大坂夏の陣と徳川家康戦死説

大坂冬の陣は真田幸村の築いた真田丸によって徳川家康は大阪城攻略を断念するということで一旦幕を引きます。しかし、講和条件が大阪城の外堀を埋めるという、大阪城を無力化するものでしたので、近い将来、もう一回戦あるということを徳川方は十分に考慮していたことは間違いがありません。一方で、豊臣方としては、大阪城が裸同然になってしまった以上、もう一回戦やるとなったら籠城はできませんし、野戦になったら物量で徳川家康に負けるということはだいたい分かっていたはずですから「徳川家康がこれで納得してくれればいいのだが…」という強い不安を感じていたに相違ないと想像します。

徳川方が講和条件にはない内堀の埋め立てを始めたことで豊臣方から待ったがかかり、講和決裂で大坂夏の陣になります。徳川家康は大阪城南方の茶臼山に陣取り、言葉は悪いですが高みの見物で、自分の軍が大阪城を文字通り燃やすところを見届けようという感じだったかも知れないのですが、真田幸村は大阪城での籠城戦が見込めない以上、野戦に打って出るという戦法を選択します。

天王寺あたりで真田幸村、木村長門守の軍が徳川軍と衝突しますが、別動隊が側面から徳川家康の本陣に襲い掛かります。絶体絶命のピンチで敵が圧倒的有利に見えるという時に織田信長桶狭間の戦いで今川義元の首だけに集中するという戦法を取りますが、大変に似ています。おそらく真田幸村の念頭には織田信長のこともあったのではないかと思います。

徳川家康は慌てて逃走し、正史では辛くも逃げ切り、真田幸村が戦死して豊臣方は抵抗力を失い、豊臣家は滅亡します。

さて、この時に徳川家康は実は逃げ切ることができず、戦死したというある種の都市伝説があります。

徳川家康は豊臣氏を滅ぼした翌年に亡くなっていますので、影武者でなんとか生きていることにして、一年くらいでいろいろ方がついたところで死んだことにするというのは、あり得ることかも知れません。

ただ、私個人としては徳川家康は実際に生き延びたのではないかと思っています。大阪城落城の直前、徳川家康の孫で豊臣秀頼の妻の千姫が大阪城から徳川陣営へと送られてきます。千姫は秀頼と淀殿の助命を嘆願しますが聞き入れられず、助命嘆願が不成功であったということを知ってから、秀頼と淀殿は自決しています。この時、助命しないとの最終決断をしたのは徳川家康だったとされています。

もし、徳川家康が戦死していて、最終判断が秀忠に委ねられるという局面であったとした場合、果たして秀忠は秀頼と淀殿の命を奪わないという決断をしただろうかという疑問が私の中に残っています。秀忠はわりと豊臣家に対して融和的で、西国は豊臣氏、東国は徳川氏でいいではないかという考えを持っていたふしがあり、秀忠が真実の最終判断者であれば、二人の命を助けるという選択は大いにあり得たのではないかという気がするのです。また、秀頼と千姫の間に生まれた子の国松も捉えられて斬首されていますが、このような非情な決断は影武者による仮の政権ではできないのではないのではないかとも思えます。本物の徳川家康が覚悟を決めて「やれ」と言わなければ、そうはならなかったのではないかという気がします。大阪で徳川家康が不人気なのは十分に理解できます。

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真田丸の戦術的効果

豊臣秀吉が築いた大阪城が難攻不落とされた所以は二重の堀にあります。特に外堀の場合、背後に淀川という幅の広い川があり、そこから水を引き込んで周囲も川の水で満たしていたわけですが、仮に敵が侵入を試みた場合、水があるとどうしても動きが緩慢になりますので、銃でねらい撃ちできるという効果が期待できました。

銃が西洋から伝来する前から弓矢を用いても同様の効果が期待できたと思いますが、当時は銃の保有数が日本は世界一で、基本的に戦争は銃でやるもので、銃撃をくぐりぬけて来た敵がもしいたとすれば接近戦で刀や槍を使うというようのが一般的だったと理解しています。もっとも、銃は専門性をある程度要求されますので(たとえば私は使い方を全く知りません)、銃の担当者は専ら銃を用い、敵が銃撃をくぐりぬけて来た場合は槍や刀の別の部隊が前面に出ていくということになると思います。また、銃は走りながら撃つとあんまり命中しませんし、突撃中の場合、味方の背中に当たる可能性もありますので、攻める側は当時はやはり刀と槍を重視せざるを得なかったとも思います。

さて、いずれにせよ、堀の水辺でまごまごしている敵を銃撃することを想定して作られた大阪城でしたが、南側の堀だけ水がなく、仮に敵が進撃してくるとすれば、空堀の南側から来るのではないかという危惧が豊臣サイドにはありました。そこで真田幸村が丸く湾曲に突出した砦を築いたのが真田丸です。一体、このような丸いものを突出させて何の得があるのかと私は子どものころ不可思議に思っていましたが、突出した部分があると、敵に対して十字砲火を浴びせることができるという利点があります。

一方からだけの射撃ですと、敵が遮蔽物に身を隠せば足止めはできても討ち取ることはできません。また、ワンサイドからだけの銃撃ですとやがて死角を悟られてそこを狙われてしまいます。ところが十字砲火を浴びせることができるとなると、双方から身を護る遮蔽物はそう簡単に見つかりませんし、移動式トーチカでも用意しなくてはいけないということになります。また、同時に二倍の銃弾を撃ち込むことができるため、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるを地でいくことができ、とても有利になります。

要するに凸凹にさえなっていればそれでオーケーで、凸凹形式を発展させたものが北海道の五稜郭になります。五稜郭はよく見ると五芒星のそれぞれの突端が更にぐにゃぐにゃとしていて、十字砲火を何重にも浴びせられることを狙った構造になっています。

この真田丸を作ったことにより大坂冬の陣では真田幸村は見事大阪城を守り抜き、徳川家康は諦めて一旦休戦というか、外堀を埋めるという条件で講和します。ですが、徳川方が内堀も埋め始めたために「話が違うじゃないか」と決裂。大坂夏の陣になります。大坂夏の陣では堀がなくなってしまったために籠城戦は不可能と見て真田幸村は野戦を選びますが、あと一息というところで戦死してしまいました。

大阪で徳川家康がやたら不人気なのは、いちゃもんつけて騙し討ちというのが理由として挙げられると思います。ただ、豊臣秀吉も織田政権乗っ取りの時に随分あこぎなことをしていますので、どっちもどっちと個人的には思います。

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