加藤高明首相が急逝したことを受け、西園寺公望は憲政会の若槻礼次郎を首相に指名し、第一次若槻礼次郎内閣が登場します。若槻礼次郎内閣の時代に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚・即位しています。
若槻礼次郎内閣での最大の出来事と言えば、やはり渡辺銀行の「結果的」な破綻とそれに続く昭和金融恐慌と言えるかも知れません。当時、松島遊郭移転に伴い代議士に対して不正な金銭の授受があったのではないかとの疑惑が広がり、現職の若槻礼次郎が予審を受けるというスキャンダラスな事態が展開しており、国会は空転していましたが、若槻礼次郎が政友会と政友本党の総裁と直に談判し関東大震災の復興のための国債発行の協力を取り付けることに漕ぎつけており、どうにかこうにか内閣は空中分解寸前でフラフラと飛び続けるという状態だったとも言えます。政友会は当時定着しつつあった「憲政の常道」に基づいて、若槻礼次郎が総辞職すれば、次は自分たちが与党になれるという目論見が生まれ、かえって党派党略で混乱を招こうとしていきますので、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響の両方で、金融機関はどこも時限爆弾を抱えているような状態になっており、そういう時に政局が混乱して権力争いが深刻化したことは日本人にとってはいろいろな意味で不幸なことと言えるかも知れません。
1927年の3月14日、東京渡辺銀行から大蔵省に「今日中に破綻する」との連絡が入り、そのメモが帝国議会に出席していた片岡大蔵大臣に届きます。片岡大蔵大臣は答弁の際に「本日、渡辺銀行が破綻いたしました」と述べ、翌日の新聞にそれが掲載されて各地で取り付け騒ぎが起き渡辺銀行は本当に破綻してしまいます。メモを見ただけの片岡大臣が詳しいことを把握しないまま、さっそく議会で言ってしまうことには多少の疑問符が残りますが、若槻礼次郎内閣は議会運営で苦労していますので、話題や関心を渡辺銀行に向けさせることで、ちょっとは内閣批判が逸らされるのではないかという、ある種の甘い期待が片岡大臣の心中に芽生えたのではないかという気がしなくもありません。
いずれにせよ、上に述べたように、若槻礼次郎が野党の党首に「禅譲」を事実上約束することで、震災手形の発行に漕ぎつけ、なんとかなりそうに見えたのですが、新しい手形の発行には「台湾銀行の整理」が条件の一つに書き加えられていたため、今度は台湾銀行の破綻懸念が広がります。若槻礼次郎は議会が閉会中であったため、緊急勅令という形で日銀特融による台湾銀行の救済に動きますが、あろうことか枢密院がそれを拒否。台湾銀行は休業に追い込まれ、若槻礼次郎内閣は総辞職します。枢密院のメンバーには、憲政会に批判的な人物が多く、これをきっかけに若槻下しをしようという意思が働いたとも言われています。
与党の総裁が失政によって首相を退陣したことから、憲政の常道にのっとり、政友会の田中義一が首相に指名されます。田中義一内閣は満州謀重大事件で総辞職しますが、いよいよきな臭い時代に入っていくことになります。
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