江ノ島でロコモコを食べて思う、日本とハワイの近代史

最近、江の島に行きまくっている。天気のいい日は江ノ島でしょう。当然。という思いこみが炸裂してしまい、とにかく晴れると江ノ島である。お天気のいい日はとにかく日光をたくさん浴びて、抑うつの改善に努めるのが、最近の習慣になっている。とにかくたくさん歩くし、おひさまの光もたくさん浴びるのだから、精神的にも肉体的にもいいことづくめである。健全な精神と肉体は、当然のごとく健全な人生を生み出すに違いないのである。児玉神社にも行っているので、神頼みも含んで入念な健全ライフだ。

さて、江ノ島に通い詰めていると、ハワイとかマイアミとかイタリアとか、欧米の海沿いの地域を意識したお店作りをしているところがわりと多いということに気づく。私もハワイに行った時、江ノ島みたいだと思ったので、依頼、ハワイに行かなくても江ノ島で充分に楽しいというのが私の信念になっている。以前、伊豆に行った時も敢えてハワイに行かずとも伊豆で充分と思ったのだが、最近は伊豆まで行かなくても江ノ島で素晴らしいと思うようになり、どんどん近場で満足できるようになっている。小田原があって、箱根があって、大磯があって、江ノ島があって、鎌倉があって、横浜があるのだから、神奈川県はかなり最強である。

話を戻すが、江ノ島周辺にはハワイをイメージしたお店がちらほらある。おいしそうだし、とても楽しそうなので、そのことについて異論はないというか、お店のコンセプトには激しく同意である。先日、小さな子供たちが江ノ島へ向かう道中、ハワイ!ハワイ!と大声でのたまわっていたが、江ノ島とはそういう土地であって、実にありがたい。

で、最近、小田急片瀬江ノ島駅近くでロコモコを食べた。もちろん、おいしくて満足なのだが、ロコモコはハワイ名物で、日本人移民によって楽しまれるようになったと言われている。お米を炊いて、その上にハンバーグと目玉焼きをのせ、デミグラスソースがかかっているのだから、正しく味の和洋折衷であり、洋食に慣れた現代日本人にとっても申し分のないおいしい食事なのである。

このように思うと、ロコモコのような料理も含んで、ハワイへ行く必然性はなく、本当に神奈川県民最高と思ってしまい、神様に感謝したくなる日々だ。

ハワイはアメリカ合衆国に編入される前は独自の王朝が存在し、アメリカの浸潤を受けていたころにはカラカウア王がフリーメイソンに加入するまでして王朝を守ろうとした。カラカウア王は、頭脳明晰・開明的な君主として知られており、相当に広く世界各地を回ったらしい。日本で言えば、徳川慶喜と同じくらい新時代に敏感で、岩倉使節団同様に世界を回り、明治天皇と同じくらい歴史に対するインパクトがあり、一人で何役もこなす超人みたいな王様であったと言える。逆に言えば人材不足が深刻だったのかも知れない。人口が少ないのでやむを得ない。ハワイ人に問題があるのではなく、人口が少なくならざるを得ないという、絶海の孤島の自然条件が関係した事情だと言うべきだろう。で、このカラカウア王は日本を訪問した際、取り巻きを振り切って極秘で明治天皇に会うという離れ業をやり遂げている。正式な会見では語り得ない日本・ハワイ同盟を持ちかけたのだ。日本の天皇家の人物とハワイ王家の人物の婚姻関係を成立させ、日本にはハワイから極東にかけての大連合の盟主になってもらう。そしてハワイ王朝をアメリカからの浸潤から守ってもらうというのが、その骨子で、実現していれば日本は太平洋岸の国防についての心配が格段に減るというメリットがあった。

もちろん明治天皇は断っている。第一に、明治期のアメリカは日本にとっての最大の友好国で、太平洋岸の国防について心配する必要はなかった。第二に、明治天皇には国策決定の権力はなく、とりあえずこういったことは伊藤博文に決めてもらわなくてならないから、仮に明治天皇に決断を迫るとすれば、断られるに決まっている。カラカウア王にとっては気の毒ではあるが、明治日本独特の国内ポリティクスの事情があった。第三としては、仮にハワイ・日本の婚姻同盟みたいなものが成立すれば、ハワイを獲る気まんまんのアメリカと事を構えることになりかねない。もしカラカウア王が伊藤博文に直談判したとしても、伊藤はやはり断っただろう。というわけで実現したらちょっとおもしろいことになっていたかも知れない同盟話は実現しなかった。

