天武天皇‐稀に見る超有能な史上最強天皇

天智天皇が亡くなった後、古代日本の天下は天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の息子の大友皇子とで分断されます。通常、後継者は父から息子へというパターンが多く、兄から弟へというパターンは非常に少ないですから、血統の原理を優先した場合、天智天皇の長男の大友皇子の方が有利と言えます。ですがこれは平時に於いてのことであって、有事・非常時になると話が変わってきて、有能な人物がヘゲモニーを握る、そのために平時の血統のロジックがひっくり返されるということは時々あるわけです。で、今回はそういう内容になります。

天智天皇が亡くなると、天智政権で太政大臣までつとめて政権ナンバー2にいた弟の大海人皇子は政治から身を引くと表明し、大津宮を出て吉野へ行きます。どういうわけか日本の歴史では政治的に苦しい立場になった人は吉野へ脱出するというパターンが多いですね。義経もそうですし、後醍醐天皇もそうです。で、大海人皇子もそういうわけで吉野へ脱出し、大友皇子とは対立しないという姿勢を鮮明にしたわけです。ただ、多くの人がその姿勢を信用していなかったみたいです。というのも、天智天皇と大海人皇子はどうも仲が悪かったようなんですね。額田王という女性を兄弟でとりあってますし、天智天皇の後継者問題でも、天智天皇は当初、弟を指名していて、後に息子に変更しています。こりゃ恨みもつのるというものです。しかも、大海人皇子は相当に頭も良く、行動力もあったみたいですから、有能かつ恨みを持つ男が吉野へ逃れた以上、これはリベンジを挑んでくるというような感じで見られていたみたいです。そして実際、彼はリベンジ戦に臨み、勝利するわけなんですね。

このリベンジ戦が壬申の乱なわけですが、大海人皇子は挙兵する前に伊勢に立ち寄り、伊勢神宮の神様からおまもりいただいて、スーパーナチュラルな能力を発揮した。というような話になってます。大海人皇子が魚を釣り、身の半分だけ切り取って川に戻したら泳いだ。みたいな話になってるんですね。すっごく包丁さばきのうまい名人が魚を半分だけ切って水槽に戻すというのをyoutubeで見たことありますから、スーパーナチュラルなんじゃなくて、手が器用だったということなのかも知れませんね。

それはともかく、おそらく大海人皇子には陰陽道に関する知識が豊富な側近がいたりして、中国の道教の知識も導入して、大海人皇子がスーパーナチュラルな強さを持ってるという伝説づくりを熱心にやっていた様子を見て取ることができます。

で、多分、スーパーナチュラルとか関係なく、大海人皇子が有能だったからだと思うんですが、壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害したと伝えられます。大友皇子は明治になってから天皇だったということにされて、弘文天皇という名を贈られていますが、実際に即位したかどうかは不明です。即位していたとしても全く不思議ではないんです。大海人皇子が吉野に去ってから、ささっと儀式をやっちゃへばよくて、手続き的な問題にすぎません。大嘗祭みたいな大げさなのは仮にできなくても特例的にOKな場合がありますから、大友皇子が即位していたとしても、全然おかしな話ではありません。ただし、即位した形跡が見当たらないので、自信をもって即位したとも言い難いんですね。大海人皇子が勝利して天武天皇になるわけですけど、天武天皇サイドからすれば、大友皇子の正統性が低ければ低いほどいいわけですから、大友皇子が即位していた形跡を全て消し去るという努力がなされたとしても、不思議じゃないんですよ。まあ、真相は分かりませんけれどね。

で、天武天皇なんですが、即位してから古事記、日本書紀の編纂をさせます。そして初めて、「天皇」という称号を使用することになるんです。それ以前の天皇は、天武天皇の時代から遡って、天皇だったということで話をまとめているわけなんですが、天武天皇が初めて、その治世の時に、「俺は天皇だ」と自覚している天皇ということになります。その自覚的な天皇という称号は今日まで続いているわけですね。ですから天皇の歴史がどこから始まったと考えるかについてはいろんな意見があり得ますけれど、最も短く見積もった場合は、天武天皇の時代から始まったというように捉えることができるわけで、それが大体、西暦700年ごろということになります。どんなに短く見積もっても1300年の歴史がありますから、充分長いということはできると思いますね。

