権力構造の分析は困難であり、単純なものではないのにも関わらず、ロシアによるウクライナへの侵攻の発端となった原因はプーチンのみであると見做し、理解する人間がいるのは何故だ?国際政治学を学んでいないのか?

太平洋戦争が終わってから、GHQは戦争犯罪人の指名作業に入りましたけれども、彼らは日本の複雑な権力構造の理解に注力していきます。たとえば木戸幸一に対する尋問調書が出版されていますけれども、そういうものを読むと、アメリカ側が御前会議にどのような機能があったのか、統帥部にはどの程度の権限があったのか、誰が、どこで、どんな風に権力を使用したのか、或いはしなかったのかというようなことについて、非常に事細かに繰り返し、念押しするようにして木戸幸一に質問していることが分かるわけですけれども、読んでいる側も段々混乱してくるくらいに複雑ですし、人物も入れ替わりますし、慣例・暗黙の了解など、木戸幸一も厳密にどういうものかを説明できないものがいろいろ出て来て、それが日本の意思決定に最終的に大きな影響力を持ち、天皇ですら抗うことができないことがあったということがいろいろと述べられています。取調官が尋問しながら、どうして天皇も政治家も戦争したくないと思っていたのにあれだけの大戦争になったのか訳が分からないと思いながら質問している、その息遣いのようなものも感じられて、非常に興味深いのですけれども、結果、取調官が理解していったことは、真珠湾攻撃・対米開戦はどうも天皇の意思ではないらしいということのようだったのです。木戸は自分が書いていた日記を提出し、その日記の英訳を元に尋問が続けられましたが、木戸日記は東京裁判の起訴状の作成や共同謀議の成立の可否などについて大きな影響を与えたということが、尋問調書を読むととてもよく分かります。

そういうわけですので、おっしゃる通り、プーチンがどういう権力構造の中で意思決定したのか、彼に影響を与えていたのはどんなグループの誰なのか、ウクライナ侵攻を決意させるロシアの内部的要因にはどんなものがあったのか、などのことを分析していく必要はあると思いますけれども、戦後にならないと出てこないんじゃないですかね。



ルパン三世の映画おすすめなのなんですか?

やっぱりマモーの出てくる複製人間のやつだと思います。まず第一に、永遠の生命は可能かという人類永遠普遍の課題をテーマにしています。生に執着するマモーの醜さと悲しさががっつり描かれ、永遠の生命は幸福なのか?との問題意識を見る側に問いかけています。マモーの粗悪コピーが「全ては不死のためだ」と言って死にゆく場面が大変に印象的です。

警視総監が直々に南米まで行きルパンを探し続ける銭形を見つけ出しますが、この時、警視総監は銭形に「辛かっただろうねえ、長く日本を離れて」と言ってねぎらうのですが、当時はまだ戦争に行っていた兵隊さんの記憶が日本社会に強く残っていたため、この「日本を離れて」の一言には非常に重みがあるわけですけど、そういう点で当時の日本人の心情をぐっと掴むことができているというか、銭形がそういう古典的な仕事に真面目な日本人というイメージを背負っているということが非常に良く分かります。銭形は日本軍将兵のメタファーなのですね。ゴジラと同じです。

で、米大統領首席補佐官も出てきますけど、当時の方が今よりも米大統領の重みがあったはずですから、米大統領首席補佐官もなかなか渋くていい味を出しているのですね。その部下のフリンチはアメリカの世界支配の闇の部分を背負っていると言えます。次元がフリンチに対して「それがお宅の民主主義か。長い間ハンフリーボガードとマリリンモンローのファンだったが、今日限りだ」と言い放ちますが、ハリウッド映画を利用したイメージ戦略を世界に展開しつつ、実は力による支配をするアメリカを端的に風刺していると思います。