大正から昭和にかけての日本の軍人や政治家たちの間で、上述のエピソードがどれくらい知られていたかは分からないが、仮に知っていたら大いに残念がったであろうことは間違いないように思える。第一次世界大戦後のベルサイユ体制で日本は世界の五大国に数えられるようになり、その後の軍縮条約で日本は三大国の一角を占めるようになった。軍縮条約で問題になったのは、日本が対英米に対して保有できる軍艦の量が六割から七割(艦船の種類によって異なる)程度に抑えられてしまい、これでは海上防衛に不安が残ると国内では条約批准が紛糾した。浜口雄幸や犬養毅が襲われたのも、この海軍軍縮問題が原因だし、統帥権干犯というとんでも憲法論があたかも有力な説であるかのように語られるきっかけになったのも、海軍軍縮条約を政治家が決めてくることは統帥権干犯だとする言いがかりだった。ちなみにこのような言いがかりで浜口を論難したのが犬養で、犬養も同じ言いがかりで襲われたことを振り返ると、歴史とはえてしてブーメランになるものである。historiajaponicaも他山の石とし、言葉を大切にしなくてはならない。

日本は保有できる艦隊の量こそ限定的になってしまったが、アメリカは日本に近いところに海軍基地を作れなくなるという交換条件があったので、一番得したのは実は日本だとも言われた。いい話である。しかし、海軍は困った。アメリカを仮想敵国にして軍備増強を目指していたのに、アメリカが基地を増やさないのなら、一体誰を仮想的に訓練すればいいのか分からなくなってしまう。アメリカはもうちょっと脅威でいてくれるくらいの方がちょうどいいのに、なんとなく穏やかなお兄さんになってしまったからだ。

これだけなら呑気な話で済むのだが、そんなことをしている間にカリフォルニアでは排日移民法が成立してしまい、日本人は人種差別だと怒った。ハワイでも日本人移民のデモがあったりして(ドウス昌代の『日本の陰謀』に詳しい)、太平洋では日本人が大勢進出したゆえに差別される場面も増えるという、簡単に説明できない、難しい事態が生まれるようになった。

もし日本・ハワイ同盟が実現していたら、ハワイで日本人が差別されると騒ぎになることはなかっただろう。更に、太平洋戦争が始まる直前のころには、険悪な日米関係を理由に、サンフランシスコを母港にしていたアメリカ太平洋艦隊はハワイの真珠湾に母港を移転した。東南アジアを占領したらアメリカの太平洋艦隊がすぐに出てくると確信した山本五十六が真珠湾攻撃を決心し、宣戦布告の最後通牒はワシントンの日本大使館員たちが油断していたせいで英訳の打ち込みが間に合わず、日本は国際法違反をした悪いやつということになってしまった。日曜日の朝に真珠湾攻撃をしかけ、その最後通牒を30分前にハルに手渡せとする訓令もかなりの無理ゲーのように思えるので、大使館の職員の人たちも気の毒である。

仮に日本・ハワイ同盟が成立していたら、ハワイがアメリカに編入されることもなかったのだから、太平洋艦隊が真珠湾を母港とすることもなかったし、ハワイやフィリピンにアメリカ海軍がいなければ山本五十六が乾坤一擲の後先考えない真珠湾攻撃を思いつくこともなく、日本側の安心は大きいもので、アメリカと戦争しなければ日本は滅びるという妄想にとらわれることもなく、太平洋戦争も起きなかったかも知れない。

歴史にifは禁物というのは嘘である。ifを考えるからこそ、ターニングポイントが分かり、歴史に対する理解は深まる。カラカウア王は今でもハワイで人気のある、尊敬されている人物だと私は勝手に思っているのだが、日本人としてもカラカウア王には敬意を表したい。



関連動画 稲村ケ崎から江ノ島を臨む

『この世界の片隅に』の聖地巡礼をしてきた

この世界の片隅に』で泣いた日本人は数知れずで私もその一人だ。原子爆弾という非常に重い問題と、戦争というもう少し一般化可能な、しかし人間同士が命のやり取りをするという普遍的に難しい問題と、すずさんという稀有なキャラクター、顔も美しいが声も美しいのんとすずさんのシンクロ率の高さによって人々は心をわしづかみにされてしまった。

いつか呉に行きたい。すずさんの景色が見たいと思った人は多いはずであり、聖地巡礼で呉を訪れた人、或いは何度も呉に通った人は大勢いるに違いない。私も呉に行きたい、一度でいいから行ってみたいと思っていた。祖父が海軍の人でレイテ沖海戦から生きて帰って呉で終戦を迎えている。情報収集准尉で、原子爆弾関連のこともかなりの程度で知っていたという話だったので、全く縁もゆかりもない土地でもないのである。

先日、広島に一泊二日の出張があって、二日目の午前中だけ自由な時間があったので、朝6時に起きて呉に行き、午後の仕事の前に原爆ドーム、平和記念資料館を見学するという慌ただしい日程を組んだ。広島に行けばお好み焼きもあるし、野球が好きな人にとっては広島カープも魅力なのかも知れないし、私としては浅野40万石の広島城も訪れたいとも思ったが、限られた時間で広島という土地に敬意を払いつつ、聖地巡礼という本意を果たすには、こうするしかなかった。

まず呉まで行ったが意外と遠い。広島駅から一時間くらいかかってしまった。呉駅で降りたものの、土地勘もないし迷って歩いている時間もないので、駅の様子だけ急いで撮影して広島へ帰還することにした。