「天皇」という称号の由来なんですが、道教では北極星のことを天皇星と呼ぶらしいんですね。で、どうもこれだろうなと考えていいと思います。天武天皇が、豊富な道教の知識を用いて、北極星を表す天皇星から天皇という称号をとってきたわけです。ですから、天皇というのは、道教の体系をパクってきて、日本で使えるようにアレンジしたものと言ってもいいかも知れません。

この「天皇」という称号の導入の凄いところは、これを使うことによって、天皇家はその他の貴族や豪族とは違うんだよということが明確に分かるということです。天皇は人というより神なんだというイメージの形成はここから始まるわけです。天皇って、天の皇帝ですから、超絶神秘的で、神聖なんだっていう雰囲気を作ることができる呼称なわけです。天皇家は天武天皇の時代になって明確に君主という立場を固めたとも言えると思います。それ以前は豪族の中の豪族というか、一番強い豪族、最強ランクの豪族だから偉い!という感じだったのが、豪族じゃなくて、君主ね。強いから偉いんじゃなくて、生きてるだけで偉いんだよ。ということになったと捉えることができるわけですね。

で、日本の神話とか、天智天皇の大化の改新の事業とかも、この天皇家神聖伝説に合うように再編成されたんだと思います。再編成されたから良いとか悪いとかというものはありません。新約聖書はローマ帝国時代に再編集されたものなわけですが、歴史なり理論なり哲学なりというものは再編集を繰り返すことで洗練されていくものだと言えると思います。




天智天皇の晩年の挫折

中大兄は中臣鎌足とタッグを組み、まずは大敵の蘇我入鹿を倒した後、次々と政敵を倒して権力の全てを自らの手中に収めます。孝徳天皇とか、有間皇子とか、容赦ない目にあわされているわけですし、ちょっと詳しく調べてみると、そのサイコパスぶりにぞっとするほどです。

中大兄の政治手法の特徴は自分が天皇になるのは慎重に避け、傀儡を推し立てて後ろから全体の糸を引くというものです。特に孝徳天皇の時はそれが顕著だったわけですが、孝徳天皇の謎の崩御の後、一度は天皇から退位した母親を引っ張り出して、再び天皇に即位させます。お母さんだったら裏切る心配はないので、安心といったところなのかも知れません。

で、このお母さんに天皇をしてもらっているときに、日本を取り巻く国際社会が大きく変動します。日本の友好国の百済が滅亡してしまうんです。百済は朝鮮半島の日本に近い方に位置する王国で、国王の息子さんが日本に人質的な感じで送られてきたりしていたので、日本優位の同盟関係を結んでいた相手ということになります。現代で言えばアメリカと日本の関係みたいな感じかもしれません。戦国時代で言えば信長と家康みたいな感じでしょうかね。ただ、人質をとっていたからと言って、百済を奴隷のごとく見下していたかというとそういうわけではなかったようです。安全保障について責任を感じていたらしく、百済滅亡の報に接すると、中大兄はお母さんと一緒に博多方面まで出張し、朝鮮半島での戦争の準備に入ります。ところがここでお母さんが病死してしまいます。陣中での病没ですから、お母さんも心身が疲労していたのかも知れません。とはいえ68歳まで生きたわけですから、当時としては充分生きたと言えるとも思います。

中大兄はお母さん以上に便利に使える天皇がいないため、いよいよ自分が天皇になるしかないか・・・とも思うのですが、しばらくは天皇に即位せず、即位予定者の立場で政治をしたそうです。往生際悪いですね。どうしても天皇をやりたくなかった、できるだけやりたくないというのが実によくわかります。想像ですが、天皇になっちゃうと人々の関心は次の天皇は誰?に移ってしまうため、自分の影響力が相対的に低下し、レームダック化する時期が近付くということを気にしていたのかも知れません。中大兄は弟を後継者としていましたが、後に息子が生まれちゃうんです。一番悪いパターンですね。豊臣秀吉にとっての秀頼みたいな感じですね。遅すぎる男の子だったわけです。中大兄には自分が死んだら弟が自分の息子を殺して天皇の位を簒奪するという未来が見えていたのかも知れません。多分、弟を殺したいと思っていたはずです。弟の方もですね、意思と能力の両方の面で史上最強の弟で隙あらばと虎視眈々だったと思います。

