幸若舞継承者の子孫のお稽古場を訪問させていただいたら、日本史への理解がぐっと深まる経験になった。

評論家活動をしている友人が都内某所の日本舞踊教室へ行くというので、一緒に伺わせていただくことになった。その友人は仕事の一環としてそちらへよく行くそうなのだが、私は完全に役に立たない立場でただの見学者でしかなく、本当に一緒に行っていいのかやや不安だったが、せっかくなので行かせていただくことにした。そしてそれは非常に貴重な経験になった。

幸若舞のお師匠の先生の名前は幸若知加子先生とおっしゃるお方で、その名の通り、歴史ある幸若舞継承者の子孫の方なのだが、普段は若柳恵華先生というお名前でご活躍されているのだという。で、どうしてお名前が2つあるのかという疑問にぶち当たるのだが、まずはその理由を説明するところから、由緒ある幸若舞と日本の歴史の深い関係について述べてみたい。この記事は先生からたくさんの聞かせていただいたお話を基礎として私なりの解釈を加えたものになるため、もし間違っていて、関係される方からご指摘を受ければ内容は訂正したいと思う。

先生にどうして2つお名前があるのかということなのだが、幸若舞はかつて江戸幕府の音曲役として支援を受けて発展していたものの、明治維新になると支援が受けられなくなり、おそらくは新政府から迫害される恐れもあったため、幸若舞の看板は一旦下ろし、表向きは普通の日本舞踊のお師匠様として活躍しつつ、信用できる人たちの間だけで密かに幸若舞が継承されることになったということなのだった。まさに秘伝の舞である。なので先生にも表のお名前と幸若舞の正当な継承者としてのお名前の2つがあるというわけだ。

ここで疑問に思うのは、なぜ江戸幕府が幸若舞を支援していたのかということなのだが、それが、徳川家康の父親が幸若舞の担い手だったというのである。徳川家康の父親といえば松平広忠だが、この人物が幸若舞を担い、家康の腹違いの兄弟が継承していったと言う。つまり徳川将軍家と幸若舞の家元のお師匠様は親戚筋ということになり、幕府の支援・保護を受けていたとしても納得できることではあるのだ。ここで、私はふと、あるところで「徳川家康は源氏の子孫ではなく、家康の実家の松平氏はそもそも猿楽師をしていた」という話を聞いたのを思い出した。もしその人が幸若舞のことをあまりよく知らず、「猿楽のようなもの」という認識だったのだとすれば、幸若知加子先生からおうかがいしたお話と、以前、私がよそで聞いたことのある話は一致する。

長々と沿革を書いてしまっているが、ここからさらに幸若舞の本質に踏み込んでみたい。幸若舞とは天皇家とも関係の深い陰陽道の思想を継承する舞であり、能の源流であり、もしかすると雅楽とも関係のある実に古い踊りであって、北極星・北斗七星をメタファーにした足の動きをするのが特徴で、独特の摺り足をしたりドンと舞台を踏んだりするとのことで、それはお相撲のしこにも通じるものがあるのだということだった。日本で最初にお相撲をとったのは野見宿禰であると日本書紀に書かれているが、であるとすると、幸若舞は日本書紀以前の時代にまでそのルーツを遡って求めることができるということになる。摺り足は空手のような日本武術の基本的な動きであり、時代劇でもうまい人はきちんと摺り足を使って殺陣をするのだから、私はそのとき、日本の伝統芸術の基本中の基本の足の動きを宗家のお師匠様に教えていただいているということになっていたのである。源氏物語からアダプテーションした『葵上』という能の演目では、六条御息所が生霊となって現われて舞台をドンと踏み込んで音を響かせるが、これも源流は同じであろう。北極星は道教で天皇大帝とも呼ぶので、日本の天皇という称号の源流である可能性が極めて高いと思うのだが、それを表現する足の動きを幸若舞が継承しているのだとすれば、ここは完全に私の推測になるのだが、幸若舞は天皇家のための呪術を担っていた可能性が高いのではないだろうかと思えた。陰陽道は遅くとも天武・持統の時代には確立されていたため、幸若舞は飛鳥時代にまで遡ることができるということなのだ。