呉駅の外観
呉駅の外観

とんぼ返りではあったものの、やはり現地に行くというのは有形無形に学べることがある。実際に呉へいく電車の窓から瀬戸内海を見ていて気付いたのだが、延々と対岸が見える。いくら瀬戸内海が狭いとはいえ、対岸が近すぎないか?あそこはもう四国なのか?という疑問が湧き、そんなわけがないのでiphone11で地図と格闘して分かったことは呉の対岸にはけっこう大きな江田島があるということだった。江田島といえば海軍兵学校のあった場所で、江田島関連の本も出ている。映画とかも探せばあるかも知れない。私は江田島の名前は知っていて、海軍の学校があったことも知っていたが、みたことがないので江田島は江ノ島みたいな感じのところなのだろうと勝手な想像をしていたが、違う。江田島は呉港を包み込むように浮かんでいて、たとえば敵が海から来ても直接呉に攻め込むことを困難にしている。天然の要害なのである。制空権をとられてしまえば、あんまり関係はないけれど。とはいえ、このようなことは行ってみてやっと気づくことの一つではないだろうか。

江田島と思しき対岸

『この世界の片隅に』の終盤で呉の街に明かりがつく場面があって、その時の呉の街は対岸にいる若い海軍の兵らしき男たち越しに見えるような構図になっているのだが、あの場面は江田島兵学校から見える終戦後の呉ということだったのだ。聖地巡礼によって得られることは大きい。呉駅には『この世界の片隅に』のポスターも貼られていて、これは呉駅の面目躍如であって、素晴らしきファンサービスである。ブログに掲載したくて撮影したが、著作権とかいろいろあるので、ポスター以外のものも入るようにして、私のオリジナル作品には見えない、一目で駅に貼られたポスターだと分かるように撮影した。知的財産権の侵害との指摘を受ければ削除しなければいけないが、今回の記事は作品への敬意を込めているので、理解を得られれば幸いだ。

呉駅のこの世界の片隅にのポスター
呉駅に貼られた『この世界の片隅に』のポスター

急いで広島駅までもどり、路面電車で原爆ドームへ向かったが、電車が故障で止まってしまい、徒歩で到着することを目指したものの、ちょっと距離を感じたのでやむを得ずタクシーに乗車した。原爆ドームを見て戦慄し、平和記念資料館では涙なしには展示内容を見続けることができなかった。展示がリニューアルしたとは聞いていたが、犠牲者の個々人の方々の生活やお顔の写真、プロフィールなどがたくさん分かるようになっており、現実に生きていた市井の人が原子爆弾によって焼かれたのだということをより理解しやすくなっているように思えた。うんと以前に訪れた時、壊れた時計や熱で溶けた瓶などは確かにショッキングではあったけれど、どこの誰がどんな風に亡くなったのかというような情報が少なく、ただ、ショッキングなだけで、考えたり感じたりすることがあまりうまくできる内容ではなかったような気がした。ワシントンDCのホロコースト記念館を訪問した際、数多の個々人がどこでどんな風に亡くなったのかを戦後の調査で明らかにし、記念館訪問者にも分かるようにしていた展示は現実感があって、自分にそれが起きないとう保障はないという心境になり、真剣に考える契機になった。そして広島や長崎の平和祈念館もこのように個々人のことが分かるようにした方がいいのではないだろうかと思っていたのだが、展示内容はそのようにリニューアルされていたので、私は納得もした一方で、その問題の深刻さを突き付けられたような気がしてショックは大きかった。とはいえ、平和祈念館を訪問してショックを受けない方が問題があるので、私がショックを受けたのは正常なことだ。
原爆ドーム
原爆ドームを北側から見た光景。限られた時間内で急いで撮影した。『この世界の片隅に』のすずさんは反対の方角からスケッチしていたはず。

犠牲者の生前の写真や遺品などとともに、訪問者にショックを与えるのは経験者によって描かれた数多の絵である。原子爆弾の使用直後の写真は少ない。写真を撮っている場合ではなかっただろうし、撮影に必要な機材も吹っ飛んでしまっていて写真が残されているなどということはあまり期待できない。少ない写真によって当時の状況を知ろうとするドキュメンタリーなら見たことがあるが、限界があった。デジタル的な観点からの写真論になっており、肝心の悲しみや悲惨さからは結果的に溝のできる内容になってしまっているように思えてしまったのだ。原民喜の『夏の花』はショッキングだが、読者の想像力に大きく委ねられなければならないものだった。絵はそれらの諸問題を克服する表現手法だ。個別の絵に関することをここで書くのは避ける。とても私が分かったような気持ちで評論できるようなことではない。そうするには重すぎる。

このような絵がたくさん集まったのはNHKが広島の人々に呼び掛けたからなのだそうだ。経験者が生きているうちに、絵という手法で記憶を後世に残そうと考えた人がNHKにいたのだ。NHKには批判も多いが、このようなことはNHKでなければできないだろう。この点は大きく評価されなければならないと私には思える。

伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。



目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック

目取真俊氏の『神うなぎ』という小説が三田文学に掲載されているのを読んだ。沖縄戦を主題にし、戦火の中、沖縄住民の生活を守ろうとした人物と日本軍との相克が描かれている。沖縄出身の主人公の父親は沖縄戦の最中、アメリカ軍の投降の呼びかけに対して、仲間の住民たちを説得して集団で投降する。主人公の父親はハワイに働きに行っていたことがあるため、アメリカの国柄をそれなりに知っており、本土から沖縄へやってきた日本軍将校からは「アメリカ軍に捕まると男は殺され女は犯される」と教えられてはいたものの、アメリカ軍はそのようなことはしないと判断し、投降することに決めたのである。

アメリカ軍に投降した後、住民は一時的にこれからどうなるのだろうと不安を感じるが、意外なことに「家に帰れ」と言われるので、あっけにとられた風に人々は帰宅し以前と同じ生活を営もうとする。しかし、昼間はアメリカ軍がいるので普通に暮らせるのだが、夜になると日本軍がやってくる。戦局的に不利な日本軍将兵は森の中に隠れており、夜になると食料を求めて住民の家屋へやってくるのだ。沖縄県民を守るために派遣されてきたはずの日本軍が、逆に沖縄県民に食料を事実上略奪するという矛盾とアイロニーが描かれている。

主人公の父親は住民の生活を守るためにアメリカ軍に協力し、アメリカ軍に対する住民側の窓口のような役割を果たすのだが、日本軍将校の目からは利敵行為に映り、ある時、日本軍に捉えられて殺害されてしまう。主人公はその後成長し、季節労働者として東京に働きに行くのだが、たまたま行った居酒屋で父を殺害したと思しき元日本軍将校を見かける。剣術の腕前があり、剣道を教えているというその老人は元日本軍将校らしく精悍な雰囲気を持ち、客や店の人とのやりとりの様子から信頼されていることも窺い知ることができる。主人公は父の死についてその老人に問い質したいと考え、「今さら…」とも思うのだが、やはり抑えきれずある夜、老人の帰宅の時を狙い、声をかける。驚いたことに老人は自分が殺害した主人公の父親のことを明確に記憶しており「君のお父さんは敵のスパイだったんだよ」と言い切る。スパイを野放しにすることは部下の生死にかかわる、従ってスパイを殺したことは適切な判断であったと的確なロジックで主人公を圧倒する。

もちろん主人公にもロジックはある。まず第一に自分の父親が殺害されているのである。問い質す権利があるのは当然だ。それに日本軍が沖縄県民を守ることができなかったから、住民はアメリカ軍に投降したのである。スパイの処断など、戦争に敗けた軍人の言い訳に過ぎない。沖縄県民は多いに苦しんだし、その主たる理由は日本軍が無力であった上に沖縄県民を道連れにしようとしたからだ。私は沖縄の人からいろいろと話を聞くことに努力をした時期があったが、沖縄県の人の心情は沖縄戦に対して深い複雑な感情を持っていることはよく分かった。また、この作品で示されるロジックも明快だ。日本軍が住民を守れないのであれば、住民は自らを守るためにアメリカ軍に投降する以外の選択肢はあり得ない。軍が国民を守るためにあるとすれば、その職責を全うできない軍人はそれを恥じなければならない。

私が感じたのは主人公の父親を殺害した元日本軍将校のロジックと、日本軍将校に父が殺害された主人公のロジックがどちらも完璧だということにこの問題の複雑さが潜んでいるということであり、目取真俊氏はそこを読者に問いかけたのではないかということだった。主人公の父がアメリカ軍に協力する姿は日本軍から見ればまごうことなき利敵行為であり、それは戦時下であれば死に値するとして矛盾はない。将校が部下に対して責任を負うことは正しいことで、部下の命を守るために利敵行為を行うスパイを殺すことは、ロジックとして一貫している。一方で、住民を守るためにアメリカ軍に協力することは、これもまた全く正しい行為だと言える。日本軍が守れないのなら、そうするしかないではないか。住民の命と生活を守るためにはそうするしかないではないか。一貫していて矛盾がない。

太平洋戦争についての議論を考えるとき、我々が袋小路に入り込んでしまうのは、それぞれがそれぞれの立場で一貫して完成したロジックを持っているからではないかと私には思えるときがある。しかも戦後70年以上を経て、それぞれのロジックには磨きがかけられ隙のないものに進化している。互いに相手の立論を崩そうとあの手この手を繰り出すが、双方の立論があまりに立派にできあがってしまっているために互いに崩し切れず、議論は平行線を辿るのだ。

立論がいかに立派なものであろうと、戦争は人が死ぬ。悲劇がある。戦禍で犠牲になった人にとってロジックは関係ない。どれほど素晴らしい立論を示されても、現実に苦しんだ人にとってそれは関係がない。戦争は言うまでもないがしない方がいいに決まっている。

