第一次若槻礼次郎内閣

加藤高明首相が急逝したことを受け、西園寺公望は憲政会の若槻礼次郎を首相に指名し、第一次若槻礼次郎内閣が登場します。若槻礼次郎内閣の時代に大正天皇が崩御し、昭和天皇が践祚・即位しています。

若槻礼次郎内閣での最大の出来事と言えば、やはり渡辺銀行の「結果的」な破綻とそれに続く昭和金融恐慌と言えるかも知れません。当時、松島遊郭移転に伴い代議士に対して不正な金銭の授受があったのではないかとの疑惑が広がり、現職の若槻礼次郎が予審を受けるというスキャンダラスな事態が展開しており、国会は空転していましたが、若槻礼次郎が政友会と政友本党の総裁と直に談判し関東大震災の復興のための国債発行の協力を取り付けることに漕ぎつけており、どうにかこうにか内閣は空中分解寸前でフラフラと飛び続けるという状態だったとも言えます。政友会は当時定着しつつあった「憲政の常道」に基づいて、若槻礼次郎が総辞職すれば、次は自分たちが与党になれるという目論見が生まれ、かえって党派党略で混乱を招こうとしていきますので、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響の両方で、金融機関はどこも時限爆弾を抱えているような状態になっており、そういう時に政局が混乱して権力争いが深刻化したことは日本人にとってはいろいろな意味で不幸なことと言えるかも知れません。

1927年の3月14日、東京渡辺銀行から大蔵省に「今日中に破綻する」との連絡が入り、そのメモが帝国議会に出席していた片岡大蔵大臣に届きます。片岡大蔵大臣は答弁の際に「本日、渡辺銀行が破綻いたしました」と述べ、翌日の新聞にそれが掲載されて各地で取り付け騒ぎが起き渡辺銀行は本当に破綻してしまいます。メモを見ただけの片岡大臣が詳しいことを把握しないまま、さっそく議会で言ってしまうことには多少の疑問符が残りますが、若槻礼次郎内閣は議会運営で苦労していますので、話題や関心を渡辺銀行に向けさせることで、ちょっとは内閣批判が逸らされるのではないかという、ある種の甘い期待が片岡大臣の心中に芽生えたのではないかという気がしなくもありません。

いずれにせよ、上に述べたように、若槻礼次郎が野党の党首に「禅譲」を事実上約束することで、震災手形の発行に漕ぎつけ、なんとかなりそうに見えたのですが、新しい手形の発行には「台湾銀行の整理」が条件の一つに書き加えられていたため、今度は台湾銀行の破綻懸念が広がります。若槻礼次郎は議会が閉会中であったため、緊急勅令という形で日銀特融による台湾銀行の救済に動きますが、あろうことか枢密院がそれを拒否。台湾銀行は休業に追い込まれ、若槻礼次郎内閣は総辞職します。枢密院のメンバーには、憲政会に批判的な人物が多く、これをきっかけに若槻下しをしようという意思が働いたとも言われています。

与党の総裁が失政によって首相を退陣したことから、憲政の常道にのっとり、政友会の田中義一が首相に指名されます。田中義一内閣は満州謀重大事件で総辞職しますが、いよいよきな臭い時代に入っていくことになります。

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加藤高明内閣

憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派が衆議院で多数派を形成し、憲政会総裁の加藤高明が首相指名されます。

加藤内閣では普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ基本条約を成立させて、日本とソビエト連邦の間の国交を樹立します。悪名高き治安維持法ですが、当時の空気としては普通選挙法で有権者の数が急増することと、ソビエト連邦との国交樹立で共産主義思想が日本に輸入されやすくなることとから、共産主義者が増えるのではないかということに、権力が危機感を持っていたということが伺えます。ただ、ソビエト連邦との国交樹立については、経済界からその要望が強く、普通選挙法も民主国家としてはいずれやらなくてはいけないことですので、治安維持法とセットにすることで反対者を納得させたという面もあったのではないかと思います。この時の陸軍大臣だった宇垣一成が二個師団の軍縮を行っていますので、いろいろ仕事をした内閣だったということは言えそうです。