中大兄は弟を殺している場合ではありませんでした。朝鮮半島での戦争に片を付けるのが先だったんです。白村江の戦いが行われました。白村江は日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったわけですが、あまり深く考えずに突撃した日本側が、よく整理された戦闘隊形で臨んだ唐サイドに対してほぼパーフェクト負けしたとも伝えられています。日本海海戦のバルチック艦隊みたいな目に、この時は日本艦隊側があわされたという感じのようです。海が日本兵の血で赤くなったということですから、The Coveという映画のイルカ漁の現場みたいになっていたのかも知れません。実際に同時代に生きていたらめっちゃ怖いですよね。

中大兄は敗戦ですっかりびびってしまい、まずは都を大津に移します。大津は比較的内陸にありながら大河が大阪湾までつながっているため、船による情報伝達がやりやすいというメリットがあったのかも知れません。九州には水城という砦を築き、兵隊を大量に九州地方に送り込みます。防人と呼ばれた男たちですね。で大津宮でいよいよ天皇に即位し、そうして先ほど述べたように、自分の次は誰でしょうゲームになってしまいます。

晩年の中大兄、即ち天智天皇の人生は全くぱっとしません。もっとも頼りにしていた中臣鎌足は病没してしまいます。敗戦で打ちひしがれ、史上最強の弟が自分の息子を殺そうとプランを練っているであろう難しい時期に死なれちゃったわけですから、天智天皇は心細かったに違いありません。鎌足が亡くなった後、弟を日本史上初の太政大臣に任命します。太政大臣という仰々しい役職に就かせることで、天皇への忠誠を誓わせようとしたんでしょうね。今でいえば、首相が自分の首を狙ってきそうなライバルの政治家を副総理に任命したりするような感じだと思います。で、首相の首をとりたい政治家は官房長官を辞任したりしますけど、これも理屈としては同じで公式な役職についていると、その時の政権に忠誠を誓わないといけないので、そういう風にすることで弟を封じ込めようと思ったんだと思います。そんなこんなでおおわらわのうちに、唐からは敗戦を認めろよという話が来て、日本は敗戦国の立場で遣唐使を送ることになります。

弟を太政大臣にすることで、要するに最大の敵を自分の近くに置くことで、後は機会を見て弟を殺す予定だったと思いますが、その前に天智天皇は病没します。一説では他殺説もあります。当時の天智天皇は40代ですから、病死するにはまだ早いんですよね。弟に殺された可能性も否定しにくい感じのようです。

蘇我入鹿を殺してから20年以上の間、独裁的に政治を行い、邪魔者を殺してきた天智天皇ですが、以上のようにして運が尽きたまま治世を終えました。そして弟が天智天皇の息子を殺して天下を獲り、天武天皇になるわけですが、天武天皇についてはまた次回以降で。




中大兄の独裁【やりすぎ天智君】

蘇我入鹿が中大兄によって殺害された翌日、入鹿の父親の蝦夷が自害し、蘇我氏本宗家は滅亡します。蝦夷が死んだ翌日に中大兄の母親の皇極天皇は、彼女の弟の軽皇子に皇位を譲り、軽皇子は孝徳天皇になるわけです。で、入鹿が殺されてから孝徳天皇が即位するまで僅かに二日ですから、おそらくは綿密な打ち合わせが事前になされていたのだろうという気がしますね。で、中大兄は母親が元天皇で、おじさんが今の天皇で、それを自分が糸を引くという感じになるわけですから、蘇我氏を排除してから、中大兄サイドでいろいろなことが固められたと言っていいと思います。孝徳天皇は都を飛鳥から難波宮へうつしますが、これも中大兄の意思によるものと見て問題ないと思います。蘇我氏を倒したことにより、新しい政治が始まって、勝利者としての中大兄や孝徳天皇の景気のいい、明るい団結した感じをですね、当時の彼らの心境を少し想像すれば、すぐに理解できると思います。ポスト蘇我氏をエンジョイしているという感じでしょうか。入鹿が謀殺される際に、蘇我氏の人物でありながら中大兄に協力した蘇我倉山田石川麻呂という人物がいるんですが、彼は孝徳天皇の時代に謀反を計画したっていう、証拠とか全然見つからないような罪で追い詰められて自害させられているんですが、要するに中大兄と孝徳天皇にはめられたわけで、用済みだから殺されたと見るのが正しいと思います。まあ、そのような謀殺も協力してやるわけですから、中大兄と孝徳天皇は仲が良かったことは絶対に確かだと思うんですね。