さて、太平洋戦争を直接経験した人は少ない。ましてや戦争中に将校なり政治家なり当事者の立場だった人はほとんど生きていない。この『神うなぎ』という小説でも、戦争が終わってから40年後ぐらいに老人と主人公が対決するような設定になっている。もう少し前までは戦争は現代人の物語だったが、今はもうそういうわけにもいかないくらい戦争は遠い記憶になろうとしている。ただ、目取真俊氏がそれでも今、この時代に『神うなぎ』を書いたのには、沖縄にとって戦争は風化させるわけにはいかない現代人の問題だということを問いかけたかったのではないだろうか。


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BC級戦犯裁判‐岡田資中将のケース

戦後、東京裁判でA級戦犯が裁かれましたが、ほぼ同時進行、場合によっては少し遅れてBC級戦犯裁判もアジア太平洋各地で行われました。果たして戦勝国により敗戦国を裁く裁判が公平公正なものになり得るかという議論はもちろんありますが、大変に興味深いケースとして終戦時東海軍司令だった岡田資中将の裁判があります。

終戦前の半年間はアメリカ軍による絨毯爆撃、無差別爆撃が日本各地に対して行われたわけですが、民間人や民間施設に意図的な攻撃を加えることは戦争犯罪だという認識に立ち、岡田中将は撃墜されてパラシュート降下した米兵を捕虜としてではなく戦争犯罪人として裁き、死刑の宣告をして執行させたということが問題になりました。

但し、死刑の宣告を下す手続きが不公正なものであったということが問題にされました。岡田中将は1945年7月に軍律会議の略式手続きで死刑の決定をしたわけですが、死刑という重い刑に対し弁護士もつかない軍率会議をしかも略式手続きで進めてしまったということで、適正手続きを経ていないということが問題視されたわけです。

軍律会議は軍法会議とはまた違うもので、戦時下の慌ただしい中、軍司令官が行政権と司法権も掌握して軍律を定め、軍律違反者には軍司令官が判決を下すことができるという三権分立もなにもあったものではないという仕組みであり、弁護士もつきませんから、検察側はその問題を指摘し、というかその問題に絞って被告を攻撃するという方針で臨みます。

一方、ここが大変に興味深いことですが、被告と弁護人は①責任は軍司令官一人にあって、部下には一切責任がないという立場を貫き、②激しい爆撃下で略式手続きをするのが精いっぱいだった、当時としては最善を尽くしたということを主張し、③激しい爆撃下というのがどれくらい激しかったかということを立証するために、当時のアメリカ軍の爆撃が無差別爆撃で戦争犯罪に値するということを立証するという構えをとりました。

岡田中将はその裁判の時に部下に責任を押し付けることなく、自分一人が全てを引き受けるという姿勢で臨んだことから、人格的に日米関係者双方から高く評価され敬意を集めたと言われています。また、岡田中将のみが死刑判決を受け、実際の執行にかかわった部下たちが死刑判決を受けなかったことは、実質的に被告・弁護側勝利とも言える判決だったと言え、知る人ぞ知る、希少なケースであったと言えると思います。

このような実質勝利を勝ち取ることができたのは、被告・弁護側の戦略が非常にうまくヒットを当てたということがあると思います。第一に、岡田中将が自分から「全て私の責任だ」と正面から主張したことは、裁判委員(米軍の法務関係者で、事実上の判事)に対する印象を良くしたようですし、検察もその態度には好感を持ったと言われています。担当検事は判決後に減刑嘆願の文書に署名までしたそうですから、岡田中将個人に対する感情は良かったのでしょう。次に、軍律会議の略式手続きが公正だったかどうかを争点にしようとしなかったこともいい戦略だったように思います。ここは私の考えになりますが、弁護士のつかない軍律会議の略式手続きで死刑判決を下し、しかも実行するというのははっきり言ってかなり乱暴のように思えます。被告・弁護人サイドは激しい戦時下であったので、最善を尽くしたと述べつつ落ち度はあったことも認めます。その上で、戦時国際法違反になる無差別爆撃が如何に酷かったかということを証拠や証人を集めて立証し「適正手続きをとっていたとしても、極刑になっただろう」と検察や裁判委員に思わせることに成功したことです。結果としては、岡田中将の落ち度は法の適正手続きの観点から見てあまりに簡単に進め過ぎたことだけが問題で、量刑として非道なものではないという印象を与えることになりました。

