上野で高御座を拝観してきた

今、上野で見学できる高御座は、今上天皇陛下がご即位されるために京都御所の紫宸殿から運ばれてきたもので、前の天皇陛下、即ち上皇陛下が即位された時と同じものを解体して東京まで運び、今回の即位に用いたとのことだそうだ。で、前の天皇陛下の即位の時は、自衛隊がヘリコプターで運んできたらしいのだが、穏やかではないとのことで今回は民間が陸路運んだらしい。別に自衛隊で運ぼうと民間に委託しようと私にとってはどうでもいいが、儀式に必要な設備を移動させるだけでも政治が絡んでくるのだから、天皇陛下というお立場はいろいろ大変である。

今使われている高御座は大正時代に作られたものだそうで、大きな特徴は天皇陛下と皇后陛下がお座りになるところが、ちゃんと椅子になっていて西洋風を取り入れているということなのだそうだ。要するに和洋折衷である。どこにも踏み込んだことが書かれていなかったので、私がここでもう一歩踏み込んで議論しておこうと思うのだが、天皇と皇后が一対になって公の場に登場するというスタイルそのものが西洋近代を受け入れてからのことで、天皇陛下がご使用になる、写真手前の高御座と、皇后陛下がご使用になる奥の御帳台をワンセットにするという発想そのものが繰り返すが近代西洋的なやり方だ。以前であれば天皇家であろうと武家であろうと、即位だの元服だの家督相続だのといった表向きのことは全て男の手で行われ、奥向きのことは女性の手で行われ、基本は相互不干渉だった。もちろん夫婦や家族ということになれば全くの不干渉・無関心はあり得ないが、それでも他人から見える部分は男女不干渉である。

それとも、私が不勉強なだけで、日本国中、天皇家だけが西洋風一夫一妻的即位の儀式を平安時代から続けていたのだろうか?まさかとは思うが…(シャア風)。

高御座にお上りになって天皇陛下がご即位されるというのは平安時代から続く古式ゆかしき儀式であることには異論をさしはさめるほど私には知識がないので、きっとその通りに違いないと思うのだが、大正時代にリニューアルされた時、明治天皇から始まった天皇家の西洋化が更に一歩進められた証左であるように私には思える。昨年皇居に行った時、皇居の内側の様子から近代官僚制によって形成された近代天皇像のようなものを感じ取ることができ、今回の高御座を拝観してその感触については確信を深めることができるようになったと思える。一応、断っておくが、私は近代天皇制度を支持しているので、上に述べていることは批判ではない。日本の国を説明する上で重要な要素である天皇と天皇家に対する洞察を深める努力をしているだけなので、ご理解いただきたい。このような男女一対スタイルで高御座が作られたのは、実は昭和天皇の発案なのではなかろうかという想像も湧いてくる。明治天皇が一夫多妻を享受したおそらく最後の天皇で、大正天皇は健康上の理由からとても複数の女性を身の回りに置いている場合ではなかったらしいのだが、健康で頭脳明晰な昭和天皇は、明朗に一夫一妻を支持し、実践した。若いころにヨーロッパを歩き回って、キリスト教圏の一夫一妻的家庭像が理想的に見えたのだろう。

昭和天皇が即位する時は京都に出向いて高御座に上ったとのことだが、実際に高御座を見れば納得できる。美術的価値が高い上にあまりにも巨大な高御座を運び出すより、人間が出向いた方が話がはやい。とても移動させるわけにはいかなかったのだろう。平成と令和になるにあたっては、高御座が警備上の事情から東京へと運ばれたということらしい。確かにあの皇居の中であれば、ちっとやそっとで手が出せるものではない。安全に相違あるまい。京都御苑は建物のガードがそこまで固そうではないので、実務担当者から見れば不安に思うだろうとも思えたので、今のやり方は合理性を追求し、積み重ねた帰結なのかも知れない。

天皇家の代替わりがあったおかげで、普段見ることのできないものが色々見ることができ、収穫は大きい。大嘗祭のお宮もまさか自分が生で見る機会を得られるなど、想像もしていなかった。生きていると面白いことがいろいろある。