というように、一本の映画に本当にたくさんのメッセージが込められていて、何度でも繰り返し見るべきルパン作品と思います。



ゴジラと戦後

『ゴジラ』は大変に有名な日本の怪獣映画シリーズですが、実は戦後の日本人の心理を非常に巧みに表現した映画としても知られています。特に1954年に公開された『ゴジラ』の第1作は、戦争が終わってからまだ9年しか経過していない時期でしたので、戦争に対する日本人の心境というものがよく表現されており、映画そのものが第2次世界大戦のメタファーであるとすら言えるかも知れない作品です。

まずは1954年版の『ゴジラ』第1作のあらすじを確認し、それから、この作品のどの部分がどのように日本人の戦後の心理と関係しているかについて考えてみたいと思います。

この映画では、まず、数隻の船が原因不明の事故で沈没するというところから始まります。日本ではこのような事故がなぜ起きたのかを解明しなければならないということで、大きな話題になるのですが、そのようなことをしているうちに、今度は巨大な生物が日本領のとある島に上陸してきます。その巨大生物は島の人々を襲い、建物を破壊するわけなのですが、東京から科学者たちが送られ、科学者たちはその生物の写真を撮ったほか、生物が通った後に大量の放射性物質が残されていることを発見します。このことから、権威ある科学者は、太平洋で核兵器の実験が何度も行われたことにより、海底生物が突然変異を起こしたのだと結論します。そして、その島には古くからゴジラと呼ばれる巨大生物の伝説があったため、目の前の突然変異生物をゴジラと呼ぶことにするのです。

最初は船を襲撃し、その次に島を襲撃したゴジラは、いよいよ東京に上陸します。このことは大変に有名ですから、多くの人が知っていると思いますけれども、銀座の建築物を破壊したり、国会議事堂を破壊したりする場面はとくに有名なのですね。

ゴジラには武力攻撃が加えられ、一旦ゴジラは海へと帰って行きます。ゴジラが再び上陸してくる前に、ゴジラを倒さなくてはなりませんから、ある若い科学者が発明した、生命体を破壊する新兵器を使用し、海底にいたゴジラはそれによって苦しみ出し、海面に浮上して、悲しそうな最期の叫び声を上げて絶命していきます。若い科学者は自分が作った新兵器が悪用されることを恐れており、それを回避するため兵器の資料を燃やして捨てますが、自分の頭脳の中にも作り方が残っていて、自分が作り方を知っているわけですから、自分自身が消滅しなければならないと考え、海の中のゴジラとともに死ぬことを選ぶというものです。ターミネーター2のラストみたいですよね。

ではこの映画のどの部分が戦争とつながっているのでしょうか、まず1つには、ゴジラが核兵器の影響で誕生したということがあります。これは単に、戦後に何度となく行われた核実験への批判が込められているというだけではなく、太平洋戦争末期に、日本の広島と長崎に対して原子爆弾が使用されたことへの激しい批判も込められています。映画の中で、「せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた」という台詞を述べる女性が出てきます。この一言だけでも、観客は、ゴジラの存在そのものが、広島と長崎で使用された原子爆弾のメタファーなのだということに気づかされます。

ゴジラは東京の広いエリアを破壊しますが、避難した人々は燃える東京の街を見つめて涙を流し、若い男性がなんども「ちくしょー!」と言いますが、これは、私はもちろん当時のことを経験していませんけれども、間違いなく、東京大空襲の記憶をよみがえらせる場面であることは議論するまでもありません。1954年ですから、観客の大半は戦争の記憶を抱えており、当時であれば、誰かに解説されるまでもなく、その場面が東京大空襲を思い出したに違いないのです。また、ゴジラが海へと帰って行った後の東京では怪我人があふれ、ゴジラが残した放射線を浴びてしまった子どもが出てくる場面もありますが、これもまた、原子爆弾を思い出させるものであり、当時としては、非常に生々しい場面として受け取られたであろうと思います。

さて、ここまでの段階でゴジラはアメリカ軍、或いは原子爆弾のメタファーであるとの見方ができることは、まず問題なくご理解いただけると思います。ですが、ゴジラが背負っているものは、それだけではありません。ゴジラは太平洋で戦死した日本兵たちのメタファーでもあると、これまでにも多くの批評家が指摘しています。以下にそれについて、できるだけ簡潔にご説明したいと思います。