それでも岡田中将に死刑判決が下りたのは、無抵抗のアメリカ兵が殺されたこと自体は事実であるため、米国世論を納得させるためだったと見ることもできますが、関係した他の被告たちが寛大な処分が下された背景には既に冷戦が始まろうとしていた時代背景も関係があったようです。終戦直後は悪の枢軸を担った日本帝国の悪い奴らに慈悲は不要という心理状態があったに違いないのですが、アメリカの立場としては新しい脅威としてソビエト連邦が浮かび上がり、その脅威が日を追って濃くなっていく中、日本の再武装を望むようになり始めており、再武装に必要な軍経験者を次々と処罰している場合ではないという変化が起きてきました。死刑判決はなるべく少なくし、死刑を宣告した後も終身刑に減刑し、将来的な釈放にも含みを残すというように方針が変化したため、BC級裁判は結審が遅いものほど寛大な判決が下るようになったようです。ここは私の想像になりますが、A級戦犯の裁判が終わり、刑が執行された後は、アメリカ世論もある程度鎮静化してさほど厳罰を望まなくなったということも大きいかも知れません。

岡田資中将の場合は減刑されることなく、刑が執行されてしまいましたが、中将本人は相当覚悟が決まっていたらしく、裁判中から日蓮宗を基礎にした仏教研究に力を入れ、自身で理論化を進めて行ったそうです。死を受け入れるために、自分なりの死生観を作り上げる必要がきっとあったのだと思います。彼の仏教理論と、スガモプリズンで教誨師をつとめた花山信勝氏の理論とは対立もあったそうですが、東京大学の教授の花山氏と対立できるだけの理論武装をしたというのはそれだけでも凄いように思います。スガモプリズンの死刑囚で間では花山氏の指導よりも岡田中将から指導を受けたいという声も少なからずあったようです。花山氏の教えが仏様にすがって極楽浄土へ行けるのだという他力本願的で慰め要素が強かったのに対し、自分がより仏陀の精神に近づけるよう精進し、刑に向き合い受け入れるという岡田中将の姿勢の方が現実に執行に直面する囚人たちの心を掴んだのかも知れません。

『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。



迫水久常著『大日本帝国最後の四か月』で知る「終戦」の手続き

1945年4月、鈴木貫太郎内閣が誕生してから終戦までの期間については様々な著作や研究がありますから、終戦が決まるまで、相当なすったもんだがあったことはよく知られていると思います。いよいよ決着がつかなくなって「聖断」なる、ある種の非常手段によってポツダム宣言を受諾するという意思決定がようやくなされたわけですが、鈴木内閣で内閣書記官長という半分官房長官みたいな立場に居た迫水久常という人物の手記を読むと、そこに至るまでの制度的な手続きが大きな壁になっていたことが分かります。

まず第一に旧憲法では天皇に和戦の大権があることになっています。しかし、明治時代は元老という憲法に規定のない最高権力者たちによる寡頭政治で意思決定がされていて、首相も元老が指名し、戦争するかしないかみたいな大事は元老が決めて軍隊が動き、首相は軍のお手伝いというようなものでした。その後、大正デモクラシーを経て最後の元老の西園寺公望が「憲政の常道」を掲げ、元老の影響力を少なくし、民主政治で選ばれた政治家が首相になるということを慣例化させようとしますが、軍人以外の政治家が首相になると殺されるというのが続いたために途中から断念して軍人首相時代に入り、やがて行き詰まりを見せて、近衛文麿というお公家様内閣が事実上日本帝国にピリオドを打つという流れになります。近衛在任中に西園寺公望が亡くなり、元老の首相指名という慣例も消滅しましたが、議会による首相指名ができませんでしたから、元老に代わって重臣会議が開かれるようになり、そこで首相指名が行われるということになります。何が言いたいかというと、太平洋戦争を終わらせる場合、重臣たちが「うん、やめたほうがいいよね」と言わなければ首相から「戦争やめましょう」とは言えないということです。

しかも、迫水氏の著作に拠りますが、ポツダム宣言の受諾は外交条約を結ぶのと同じになるから、枢密院の了解を得る必要があり、当時の平沼騏一郎枢密院議長を昭和天皇の聖断の場に立ち会わせることで、手続きを簡略化しようとします。

更にメインディッシュになるのが陸海軍で、有名な話ですが当時の阿南陸相が辞表を出せば内閣不一致で総辞職。改めて重臣会議で首相を指名して閣議を開き、枢密院の了解も経なければならないということになるので、ぎりぎりまで主戦論を唱えていた阿南陸相の辞表カードには周囲が相当びびっていたという話もあるようです。さりながら、阿南陸相は8月15日の未明に自決していますので、関係者からの評価は高く、迫水氏も阿南陸相が主戦派の陸軍首脳をなだめつつ心中では終戦に持ち込みたいというアクロバティックなことをやろうとしていたとして、その「腹芸」に感服したという趣旨のことを著作で述べています。

要するにポツダム宣言を受諾は首相、軍、枢密院、重臣が全員一致しなければ実現しないようになっていて、それぞれが「制度的手続き」を盾に取り主張をぶつけ合い議論が前に進まないという事態に陥ってしまいます。そうこうしているうちに原子爆弾も使用され、ソビエト連邦も攻めてくるという絶体絶命な状況が訪れます。にもかかわらず議論がまとまらず昭和天皇に決めてもらうという異例の手続きを踏むことになりました。ここで難しいなあと思うのは通常、天皇は自分から意見を表明しないことになっているにも関わらず、本気になって意見表明しようと思えばできないわけでもなく、天皇の意見が通るか通らないかはその時々の政治状況によって異なり、終戦の場合はたまたま天皇の意見が通ったという制度上の曖昧さです。昭和天皇の責任があると言おうと思えばいくらでも立論できますし、反対に昭和天皇には責任はないと言おうと思えばこれもまたいくらでも立論できるのです。法学論争が神学論争とは言い得て妙なりです。