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近代人の肖像写真‐明治天皇と徳川慶喜

多木浩二氏の『天皇の肖像』では、明治天皇の肖像写真の変遷を追いかけている。曰く、明治天皇の最初の一枚目の肖像写真は伝統的な京都宮廷風の衣装の写真だったものが明治初期には若き君主として椅子に腰かけている肖像写真が存在しているが、最終的に背筋の伸ばして身体の均整のとれた理想的な君像に変化し「御真影」として全国の官庁や学校に下賜された肖像写真はイタリア人のキョッソーネという画家に描かせた写真みたいに見える肖像画が使用されており、威風堂々の完成形に至っているというのである。

明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
イタリア人のキョッソーネという画家に描かせた威風堂々たる雰囲気の明治天皇

このような写真の変遷には理由があり、多木氏はまず第一に近代資本主義社会の訓練を受けたことのない人間の立ち居振る舞いやたたずまいのようなものが近代芸術の先駆的存在である写真では映えないということを挙げている。即ち、ヨーロッパの君主や貴族の真似をして一応は写真を撮影してみたものの、どのような雰囲気で撮っていいのかよく分からずに撮影したのが、京都宮廷衣装の写真と若いころの椅子にだらっと腰かけた雰囲気の写真であり、特に二枚目の写真では普通の人という印象を与えてしまう。で、近代国家の専制君主のイメージに合うようにするためにはどうすればいいか、いろいろ考えて突き詰めた結果、キョッソーネに堂々とした雰囲気に描かせて御真影として使用したというわけである。猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』を読んで明治天皇の肖像写真の変遷についてはある程度理解していたが、随分前のことだったので細かいことは忘れていたし、多木氏が写真批評の分野でも活躍していた人なので、芸術批評的な観点から明治天皇の肖像写真が分析されているのが興味深かった。

そして私はふと、徳川慶喜の肖像写真について思い出した。徳川慶喜はそういった方面にずば抜けてセンスのあった人だったため、数枚の肖像写真はどれもなかなかにいい雰囲気で撮影されている。特にナポレオン三世から贈られた皇帝服を着た写真など、文句なしに威風堂々という言葉が相応しく、彼は明治が始まる前の段階から近代人の肖像写真のあり方を正しく理解していたということを示しているように思える。

皇帝服を着た徳川慶喜

ついでに言うと徳川慶喜の40歳ごろの写真はカメラに対して正面を向いており、肖像写真の一般的なポーズだったあさって方向を向いたものではなく写真を見る側と目が合うように撮影されている。

40歳ごろのもの。カメラに視線を合わせている。

たとえば映画女優のポスターでは、第二次世界大戦ぐらいまではどちらかと言うとあさっての方向を向いて撮影されているものが多く、それらは彫像的な美しさを追求する効果を狙っていたが、戦後になってたとえばオードリー・ヘップバーンのようにカメラと視線を合わせて人間的な個性を表現する効果を狙うものへ変化したという内容のものを以前読んだことがある。徳川慶喜の場合、明治の中頃までにカメラと目を合わせるという次世代の肖像写真にまでリーチしていたと言うことができるので、なるほどこの人物は只者ではないと私の思考あらぬ方向へ漂っていったのだった。







(使用した写真は最後の一枚を除き、wikipediaに掲載されているものです。権利関係に問題が生じた場合は削除します。最後の一枚は静岡美術館のサイトhttp://shizubi.jp/exhibition/131102_03.phpに使用されているものを拝借しました。権利関係の問題が生じた場合は削除します)

大正天皇の大嘗祭と柳田国男

柳田国男の『日本の祭』という講義録では、日本各地のお祭りの形態とその起源、天皇との関係などについて議論されている。私は民俗学にはちょっと疎いところがあるので、どこぞのお祭りには〇〇のようなことがなされているというような話にはあまり興味を持つことができなかったのだが、神社のお祭りが天皇との関係に収斂されていくのは興味深いことだと思えた。

天皇家の宮中行事は仔細にわたると言われており、よほどの専門家でない限り判然としない部分があるのだが、平安朝あたりまでわりと真面目に行われていた宮中行事がだんだん手抜きになっていき、大嘗祭のような天皇即位の手続きの一部とすら言える重要行事もやったりやらなかったりだったらしい。他の書籍に拠るのだが、明治に入って改めて宮中行事が見直され、復古主義的に様々な伝統が復活したという側面があるようだ。天皇のお田植は昭和に入ってから始まったものなので、創造された伝統もいろいろあるのではないかと私は個人的に想像している。