日本兵のメタファーであるゴジラは、戦後の復興を楽しむ日本人たちに、戦死した自分たちの存在を忘れさせないために東京湾から上陸してきます。この時、ゴジラは復興している銀座を破壊し、政治の中心である永田町の国会議事堂も破壊しますが、決して皇居へと進むことはありません。

ゴジラの最期の姿も、日本兵たちを思い出させるのに充分な演出がなされています。一つはゴジラという黒い巨大な物体が一度は海面に浮上するものの、再び沈んで行くわけですが、その姿は戦艦大和の沈没を思い出させるとの指摘があります。また、ゴジラの最期の叫び声が非常に悲しいものであるわけですけれども、ゴジラは東京を破壊したにもかかわらず、このような声を出して死にゆくわけですが、これは観客がゴジラを憎むことができないような演出なわけですけれども、ゴジラは多くの戦後に生き残った日本人に対して見せる、戦死した日本兵の姿だと理解すれば、観客がゴジラを憎まず、ゴジラの死に苦しみを感じるように意図したものであると考えることもできるということなのです。

この映画の音楽は日本人の多くが聞いたことのある、迫力のあるものなのですが、重低音で、音が次第に大きくなっていくのですけれども、これはゴジラが次第に東京へと近づいてくることへの恐怖を表現していると言えるのですが、同時に、ここまでに述べたような、激しい恨みを抱いた日本兵の足音であるという解釈が可能であり、そう思って聞くと、更に、この音楽の持つ重みのようなものが感じ取れると思います。

この映画作品は全体として、平和を訴えるものであり、映画の最後の場面で、老いた科学者が今後も第2、第3のゴジラが現れてくる可能性を指摘しているのですが、これは、戦争が繰り返されることへの批判であると受け取ることもできます。

今回はゴジラで考察してみましたが、日本の戦後のあまりにも多くの小説や映画は戦争と関係しており、極論すると、敗戦という非常に大きな経験をした日本で制作された作品の大半は、戦争の記憶から完全に自由になれない時代が長く続いたと言うことも可能です。もしまた機会があれば、違う作品でも論じることができればと思います。ありがとうございました。



太平洋戦争の転機はミッドウェー海戦とガダルカナル島にあったんかなぁ?と勝手に思っているんですが他に何かありますでしょうか?

思いつくままに挙げてみたいと思いますね。

1,緒戦でインドに行かなかった。当時のイギリス軍の装備は劣弱であったため、本気で攻略したら十分に可能であったかも知れないが、末期になってやってみたら強力な装備を持つイギリス軍にはばまれ、多大な犠牲を出して撤退せざるを得なかった。初期にインド攻略を成し遂げていたらなら、イギリスの戦意喪失→日英講和→アメリカとも講和はあり得た。

2,シンガポール陥落直後に講和しなかった。日本圧倒的優位な戦況下でなんとかして講和のチャンネルを開いていれば、当時はアメリカも何年も戦争するのとか疲れるとか嫌だなあと考えていたかも知れないので、アメリカに満州国を承認させて太平洋を不可侵条約の対象エリアにして講和はあり得た。その場合はイギリスも乗ってきた。

3,サイパン島陥落。大本営はサイパンに大軍を送り込み、ガチガチに陣地を構築させて、これならアメリカ軍も突破できまいと考えていたらしいのだが、どんなにガチガチな陣地も艦砲射撃で木っ端みじんに。とはいえ、サイパン陥落後はまだフィリピン攻略が残っていたので、東條退陣と引き換えに講和のチャンネルを開き、日本は全ての植民地を諦め、中国から完全撤退するという条件で講和できたかも知れない。その場合、戦後の占領はされずにすんだ。

4,近衛上奏文が出されたタイミング。このタイミングで近衛の言う通り講和に持ち込んでいれば、その後の空襲も原子爆弾もソ連の参戦もなく、日本人の命は100万人くらい助かったかも知れない。問題は、そもそもあの段階で講和が可能だったのかどうか。降伏以外にもはや手はなかったかも知れない。

くらいでしょうかね。



大日本帝国の魚雷は、最高クラスの性能で、大和クラスの戦艦も沈められる性能でした。駆逐艦は、高速で装備も充実していた敵の巡洋艦と渡り合えた実績もありました。なぜ、巨大戦艦ばかり作ったのでしょうか?