ところが、そのようなハネムーン期はあまり時を経ずして終了してしまいます。仲間割れってやつですね。中大兄は難波宮から飛鳥へと都を戻すことを主張するんですが、孝徳天皇は受け入れず、結果、中大兄は飛鳥へ帰り、孝徳天皇は難波宮にとどまるという形になります。興味深いのは孝徳天皇の皇后である間人皇女(はしひとのひめみこ)という女性がいたんですが、この人は中大兄の妹なんですけど、彼女も中大兄について一緒に飛鳥に帰るんです。ですから、朝廷が分裂したというよりは、孝徳天皇が中大兄に見捨てられて、孤立しちゃって難波宮に取り残されちゃった、みたいな感じだと思った方が実情に近いと思います。このような分裂劇があった翌年、孝徳天皇は亡くなっているんですけれど、ちょっと想像力を膨らませれば、中大兄が人を送って命を奪ったんじゃないかというのはすぐに気づきますよね。この時代は不思議なタイミングで病死する人が多いんですけど、亡くなった方の立場や事情、タイミングとかを考えて、どうも殺されたんじゃないのかな…と思える人ってたくさんいるんですね。今の感覚だとかなり恐ろしいんですが、飛鳥・奈良時代の天皇家ってすさまじいんですよ。孝徳天皇の亡くなり方を見ると、中大兄がいらなくなった人物は捨てて殺すというスタンスで政局に臨んでいたことがよく見える気がします。

孝徳天皇の死後、皇極天皇だった中大兄の母親がもう一回天皇に即位するという、異例のできごとがあるんですが、この天皇が斉明天皇ということになりますね。この斉明天皇の時代になっても、中大兄は孝徳天皇と仲たがいになったことを忘れたわけじゃなくて、孝徳天皇の息子の有間皇子に対して謀反の疑いをかけ、有罪の決定をして処刑してしまっています。有間皇子が生きていた場合、天皇の息子ですから、皇位継承を主張することができるわけで、孝徳天皇の影響を完全に排除したいと思った中大兄は有間皇子を操るんじゃなくて、殺すことにしたと考えていいわけですから、邪魔者は躊躇なく排除する中大兄の冷徹さのようなものを見出すことができると思います。有馬皇子の訴因みたいなことをちょっと考えてみたいんですが、蘇我赤兄という人物が皇子に近づいてですね、「あなたのお気持ちは分かりますよ。中大兄にお父上を排除されちゃって、そりゃ、お悔しいですよね。みなまで言わなくてもとてもよく分かります。だって、私たち蘇我氏も、中大兄にやられちゃったんですから」みたいなことを言われて、あー理解者がいてくれるんだと有馬皇子は思っちゃって、二人は打倒中大兄で意気投合しちゃったって話らしいんですね。多分、お酒と肴の用意された席で、ほろ酔いで、あんまり本気じゃない会話だったと思うんですよ。で、蘇我赤兄がその時のことを密告して有間皇子が逮捕されたわけですから、ぶっちゃけ思いっきりはめられてますよね。蘇我赤兄にとって中大兄は本家が潰された仇みたいな存在みたいなはずなんですけど、こんな風に密告してご機嫌とるって、全く見るべきところがないというか、さっきの石川麻呂もそうですけど、蘇我氏で生き残ったやつってろくなのがいないのかよって気骨の無さに気の毒なくらいに思えちゃいますよね。

中大兄のサイコパスぶりは、政敵を陥れて潰しにかかるということだけじゃなくて、額田王を弟と取り合ったりすることにも現れていて、知れば知るほど恐ろしいんですが、そういった強権ぶりはいつまでも続いたわけじゃなくて、朝鮮半島での戦争で失敗して彼は一機に追い詰められていくことになります。それはまた次回ということで。ありがとうございました。



蘇我氏の滅亡【日本史探訪】【やりすぎ天智君】

蘇我氏は天皇家から恨まれてもおかしくないほどに業が深いんですよね。聖徳太子は馬子にやられたし、聖徳太子の息子の山背大兄王は一族全員、蘇我入鹿によって根絶やしにされていますから、天皇家の側の人間としては蘇我氏に対して危機感を抱くのは当然と言えます。うっかりすれば、たとえ天皇家の人物であっても、蘇我氏にやられちゃうという恐怖はあったし、臣下の身分である蘇我入鹿によって皇室の人間が殺されるという事態に対して、復讐しなければならないという思いもあったと思います。それを実現したのが、中大兄皇子、後の天智天皇ということになるんですね。