昭和天皇は戦後、憲政上の問題として鈴木内閣が処理しなければならない案件であったけれど、内閣で意見が一致せず、自分に意思決定を依頼してきたので、それを受けたという見解を示しています。これだけでも現代人にとっては何を言っているのか分からない…と思えるような内容ですが、更に軍と枢密院というファクターが入ってくるわけで、高級官僚だった迫水氏が手続きに振り回されていたことに気の毒とすら思えてきます。

太平洋戦争末期、日本の主要都市は大体燃やされてしまい、それでも憲法を維持した国家が機能していたことには驚きも覚えますが、この期に及んで徹底抗戦か降伏かで議論が割れたということには正直あきれてしまいます。しかも制度的手続きを盾に取るという場合はどうしても「ためにする議論」がまかり通りやすくなり、政争やってる場合かよと突っ込みたくもなるのです。ポツダム宣言の受諾通告に際しても、当初「天皇の国法上の地位を変更しない」という前提で受諾すると通告する案があったのですが、迫水氏の回想では平沼枢密院議長が「天皇の大権を維持する」と文言を変更するように主張し(昭和天皇の回想では天皇が法源であることを前提とすると話が出たとなっていたと思います)、天皇の「大権」なり、天皇が「法源」なりという外国人には分かりにくい概念をねじ込んだというのも理解に苦しむところです。一刻も早く戦争を終わらせなくてはいけない時に神学論争してる場合かよとついつい思ってしまいます。平沼氏が検察出身で法律の専門家らしいところを見せたかったのかも知れません。

というわけで、日本帝国はその最期に於いて法の手続き論争をしていたというお話でした。



昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史58‐創氏改名

日中戦争期の資料を読み続け、とうとう創氏改名のところまでたどり着くことができました。私の手元にある資料の昭和15年2月11日付の資料では、皇紀2600年行事についてや、皇紀2600年記念ポスター展覧会のことなど、華々しく「どうだ。皇紀2600年だぞ」という文字が躍っていますが、同時にちょっと厳かな感じで『本島人の内地式姓名変更に就いて』という記事が掲載されています。ここで言う本島人とは台湾人のことです。当該記事によると、姓名変更は明治38年から定められていたものの、昭和15年に至ってようやく実施するに至ったとのことです。

ですが、誰でも創氏改名できるというわけではなく、一定の条件がクリアされていなければならないとされています。それは1、国語常用の家庭(日本語を日常的に使用している家庭)2、日本精神を充分に有し、熱意ある人物という条件設定がされています。なんとなく不明確な、アバウトな基準であることのようにも思えますが、台湾人の人から創氏改名は地元の名士に限られていたという話を聴いたことがありますので、ある程度、エリートでなければなかったのかも知れません。昭和15年初期の段階で日本語教育の台湾での普及率は50%程度だったらしく、それまで台湾総督府が必ずしも熱心に日本語教育を進めていたようにも見受けられません。蒋介石との戦争が始まって、慌てて植民地の人々の日本人化(皇民化)に取り掛かったといったところではないかと言う気がします。日本語を常用している家庭というのは即ち学校教育を受けられる生活環境に居た人たちと言い換えることもできるでしょうから、やはり地元の名士、或いはエリートに限られざるを得ないのかも知れません。条件2の日本精神を充分に有しているかどうかは審査する側の主観に委ねられると思えますが、ここは想像になるものの、行政サイドである程度候補を絞り、「日本精神を充分に有している」ということにして審査を通したといったところではないかと思います。

さて、創氏改名は今に至るまで悪名高い制度で、一般的なイメージとしては日本帝国が強引に嫌がる植民地の人々を日本人化させたという文脈で語られることが多いように思えますが、そのイメージは半分正しく、半分間違っていると言うのが本当のところではないかと思います。上に述べたように、名士、エリートだけが創氏改名できるとすれば、日本式の姓名を名乗ることが「許可」されることは、自分が名士・エリートであるということの証明であり、当時は日本帝国滅亡とか誰も考えていませんから今後のことを考えれば日本風の姓名が使えることはいろいろ有利という意識もあったのではないかと思えます。一方で、行政の側から「あなた、創氏改名しませんか?」と、いわばスカウトされて、もし断ると有形無形の嫌がらせがあったという話も聴いたことがありますから、お上の意向には逆らえないという感じの圧力や目に見えない強制性はあったと言うこともできなくはないと思えます。