ソビエト連邦との樹立では、日本軍が進駐していた北樺太から撤退することを条件に、北樺太資源を日本に提供するという交換話が成立しており、なんとなく今の北方領土問題と似ているように思えなくもありません。

加藤高明は護憲三派による連立内閣でしたが、憲政会と政友会のつなぎ役をしていた横田千之助が急死したことを受けて政友会が連立政権から離脱する動きを見せ、加藤高明下しを始めます。加藤高明は内閣総辞職の辞表を提出しますが、裕仁摂政宮はそれを受理せず、再び加藤高明に組閣が命じられます。首相の指名権を持つ元老の西園寺公望は元々は政友会の総裁までやった人ですが、横田千之助が亡くなった途端に加藤下しを始めたことが、美学に反すると感じ、加藤を続投させることに決めたと言われています。

加藤は憲政会だけの少数与党で続投しますが、4か月後に急死してしまいます。少数与党だと何もできませんので、やはり相当な心労が重なったのではないか推量できます。

加藤の後継者には憲政会の若槻礼次郎が首相に指名されており、西園寺公望の憲政の常道は維持するという意思を見ることもできるでしょう。その後しばらくの間、憲政の常道にのっとった形での首相指名が続きますが、やがてそれがダメになり、西園寺が育てた近衛文麿によるエスタブリッシュメント内閣で滅亡への道を全力で突っ走ることになります。

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清浦奎吾内閣
第二次山本権兵衛内閣
加藤友三郎内閣

清浦奎吾内閣

清浦奎吾は第一山本権兵衛内閣がシーメンス事件で辞職した後に、組閣を命じられますが、人材が集まらずに組閣に失敗し、鰻の香りはかげたがうな丼は食べられなかったと揶揄されます。

その後、第二次山本権兵衛内閣が虎の門事件で総辞職し、再び清浦圭吾が首相に指名されます。ただし、衆議院の選挙をするのが主目的みたいな内閣で五か月だけの短命内閣です。

人生で二度も首相に指名されることは普通では経験しないことですが、一度目は組閣そのものに失敗し、二度目は短命内閣で、運が良いのか悪いのかよく分からない感じの人です。

清浦奎吾は山県有朋系人脈に入る人で、政党政治には批判的であり、議会に束縛されないことを目指す「超然主義」内閣を作ります。貴族院の議員を中心に組閣しており、衆議院からは閣僚をとらないという姿勢で臨んでおり、衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部が共闘し、護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こします。

清浦奎吾は対抗策として衆議院を解散しますが、その結果、清浦内閣に批判的だった護憲三派が圧勝し、清浦奎吾は「憲政の常道」に従う形で総辞職します。

清浦奎吾の後は衆議院で第一党になった憲政会の加藤高明が首相に指名されます。首相指名の権利を持つ元老会議が、第一党の首相を指名するという憲政の常道にきれいに従った形での内閣です。

清浦奎吾という人は、悪く言えば時代錯誤な感じの人だったように思えます。国権が民権を超越するという山県有朋の政治思想をそのまま受け継ぎ、実践しようとしていた人とも言え、西園寺公望のような人から見れば、そもそも首相に指名するには相応しくないと思えたでしょうけれど、いい意味で言えば困った時の清浦奎吾という面もあり、山本権兵衛内閣が総辞職した後に、いろいろな後始末や後続の人たちのための露払いをさせる、敢えて汚れ役をやってもらうという感じなところがあり、西園寺公望は上手に清浦奎吾を利用したと言えますが、清浦奎吾の方でも上手に利用されてやることで、二度も首相指名を獲得したと見ることもできるかも知れません。

大正時代は「憲政の常道」「護憲運動」など、立憲主義が世の中に漂い、果たしてあるべき民主主義とは何かということを政治家も国民も手探りながらに真剣に考えていた時代とも言うことができ、そういう面で魅力的な時代だなあと思えます。

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加藤友三郎内閣
高橋是清内閣
原敬内閣

第二次山本権兵衛内閣

第二次山本権兵衛内閣の最大にして焦眉の急でもあったことが関東大震災対策です。前任の加藤友三郎首相が病没したことをうけ、次の人選が模索されている中での不測の事態を受けて急いで組閣が行われました。