さて、私の脳裏に、陰陽道と関わりがあり、かつ徳川家康とも関わりのある人物の名前が頭にふと浮かんだ。織田信長である。信長は本能寺で自害する前に「敦盛」を舞ったことで知られていて、これは当時、本能寺から生き延びた女性たちの証言が残っているため、まず間違いなく「敦盛」を舞ったに違いないのだが、この「敦盛」は幸若舞なのだという。で、故竹内睦泰氏が語ったところによると織田氏は忌部氏の子孫であり、忌部氏とは中臣氏などとともに朝廷の祭祀を担当した家柄であるため、当然、陰陽道とも関わりがあることになる。だとすれば、織田信長は忌部氏の子孫であり、陰陽道に関する知識も豊富であったということになり、陰陽道の精神を継承する幸若舞とも深くつながっていたのだから、人生の最期に幸若舞のレパートリーである「敦盛」を舞ったということは納得できるのだ。信長と家康は今川義元を殺した後で清州同盟を結ぶことになるのだが、そもそも信長が忌部氏から続く陰陽道の継承者で、松平氏が幸若舞の継承者であったとすれば、今川義元がいなくなった後の時代の東海地方で両者が同盟を結ぶのはごく自然なことであるとも言えるだろう。私の完全な妄想だが、もしかすると信長と家康は幸若舞の人脈を通じて以前から密かに連絡を取り合って居り、桶狭間の戦いで今川義元が殺されたのも、今川の武将として戦いに参加していた家康が信長に協力していたからではなかろうか…などと私は妄想してしまった。だとすると幸若舞はギルドのネットワークみたいな感じで影響力を持っていたかも知れないのである。

以上までに述べたことが全て本当だと仮定した場合、これまでとは日本史に関して見えてくる景色が違ってくる。日本史に関わる理解もいろいろと変更されなくてはならなくなるかも知れない。実際、長い日本の歴史を通じて構築された複雑な人間関係・血脈・宗教的つながり、芸術的つながりなど、複数のルートで人はつながっていて、教科書に書かれている歴史はそのほんの上澄みをなぞっているに過ぎないに違いなく、いろいろと探れば関係者だけが密かに継承している歴史・事象・伝承などがたくさんあるに違いないと私は思ったのだった。

幸若知加子先生は、東京コレクションで「敦盛」を舞った時の動画を見せてくださったのだが、その時の先生が謳った「人生五十年」は軽やかな歌声でありながら、少し物悲しい、うまく表現できないが小さな女の子が「通りゃんせ」を歌っているような印象のものだった。数多のドラマや映画で信長が敦盛を舞うシーンが入れ込まれて来たが、どれも気合の入った野太い声の「敦盛」が多く、幸若知加子先生の動画の歌声とは全然印象が違う。人生の最期にあの信長が舞ったのだから、より迫力が出るように演出に力が入ったのだとは思うが、信長の肖像画を見れば、かなり繊細な性格であったことが想像できる。実際には幸若知加子先生の舞のように、もっと軽やかで、悲しげで、品性を感じる舞いだったのかも知れない。



日本古代においていつ頃から太陽神信仰が中心になったのでしょうか?高松塚古墳とかキトラ古墳とかの壁画を見る限り、中国影響下なのか北極星信仰が優勢だったのかと素人的には思ってしまうのですが。

道教では北極星のことを天皇星と呼びますので天皇という呼称はまず間違いなく道教に由来していると考えて良いと思いますし、天皇という称号を最初に使用した天武天皇は天皇星が星空を支配するが如くに自身がヤマトを支配するようなイメージを持っていたものと思います。とはいえ太陽神であるアマテラスを祀る伊勢神宮を天皇家の氏神みたいな位置づけにしたのもやはり天武天皇なわけですね。