当時、世界最強イギリス海軍が世界最大戦艦プリンスオブウェールズを持っていて、それがシンガポールにあったわけですね。日本としては、そういう超おっかないプリンスオブウェールズに勝つにはどうすればいいかということに戦々恐々となってしまうわけです。で、方法論の一つにはゼロ戦で包囲して魚雷を撃ち込んで沈めるというのがあったわけですけど、結果としてそれで勝ったわけですが、本当にそれで勝てるかどうか自信がない。なので、別の方法論としてプリンスオブウェールズに対抗できる戦艦を持つというのも選択肢としてはあった。日本はゼロ戦も大和も準備してどんな風になったとしても勝てるというところまで準備を整えたということだと思います。



机上の空論を見事なまでに体現した事例はありますか?

「机上の空論を見事なまでに体現した事例はありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

東条英機の国防圏の設定は机上の空論に過ぎませんでした。彼はインドネシアのパレンバン油田を獲り、そこと日本との間の航路を守るという構想を立て、航路を守る海域を守る海域くらいまで日本の哨戒ラインを広げ、後はそれを防衛し続ければアメリカを倒すことはできなくとも、不敗の態勢は維持できるとの考えを持っていたそうです。実際には哨戒ラインが広すぎたために防御は手薄になり、アメリカの潜水艦が悠々と奥深く入ってきて次々の日本の船を沈めるという展開になりました。また、アメリカ側はじっくり考えて一番攻めやすいところに集中すれば良かったのですが、日本側はどこを攻められてもいいようにガチガチにする必要があり、広すぎる防衛圏の維持に疲れ果て、各個撃破されてしまいました。



玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?

「玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

その通りです。講和が成立するのはサンフランシスコ条約の締結を待たなくてはいけませんから、調印が1951年で、発効が1952年です。

との回答だけですとちょっと意地悪なので、補足します。昭和天皇の終戦放送が8月15日に行われましたが、この段階でアメリカの占領をどのようにして行うか、どんな手続きが踏まれるべきかについては何も決まっていませんでした。19日になって日本軍の代表者が飛行機でフィリピンに飛び、具体的なことが話し合われました。その後、米軍は続々と日本への上陸を開始し、8月30日にマッカーサーが厚木基地に降り立ちます。そして9月2日にミズーリ号艦上で降伏文書への署名という運びになりました。



臨時軍事費特別会計の功罪を考えてみる

日中戦争から太平洋戦争にかけての時期の戦費の調達について議論されている書籍やドキュメンタリーの類はあまり多くない。読者や視聴者も戦場でのエピソード、または近衛文麿、木戸幸一、東条英機などの人物像や政治的な動きなどに関心が向きやすいし、私もそっちの方から入ったので、分かりやすいとも思うから、やむを得ないのだが、じゃあ、戦費のことはどうなってたのよ?という疑問は常にあった。しかも、戦費に関する説明があったとしても、一側面だけ切り取ったもので、全体像のようなものが分からず、かえって理解に苦しんだこともある。私は過去に1940年代の国家財政に占める軍事費の割合が7割~9割程度にまでのぼったとする記述を見たことがあるが、いろいろなことに疎いため、では限られた税収の大半を軍のために使ったとして、それで他の官僚機構は機能していたのだろうか?地方自治体とかどうなっていたのだろうか?と素朴な疑問を抱き、どこにもこたえが見つからないことに煩悶したりもした。

