原敬内閣

米騒動で寺内正毅内閣が崩壊した後に登場した原敬内閣は、原敬首相には爵位がなく、薩長閥でもなく、政党政治家としてこつこつ上がって来た人だったということもあって、それまでの内閣とは一線を画すものだったと高く評価されています。

英米協調路線を堅持したあたりは伊藤博文の薫陶を受けているという感じもしますし、また、寺内正毅が肩入れしていた段祺瑞からも足抜けしているので、国際政治に対する理解も明るい人であったという印象です。

第一次世界大戦の講和のために開かれたベルサイユ講和会議には西園寺公望、牧野伸顕、近衛文麿らの大人数の交渉団を送り込みましたが、当初は欧州事情はよく分からんという理由で日本の利害に関係のないことについては余計なことを言わないようにとの訓令を出していたそうです。その後、英仏あたりが「日本人とは話をしてもらちが明かない」と考え始めていることに気づき「もうちょっと積極的に発言するように」との訓令も出したとどこかで読んだことがあります。

ベルサイユ講和会議後に設立された国際連盟では、当初、発案者のウッドローウイルソンは日本を常任理事国には入れないつもりだったのが、地政学的なバランスから見て日本も入れてもいいのではないかという声があり、日本は国際連盟の常任理事国に入ることができましたが、第一次世界大戦でドイツに宣戦布告して青島あたりを余裕で奪ったりした一方で、イギリスからの陸軍のヨーロッパ戦線への派遣要請は断っており、日本は結果として「おいしいとこどり」することができたわけですが、戦後の社会でアメリカにハブられる可能性もあったと思えば、当時の日本の政治家や軍人にはちょっと先見の明が足りないところがあるように思え、その後、四か国条約と引き換えに日英同盟の破棄という重大事も安請け合いしている節があり、その後の歴史を知っている21世紀の我々の目から見ると、ちょっとじれったい感じがしないわけでもありません。

個人的には第一次世界大戦にちょっと噛みした結果、国際社会で重要な地位を得ることができるようになった日本が、国際政治を舐めるようになってしまった要因の一つのように思えてならず、果たして国際連合で常任理事国になったことが本当に良かったのかと思うこ時もないわけではありません。

原敬はその点、国際政治についてはかなりいい線をいっていたと思いますので、大阪に出張に行く時に東京駅で暗殺されたことは、日本にとってはかなり惜しいことだったのではないかと思えます。ただ、国内政治では利権どっぷりで我田引鉄とまで言われたわけで、まあ、その辺りについては、政治家はそんなものかもしれないなあという印象になってしまいます。地元の有権者に名前を書いてもらってなんぼの世界ですので、利権誘導政治にならない方が不自然なくらいかも知れません。

いずれにせよ、伊藤博文→西園寺公望→原敬の政党政治家の系譜が続いたことは日本にとっては喜ばしいことであったように思えますし、超然内閣主義者だった山県有朋をして政党政治家の重要性を認めさせたという意味でも原敬は存在意義が大きく、大正デモクラシーの象徴的な人物としてその名前が記憶されています。

原敬が東京駅で暗殺された後は、高橋是清が原敬の閣僚をそのまま引き継ぐ「居抜き内閣」を組織することになります。

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第二次西園寺公望内閣が陸軍大臣と山県有朋からの二個師団増強要求を拒否したことにより、陸軍は必殺の軍部大臣現役武官制を盾にとって陸軍大臣が辞任。内閣不一致で崩壊します。

慣例的に首相を指名する立場だった元老たちも次第に老いて行き、適切な人物が見当たらなくなり始めており、山県有朋は渋々第三次桂太郎内閣の組閣を認めることになります。ところが、今度は海軍大臣の斉藤実が「海軍の予算を増やさないなら海軍大臣はやらない」とまたしても必殺軍部大臣現役武官制を利用して桂太郎を右往左往させますが、桂太郎は天皇の詔書を引き出して斉藤実を留任させます。

で、ちょっと待て。という反応が議会と新聞の両方から出てきます。なんでもかんでも天皇の詔勅で押し通すつもりかと、それは天皇の政治利用ではないかというわけです。第一次護憲運動です。立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が手を組んで桂批判を叫んで止まず、元老院では山県と対立、議会ではオール野党という状態で桂太郎は危機に陥ります。立憲政友会が内閣不信任決議案を提出しますが、桂太郎は大正天皇から立憲政友会に向けて「桂太郎に協力してやれ」という主旨の詔勅を引き出しますが、却って油に火を注ぐ結果を招き、立憲政友会はそれを拒絶。桂太郎は苦し紛れに議会を停止します。もはや憲法が半分停止した状態と言ってもいいかも知れません。国会議事堂の周辺には群衆が集まり、東京市内は騒乱状態になったと言います。極端に言えば革命前夜です。

ロシアの血の日曜日事件は、穏やかな群衆のデモ行進に軍に発砲させたことでニコライ二世は決定的に支持を失い、ロシア革命につながっていきましたので、天皇の詔勅を利用して事を収めるほかに手段を持たなかった桂太郎がちょっと間違った決心をしていたら、革命になっていても全くおかしくはなかったと思えます。

第三次桂太郎内閣は62日間で総辞職。その二か月後、桂太郎本人も失意の中で病死してしまいます。藩閥によって構成された元老による小手先の政治技術が通用しなくなったとも言え、藩閥政治の終わりの始まりと捉えることもできるのではないかと思います。山県有朋は密かに桂太郎下しが成功してほくそ笑んだのではないかとも想像してしまいますが、元老の内側で潰し合いを続けた結果、元老という慣例そのものの問題点を露呈することになってしまったとも言えそうです。

第三次桂太郎内閣の次は第一次山本権兵衛内閣が登場しますが、山本権兵衛は軍部大臣現役武官制を廃止し、再び政党政治への道を開いていこうとします。大正デモクラシーのエネルギーが漂い始めてくるという感じでしょうか。

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