この内閣で内務大臣兼帝都復興院総裁を担当した後藤新平は30億円の復興予算を打ち上げ、物議を醸します。大正9年の一般会計が13億円とかそれくらいですので、30億円は今で言えば、国家予算が100兆円くらいですので、200兆円くらいという感じかも知れません。とてつもない金額で、公債、外債で何とかするという手段はあったかも知れないのですが、こういう時に公債という手段をすぐに発案しそうに思える高橋是清も反対意見で、予算は大幅に削られ、最終的には6億円に足りないくらいの規模のものになってしまいます。それでも当時としてはかなりの金額だったのかも知れません。

時々、関東大震災の余波が経済的な発展の遅延という形で現れ、満州にフロンティアを求める遠因になったという説明を読むことがありますが、実際には関東大震災の結果、東京はよりモダンな都市に変貌し、30年代には相当に成熟した都市文化を形成していきます。当時は大阪の方がモダン度は高かったようなのですが、30年代になれば全然大阪に負けてないくらいのところまで行っていたとも言えそうなので、飽くまでも結果としてですが、東京は一機に世界都市にステップアップすることになりましたから、関東大震災とその後の日中戦争を経済的な観点から結びつけるのはいかがなものか…と思わなくもありません。経済という意味ではその後の世界恐慌と昭和恐慌が日本人の不安をより強める要因になったと思いますが、高橋是清がうまくやっていますので、やはり経済的な理由だけで昭和の日本の拡大主義を説明するのは無理があるのではないかという気がします。

ただ、心理的な衝撃は大きく、もはや海外に新天地を求めるしかないのではないかという心境になった人、あるいはそう信じた人は多かったかも知れません。昭和恐慌も不安を輪にかける形になり、海外志向、または拡大志向が強くなるというのは理解できそうな気もします。谷崎潤一郎の場合は関東大震災で「こんなところには居られない」と考えて関西に移り住み、結果として『春琴抄』と『細雪』という代表作と書くことになります。近代文学で関西を最も美化した作品と言ってもいいように思えます。『細雪』を読んで関西で暮らしたいと思うようになった人は多いのではないかと私は想像しています。谷崎は他にも関東と関西の美食の違いのようなものを書いていて、和食の関西の勝ち、洋食は関東の勝ちと結論しています。

いずれにせよ、関東大震災の復興のために奮闘した第二次山本権兵衛内閣ですが、裕仁摂政宮がアナーキストの青年に襲われる虎ノ門事件が起き、その責任を負う形で総辞職します。摂政宮は慰留したそうですが、それでも辞意は固かったとのことです。アナーキストの青年が摂政宮を襲撃しようとした背景には、関東大震災後に大杉栄が甘粕正彦大尉に殺害される(陰謀論もあるようですが…)など、官憲による社会主義者やアナーキストへの弾圧があり、復讐心と義侠心の混在したような心境で虎の門事件を起こしたのではないかと思えます。

第二次山本権兵衛内閣が終了した後は、清浦奎吾がリベンジマッチで内閣を組織することになります。

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原敬内閣
第一次山本権兵衛内閣
寺内正毅内閣

加藤友三郎内閣

高橋是清内閣が人事の紛糾で崩壊した後、次の首相候補として有力視されたのは、原敬→高橋是清ラインに対して常に敵対姿勢を貫いていた憲政会の加藤高明が有力視されていました。高橋是清の政友会としては、加藤高明政権を阻止するため、軍人宰相を企図し、海軍の加藤友三郎を元老会議に推薦します。当時、元老会議には松方正義が存命で、松方を抱き込む形での無理無理な首相指名です。

衆議院で多数派を形成できないと首相は非常にやりにくいということを知っていた加藤友三郎は、衆議院に自分の基盤がないことで一旦は固辞しますが、憲政会が全面協力するという約束で、松方の了承もあって、首相就任を受け入れます。加藤友三郎はワシントン軍縮会議の直接の担当者であり、首相の立場になれば当然それを粛々と実行します。当時は軍事費が財政を圧迫していましたので、まともな措置と私には思えます。「海軍が軍縮しているのだから」という、お隣さんがそうだから論法で陸軍も軍縮を受け入れざるを得なくなり、陸軍大臣山梨半造のもとで、山梨軍縮と呼ばれる軍縮が行われることになりました。だらだらと続いて金だけかかるシベリア出兵も中止されます。