そういった私の疑問にすぱっと答えてくれたのが、臨時軍事費特別会計に関する知識だった。恥ずかしいことに最近になって、ようやく、そういうのがあったということを知った。臨時軍事費特別会計がなんなのかというと、要するに一般会計とは別に組まれる戦争するときに必要な予算のことを指す。一般会計は年度との関係で毎年3月31日までに国会で成立させる必要があり、歴代の首相はそれを最優先の政治課題として取り組むのだが、戦争はそのような日本の会計年度に合わせて始めたり終わらせたりできるようなものではない。しかも、タイミングを逃すといろいろ困るので、一般会計とは別に必要に応じて予算を組み、事実上執行しつつ議会に事後承認を求めるというやや乱暴なものだ。野党の政治家が予算を人質にして内閣を追い詰めようとするのは今も昔も変わらないのだが、軍事特別会計に関することでそれをやったら統帥権の干犯問題に抵触する恐れがあるし、そのようなことになったら場合によっては暗殺されてしまうため、政治家たちも敢えてそこに手を突っ込むことはなかったらしい。つまり事実上ノーチェックで軍事費は承認されたというわけだ。

では、その財源はどうしたのだろうか?日本帝国政府が戦時公債を発行すると日本銀行がそれを買い取り、それら公債を各金融機関に売る。各金融機関はそれを個人・法人などの客に売り込むという仕組みになっていたらしい。日本銀行が国債を引き受けるのは今も当時も同じというわけだ。各金融機関は日本銀行の公債を買い受けるために涙ぐましい努力をした。たとえば郵便局の場合、国債購入を促す広告を出しまくり、国債を買うことは資産の購入と同じであり、人生設計に役立つし、しかもお国が戦争するのに貢献できるのだから、立派なご奉公ですというようなロジックで一般消費者への説得が行われていた。植民地でも公債の購入は熱心に促されたのだが、皇民化運動の重要な動機付けとして、皇民なんだから戦争に協力しましょうね。戦争に協力するというのはどういうことかというと、お金ですよ。お金。ぶっちゃけ国債を購入することですよ。というようなロジックが働いたと見て、まず間違いがない。

このような戦費調達システムは、末端の国民が全てをはぎ取られるというリスクはあったが、国家というレベルで見れば無限に資金調達が可能であるということを示したものだ。政府は日本銀行が全て買ってくれるので安心して公債を発行することができたし、臨時軍事特別会計のための資金は基本的に公債で賄われた。日本がどのようにして戦費を調達していたのかという私の疑問に対する回答は極めてクリアーなものになった。軍事費がいかに膨大なものになろうと、一般会計が圧迫されることはなく、従って、戦争中に国家の会計の9割が軍事費だったとしても当面は困らなかったのだった。

さて、とはいえ、軍が動けば単なる金融ゲームの話ではなくなる。実際に鉄や銅や石油が消費され、食料が消費され、お金と物資の交換が起きる。これはハイパーインフレの要因になった。終戦直後に新円に切り替えられたのは、巨額の公債発行残高をなんとか処理するために、円を思いっきり低く切り下げることで、借金の額面は同じでも実質的に棒引きにするという知恵が用いられたからだ。

あれ?どっかで聞いたなと思うと、それは今のリフレ派が主張していることと同じである。日本の借金は1000兆円あるかも知れないが、金融政策を用いればどうにでもできるというわけだ。

戦争中、日本銀行の買い取った国債を他の金融機関が買い取り、更に個人に売りつけるという仕組みは、金本位制の名残があったために、本当に日本銀行がお金さえ発行すればすむことなのかどうなのかの見極めが当時の人につかなかったからだ。対米戦争が始まったとき、日本はとっくに金本位制ではなくなっていたが、やはりお金には実質的な裏付けがなければ値打ちがあるとは信じることができないとの関係者たちの想いがあって、とにもかくにも日本銀行の経営を安定させるために末端に売りさばいた。現代では、日本銀行が無限に円を発行できるという前提で、更に国債を金融機関などに売りつける必要はなく、日銀が持っていればそれでOK。というような話にまで認識は煮詰められている。