彼は仏教僧としての一面も持っており陰陽道にも通じていました。また聖徳太子を神がかった伝説的な人物として記述されることになったのも彼の意思であり聖徳太子が馬小屋で生まれたとかみたいな話になっている辺りはまず間違いなくイエスのイメージからヒントを得ていると思いますので天武天皇はキリスト教に関する知識も持っていたと私は思います。

つらつら考えるに、天武天皇がそれ以前の素朴なアニミズムを淘汰し北極星信仰と太陽信仰+聖徳太子のような超人信仰の合わせ技を使ったということではないかと思います。

非常にプロパガンダに長けた人物であったに違いありません。



中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?

「中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

関係あると思います。日本のそういったことって結構、中国の道教の影響を受けているはずですから。「天皇」という名称を最初に使ったのは天武天皇ですが、北極星のことを天皇星と呼んでいるところからぱくっていると考えてさしつかえないと思いますし、伊勢神宮を整備したのも奥さんの持統天皇が藤原京を作ったのも、中国から来た陰陽道、要するに風水に基づいて進めたと考えて良いと思います。




天武天皇の子孫たち‐そして誰もいなくなった

天智天皇が宿敵蘇我氏を倒すことで古代日本では天皇家独裁の方向へと舵が切られていったわけですが、その後、天皇家内部での仲間割れへと事態が発展して行きます。

天智天皇の死後、天智天皇の息子と弟で天下分け目の戦いが行われ、弟が勝利。弟が天皇に即位します。天武天皇です。天皇家はこの段階で天智天皇の子孫と天武天皇の子孫の二つに系統が分かれてきました。

天智天皇の子孫は、仮に健やかに成長したとしても、別にいいことがあるわけでもないし、特に人々から大事にされるわけでもなく、ただ、無為に日々を送る、無為徒食の人々になっていきます。負け組なわけです。これはこれで、もしかすると、のんびりとして穏やかでいい人生かも知れません。だって、皇族には変わりないですから、衣食住は保障されていて、しかも権力争いに巻き込まれることはないんですから。

一方の天武天皇の子孫はそんな安楽な人生を送るわけにはなかなかいきませんでした。というのも、彼らは勝ち組ですから、天皇になれる可能性のある人々なわけです。従って、競争は苛烈になります。天武天皇は成功者・権力者ですから、複数の女性に男子を産ませています。それぞれの女性が、自分の産んだ男子に後を継がせたいと考えて競争状態になるというのは全く不思議なことでもなんでもないというか、自然なこと、人情として理解できることなわけですね。

天武天皇は息子たちを吉野へ連れて行き、そこで約束をさせます。この約束を吉野の盟約と言うのですが、天武天皇の皇后で後の持統天皇になる女性の産んだ男子である草壁皇子を次期天皇にするということで他の皇子たちは競争しないと誓約させたわけです。ところがどっこい、大津皇子という人物がだんだん頭角を現していき、草壁皇子にとっての挑戦者のような存在になっていったと考えられています。で、草壁サイドはどうしたかというと、大津皇子は謀反を計画していると訴えました。大津皇子は捕らえられて自害させられています。挑戦者がいなくなったことで、草壁皇子の天皇即位かというと、そうはいきませんでした。やはり、大津皇子を死なせた直後に草壁皇子即位ではちょっと露骨すぎるのが憚られたのではないかと思うのですが、天武天皇の皇后が持統天皇に即位します。多分、ころあいを見て草壁皇子に譲位しようと考えていたと思えるんですが、肝心の草壁皇子が病没してしまいます。その他の皇子たちも持統天皇の在位中にばったばったと死んでゆき、皇位継承に適切な人物がほとんどいなくなってしまいました。