で、柳田国男の『日本の祭』に戻るのだが、柳田国男はさすが帝国最後の枢密院顧問官に就任するほどの人なので、大正天皇の大嘗祭にかかわっていたという話が載っている。それだけなら、「ふーん」で済むのだが、大嘗祭は夜を徹して行われる重大行事で、大正天皇の時は京都でそれが行われたのだが、火災の不安があるということで本来なら蝋燭を使用すべきところを蝋燭風の電灯に替えて使用したという話だった。この講義録では、日本の祭が時とともに変化していること、原始古代のままの状態から中国の影響を受けたり、紙などの「発明品」を使用するようになったりなどの事情を判明している範囲で話してくれていて大正天皇の大嘗祭もその一環としての話題なのだが、火災が心配なので電灯を使ったというあたりに私は何かしら納得のいかないものを感じてしまった。というのも、帝国は一方で天皇家の伝統を国家の重大事とやたらと騒ぎ立てて持ち上げておきながら、火災が心配という官僚的な事なかれ主義で都合よく伝統を変更しているということに、なんだか飲み下せないものが残るのだ。

ちょっと言いすぎかもしれないのだが、一方で伝統や歴史などの事大主義的、或いは悪い言い方をすれば夜郎自大的な発想法で国体明徴論争などをやっておきながら、一方で伝統や歴史を都合良く変更していくという行動には矛盾があり、私にはそういった矛盾が「まあまあ、いいじゃない」で放置されたことと、戦争に敗けたこととの間には通底するものがあるような気がしてならないのだ。分かりやすい例で言えば、インパール作戦を根性論で強行し、なかなか失敗を認めようとず、責任を取るべき牟田口廉也中将も帰国して予備役編入で済んだということと、「火災が心配だから」と伝統行事を適当に変更することには重要な部分を曖昧にするという共通項があるように思えてしかたがないのだ。

柳田国男先生のこの講義は昭和16年夏という、日本の近現代史としてはかなり切羽詰まった時期に行われたもので、柳田先生の立場としては「民族的」な精神的支柱を「近代的」に確立しなければならないという思いで歴史の再編集の必要に迫られていたのだろうと思う。歴史は常に再編集されるものなので、再編集されること自体には良いも悪いもない。ただ、矛盾する部分があればそれは矛盾だと指摘することも大切なことだ。そういう時期的な背景があるということを踏まえて読むと緊迫感もあっていいかも知れない。




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日本の国家原理

明治に入り、伊藤博文憲法の起草に取り掛かりますが、これは意外とやっかいな仕事だったようです。というのも、ヨーロッパでは憲法を持っているかどうかが文明国かどうかを判断する大きな基準と見られていましたが、ヨーロッパに於ける憲法は大原則として王権との闘争、王権の制限、場合によっては王権の否定というところから憲法の原理や思想が育まれてきたのに対し、日本の天皇の場合はヨーロッパの王権とその性質を異にしているため、イギリスやフランスの憲法ではあまり参考にはならなかったからです。そもそも天皇が租税権を有していない、或いは有しているとしてもそれは形式的なものに過ぎず、現実問題としては権利の行使はない、または委任された政府が判断して課税、分配をしているという国情に於いて「天皇は税金を自由に課税できない」などのような項目を盛り込んだところで意味がありません。

伊藤は知恵を絞り抜き、天皇が天照大神の子孫であることを理由に、あたかも王権神授説と見まごうような条文を盛り込みながら、天皇を事実上無力化し、形式上は全ての権力(司法、行政、立法、軍事)が天皇に集中しているようにしておきながら、事実上の権力分立を図るという、うまい具合な感じの憲法を作り上げます。ただし、現代の我々の憲法でいうところの「基本的人権」には思想が及んでおらず、ヨーロッパ型の市民社会的な憲法を書くことには伊藤にも躊躇いがあったのかも知れません。そういうことはゆっくりと時間をかけて進めるべきという発想がおそらくは伊藤の内面にあったのではないかとも想像できますし、もしかすると山県有朋あたりの横やりもあったかも知れません。伊藤本人はイギリス崇拝主義みたいなところもあったわけですから、まさか本気で天皇権神授説みたいなことを考えていたわけでもないでしょう。