中大兄皇子と中臣鎌足は協力してタッグを組んで蘇我入鹿謀殺を計画するんですが、多分、中大兄が中心になっていて、鎌足はその補佐役だったんじゃないかなと思います。というのも、中大兄の人生を見ていくと実に血なまぐさいです。しかも弟から恋人の額田王を奪ったりとかしてますから、かなり気性の激しい人物なんですよ。ですんで、当時の日本の政界で最高実力者だった蘇我入鹿を本当に殺してしまおうと考えつく人物がいるとすれば、それはやっぱり中大兄だと思うんですよ。伝承では中臣鎌足が思いついたってことになってますけど、それはおそらく、鎌足の息子の藤原不比等がそういう風に創作したんじゃないかなと思いますね。不比等は自分のことを大きく見せるために、父親が如何に偉大なのかということを喧伝しようとしたふしがあるわけです。当時は本人よりも先祖がえらいかどうかで人物の値打ちが測られてしまいますし、藤原氏は鎌足が初代ですから、鎌足が偉かったということにしないと、不比等としては血統の優位性を保つことができないというそういう現実的な必要があったのだろうと思います。いずれにせよ鎌足が中大兄に協力した理由としては、中臣氏が日本神道の祭祀をつかさどる家柄というのが大きかったと思います。蘇我氏が仏教オンリーで押していた時代に、なんとか神道の方の命脈も保ちたいと考えたはずです。蘇我稲目と物部のおこしとの宗教戦争の時は、物部氏が負けちゃいましたけれど、中臣は物部サイドの家柄だったんです。鎌足は出身地が関東地方らしいんですが、こういうのも、戦争の時に負けて大和からうんと遠いまだまだ未開地だった東日本に追いやられていたと考えれば筋が通るし、それにどうにか大和に復帰できた鎌足としては、蘇我氏への復讐心もあるし、蘇我氏をやらなければいつか自分がやられるんじゃないかというそれは相当な不安はあったと思います。

要するに、中大兄としては、聖徳太子と山背大兄王という皇室の人物が殺されて、いずれ自分もやられかねないという不安と恐怖、それから復讐心があって、鎌足にも同じような感情があって、二人による蘇我氏への復讐ってことになったわけなんですね。

中大兄にはあんまり有名じゃないんですけど、お兄さんがいてですね古人大兄皇子と言うんですよ。この人もですね、蘇我氏が滅亡した後に中大兄に殺されているんですね。古人大兄皇子の場合、蘇我氏が次の天皇と思ってかわいがっていた人らしいんですが、頼みの綱の入鹿とそのおやじの蝦夷が死んじゃって、怖くなって出家して吉野へ逃げたんですよ。で、そこへ中大兄が、こいつは謀反を企んでるという理由をつけて兵隊を送り、殺している。中大兄ってかなりのサイコパスですよね。他にも邪魔ものは次々と殺していくんですけど、それについては次回以降、また述べたいと思います。

それで、蘇我入鹿が謀殺された当日のことなんですが、三韓の使者が来ているからということで、その儀式のために呼び出されて宮中に入鹿は向かいました。三韓というのは、朝鮮半島の3つの王国である高句麗と新羅と百済のことのようです。で、そんな儀式って普通に考えるとおかしいんですよ。この3つの王国は、それぞれ覇権を争ってしのぎを削っていますから、仲良く三人並ぶなんて、ちょっと考えにくい。しかも、使者が皇極天皇の前に並ぶということなんですが、それって朝貢外交スタイルってことになりますけど、朝鮮半島の国からするとわざわざ大和王朝に朝貢する理由なんてないんですよ。みんな顔は中国の隋とか唐の方に向いているわけですから。敢えて言えば百済の場合は日本の後ろ盾を得ることで新羅、高句麗に対抗しようとしていたようですから、百済の朝貢はあり得ても、3つとも来るなんて、考えにくいわけですね。ですから、このような催し自体、実は入鹿をおびよせるための偽の外交儀礼だった可能性は充分にあります。