草壁皇子の息子さんが生きていたので、ぎりセーフだったわけですが、持統天皇はその人に譲位しました。それが文武天皇になるんですけど、その子孫には聖武天皇みたいに興味深い人もいるんですが、結論から言えば、あまりに激しい足の引っ張り合いや殺し合いが続いたために、結局のところ死に絶えてしまい、皇位継承は天智天皇の子孫にバトンタッチすることになりました。

負け組で、無為徒食で歌を歌ったり散歩したりして過ごしていただけのはずの天智系の復活なわけです。今の天皇家はこの天智系の子孫ということになり、天智系の運の良さみたいなものを感じないわけにはいきません。

というわけで、王朝交代かと思うほどの激しい権力争いの話をわりと今回はさらりとしてしまいましたが、天武系が滅んで天智系に移るまで100年くらいかかってます。その間に奈良時代という魅力的な時代も始まっていましたから、奈良時代のことを次回以降少しやってみたいなと思います。




天武天皇‐稀に見る超有能な史上最強天皇

天智天皇が亡くなった後、古代日本の天下は天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の息子の大友皇子とで分断されます。通常、後継者は父から息子へというパターンが多く、兄から弟へというパターンは非常に少ないですから、血統の原理を優先した場合、天智天皇の長男の大友皇子の方が有利と言えます。ですがこれは平時に於いてのことであって、有事・非常時になると話が変わってきて、有能な人物がヘゲモニーを握る、そのために平時の血統のロジックがひっくり返されるということは時々あるわけです。で、今回はそういう内容になります。

天智天皇が亡くなると、天智政権で太政大臣までつとめて政権ナンバー2にいた弟の大海人皇子は政治から身を引くと表明し、大津宮を出て吉野へ行きます。どういうわけか日本の歴史では政治的に苦しい立場になった人は吉野へ脱出するというパターンが多いですね。義経もそうですし、後醍醐天皇もそうです。で、大海人皇子もそういうわけで吉野へ脱出し、大友皇子とは対立しないという姿勢を鮮明にしたわけです。ただ、多くの人がその姿勢を信用していなかったみたいです。というのも、天智天皇と大海人皇子はどうも仲が悪かったようなんですね。額田王という女性を兄弟でとりあってますし、天智天皇の後継者問題でも、天智天皇は当初、弟を指名していて、後に息子に変更しています。こりゃ恨みもつのるというものです。しかも、大海人皇子は相当に頭も良く、行動力もあったみたいですから、有能かつ恨みを持つ男が吉野へ逃れた以上、これはリベンジを挑んでくるというような感じで見られていたみたいです。そして実際、彼はリベンジ戦に臨み、勝利するわけなんですね。

このリベンジ戦が壬申の乱なわけですが、大海人皇子は挙兵する前に伊勢に立ち寄り、伊勢神宮の神様からおまもりいただいて、スーパーナチュラルな能力を発揮した。というような話になってます。大海人皇子が魚を釣り、身の半分だけ切り取って川に戻したら泳いだ。みたいな話になってるんですね。すっごく包丁さばきのうまい名人が魚を半分だけ切って水槽に戻すというのをyoutubeで見たことありますから、スーパーナチュラルなんじゃなくて、手が器用だったということなのかも知れませんね。

それはともかく、おそらく大海人皇子には陰陽道に関する知識が豊富な側近がいたりして、中国の道教の知識も導入して、大海人皇子がスーパーナチュラルな強さを持ってるという伝説づくりを熱心にやっていた様子を見て取ることができます。

で、多分、スーパーナチュラルとか関係なく、大海人皇子が有能だったからだと思うんですが、壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害したと伝えられます。大友皇子は明治になってから天皇だったということにされて、弘文天皇という名を贈られていますが、実際に即位したかどうかは不明です。即位していたとしても全く不思議ではないんです。大海人皇子が吉野に去ってから、ささっと儀式をやっちゃへばよくて、手続き的な問題にすぎません。大嘗祭みたいな大げさなのは仮にできなくても特例的にOKな場合がありますから、大友皇子が即位していたとしても、全然おかしな話ではありません。ただし、即位した形跡が見当たらないので、自信をもって即位したとも言い難いんですね。大海人皇子が勝利して天武天皇になるわけですけど、天武天皇サイドからすれば、大友皇子の正統性が低ければ低いほどいいわけですから、大友皇子が即位していた形跡を全て消し去るという努力がなされたとしても、不思議じゃないんですよ。まあ、真相は分かりませんけれどね。

