、大海人皇子は「私は吉野に行って僧侶になりますから、後継者争いの心配はしなくていいですよ」と真っ赤な嘘をしれっと言います。一部には天智天皇は大海人皇子に殺されたのだと言う説もありますが、そこはちょっと分かりません。互いに生きている時から本気で嫌いだったみたいなので、暗殺していたとしても唐突な印象は受けません。

さて、天智天皇は死にました。大海人皇子は自由です。吉野から伊勢に行き、兵隊を集めます。大友皇子サイドも「これは一戦は避けられない」と覚悟して兵隊を集めています。壬申の乱です。結果としては大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害。大海人皇子が天武天皇に即位します。「どうだ、ついにおれはやったぞ」と思ったに違いありません。天智天皇の男性の子孫は「用済み。無用。特に存在理由なし」の状況に立たされ、平和に酒でも飲んで楽しく過ごしているだけなら命は助けてやる。という感じになり、結果、生まれてくる男性は穏やかな人生を送ることになります。一方で、天智天皇の女性の子孫は天武天皇の皇后か妃になる。或いは天智天皇の子孫の皇后か妃になるという人生を送ることになります。男系は天武天皇だが、女系に天智天皇の血を入れることによって文句は言わせないという意思が見てとれます。

さて、このように殺し合いを繰り返して兄の血統を排除し、天武系の花の時代を迎えるはずでした。しかし、天武天皇の死後、皇后が持統天皇に即位しますが、天智天皇の子どもの中で、自分が産んだ草壁皇子を天皇にしようと、ライバルの大津皇子に内乱準備罪みたいな罪を被せて殺してしまいます。天武系の仲間割れが起きたわけです。持統天皇としてはさあ、これで安心。これが楽しみだと思っていたら肝心の草壁皇子が病死。孫がいたのでこの時点ではまだぎりぎりセーフです。天武系が続いています。奈良時代、天武系天皇には聖武天皇と光明皇后のような美しいなあと思えるエピソードのある人たちもいますが、聖武天皇が大仏を作ったり国分寺を各地に作ったりしたのも、天智系と天武系の間の憎悪に疲れ果てて仏さまにすがろうとしたと見るべきかも知れません。

聖武天皇の次に女帝の孝謙天皇が即位し、道鏡のぞっこんになり「皇統なんか知ったことか。道鏡を天皇にしよう」みたいなことになってきて、そりゃいかんと反対者が続出します。道鏡の天皇位簒奪を阻むために天武系の皇子たちが例えば藤原仲麻呂によって擁立されたりしますが、だいたい全部殺されるか追放されるという恐ろしい話になって、ついに天武系の継承者はいなくなってしまいます。

天武系が途絶え、果たしてどうしたものかなあとみんなは悩み「あなたは特に存在理由はないんですよ。死んでも誰も困りませんよ」と教えられて育ったような天智系の白壁王が光仁天皇として即位して、天智系が復活し現代につながる皇統になります。壬申の乱から白壁王の即位まで100年くらい時間が経ってますので、天智と天武の兄弟の確執は決着がつくまで100年尾を引いたことになります。奈良時代は天智系vs天武系の確執の時代であり、天智系勝利確定後、遷都話が持ち上がりますので、或いは天皇家の系統が安定したことを受けて忌まわしい記憶の残る土地からは離れようということだったかも知れません。長い長い憎悪の系譜…と思うと、やっぱりぞっとします…。

天武系に生まれて来た人たちは天皇の位を巡って殺し合って自滅したと言える部分がある一方、天智系の子孫の人たちは「どうせ天皇になれないから楽しく暮らそう。お酒が好きな人はお酒を飲もう。勉強が好きな人は勉強すればいいじゃん」で生きていたのでストレスもなく、喧嘩する理由もなかったので生き延びたという印象もあります。そういう意味では禍福は糾える縄の如しです。或いは、天武系の自滅、要するに敵失によって棚ぼた的に皇位が転がり込んできたという感じがありますので「果報は寝て待て」は本当なのかも知れません。