財政圧迫の要因は、現代では社会保障費で、当時は軍事費、というのはよく時代を映していると思えます。

「軍事費」に制限をかけなくてはいけないという世論が形成されたことに陸海軍は危機感を覚えるようになり、やがて「予算が獲れるのなら戦争してもいい。というか戦争したい」という、現代の我々の視点から見れば馬鹿げていると思える発想法は、大正時代の軍縮に求めることができるかも知れず、時間をかけて少しずつ形成された発想法であるために、昭和初期の軍部でもそれが当然と思えるところまで行ってしまったのではなかろうかという気もします。

ワシントン軍縮会議のけりがついて一息でいれて、さあ、これからという時に加藤友三郎は病没してしまいます。やはり軍縮は軍部からの反対が強かったでしょうから、精神的な負担が強かったのかも知れません。

加藤友三郎の急逝を受けて後継首相選びをしている最中に関東大震災が起きてしまい、内田康哉を臨時首相にして対応しつつ、急いで山本権兵衛が次の首相に決められ、第二次山本権兵衛内閣が登場することになります。この時代では、裕仁親王が摂政宮をしていて、山本権兵衛は裕仁親王によって任命されています。

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寺内正毅内閣
第二次大隈重信内閣
第一次山本権兵衛内閣

高橋是清内閣

原敬首相が東京駅で暗殺されるという不測の事態を受けて、高橋是清が政友会の総裁を引き受け、首相の役職も引き継ぐことになります。高橋是清本人が首相を狙っていたと言うよりは、突然起きた混乱をなんとかするために、とりあえず誰かを首相にする必要があり、高橋是清が指名されて事態の収拾を図ったと見るのが適切かも知れません。閣僚を原敬の時のメンバーでそのまま始動しましたので新聞には「居抜き内閣」と揶揄されます。その後、人事で紛糾し、内閣は僅か半年で瓦解してしまいます。期間が短く、本人が準備していたわけでもなかったので、特別な功績らしいものも特にこれと言って見当たりません。

ただ、任期中にワシントン体制の確立があり、外務大臣の内田康哉の活躍が目立ちます。原→高橋の英米協調志向を保ったのはよかったのですが、同時に日英同盟を失いますので、長い目で見ると日本の運命のかじとりについて、ごく僅かな誤差が生じ時間をかけてそれが広がって行ったその第一歩と見ることも可能かも知れません。ただ、その責任を高橋是清に見出すのはちょっと酷かも知れません。原敬の時から内田康哉が進めていたことです。任期中には大隈重信山県有朋が亡くなっています。

高橋是清は首相としての期間は短かったものの、その後大蔵大臣としては手腕を発揮し、日銀の公債引き受けという現代と同じスタイルでリフレーションを起こし、世界恐慌からいち早く脱却するという離れ業を見せています。高橋是清本人が日露戦争の時に公債の引き受け手を募集して歩いた経験から、公債の扱い方をよく知っていたからこそできたのかも知れません。ちなみに日露戦争の時の借金を完済したのは1986年のことで、超長期間での借金はアリだという発想が彼の中にあったのではなかろうかとも思います。

高橋是清について述べる際、その魅力的なところは挫折や失敗を乗り越えて出世していることです。アメリカに留学するも奴隷として売られ、帰国後に官吏の道に就きますが途中で辞めて南米へ鉱山の採掘にでかけます。ところがその鉱山がニセモノだったということが分かり、帰国し、日銀に就職し、日露戦争の戦費を調達し、日銀総裁に就きます。ジェットコースターのような上がり下がりを経験している人ですが、傍から見ている分にはおもしろい人であったに違いありません。また、人生はなんとかなるという大切な教訓を実際の経験から得た人と言えるかも知れません。もう一歩踏み込んで言えば、一度失敗して帰って来た人にまたチャンスが与えられるという意味では、明治の日本は度量の大きい、なかなかおもしろい時代だったのかも知れません。成長期に人材が不足していたというのが高橋是清のような人物の登場の余地があり、低成長時代の現代と比較してもあまり意味はないかも知れないのですが、いずれにせよ、そういうおもしろい人です。