さて、太平洋戦争が終わり、GHQによってようやくというべきか、めでたくというべきか、日本人の手で書かれなかったという意味で残念ながらというべきか、判断に迷うものの、ルソーの社会契約説を基礎とする日本国憲法が作られ、それが現代の我々の国家原理となっています。また、ワイマール憲法を参照して社会権も盛り込んである上に、ナチスドイツを産んだ反省から間接民主制に徹しており、更に天皇については「象徴」という便利な言葉でその存在を保障していますので、いろいろな意味でなかなかよく作られている憲法と言えるように私には思えます。

論争の的になるのは憲法9条になるわけですが、英米法風に判例を積み重ねて自衛隊を実質合憲としていくというのも一つの方法のように思えますし、裁判所が統治行為論を採る以上、個人的にはそれもありかなあと思います。ただ、どうしても、どうしても、現行憲法では具合が悪いと考える人もいるでしょうけれど、もし、憲法を変えるとすれば、個人的には憲法9条第二項に但し書きを書き加えるのがいいのではないかなあと思います。即ち「但し、自衛権はこの限りではない」または「但し、自衛権及び国際貢献に於いてはこの限りではない」と付け加えれば、だいたい丸く収まるというか、現実にも一致させていくことができるのではなかろうかという気がします。

稀に、日本には自衛権がないと考える人もいるように思えますが、ロックが唱えた生命、財産、自由、平等」の自然権の確立を考慮すれば、自衛権がないと国民の自然権も守れませんので、自衛権に関してはあると考えるのが自然なことではなかろうかと思えます。

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ファッションリーダーとしての明治天皇



明治維新を経て日本は西欧化の道をまっしぐらにひた走りますが、そのことについて明治天皇の存在を抜きにしては語れないのではないかと思います。明治天皇はまず髷を切り、次いで洋服を着て写真を撮り、すき焼き(というか牛鍋かな)を食べて「美味である」と言い、あんぱんも食べています。要するに今後の日本人のライフスタイルはかくあるべしということを示したわけで、ファッションリーダーを担っていたということも言えるのではないかと思います。

私は個人的には明治維新は薩長藩閥が政治をワタクシするために岩倉具視と一緒に天皇を担いだのだと理解しているのですが、イメージ戦略と実際政治の間にかなりのギャップがあり、創業者世代はギャップがあるということを分かったうえで上手に協力しあってギャップをうまく埋めていたのですが、その次の世代以降、そういう裏側を知らない世代が「統帥権がー」とか言い出していろいろ狂いが生じて来たのではないかと考えています。明治憲法下では権力が誰にも集中しないように、要するに独裁者が生まれないように工夫されていて、あれはあれでなかなか良く考えられたものであり、問題は運用にあったわけですが、やはり創業者世代は分かって上手に運用していたのが、後の世代で崩れてきたという印象です。

明治憲法では演出上、天皇は「神聖にして万世一系で陸海軍の統帥権を持つ日本の統治者」というロシアのツアーリかと見まごう如き堂々たる大皇帝ですが、実際の権能はほとんどないに等しく、重要なことは明治維新の功労者が決めていく、明治天皇が嫌がっても日露戦争とかやってしまうわけです。国民はそんな内情については知りませんので、伊藤博文が料亭で決めたことを「大御心」だと信じているという構図が生まれたとも言えますが、それぐらいの演出をしておかないと伊藤博文や山県有朋が元老政治をしていることの正統性を示すことが難しかったのだろうと思えるのです。

しかしながら近衛文麿、東条英機の世代になると創業者の上手な知恵が失われていますので、政治家が軍事に口を出すのは統帥権の干犯だという暴論がまかり通るようになります。戦争は政治の延長線上にあるというか、政治そのものと言ってもいいくらいのことですから、政治家が軍をコントロールできないというのはばかげた発想としか言えないのですが、「天皇という絶対的な存在だけが軍に命令できる。政治家ごときが軍に口を出してはいけない」というレトリックにみんなが縛られていくようになったように見受けられます。憲法はその条文を常識というかコモンセンスで判断しなくてはいけませんので、政治家が口を出せないというのはコモンセンスに反しており、非常識としか言いようがないのですが、創業者がその辺りを曖昧にしておいたことのツケが次の世代に回って来たとも言えるのではないかと思います。