そうは言っても白壁王も光仁天皇に即位後に皇后とその間にもうけた皇子が「呪いをかけた」という理由で幽閉・死亡(おそらく殺された)といういたましい経験をしなくてはなりませんので、本当に古代の天皇家は大変です。壮絶です。
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奈良の東大寺二月堂で行われる修二会と呼ばれる行事では、行事の過程で過去帳を読み上げるというものがあります。東大寺に関係の深かった人や貢献した人の名前を読み上げるのですが、女性の名前は少ないらしいです。光明皇后の名前が入っているそうなのですが、光明皇后は聖武天皇とともに仏教の発展に貢献した人ですから理解できます。ですが、それとは別に過去帳には「青衣の女人(しょうえのにょにん)」という名前も入っています。

鎌倉時代に集慶というお坊さんが過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女性の幽霊が現れて「自分の名前が抜け落ちている」と言ったそうです。そんなことを言われても、その女性が誰か分からないので名前の読み上げようがないですからお坊さんが「青衣の女人」と読み上げたところ、幽霊は満足して消えて行き、以降、今日に至るまで過去帳を読み上げる時には「青衣の女人」の名前も読むそうです。声をひそめて読むことになっているらしいです。ちょっと怪談めいてはいますが、過去帳を読み上げるということは供養しているわけですから、この青い衣をまとった女性も供養されているわけで、いい話だと思えばいい話です。

しかしながら、日本人にとって「青き衣をまとい」し者って、ナウシカです。博識な宮崎駿さんのことですから、もしやナウシカはその幽霊がモデルかとふと思わなくもありません。しかも、日本では巫女と青には関係性があるとの指摘もあります。飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は第22代清寧天皇が亡くなった後に一時期政務を担当したと言われている皇族の女性で、折口信夫は飯豊青皇女が巫女であった可能性を指摘しています。卑弥呼の例があるように、女性の巫女による神聖政治は日本の歴史では必ずしも突拍子もないことではなく、飯豊青皇女に「青」という漢字が使用されていることや、前述した修二会の「青衣の女人」が青い服を着ていたことを考えると、青が超自然的な力を持つ女性を表現する記号として用いられていた可能性もあります。そう思うと、ますます青き衣をまといて金色の野に降り立つナウシカは、実は古代日本の巫女のメタファーなのではないかという気もしてきます。ナウシカはジャンヌダルクばりの戦う聖女であり、原作では最後の方は念力で話ができる超能力者になっていて巨神兵をも操れる、壮絶な存在になっています。なにしろ宮崎駿さんです。それくらいの暗号を入れ込んでも全く不思議ではないです。

聖武天皇の皇后で、光明皇后という人も修二会の過去帳では名前が読み上げられるというのは前述しましたが、光明皇后は夫と息子を亡くした悲嘆に暮れる後半生を送っており、功徳を積むつもりで慈善事業の風呂を開始し、貧しい人の体を洗い、膿のたまった人が来たら口で吸い出し、思いっきり汚い人が来ても拒絶せずにきっちり洗ってあげます。ちなみにどちらもきれいな体になったら実は如来様だったという話になっています。膿を口で吸い出すエピソードは漫画版のナウシカが喉に血が溜まった兵士の血を口で吸い出すことを連想させますし、汚いおっさんを洗ってあげたら如来様だったというのは『千と千尋の神隠し』で汚い客を洗ったら神様だったというのと同じです。

ナウシカのモデルについてはいろいろなことが言われていますが、宮崎駿先生は日本の歴史から想を得たのではなかろうかと個人的に思ってしまいます。

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奈良の歴史と風物に関する優しい文体のエッセイ集です。

西山厚さんという方は、この本の奥付の紹介によりますと奈良国立博物館の学芸部長をされた後、現在は帝塚山大学の教授をなさっていらっしゃる先生です。『語りだす奈良』は西山さんが毎日新聞の奈良県版に奈良の風物詩と歴史に関することを連載したコラムをまとめて加筆修正したものです。