で、天武天皇なんですが、即位してから古事記、日本書紀の編纂をさせます。そして初めて、「天皇」という称号を使用することになるんです。それ以前の天皇は、天武天皇の時代から遡って、天皇だったということで話をまとめているわけなんですが、天武天皇が初めて、その治世の時に、「俺は天皇だ」と自覚している天皇ということになります。その自覚的な天皇という称号は今日まで続いているわけですね。ですから天皇の歴史がどこから始まったと考えるかについてはいろんな意見があり得ますけれど、最も短く見積もった場合は、天武天皇の時代から始まったというように捉えることができるわけで、それが大体、西暦700年ごろということになります。どんなに短く見積もっても1300年の歴史がありますから、充分長いということはできると思いますね。

「天皇」という称号の由来なんですが、道教では北極星のことを天皇星と呼ぶらしいんですね。で、どうもこれだろうなと考えていいと思います。天武天皇が、豊富な道教の知識を用いて、北極星を表す天皇星から天皇という称号をとってきたわけです。ですから、天皇というのは、道教の体系をパクってきて、日本で使えるようにアレンジしたものと言ってもいいかも知れません。

この「天皇」という称号の導入の凄いところは、これを使うことによって、天皇家はその他の貴族や豪族とは違うんだよということが明確に分かるということです。天皇は人というより神なんだというイメージの形成はここから始まるわけです。天皇って、天の皇帝ですから、超絶神秘的で、神聖なんだっていう雰囲気を作ることができる呼称なわけです。天皇家は天武天皇の時代になって明確に君主という立場を固めたとも言えると思います。それ以前は豪族の中の豪族というか、一番強い豪族、最強ランクの豪族だから偉い!という感じだったのが、豪族じゃなくて、君主ね。強いから偉いんじゃなくて、生きてるだけで偉いんだよ。ということになったと捉えることができるわけですね。

で、日本の神話とか、天智天皇の大化の改新の事業とかも、この天皇家神聖伝説に合うように再編成されたんだと思います。再編成されたから良いとか悪いとかというものはありません。新約聖書はローマ帝国時代に再編集されたものなわけですが、歴史なり理論なり哲学なりというものは再編集を繰り返すことで洗練されていくものだと言えると思います。




天智天皇と天武天皇の世代を超えた確執

まず、天智天皇ですが、この人はなかなかの策謀家です。もちろん、中臣鎌足という稀有なブレーンを得ていたからですが、飛鳥時代後半はこの二人が一世を風靡します。歴史の表舞台に華々しく登場したのは言うまでもなく乙巳の変によって蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家を滅亡させたことによりますが、その後、先頭には立たずに軽皇子を孝徳天皇に即位させ、自分は黒幕になります。

蘇我入鹿殺害の時に蘇我氏を裏切らせて自分の仲間に引き入れた蘇我倉山田石川麻呂に難癖をつけて家族もろとも自害させ(要するに殺害し)、孝徳天皇のことも多分、増長してきたから気に入らなかったのだと思いますが、暗殺した可能性が大変高いです。孝徳天皇の息子の有馬皇子も内乱準備を共謀した罪で絞首刑です。要するに天智天皇と中臣鎌足で乙巳の変協力者を順番に殺して政権の果実を自分たちに集中させるという作業を一歩づつ続けたという言い方もできるように思います。当時のことを映像で想像しただけでも恐ろしいです。孝徳天皇の次の天皇は自分の母親の皇極天皇を重祚させて斉明天皇とし、やはり自分は黒幕に徹します。