最後にブログですので、タブーに触れるつもりで明治天皇すり替え説について、ちょっと意見を述べたいと思います。私は明治天皇のすり替えは無理だと思います。そんなことをしたら絶対にばれると思います。明治天皇を毛利氏が匿っていた南朝系の人物とすり替えたというのがまことしやかに語られることがあり、天皇家は幼少期に別の家に里子に出すので、朝廷の人は明治天皇の顔を知らなかったから可能だったということにされていますが、里子に出すのは幼少期のほんの数年だけで、里子に出す先も同じ公家社会の隣の隣みたいなところに出すわけですから顔は当然公家社会では知られています。西園寺公望が明治天皇の遊び相手をしていたこともあります。平安時代の源氏物語の延長みたいな社会ですぐに噂が広がるわけですから、親王のすり替えみたいなことがまかり通る余地はないと思いますので、すり替え説を私は信用していません。

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徳川慶喜と孝明天皇

徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。




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後醍醐天皇の不可思議な魅力

後醍醐天皇はおそらく相当に魅力的な人物であったに違いありません。まず佐々木道誉という源氏の名門の人物がその魅力の軍門に下ります。また、名門中の名門の足利尊氏も同様に後醍醐天皇にひれ伏します。更には楠木正成のような優秀な戦略家も後醍醐天皇に尽くします。

佐々木道誉、足利尊氏、楠木正成の三人は命を懸けてまで後醍醐天皇に尽くす義理は全くありません。佐々木、足利はともに源氏で、平氏系の北条氏に反発するポテンシャルは確かに秘めている人たちでしたが、100年以上続いた北条氏に盾突くのは相当に踏ん切りがつかなければできないはずで、承久の乱以降ぱっとしない天皇家に果たして尽くすだろうかという疑問が湧いて来た時、やはりその答えは後醍醐天皇の不可思議な魅力に参ってしまったと見るのが最も正しい見方かも知れないという気がしてきます。

後醍醐天皇が優れた戦略家であったのかと問われれば、おそらくはノーということになると思います。直接の戦闘で勝利することはなく、例えば鎌倉幕府を倒そうと計画してみたり、或いは南朝を開いてみたりというのは、当時の人たちの目から見てもかなりの無理ゲーに見えたはずで、常識のある人にとっては、ただの無謀な人物に見えたかも知れません。

ただし、ここは想像になりますが、語りがうまかったのではないか、弁舌に長けていたのではないか、足利尊氏も佐々木道誉もぼーっとさせてしまうような言葉を話すことができる、そういう政治家的な才能のあった人なのではないかという気がします。話すことが壮大で、通常だったら「大言壮語」と言われてしまいそうなところが、後醍醐天皇の口から出るとまことに尤もらしく聞こえる、相手をその気にさせる、そういう魅力を備えた人だったのではないかという気がします。当時、天皇だから大言壮語がまかり通るということはちょっと考えられません。後嵯峨天皇のレガシーで持明院統と大覚寺統の間を北条氏に調停してもらっている天皇家に天下のはかりごとができるはずがないと思われていたはずです。しかし、そこをそう信じさせる、後醍醐天皇の話には夢を感じる、自分もその夢に身を投じてみたいと感じることができる、そういう徳のあった人、性格な意味でのカリスマだったのではなかったと感じます。特別な技量も能力もないのに人をぼーっとさせるという点では劉備玄徳に近い感じの人だったのかも知れません。

周囲の人を巻き込むにはまず自分からです。自分が思いこまなくてはいけません。自己暗示と呼ばれる領域に入ると思いますが、信念の人で、不屈の精神で決してあきらめないという性格的な特徴があり、どこまで負けが込んでも弱音を吐かない、最後には必ず勝利すると断言し続け、京都は足利尊氏に取られてしまったから息子たちを地方に派遣して遠大な足利包囲戦略を語る。北朝に渡した三種の神器はニセモノだったと言い張る。言い続けているうちに自分もその気になってくる。すると周囲もその気になってくる。そういう感じだったのかも知れません。楠木正成は四天王寺で聖徳太子の『未来記』を読み、そこで自分が後醍醐天皇を守る運命を悟ったとされていますが、そう思える記述を彼が見つけてしまったのも、後醍醐天皇による周囲をその気にさせるパワーの帰結ではなかろうかという気がするのです。