入鹿が会場に入ろうとすると、道化が出てきて、剣を渡せと言ったそうです。入鹿は文武両道に優れていて、剣も達人級だったそうなんですが、中大兄としては入鹿から剣を取り上げておきかったんでしょうね。道化に剣を出せと言われた入鹿は多分、心理的な抵抗はあったはずなんですが、やっぱり道化に剣を渡しています。多分、当日の雰囲気は、これは外交儀礼というよりは国際交流だから、気楽に楽しくしましょうよ。というような雰囲気があって、それを道化が盛り上げていたんだろうと思います。道化がどんないでたちをしてたのかというのは全然分かりませんけれど、多分、結構楽しい雰囲気のいでたちをしていたに違いないと私は思います。なぜかというと、飛鳥地方にはいろいろな石のオブジェが残っているんですが、それが亀とか猿とか楽しい動物のものが結構あるんですよね。あつまれ動物の森みたいな楽しさがあるわけです。そういう楽しい動物の演出が好きな感性の人たちが飛鳥地方の都にいたということができると思いますので、道化もそれにふさわしい楽しい感じの人たちだったんじゃないかなって思うんですね。それで入鹿も油断があって、抵抗しきれずに剣を道化にわたしちゃったんじゃないでしょうか。

そういうわけで丸腰になった蘇我入鹿がしかるべきところに座ってですね。その隣には入鹿のいとこの蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)が座るという感じになっていたようです。この石川麻呂という男も中大兄の一味に入っていたんです。要するに同じ蘇我氏の入鹿を裏切って、中大兄についているわけです。多分、入鹿が死んだら俺が蘇我氏をしきるぜくらいに思っていたと思うんですが、実際には蘇我氏そのものがだめになっちゃって、石川麻呂も後に中大兄に言いがかりをつけられて自害に追い込まれています。やっぱり、裏切り者って駄目なんですよ。ろくな末路を迎えませんねえ。小早川秀秋だって普通に考えれば毒殺ですよね。人を裏切らないのがやっぱり一番だっていう教訓ですね。

で、この石川麻呂が文書を読み上げると、その瞬間に入鹿にみんなでとびかかって殺すってことになっていたんですが、みんな怖がって動こうとしないわけですよ。入鹿は丸腰ですから、まず大丈夫なはずですけど、万が一失敗したら我が身が滅びると思って、びびっちゃってるんですね。いかに入鹿が怖かったか、よく分かりますよね。で、中大兄が飛び出して斬りつけた。やっぱり登場人物たちの中では、中大兄が一番腹が座っている感じがしますね。第一撃で絶命しなかった入鹿は皇極天皇に助けを求めます。私は何も悪いことをしていないのですから、お助けくださいというわけです。ところが中大兄が、こいつは天皇家ののっとりを企てていますって皇極天皇に言います。皇極天皇は中大兄の話を信じて、その場を去っていきます。中大兄に対して、私は関与しないから、充分にやりたいようにやれというわけです。皇極天皇は女の人で、中大兄の母親ですから、そりゃ、入鹿よりは中大兄の味方をしますよね。道化に剣を渡さなければ、入鹿はもうちょっと戦えたかも知れませんが、気の毒なことにそういうわけではなかったので、皇極天皇がその場から立ちさった後、中大兄に討ち取られます。入鹿の父親の蝦夷は翌日自宅で自害し、自宅には火が放たれたそうです。一日時間差があるというのは、蝦夷がなんとか形成挽回できないかと試みたということだと思うんですが、中大兄の工作の方が巧妙だったんでしょうね。もはやこれまでということになったんだと思います。古代の天皇家って本当にいろいろな意味で血塗られていますけれど、中大兄あたりはそのハイライトみたいな感じです。




天智天皇と天武天皇の世代を超えた確執

まず、天智天皇ですが、この人はなかなかの策謀家です。もちろん、中臣鎌足という稀有なブレーンを得ていたからですが、飛鳥時代後半はこの二人が一世を風靡します。歴史の表舞台に華々しく登場したのは言うまでもなく乙巳の変によって蘇我入鹿を殺害し、蘇我本宗家を滅亡させたことによりますが、その後、先頭には立たずに軽皇子を孝徳天皇に即位させ、自分は黒幕になります。