そうは言ってもここに来ての創氏改名は、それまで軍夫の志願者を募集したり、徴用令で労働させたりと言った次元を超えて、正真正銘の日本人だという自意識をもたせることは徴兵にも応じさせようという布石にようにも思えます。実際に全面的徴兵が行われるのは昭和20年に入ってからのことで、既にフィリピンも陥落しており、そもそも兵隊をどこかへ送る船を出したら即撃沈されるという滅亡必至の状況下で行われましたから、海外侵略のための徴兵ではなくて良く言えば台湾防衛のため、悪く言えば台湾を焦土にして本土決戦までの時間稼ぎのためと理解することができると思います。太平洋戦争で台湾が焦土になることはありませんでしたが、その理由が蒋介石の意向に拠るものなのかどうか私は知りません。アメリカ軍はそもそもフィリピンも素通りしてもいいのではないかと考えていたくらいですから、疲れるだけの台湾上陸には関心がなかったのかも知れません。それに対して沖縄については米軍は本気で攻略にかかっていましたから、明暗を分けたとも思え、運命という言葉が頭をよぎります。沖縄で戦争に関する資料をいろいろ読んだことがありますが、それは壮絶なものでブログのような場所で簡単に語れるものとも思えませんが、沖縄には「特別の高配」あってしかるべしと個人的には思います。

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昭和史56‐ドイツ必敗予言‐次期大戦の経済的研究

とある情報機関の機関紙の昭和14年12月11日付の号で、ポール・アインチヒという人物の『次期対戦の経済学的研究』について言及されている記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。ポール・アインチヒという人物について検索してみたところ、彼はルーマニア出身で後にフィナンシャルタイムスの記者になり、英国に帰化した人物のようです。で、当該の記事に曰く

先づ「英国は戦闘には敗けるかも知れないが、戦争にはきっと勝つであらう」と云ひ又、「ナチス・ドイツの恐るべき戦闘力に、たとひファシスト・イタリーの援助があったにしても、民主主義国が必ず勝つといふことは、戦争の結果が大いに経済的理由によって左右されるものである限り、疑ひに一点の余地もない」と断じまして最後に左の如く結んでおります。
「若しも第二次世界大戦が始まるならば、それは必ずや長期戦になるであらうが、長期戦に於ては経済的理由が勝ち負けを決する極めて重要な要素であるから、英吉利のやうな金準備が豊かであり、之によって豊富な食料品や原料品を得られる国は、独逸のやうな金が少く又、食料品や原料品の乏しい国に対し、必ず最後の勝利を得る事が出来る事は、前大戦の時と同じである」と言うて居るのであります。

と紹介しています。後の歴史の展開を知っている我々から見れば、ポール・アインチヒのドイツ必敗の予言はその理由も含めて完璧に的中したということが分かりますが、当該記事の筆者は、「必ずしもそうとは思はない」としながらも、「近代戦」が経済戦であることは認めています。次いでアドルフ・ヒトラーの著作である『我が闘争』の内容を紹介し、ヒトラーがドイツが第一次世界大戦で敗けたのは、銃後の国民が節約に徹しなかったからだと述べているとして、日本も蒋介石との長期戦に勝つためには、国民が隠忍自重し、我慢を重ねて贅沢をせず、節約して経済戦に勝たなくてはならないとしています。当時の段階は、英米の蒋介石政権への肩入れは明らかで、何せ世界の大国であるアメリカとイギリスが蒋介石に存分に援助を与えているわけですから、経済戦の面でも昭和14年の段階で、緒戦で連勝しながらも実は日本の側が窮していたわけで、当該記事の著者もその事情ははっきりしすぎるくらいによく分かっていたようで、筆致からは焦燥感のようなものを感じ取ることができます。当時の日本はすでに経済戦でも敗けていて、国際世論は日本に味方せず、東南アジア華僑も蒋介石支持でしたから情報戦でも敗けていたと言わざるを得ないように思えます。また「大東亜共栄圏」という理念も、要するに植民地をたくさん持っているイギリスは何かと有利なので、日本もそうしたい、或いはそうしないと世界に追いついていけないという焦燥感と表裏一体、不離不足だったということ、イギリスみたいになるためには、遅れてきた日本のような帝国も経済ブロックを持たなくてはいけないという、切実さのようなものも感じ取れます。

結果としては日本帝国は植民地の維持だけでも大変で、更に満州国や汪兆銘政権への援助で手いっぱいになり、太平洋戦争が始まると占領地が広すぎてどうしていいか分からないというところまで追い込まれていきますから、石橋湛山の言うところの「小日本主義」が正しかったと言えますし、戦後の日本が繁栄したのも、小日本主義に徹したからと言えるようにも思います。いよいよ昭和15年、アメリカとの開戦前夜の息詰まる危機感と焦燥感のある記事がどんどん出てくるはずですから、日本人の私としては歴史に関心があるという意味では、多少わくわくもしますが、同時に日本帝国の滅亡へのまっしぐらを辿るわけですので、何ともやりきれない心境にもなってしまいます。


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