というようなわけで、お金を無限に生む仕組みによって日本軍の戦費が支えられていたということを今回は述べた。但し、繰り返すが、マネーゲームではなく、実際に戦争に必要な物資と円の交換があったのだから、無限の公債発行は円の暴落をもたらし、国民生活のレベルで言えばハイパーインフレを招く。これは短期的に相当な混乱をもたらすだろう。このハイパーインフレを恐れる人と、まだまだそれを恐れる段階ではないと考える人との間で、今の日本では政策決定の綱引きが行われている。当時はたとえ恐れがあろうとなんであろうと、とりあえず戦争に勝ってから考えようという感じで滅亡まで走り切った。やはりそれは教訓にした方がいいだろう。


太宰治‐私信

1941年12月2日、太平洋戦争の始まる直前に、太宰の書いた叔母さん宛ての手紙が都新聞に掲載された。ここで太宰は自分が必ず文芸で成功すると信じているので、無用な心配はしないでほしいと「叔母さん」に頼んでいる。表面的には、これは太宰の将来への展望を述べた宣言、21世紀風に言えばセルフアファメーションみたいなもの読めるかも知れないが、実際にはやや異なるのではないかと私は朗読しながら気づいた。太宰はこの文章で戦勝祈願をしているのである。

この文章が発表された時期は、日米戦争はいつ勃発してもおかしくない段階に入っていた。日米もし戦わばというたぐいの言論はいくらでもあったが、それよりも踏み込んで、日米はいつ戦争になるのかというようなことも囁かれていた時期でもある。日本の南部仏印進駐以降の英米からの経済封鎖は日本人の心理に大きな不安を抱かせていた。経済封鎖は戦争状態とほぼ同義だ。日米関係は既に相当に切迫していたと言い切って間違いない。当時を生きた人々にとって、対米開戦は決して寝耳に水ではなかった。大川周明は満鉄調査部の出版していた雑誌、『新亜細亜』で、ABCD経済封鎖を恐れる必要はないと明言している。ABCDの、米英蘭中のうち、有効な経済封鎖ができるのはアメリカだけだ。イギリスはドイツとの戦争に忙しく、日本に手を出す余裕はない。オランダは本国がドイツに飲み込まれており、オランダ領インドネシアが日本を脅かすことなど考えられない。中国もそうだ。日本にとって恐るべき敵はアメリカだけだが、アメリカとさえことを構えなければどうということはないと大川周明は楽観的かつかなり正鵠を射た議論をしている。日本はそのアメリカと全面戦争に突入したのだから、大川周明のような戦後にA級戦犯として起訴されるような人物でさえ、忌避すべきと考えた選択をしたのである。このころの歴史のことは、知れば知るほど暗澹たる心境にさせられる。

太宰の手紙に戻る。当時の日本人は、アメリカと戦争をして本当に勝てるのだろうか…。という不安の中を生きていたに違いないが、そこで人気作家の太宰が、私は成功を信じて文芸をやると宣言する文章を発表したのは、実のところは日本人は勝てると信じて戦争すれば勝てるという裏の意味を潜ませている。私ですら気づいたのだから、当時の読者の多くはそのことに気づいただろう。マッカーサーが戦後に読んでも気づかないかも知れないが、私たちには分かる。太宰は、イエスキリストが明日のことを思い悩むなと弟子たちに話したことを引用し、日本帝国も思い悩まず、目の前のことに信じて取り組めと発破をかけた。この文章の真意は戦意高揚だ。東条英機が読んだかどうかは知らないし、既に日本の空母艦隊は択捉島の単冠湾を出港してハワイへ向かっていたわけだから、太宰のこの文章が何らかの影響力を発揮した痕跡を認めることは難しいだろう。だが、当時の日本人の気分をよく代弁した文章だ。さすがは太宰だ。