後醍醐天皇の有名な肖像画は中国の皇帝の冠を被り、仏教の坊さんの袈裟を着て密教の儀式らしきことをしている姿です。神秘の力によって念願を叶えようとする晩年の鬼気迫る姿が描かれています。

後醍醐天皇
後醍醐天皇

また、最期の様子を描いた絵では病床で刀を握りしめている姿が描かれており、強い闘争意欲を維持していたことが強調されています。普通だったら迷惑な人だと思うかも知れません。困った人、融通の利かない人、頑固な人、疲れる人に分類される可能性もあります。社長しかできないタイプです。私だったらこういう感じの人にはついていかないと思いますが、話す内容は実におもしろい、興味深い人物だったに違いないように思えます。

ただ、後醍醐天皇ほど印象深い肖像画の残されている人物はそうはいません。平清盛や藤原道長の絵はわりと普通な感じです。後醍醐天皇に比べれば信長秀吉でも普通の部類に入るのではないかと思います。




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後嵯峨天皇のレガシー

高倉天皇の息子で、安徳天皇の異母弟にあたる守貞親王は、幼少期に平家とともに都落ちし、壇ノ浦の戦いで救出されて京都に還るという壮絶な運命を経験した人ですが、勝者の鎌倉幕府の目線からすれば旧敵の人間関係に属すると見られており、皇位継承者としては見られてはいませんでした。本来であれば守貞親王が皇位継承をしない以上、守貞親王の子孫が皇位を継承する可能性は非常に低く、悪い言い方をすれば血統のスペアのような存在であったと見ることができるかも知れません。

ところが、同じく高倉天皇の息子で安徳天皇の異母弟にあたる後鳥羽上皇が承久の乱で失脚し、後鳥羽上皇の系統が鎌倉幕府によって朝廷から一掃され、守貞親王の息子の後堀川天皇が即位。天皇経験していない守貞親王が院政を行うという異例の状態に入ります。その後後堀川天皇は早々に退位して四条天皇が即位し、後堀川天皇の院政の時代になるはずでしたが、後堀川天皇は病没し、四条天皇は不測の事故で亡くなります。

鎌倉幕府は後鳥羽上皇の系統の人々を朝廷から一掃する方針だったはずですが、四条天皇を最後に「非後鳥羽」系の相応しい人物がいなくなってしまい、後鳥羽天皇の孫にあたる後嵯峨天皇の即位を見ることになります。

後嵯峨天皇の立場からすれば、自分が天皇になることは決してないと思っていたでしょうから、運命の激しい変転に驚いたことでしょう。守貞親王も源平の政変に翻弄された人だということや、遡れば天武天皇の子孫が孝謙上皇の時代に全滅に近い状態になってしまい、藤原氏の画策も手伝って天智系に皇統が帰って行ったということを思うと、たとえ天皇家であってもやはり運命に翻弄されるものなのだと考え込んでしまいます。

その後嵯峨天皇ですが、長子の宗尊親王は鎌倉幕府の要請で宮将軍として鎌倉に下ることになります。その次の息子が後深草天皇に即位し、後嵯峨上皇の意向で、その次息子が亀山天皇に即位します。天皇家でも摂関家でも将軍家でもそうですが、親子相続はわりと穏便に収まるものの、兄弟相続になると、どちらの子孫が正当かということで紛糾の火種になることが少なくありません。天智天皇と天武天皇の子孫がおそらく最も有名な例だとは思いますが、そういうことを知りつつも兄弟相続をさせた後嵯峨天皇の意向にはその真意を測りかねるところがどうしても残ります。単に下の息子の方がかわいかったというだけかも知れません。ただ、当時は血の論理に基づいてすべてが順位付けされますので、そこを乗り越えてまでというのは余程のことのようにも思えます。後深草天皇の子孫が持明院統、亀山天皇の子孫が大覚寺統と二つに分かれてやがて南北朝時代につながっていきますので、後嵯峨天皇のレガシーは後世に相当なダメージを与えたと言うこともできそうです。

後嵯峨天皇の息子たちは一人が将軍、二人が天皇ですので、それだけ聞けば実に豪華なのですが、何となく光源氏の息子たちを連想させるものがあり、考え過ぎかも知れませんが、白河上皇、鳥羽上皇、崇徳上皇の間に起きた悲劇性をも想像させます。