蘇我入鹿殺害の時に蘇我氏を裏切らせて自分の仲間に引き入れた蘇我倉山田石川麻呂に難癖をつけて家族もろとも自害させ(要するに殺害し)、孝徳天皇のことも多分、増長してきたから気に入らなかったのだと思いますが、暗殺した可能性が大変高いです。孝徳天皇の息子の有馬皇子も内乱準備を共謀した罪で絞首刑です。要するに天智天皇と中臣鎌足で乙巳の変協力者を順番に殺して政権の果実を自分たちに集中させるという作業を一歩づつ続けたという言い方もできるように思います。当時のことを映像で想像しただけでも恐ろしいです。孝徳天皇の次の天皇は自分の母親の皇極天皇を重祚させて斉明天皇とし、やはり自分は黒幕に徹します。

母親の死後、ついに自身が即位しますが、そこで大きく躓いてしまいます。白村江の戦いで敗戦し、びびった天智天皇は大津に遷都します。白村江の戦いの時には額田王に和歌を詠ませて戦意高揚も図りましたが、回復不可能なほどの大敗北で、同盟国の百済からの亡命者を大量に受けれることにもなりました。当時、飛鳥地域周辺をくるくる移動して遷都するのが普通で、ちょっと離れた難波宮も放棄しているにもかかわらず、当時としては相当に引っ込んでしまった場所と認識されたであろう大津に引っ越すというのは相当に焦っていた、唐の侵攻に本気でびびっていたことが分かります。

唐の侵攻はなく、日本は敗戦国として遣唐使を送って服属の意思を示すという流れになります。天智天皇は戦争指導に失敗した責任者ですので、結構求心力はないです。周りの人も「えー、近江…?」と思っています。当時の人は飛鳥が一番理想的な土地に決まってるじゃんと信じていたからです。頼りにしていた鎌足も亡くなってしまいます。ピンチです。

さて、そのような窮地に立たされていた天智を支えていたのが弟の大海人皇子です。この兄弟は内心、相当に憎み合っていたようですが、権力維持のために協力し合います。ただ、大海人皇子は内心穏やかではなかったことでしょう。恋人の額田王は天智天皇にとられる。弟に生まれたという理由で自分は永遠に命令される側。才能もあり、英明な人物なだけに、いずれどこかで逆転してみせるという思いがあったに違いありません。

天智天皇が亡くなる時、「次の天皇は息子の大友皇子にするから後はよろしく」と大海人皇子に伝え、大海人皇子は「私は吉野に行って僧侶になりますから、後継者争いの心配はしなくていいですよ」と真っ赤な嘘をしれっと言います。一部には天智天皇は大海人皇子に殺されたのだと言う説もありますが、そこはちょっと分かりません。互いに生きている時から本気で嫌いだったみたいなので、暗殺していたとしても唐突な印象は受けません。

さて、天智天皇は死にました。大海人皇子は自由です。吉野から伊勢に行き、兵隊を集めます。大友皇子サイドも「これは一戦は避けられない」と覚悟して兵隊を集めています。壬申の乱です。結果としては大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害。大海人皇子が天武天皇に即位します。「どうだ、ついにおれはやったぞ」と思ったに違いありません。天智天皇の男性の子孫は「用済み。無用。特に存在理由なし」の状況に立たされ、平和に酒でも飲んで楽しく過ごしているだけなら命は助けてやる。という感じになり、結果、生まれてくる男性は穏やかな人生を送ることになります。一方で、天智天皇の女性の子孫は天武天皇の皇后か妃になる。或いは天智天皇の子孫の皇后か妃になるという人生を送ることになります。男系は天武天皇だが、女系に天智天皇の血を入れることによって文句は言わせないという意思が見てとれます。

さて、このように殺し合いを繰り返して兄の血統を排除し、天武系の花の時代を迎えるはずでした。しかし、天武天皇の死後、皇后が持統天皇に即位しますが、天智天皇の子どもの中で、自分が産んだ草壁皇子を天皇にしようと、ライバルの大津皇子に内乱準備罪みたいな罪を被せて殺してしまいます。天武系の仲間割れが起きたわけです。持統天皇としてはさあ、これで安心。これが楽しみだと思っていたら肝心の草壁皇子が病死。孫がいたのでこの時点ではまだぎりぎりセーフです。天武系が続いています。奈良時代、天武系天皇には聖武天皇と光明皇后のような美しいなあと思えるエピソードのある人たちもいますが、聖武天皇が大仏を作ったり国分寺を各地に作ったりしたのも、天智系と天武系の間の憎悪に疲れ果てて仏さまにすがろうとしたと見るべきかも知れません。