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江ノ島でロコモコを食べて思う、日本とハワイの近代史

最近、江の島に行きまくっている。天気のいい日は江ノ島でしょう。当然。という思いこみが炸裂してしまい、とにかく晴れると江ノ島である。お天気のいい日はとにかく日光をたくさん浴びて、抑うつの改善に努めるのが、最近の習慣になっている。とにかくたくさん歩くし、おひさまの光もたくさん浴びるのだから、精神的にも肉体的にもいいことづくめである。健全な精神と肉体は、当然のごとく健全な人生を生み出すに違いないのである。児玉神社にも行っているので、神頼みも含んで入念な健全ライフだ。

さて、江ノ島に通い詰めていると、ハワイとかマイアミとかイタリアとか、欧米の海沿いの地域を意識したお店作りをしているところがわりと多いということに気づく。私もハワイに行った時、江ノ島みたいだと思ったので、依頼、ハワイに行かなくても江ノ島で充分に楽しいというのが私の信念になっている。以前、伊豆に行った時も敢えてハワイに行かずとも伊豆で充分と思ったのだが、最近は伊豆まで行かなくても江ノ島で素晴らしいと思うようになり、どんどん近場で満足できるようになっている。小田原があって、箱根があって、大磯があって、江ノ島があって、鎌倉があって、横浜があるのだから、神奈川県はかなり最強である。

話を戻すが、江ノ島周辺にはハワイをイメージしたお店がちらほらある。おいしそうだし、とても楽しそうなので、そのことについて異論はないというか、お店のコンセプトには激しく同意である。先日、小さな子供たちが江ノ島へ向かう道中、ハワイ!ハワイ!と大声でのたまわっていたが、江ノ島とはそういう土地であって、実にありがたい。

で、最近、小田急片瀬江ノ島駅近くでロコモコを食べた。もちろん、おいしくて満足なのだが、ロコモコはハワイ名物で、日本人移民によって楽しまれるようになったと言われている。お米を炊いて、その上にハンバーグと目玉焼きをのせ、デミグラスソースがかかっているのだから、正しく味の和洋折衷であり、洋食に慣れた現代日本人にとっても申し分のないおいしい食事なのである。

このように思うと、ロコモコのような料理も含んで、ハワイへ行く必然性はなく、本当に神奈川県民最高と思ってしまい、神様に感謝したくなる日々だ。

ハワイはアメリカ合衆国に編入される前は独自の王朝が存在し、アメリカの浸潤を受けていたころにはカラカウア王がフリーメイソンに加入するまでして王朝を守ろうとした。カラカウア王は、頭脳明晰・開明的な君主として知られており、相当に広く世界各地を回ったらしい。日本で言えば、徳川慶喜と同じくらい新時代に敏感で、岩倉使節団同様に世界を回り、明治天皇と同じくらい歴史に対するインパクトがあり、一人で何役もこなす超人みたいな王様であったと言える。逆に言えば人材不足が深刻だったのかも知れない。人口が少ないのでやむを得ない。ハワイ人に問題があるのではなく、人口が少なくならざるを得ないという、絶海の孤島の自然条件が関係した事情だと言うべきだろう。で、このカラカウア王は日本を訪問した際、取り巻きを振り切って極秘で明治天皇に会うという離れ業をやり遂げている。正式な会見では語り得ない日本・ハワイ同盟を持ちかけたのだ。日本の天皇家の人物とハワイ王家の人物の婚姻関係を成立させ、日本にはハワイから極東にかけての大連合の盟主になってもらう。そしてハワイ王朝をアメリカからの浸潤から守ってもらうというのが、その骨子で、実現していれば日本は太平洋岸の国防についての心配が格段に減るというメリットがあった。

もちろん明治天皇は断っている。第一に、明治期のアメリカは日本にとっての最大の友好国で、太平洋岸の国防について心配する必要はなかった。第二に、明治天皇には国策決定の権力はなく、とりあえずこういったことは伊藤博文に決めてもらわなくてならないから、仮に明治天皇に決断を迫るとすれば、断られるに決まっている。カラカウア王にとっては気の毒ではあるが、明治日本独特の国内ポリティクスの事情があった。第三としては、仮にハワイ・日本の婚姻同盟みたいなものが成立すれば、ハワイを獲る気まんまんのアメリカと事を構えることになりかねない。もしカラカウア王が伊藤博文に直談判したとしても、伊藤はやはり断っただろう。というわけで実現したらちょっとおもしろいことになっていたかも知れない同盟話は実現しなかった。