デフレの時には軍拡でインフレを起こし、インフレになると軍拡を辞めるという経済合理性という観点からは実にまっとうなことをした結果、226事件で狙われて最期を遂げてしまいます。その辺りから日本の運命は目に見えて変化していくことになります。
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第一次山本権兵衛内閣
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原敬内閣

米騒動で寺内正毅内閣が崩壊した後に登場した原敬内閣は、原敬首相には爵位がなく、薩長閥でもなく、政党政治家としてこつこつ上がって来た人だったということもあって、それまでの内閣とは一線を画すものだったと高く評価されています。

英米協調路線を堅持したあたりは伊藤博文の薫陶を受けているという感じもしますし、また、寺内正毅が肩入れしていた段祺瑞からも足抜けしているので、国際政治に対する理解も明るい人であったという印象です。

第一次世界大戦の講和のために開かれたベルサイユ講和会議には西園寺公望、牧野伸顕、近衛文麿らの大人数の交渉団を送り込みましたが、当初は欧州事情はよく分からんという理由で日本の利害に関係のないことについては余計なことを言わないようにとの訓令を出していたそうです。その後、英仏あたりが「日本人とは話をしてもらちが明かない」と考え始めていることに気づき「もうちょっと積極的に発言するように」との訓令も出したとどこかで読んだことがあります。

ベルサイユ講和会議後に設立された国際連盟では、当初、発案者のウッドローウイルソンは日本を常任理事国には入れないつもりだったのが、地政学的なバランスから見て日本も入れてもいいのではないかという声があり、日本は国際連盟の常任理事国に入ることができましたが、第一次世界大戦でドイツに宣戦布告して青島あたりを余裕で奪ったりした一方で、イギリスからの陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要請は断っており、日本は結果として「おいしいとこどり」することができたわけですが、戦後の社会でアメリカにハブられる可能性もあったと思えば、当時の日本の政治家や軍人にはちょっと先見の明が足りないところがあるように思え、その後、四か国条約と引き換えに日英同盟の破棄という重大事も安請け合いしている節があり、その後の歴史を知っている21世紀の我々の目から見ると、ちょっとじれったい感じがしないわけでもありません。

個人的には第一次世界大戦にちょっと噛みした結果、国際社会で重要な地位を得ることができるようになった日本が、国際政治を舐めるようになってしまった要因の一つのように思えてならず、果たして国際連合で常任理事国になったことが本当に良かったのかと思うこ時もないわけではありません。

原敬はその点、国際政治についてはかなりいい線をいっていたと思いますので、大阪に出張に行く時に東京駅で暗殺されたことは、日本にとってはかなり惜しいことだったのではないかと思えます。ただ、国内政治では利権どっぷりで我田引鉄とまで言われたわけで、まあ、その辺りについては、政治家はそんなものかもしれないなあという印象になってしまいます。地元の有権者に名前を書いてもらってなんぼの世界ですので、利権誘導政治にならない方が不自然なくらいかも知れません。

いずれにせよ、伊藤博文→西園寺公望→原敬の政党政治家の系譜が続いたことは日本にとっては喜ばしいことであったように思えますし、超然内閣主義者だった山県有朋をして政党政治家の重要性を認めさせたという意味でも原敬は存在意義が大きく、大正デモクラシーの象徴的な人物としてその名前が記憶されています。

原敬が東京駅で暗殺された後は、高橋是清が原敬の閣僚をそのまま引き継ぐ「居抜き内閣」を組織することになります。

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寺内正毅内閣

第二次大隈重信内閣が総辞職した後、長州閥で陸軍大臣や朝鮮総督を経験した寺内正毅が首相に就任します。戊辰戦争、西南戦争に従軍したなかなかの古強者で、山県有朋が強く推薦したと言われています。間に大隈重信が入っているものの、その前が薩摩閥で海軍大臣を経験した山本権兵衛が政権を担当していましたので、長州・陸軍と薩摩・海軍の政権の回り持ちがまだ生きていたことが分かります。