母親の死後、ついに自身が即位しますが、そこで大きく躓いてしまいます。白村江の戦いで敗戦し、びびった天智天皇は大津に遷都します。白村江の戦いの時には額田王に和歌を詠ませて戦意高揚も図りましたが、回復不可能なほどの大敗北で、同盟国の百済からの亡命者を大量に受けれることにもなりました。当時、飛鳥地域周辺をくるくる移動して遷都するのが普通で、ちょっと離れた難波宮も放棄しているにもかかわらず、当時としては相当に引っ込んでしまった場所と認識されたであろう大津に引っ越すというのは相当に焦っていた、唐の侵攻に本気でびびっていたことが分かります。

唐の侵攻はなく、日本は敗戦国として遣唐使を送って服属の意思を示すという流れになります。天智天皇は戦争指導に失敗した責任者ですので、結構求心力はないです。周りの人も「えー、近江…?」と思っています。当時の人は飛鳥が一番理想的な土地に決まってるじゃんと信じていたからです。頼りにしていた鎌足も亡くなってしまいます。ピンチです。

さて、そのような窮地に立たされていた天智を支えていたのが弟の大海人皇子です。この兄弟は内心、相当に憎み合っていたようですが、権力維持のために協力し合います。ただ、大海人皇子は内心穏やかではなかったことでしょう。恋人の額田王は天智天皇にとられる。弟に生まれたという理由で自分は永遠に命令される側。才能もあり、英明な人物なだけに、いずれどこかで逆転してみせるという思いがあったに違いありません。

天智天皇が亡くなる時、「次の天皇は息子の大友皇子にするから後はよろしく」と大海人皇子に伝え、大海人皇子は「私は吉野に行って僧侶になりますから、後継者争いの心配はしなくていいですよ」と真っ赤な嘘をしれっと言います。一部には天智天皇は大海人皇子に殺されたのだと言う説もありますが、そこはちょっと分かりません。互いに生きている時から本気で嫌いだったみたいなので、暗殺していたとしても唐突な印象は受けません。

さて、天智天皇は死にました。大海人皇子は自由です。吉野から伊勢に行き、兵隊を集めます。大友皇子サイドも「これは一戦は避けられない」と覚悟して兵隊を集めています。壬申の乱です。結果としては大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害。大海人皇子が天武天皇に即位します。「どうだ、ついにおれはやったぞ」と思ったに違いありません。天智天皇の男性の子孫は「用済み。無用。特に存在理由なし」の状況に立たされ、平和に酒でも飲んで楽しく過ごしているだけなら命は助けてやる。という感じになり、結果、生まれてくる男性は穏やかな人生を送ることになります。一方で、天智天皇の女性の子孫は天武天皇の皇后か妃になる。或いは天智天皇の子孫の皇后か妃になるという人生を送ることになります。男系は天武天皇だが、女系に天智天皇の血を入れることによって文句は言わせないという意思が見てとれます。

さて、このように殺し合いを繰り返して兄の血統を排除し、天武系の花の時代を迎えるはずでした。しかし、天武天皇の死後、皇后が持統天皇に即位しますが、天智天皇の子どもの中で、自分が産んだ草壁皇子を天皇にしようと、ライバルの大津皇子に内乱準備罪みたいな罪を被せて殺してしまいます。天武系の仲間割れが起きたわけです。持統天皇としてはさあ、これで安心。これが楽しみだと思っていたら肝心の草壁皇子が病死。孫がいたのでこの時点ではまだぎりぎりセーフです。天武系が続いています。奈良時代、天武系天皇には聖武天皇と光明皇后のような美しいなあと思えるエピソードのある人たちもいますが、聖武天皇が大仏を作ったり国分寺を各地に作ったりしたのも、天智系と天武系の間の憎悪に疲れ果てて仏さまにすがろうとしたと見るべきかも知れません。