大正から昭和にかけての日本の軍人や政治家たちの間で、上述のエピソードがどれくらい知られていたかは分からないが、仮に知っていたら大いに残念がったであろうことは間違いないように思える。第一次世界大戦後のベルサイユ体制で日本は世界の五大国に数えられるようになり、その後の軍縮条約で日本は三大国の一角を占めるようになった。軍縮条約で問題になったのは、日本が対英米に対して保有できる軍艦の量が六割から七割(艦船の種類によって異なる)程度に抑えられてしまい、これでは海上防衛に不安が残ると国内では条約批准が紛糾した。浜口雄幸や犬養毅が襲われたのも、この海軍軍縮問題が原因だし、統帥権干犯というとんでも憲法論があたかも有力な説であるかのように語られるきっかけになったのも、海軍軍縮条約を政治家が決めてくることは統帥権干犯だとする言いがかりだった。ちなみにこのような言いがかりで浜口を論難したのが犬養で、犬養も同じ言いがかりで襲われたことを振り返ると、歴史とはえてしてブーメランになるものである。historiajaponicaも他山の石とし、言葉を大切にしなくてはならない。

日本は保有できる艦隊の量こそ限定的になってしまったが、アメリカは日本に近いところに海軍基地を作れなくなるという交換条件があったので、一番得したのは実は日本だとも言われた。いい話である。しかし、海軍は困った。アメリカを仮想敵国にして軍備増強を目指していたのに、アメリカが基地を増やさないのなら、一体誰を仮想的に訓練すればいいのか分からなくなってしまう。アメリカはもうちょっと脅威でいてくれるくらいの方がちょうどいいのに、なんとなく穏やかなお兄さんになってしまったからだ。

これだけなら呑気な話で済むのだが、そんなことをしている間にカリフォルニアでは排日移民法が成立してしまい、日本人は人種差別だと怒った。ハワイでも日本人移民のデモがあったりして(ドウス昌代の『日本の陰謀』に詳しい)、太平洋では日本人が大勢進出したゆえに差別される場面も増えるという、簡単に説明できない、難しい事態が生まれるようになった。

もし日本・ハワイ同盟が実現していたら、ハワイで日本人が差別されると騒ぎになることはなかっただろう。更に、太平洋戦争が始まる直前のころには、険悪な日米関係を理由に、サンフランシスコを母港にしていたアメリカ太平洋艦隊はハワイの真珠湾に母港を移転した。東南アジアを占領したらアメリカの太平洋艦隊がすぐに出てくると確信した山本五十六が真珠湾攻撃を決心し、宣戦布告の最後通牒はワシントンの日本大使館員たちが油断していたせいで英訳の打ち込みが間に合わず、日本は国際法違反をした悪いやつということになってしまった。日曜日の朝に真珠湾攻撃をしかけ、その最後通牒を30分前にハルに手渡せとする訓令もかなりの無理ゲーのように思えるので、大使館の職員の人たちも気の毒である。

仮に日本・ハワイ同盟が成立していたら、ハワイがアメリカに編入されることもなかったのだから、太平洋艦隊が真珠湾を母港とすることもなかったし、ハワイやフィリピンにアメリカ海軍がいなければ山本五十六が乾坤一擲の後先考えない真珠湾攻撃を思いつくこともなく、日本側の安心は大きいもので、アメリカと戦争しなければ日本は滅びるという妄想にとらわれることもなく、太平洋戦争も起きなかったかも知れない。

歴史にifは禁物というのは嘘である。ifを考えるからこそ、ターニングポイントが分かり、歴史に対する理解は深まる。カラカウア王は今でもハワイで人気のある、尊敬されている人物だと私は勝手に思っているのだが、日本人としてもカラカウア王には敬意を表したい。



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