寺内正毅内閣は議会におもねらない「超然内閣」で、結果として議会の協力を得ることが難しく、内閣不信任案の提出もあり、衆議院の解散総選挙が行われています。選挙の結果では政友会が第一党を確保し、寺内内閣に協力する立場に立ったため国内政局は一応安定しますが、第一次世界大戦の真っ最中で、寺内は軍閥で割れていた中国に手を突っ込み、北京の段祺瑞政権に肩入れします。あんまりそういうことをすると痛い目に遭うことは戦後を生きる我々の視点からすれば、あまりいいことではないようにしか思えないのですが、日本が一歩一歩、中国大陸に深く足を踏み入れて行って抜くに抜けない泥沼になっていく様子が少しずつ見えて来ると言えなくもありません。

1917年にロシアでレーニンの10月革命が起き、寺内正毅はシベリア出兵を検討し始めます。その結果、米不足が起きるのではないかという不安が国民に広がり、米騒動へと発展し、その混乱の責任をとって寺内は辞任し、大正デモクラシーの本番とも言える原敬内閣が登場することになります。

寺内正毅は首相の座を降りた後、ほどなく病没してしまいますが、やはり政治家というのは精神的にきついのだろうなあと想像せざるを得ません。特に、明治憲法下では議会に勢力を持たない人物が往々に首相に指名されるため、議会運営でわりと簡単に行き詰まってしまうというのが目についてしまいます。寺内内閣では寺内さんご本人が陸軍出身の人であることと、軍部大臣現役武官制の縛りがなかったことで、そっちの方面ではあまり苦労はなかったと思いますが、明治憲法下では議会対策と軍部対策の両方で内閣が苦労するというのがほとんど常態と言ってもいいかも知れません。

その後、日本の政治は原敬、犬養毅のような政党人、田中義一、山本権兵衛のような軍人、清浦奎吾のような官僚系の人々の間で権力の奪い合いゲームが行われ、やがて民主政治に結構失望してしまった西園寺公望が手塩にかけて育てた運命の近衛内閣が登場することにより、挙国一致して滅亡する方向へと向かっていくことになります。

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第二次大隈重信内閣

徳川家達が首相を辞退し、清浦奎吾が組閣に失敗し、元老会議でしぶしぶ指名されたのが、既に政界を引退していた早稲田大学総長の大隈重信です。

この内閣が仕事をしている時に、第一次世界大戦が勃発すると、大隈重信はドイツに最後通牒を送りつけ、一週間返答がなかったことを確認し、日英同盟に基づいて参戦を決心します。この決定の時、御前会議は開かず、軍にも折衝せず、議会の承認も取り付けようとしなかったことが後に批判されます。

御前会議で天皇の意思が示されることは通常なく、会議のシナリオまで決まった通過儀礼のようなものですが、その会議のシナリオを作る上で御前会議参加者との折衝が行われ、意思疎通を図り、コンセンサスを形成していくという役割が合ったように思えますので、御前会議を開かなかったというのは、天皇軽視というよりは、独断でなんでも推し進めようとする大隈重信の性格が現れていたと理解することも可能ではないかという気がします。

日本とイギリスはドイツが権益を持青島と膠州湾を攻略しが他、ドイツの領有する南太平洋の島々も攻略し、同地のドイツ艦隊は日本との決戦を避けて東太平洋に脱出していることもあって、ほとんど損害を出すことなく勝利しています。日本の連合艦隊が日露戦争後にも強化され、世界的にも最強クラスのものになっていたことが分かります。

ヨーロッパ戦線への日本軍の派遣が要請されますが、これは拒否。海軍は護送や救援のための艦隊をヨーロッパに派遣し、高く評価されたと言います。もし、陸軍もヨーロッパに派遣していたならば、第一次世界大戦後の世界ではヨーロッパ諸国は日本に頭が上がらないところがあったでしょうから、その後の歴史も変わったのではないかとついつい考えてしまいます。まさか、日本がヨーロッパで利権を握ってどうのこうのとは思いませんが、少なくとも恩人扱いされて、その後の日本と欧米との付き合い方に大きな違いが出たように思え、それはその後の満州事変問題で日本が国際連盟を脱退するという馬鹿げた外交戦略に走ることを予防できたかも知れないとも思えてしまいます。

