太宰治‐青森

太宰治は弘前中学へ進学したことをきっかけに、親戚の家に寄宿する。寄宿先は豊田家というその土地の名士で、遠い親戚だったらしい。太宰はその豊田家の家長を「お父さ」と呼び慕っていたことの思い出が、この『青森』という短いエッセイで述べられている。言葉をあまり選んでいるという印象は受けず、素直に心に浮かんできた言葉をそのまま書きつけているように感じられる。それだけ素直な愛情関係がったのだろう。棟方志功の初期の仕事に触れられている部分があるが、太宰は彼の仕事を非常に高く評価していることが分かるのと同時に、棟方が出世した後の雰囲気についてはやや違和感を感じているらしいことが分かる。そのようなちょっとした心の機微のことについては、もし目で追って読んでいるだけなら読み飛ばしてしまいそうなものなのだが、朗読していると一字一字をきちんと読もうと努力するので、より文章への理解が深まり、些細な機微にも近づけるように思える。既に20本以上朗読音源を上げているが、だんだん朗読もうまくなってきたし、エッセイに込められた些細な筆のトーンの違いから、より敏感に書き手の心の動きを察せられるようになってきたと思う。まだしばらくは【朗読】という新しい試み、個人的にはふと思い立って気づいたフロンティアを前進していきたい。




関連朗読音源

太宰治‐私信

1941年12月2日、太平洋戦争の始まる直前に、太宰の書いた叔母さん宛ての手紙が都新聞に掲載された。ここで太宰は自分が必ず文芸で成功すると信じているので、無用な心配はしないでほしいと「叔母さん」に頼んでいる。表面的には、これは太宰の将来への展望を述べた宣言、21世紀風に言えばセルフアファメーションみたいなもの読めるかも知れないが、実際にはやや異なるのではないかと私は朗読しながら気づいた。太宰はこの文章で戦勝祈願をしているのである。

この文章が発表された時期は、日米戦争はいつ勃発してもおかしくない段階に入っていた。日米もし戦わばというたぐいの言論はいくらでもあったが、それよりも踏み込んで、日米はいつ戦争になるのかというようなことも囁かれていた時期でもある。日本の南部仏印進駐以降の英米からの経済封鎖は日本人の心理に大きな不安を抱かせていた。経済封鎖は戦争状態とほぼ同義だ。日米関係は既に相当に切迫していたと言い切って間違いない。当時を生きた人々にとって、対米開戦は決して寝耳に水ではなかった。大川周明は満鉄調査部の出版していた雑誌、『新亜細亜』で、ABCD経済封鎖を恐れる必要はないと明言している。ABCDの、米英蘭中のうち、有効な経済封鎖ができるのはアメリカだけだ。イギリスはドイツとの戦争に忙しく、日本に手を出す余裕はない。オランダは本国がドイツに飲み込まれており、オランダ領インドネシアが日本を脅かすことなど考えられない。中国もそうだ。日本にとって恐るべき敵はアメリカだけだが、アメリカとさえことを構えなければどうということはないと大川周明は楽観的かつかなり正鵠を射た議論をしている。日本はそのアメリカと全面戦争に突入したのだから、大川周明のような戦後にA級戦犯として起訴されるような人物でさえ、忌避すべきと考えた選択をしたのである。このころの歴史のことは、知れば知るほど暗澹たる心境にさせられる。

太宰の手紙に戻る。当時の日本人は、アメリカと戦争をして本当に勝てるのだろうか…。という不安の中を生きていたに違いないが、そこで人気作家の太宰が、私は成功を信じて文芸をやると宣言する文章を発表したのは、実のところは日本人は勝てると信じて戦争すれば勝てるという裏の意味を潜ませている。私ですら気づいたのだから、当時の読者の多くはそのことに気づいただろう。マッカーサーが戦後に読んでも気づかないかも知れないが、私たちには分かる。太宰は、イエスキリストが明日のことを思い悩むなと弟子たちに話したことを引用し、日本帝国も思い悩まず、目の前のことに信じて取り組めと発破をかけた。この文章の真意は戦意高揚だ。東条英機が読んだかどうかは知らないし、既に日本の空母艦隊は択捉島の単冠湾を出港してハワイへ向かっていたわけだから、太宰のこの文章が何らかの影響力を発揮した痕跡を認めることは難しいだろう。だが、当時の日本人の気分をよく代弁した文章だ。さすがは太宰だ。




関連朗読動画 太宰治‐海