北条氏の調停により、両統が交互に天皇に即位することになり、持明院統の順番が来れば持明院統から推薦された人物を、大覚寺統の順番が来れば大覚寺統から推薦された人物を北条氏が天皇に選ぶという形になっていきますが、持明院統がわりと団結していたのに対して、大覚寺統は複数人推薦して来るなど、ちょっと浮ついたところがあったようです。極めて異色と言われる後醍醐天皇は大覚寺統ですが、そういうある種の落ち着きのない空気の中で育ったからこそ、良くも悪くも破天荒、独特、特殊、掟破りな人物に成長したのかも知れません。

北条氏は天皇の人選ができるというところまで権力を伸長させることができましたが、結果として後醍醐天皇を生み出し、鎌倉幕府の滅亡を招来することになりますので、様々なことはまことに糾える縄の如しです。





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後白河天皇の人生観

後白河天皇というよりも、後白河上皇としての方が映画やドラマにはよく登場することが多いと思います。たいていの場合、あまり「善玉」な感じで描かれることは少ないように思います。時の実力者におもねり、権謀術策を弄する老獪な印象の人という感じです。

もともと後白河天皇は雅仁親王と呼ばれ、将来天皇になることはないと考えられている人物でした。ところが近衛天皇が急逝したことで、崇徳上皇の血統の重仁親王へは皇位を譲りたくないという勢力のある種の談合というか、結託というか、そういうものの結果、雅仁親王はもういい加減いい年で(29歳)、天皇になるための教育も受けているわけではないから必ずしも天皇に相応しくはないけれど、その息子を天皇にすることで、その間の中継ぎという条件で即位します。

棚ぼたと言えば棚ぼたですが、今様でもやって遊んでいればいい人生が政治の世界に引っ張り込まれることになって恐怖を感じたのではないかという気がしなくもありません。

その後、崇徳上皇が保元の乱で失脚し島流しされる姿を見た後白河天皇は自分も一歩間違えばああなると感じたのではないかと思います。そして、そうならないためには、天皇または上皇単体では無力に等しく、確実な味方を常にそばに置き、且つ、そのライバルを外に設けておくことで競わせ、自分の安泰を計るというやんごとなきお方とはちょっと思いにくいような高等戦術を展開していくようになります。

その後当面の間、後白河天皇の養父の信西が政治の実権を握りますが、平治の乱であっさりを命を落とし、平清盛が自分に味方してくれなければ(平清盛が藤原信頼につく可能性充分にあったと思います)、自分は生涯幽閉の身になっていたかも知れず、そう思えば一時は無双に思えた信西の人生も儚いもので、やはり頼りになるのはパワー、武力、敵を物理的に破壊できる実力というものを信じるようになったのかも知れません。

平清盛との同盟関係の次は木曽義仲と手を結び、次いで源義経に官位を与えて、義経と頼朝の間の勝負がつけば頼朝とも面会を重ねるという、見事と言っていいほどの世渡りを続けます。相当な神経の持ち主であるに違いないと思える反面、強いものと同盟するということへの躊躇の無さからは、やはり力への信仰というものが伺えます。

頼朝が奥州藤原氏を攻めるのに宣旨を出してほしいと願ったときも、最初は出さず、藤原泰衡が打ち取られてからタイミングよく宣旨が届くというあたりもよくよく見計らってのことではないかと思います。

風見鶏と言えば風見鶏ですが、自分の力の源泉は紙の上に書く自分の名前だということをよく承知しており、かつ濫用せずに使いどころを見極めているというところは有能な「政治家」と呼ぶこともできるかも知れません。

しかしながら、同盟する相手がことごとく滅びていき、その都度、勝利者と同盟を結びなおしていく時の心中を思えば、殺伐とした、あるいは荒涼としたものを感じないわけにはいきません。もし後白河上皇が力以外のものを信じ、それを正義と呼び、その正義に殉じることを考えていたなら、歴史の舞台からもっと早く去っていたかも知れません。「信じられるのは力のみ」という信念の裏には自分の非力に対する自覚があり、それ故に怯えていたのかも知れません。そう思えば気の毒にも思えます。溥儀が日本であろうとスターリンであろうとどこぞの軍閥であろうと自分を助けてくれるのなら膝を屈するのも厭わないというのに近い心境だったのかも知れません。