大隈重信は積極外交路線の人というか、過去に英国公使ハリー・パークスを論破したという伝説もあり、第一次大隈重信内閣の時は、アメリカのハワイ合併に最後通牒かと見まごうようなメッセージを送ったりしていた人ですが、中国に対しても強気で対華21か条の要求を出します。日本側が特に気にしていたのは大連周辺の租借期間の延長と、外地での邦人保護でしたが、日本人顧問を中国政府に受け入れせると言う、通常では考えられないような項目も入っていましたので、少なくともその項目はやりすぎだったのではないかと私は思います。

戦勝宰相とも言えますが、対華21か条問題で西園寺が大隈を白眼視するようになり、予算を巡って貴族院との対立も生じ、大隈重信内閣は総辞職します。大隈重信は次の首相に加藤高明を推しますが、元老会議は寺内正毅を推し、大正天皇が寺内正毅の方を支持するという形で決着します。当時の日本政治の頂点は首相ではなく元老であったということがよく分かる一幕だったと言えるかも知れません。

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第一次山本権兵衛内閣

第三次桂太郎内閣が失意の崩壊現象を起こした次に成立したのが第一次山本権兵衛内閣です。第一次山本権兵衛内閣の功績はなんといっても軍部大臣現役武官制の廃止です。

山本権兵衛内閣が成立する前、第二次西園寺公望政権では上原陸軍大臣が二個師団増強を要求し、ダメなら陸軍大臣を辞めると言い出し、陸軍から新しい人材の推薦がないことで、政権が終了しています。

また、第三次桂太郎内閣では、今度は海軍の方から予算増額を要求され、斎藤実海軍大臣が「ダメなら辞める」と言い出し、右往左往させられます。内閣の崩壊を防ぐために天皇の勅書によって斎藤実を内閣に引き止めますが、そこが弱みで議会から攻撃されるという知れば知るほど桂太郎命運尽きたりという印象が強くなり、気の毒に思えてきます。

上の二つの内閣崩壊の要因は山県有朋の作った「軍部大臣現役武官制」に求めることができ、この仕組みが続く以上は内閣は軍部の言いなりにならざるを得なくなりますので、海軍の人である山本権兵衛がいわば自分の出身母体の利権を捨てるという英断によって行われます。陸軍大臣の木越安綱は山本権兵衛に協力し、賛成にまわったため、その後陸軍では冷遇されてしまいますが、私個人は必要を認めれば自分の利権を自ら捨てるというのは教養人に必須の素質と思っていますので、私の木越安綱に対する印象は頗るいいものです。

その後、ドイツのシーメンス社から海軍の主要な人物に贈賄が行われていたという事件が発覚し、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれていきます。シーメンス事件は山本権兵衛を追い詰めるために山県有朋による陰謀だったという説もあり、もしかしたらそうかも知れないのですが、私の山県有朋に対する印象があまり良くないので、そういう悪い情報ばかりを集めてしまっているのかも知れません。

山本権兵衛内閣の総辞職を受けて徳川家当主の徳川家達が元老会議で次の首相に指名されますが、徳川家の人々が反対して辞退します。次いで山県有朋の子飼いとも言える清浦奎吾が首相に指名されます。ところが組閣しようにも海軍から海軍大臣を出すのを断られ、清浦圭吾は軍部大臣現役軍人制維持論者でしたので(山県の子飼いならそうなります)、現役軍人以外の海軍大臣を選ぶわけにもいかず、組閣を断念。世に言う幻の鰻香内閣と呼ばれる展開を見せます。

こうして元老会議は半ば渋々大隈重信を次の首相に指名することになります。第二次大隈重信内閣では第一次世界大戦が起きるは、対華21か条の要求が出されるはでなかなか忙しい感じになってきます。

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