聖武天皇の次に女帝の孝謙天皇が即位し、道鏡のぞっこんになり「皇統なんか知ったことか。道鏡を天皇にしよう」みたいなことになってきて、そりゃいかんと反対者が続出します。道鏡の天皇位簒奪を阻むために天武系の皇子たちが例えば藤原仲麻呂によって擁立されたりしますが、だいたい全部殺されるか追放されるという恐ろしい話になって、ついに天武系の継承者はいなくなってしまいます。

天武系が途絶え、果たしてどうしたものかなあとみんなは悩み「あなたは特に存在理由はないんですよ。死んでも誰も困りませんよ」と教えられて育ったような天智系の白壁王が光仁天皇として即位して、天智系が復活し現代につながる皇統になります。壬申の乱から白壁王の即位まで100年くらい時間が経ってますので、天智と天武の兄弟の確執は決着がつくまで100年尾を引いたことになります。奈良時代は天智系vs天武系の確執の時代であり、天智系勝利確定後、遷都話が持ち上がりますので、或いは天皇家の系統が安定したことを受けて忌まわしい記憶の残る土地からは離れようということだったかも知れません。長い長い憎悪の系譜…と思うと、やっぱりぞっとします…。

天武系に生まれて来た人たちは天皇の位を巡って殺し合って自滅したと言える部分がある一方、天智系の子孫の人たちは「どうせ天皇になれないから楽しく暮らそう。お酒が好きな人はお酒を飲もう。勉強が好きな人は勉強すればいいじゃん」で生きていたのでストレスもなく、喧嘩する理由もなかったので生き延びたという印象もあります。そういう意味では禍福は糾える縄の如しです。或いは、天武系の自滅、要するに敵失によって棚ぼた的に皇位が転がり込んできたという感じがありますので「果報は寝て待て」は本当なのかも知れません。

そうは言っても白壁王も光仁天皇に即位後に皇后とその間にもうけた皇子が「呪いをかけた」という理由で幽閉・死亡(おそらく殺された)といういたましい経験をしなくてはなりませんので、本当に古代の天皇家は大変です。壮絶です。
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天智系と天武系

天智天皇が亡くなり、壬申の乱を経て弟の天武天皇が皇位に就くのですが、「天皇」という呼称は天武天皇から使われるようになったものであるため、天武天皇を実質的な初代天皇だとする学説もあるようです。
 
それはともかく、天武天皇が皇位に就いた時から皇統は天智系と天武系に分かれます。皇位継承の望みがあるのは天武系なので、天武系の皇子たちの足の引っ張り合い、はっきり言えば殺し合いは相当に酷いものです。天武天皇の皇后が持統天皇としてリリーフをしますが、その次の天皇を他の女性が生んだ皇子ではなく、自分の生んだ皇子である草壁皇子を皇位継承者にするため、ライバルになる可能性のある人物をつぶしていきました。

当時の皇室に生まれた人は明日は我が身と冷や汗を拭う思いだったに相違ありません。持統天皇の精力的な政敵つぶしもむなしく、草壁皇子は早世してしまいます。草壁皇子の息子である軽皇子が皇位を継承し、天武系の後継者が奈良時代を築いていくものの、天武系の男系の子孫が潰し合いの果てに適切な人物がいなくなってしまい、天智系の子孫である白壁王に白羽の矢が立ち、彼は光仁天皇として即位します。この白壁王の子孫が今日まで続き、現代の天皇家まで行きつきます。今の天皇家は伏見宮家の系統ですが、伏見宮家も白壁王の子孫になるため、その辺りまるごと天智系になります。北朝も南朝も天智系です。

白壁王が天皇に即位するまでの間、天智系の人々はいわば飼い殺し同然で、面白くはなかったかも知れませんが、後継争いで命を狙われる心配もなく、むしろ平和で仲良く過ごせてそれはそれでよかったのかも知れないなあとも思います。
 
皇位を巡って争った系統の人々ではなく、もう一方の系統が栄えたというのは、何がしかの教訓を含んでいるような気もしますが、それは考えすぎでしょうか。




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