聖武天皇の次に女帝の孝謙天皇が即位し、道鏡のぞっこんになり「皇統なんか知ったことか。道鏡を天皇にしよう」みたいなことになってきて、そりゃいかんと反対者が続出します。道鏡の天皇位簒奪を阻むために天武系の皇子たちが例えば藤原仲麻呂によって擁立されたりしますが、だいたい全部殺されるか追放されるという恐ろしい話になって、ついに天武系の継承者はいなくなってしまいます。

天武系が途絶え、果たしてどうしたものかなあとみんなは悩み「あなたは特に存在理由はないんですよ。死んでも誰も困りませんよ」と教えられて育ったような天智系の白壁王が光仁天皇として即位して、天智系が復活し現代につながる皇統になります。壬申の乱から白壁王の即位まで100年くらい時間が経ってますので、天智と天武の兄弟の確執は決着がつくまで100年尾を引いたことになります。奈良時代は天智系vs天武系の確執の時代であり、天智系勝利確定後、遷都話が持ち上がりますので、或いは天皇家の系統が安定したことを受けて忌まわしい記憶の残る土地からは離れようということだったかも知れません。長い長い憎悪の系譜…と思うと、やっぱりぞっとします…。

天武系に生まれて来た人たちは天皇の位を巡って殺し合って自滅したと言える部分がある一方、天智系の子孫の人たちは「どうせ天皇になれないから楽しく暮らそう。お酒が好きな人はお酒を飲もう。勉強が好きな人は勉強すればいいじゃん」で生きていたのでストレスもなく、喧嘩する理由もなかったので生き延びたという印象もあります。そういう意味では禍福は糾える縄の如しです。或いは、天武系の自滅、要するに敵失によって棚ぼた的に皇位が転がり込んできたという感じがありますので「果報は寝て待て」は本当なのかも知れません。

そうは言っても白壁王も光仁天皇に即位後に皇后とその間にもうけた皇子が「呪いをかけた」という理由で幽閉・死亡(おそらく殺された)といういたましい経験をしなくてはなりませんので、本当に古代の天皇家は大変です。壮絶です。
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天智系と天武系

天智天皇が亡くなり、壬申の乱を経て弟の天武天皇が皇位に就くのですが、「天皇」という呼称は天武天皇から使われるようになったものであるため、天武天皇を実質的な初代天皇だとする学説もあるようです。
 
それはともかく、天武天皇が皇位に就いた時から皇統は天智系と天武系に分かれます。皇位継承の望みがあるのは天武系なので、天武系の皇子たちの足の引っ張り合い、はっきり言えば殺し合いは相当に酷いものです。天武天皇の皇后が持統天皇としてリリーフをしますが、その次の天皇を他の女性が生んだ皇子ではなく、自分の生んだ皇子である草壁皇子を皇位継承者にするため、ライバルになる可能性のある人物をつぶしていきました。

当時の皇室に生まれた人は明日は我が身と冷や汗を拭う思いだったに相違ありません。持統天皇の精力的な政敵つぶしもむなしく、草壁皇子は早世してしまいます。草壁皇子の息子である軽皇子が皇位を継承し、天武系の後継者が奈良時代を築いていくものの、天武系の男系の子孫が潰し合いの果てに適切な人物がいなくなってしまい、天智系の子孫である白壁王に白羽の矢が立ち、彼は光仁天皇として即位します。この白壁王の子孫が今日まで続き、現代の天皇家まで行きつきます。今の天皇家は伏見宮家の系統ですが、伏見宮家も白壁王の子孫になるため、その辺りまるごと天智系になります。北朝も南朝も天智系です。

白壁王が天皇に即位するまでの間、天智系の人々はいわば飼い殺し同然で、面白くはなかったかも知れませんが、後継争いで命を狙われる心配もなく、むしろ平和で仲良く過ごせてそれはそれでよかったのかも知れないなあとも思います。
 
皇位を巡って争った系統の人々ではなく、もう一方の系統が栄えたというのは、何がしかの教訓を含んでいるような気もしますが、それは考えすぎでしょうか。




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