折々の奈良の行事や社会的なできごとと絡めつつ、奈良時代の歴史のお話が書かれています。優しいおだやかな文章で、肩がこらず、読み進めるとなぜかほっとしてきます。

奈良時代の主役といえば、ぱっと思い浮かぶのは大仏様を建立した聖武天皇です。聖武天皇に関わるエピソードもたくさん挿入されています。光明皇后のお話しもいろいろ挿入されています。聖武天皇と光明皇后の間に男の子が生まれましたが、体が弱く一年も経たずに亡くなってしまいます。聖武天皇と光明皇后は仏教への信心を深めていきます。美少年で知られる阿修羅像は光明皇后が亡くなった息子さんのことを偲ぶために作らせたものです。親子の情が語られます。普通の人の人生と重なり合います。

光明皇后はある日、お風呂を設けて汚い人を洗いなさいとの天の声を聴きます。お風呂を設けると汚い男がやってきます。汚いなあと思ったけど天の声に従ってきれいに洗ってあげます。実はその人は如来様で空へ消えていきます。ある日、全身膿だらけの人がきます。嫌だなあと思ったけど口で膿を吸い出してあげます。その人も如来様でどこかへ消えていきます。

なんかの話と似ています。千と千尋にそっくりです。宮崎駿さんのような博学な人が光明皇后の話を知らないわけがありません。おー、千と千尋のオリジナルは光明皇后だったのかと驚きと感動が読み手の内面に生まれます。よくよく考えてみると、ナウシカの原作でもトルメキアの兵士の喉に溜まった血をナウシカが口で吸いだします。突き詰めるとそのモデルは光明皇后だったのかと分かれば感動します。

男にとって女性は偉大です。女性が愛の力を発揮すると崇高なことも偉大なこともできるのだと、その愛にすがることもまた信仰なのかも知れないなぁと私は『語りだす奈良』を読んで思った次第です。

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長屋王の悲劇に思う

 長屋王の広大な邸宅の跡地がJR奈良駅の近くで発見されていますが、現在はイトーヨーカドーがその地に立っているそうです。

 長屋王は天武系の皇族として親王扱いを受け、財力も豊かで政治的な発言力も強く、栄華を極めたとも言われていますが、謀反の疑いありと密告されて自害に追い込まれます。

 当時は謀反の疑いがかけられた時点で死を選ぶことが潔いとされ、謀反の疑いがあると告げる使者が門に入った時点で自害することがより美しいとされていたと言います。

 しかし、本当だろうか?と首をかしげなくもありません。謀反の疑いの密告だけでは、本人の弁明も自白も要らないわけですから、当時は政敵に対して陰謀をかけ放題、権力者はちょっと気に入らない相手がいると謀反の疑い有りの一言でどうにでもできるということになってしまいます。そのようなことが常態化して本当に政治が維持されていくものかどうか、不思議に思えてなりません。

 豊臣秀吉は男の子が早世してしまったために諦めて姉の子どもを後継者に指名しますが、その後に秀頼が生まれたので、謀反の疑いをかけて切腹させ、関係者も皆殺しにしてしまいます。

 そのようなことができたのは、秀吉の姉の子どもである秀次には秀吉に対する抵抗力がなく、秀吉の意思次第でどうにでもされてしまう位置にいたからで、そうでなければそこまで罪をでっち上げてそれを押し通すということもできなかったでしょう。

 そう思うと、長屋王の場合、権力があったにも関わらず、たまたま何らかの空白が生じ、手も足も出せないそのタイミングを図られてしまったのかも知れません。その辺りの詳しいことは永遠にはっきりとはしないものなのでしょう。

 実に恐ろしい世界ではありますが、飛鳥奈良時代の殺し合いの時代が終わり、平安に入ると天皇家と貴族はみんな親戚がっちり相互扶助の安定した人間関係が育まれるようになり、保元の乱まで安定が続きます。保元の乱は非常に複雑で簡単には理解できないのですが、またいずれ稿を改めてと思います。