徳川慶喜の頭脳戦

14代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れた際、その死の床において次の将軍に田安亀之助を指名したそうです。田安亀之助はまだ幼少で、当時は長州征伐戦争がまだ終わっていない非常時でしたから、ぶっちゃけ誰もが次の将軍は徳川慶喜がふさわしいと思ったらしいのですが、家茂は慶喜と将軍の座を争ったライバル関係でもあったので、自分が死んで慶喜が次の将軍になるというのは受け入れがたいと思ったのかも知れません。本来、将軍の遺言は非常に重視されてしかるべきですが、まあ、繰り返しますけど、非常時なものですから、慶喜の場合、年齢的30歳くらいで充分に大人であり、将軍後見職として家茂と一緒に上洛し、孝明天皇とも様々な意見交換をすることができる関係性を持っていて、禁裏御守衛総督として禁門の変では幕府軍を現場で指揮した慶喜の豊富な政治経験は、誰もが認めているところであったわけです。

というわけで、慶喜以外に人はいないという中、慶喜はなかなかの策士なものですから、将軍就任要請を断ります。それでも頼まれるので、慶喜は徳川宗家は相続するが、将軍職は就任しないと突っぱねます。これは実に巧妙です。というのも、過去260年間、徳川宗家は将軍と決まっているわけです。現代風に言えば自民党の総裁が総理大臣になるのが通常で、時々総裁と総理を別人がやるとする総総分離論というのが出ますが、ああいうのはただのブラフで誰も本気にしないというのと同じような感じだと考えればいいと思うのですが、いずれにせよ慶喜は、徳川宗家は引き受けますと答えた段階で、もう、他に将軍に相応しい人はいないということが明白なのに、更にそこで将軍にはならないと言うわけです。幕府首脳たちはひたすら慶喜に頭を下げて頼み込んで将軍を引き受けてもらうしかない状態になったわけです。

このようにして慶喜は、決して誰かと将軍の地位を争って勝ち取ったのではなく、頼み込まれて将軍になったという体裁を手に入れたわけです。そりゃ確かに権力の亡者みたいになってやっと将軍になった人という印象よりも、頼み込まれてやむを得ず将軍になったという印象の方がはるかにいいですし、仕事はしやすくなったに違いありません。

ちなみに勝海舟は慶喜と性格が合わなかったことがよく知られているのですが、勝海舟曰く、長州藩との停戦協議のために広島に行って帰ってきたら慶喜が将軍になっていた、以前は飽くまでも政局に立ち向かう同僚みたいな感覚があったのに、これで君臣の関係になってしまったと不満を述べています。で、勝海舟は慶喜に対して「私は徳川家の家臣ですが、あなたの家臣になったわけではないですからね」と言ったそうです。慶喜からすると、勝海舟ってほんとに気分の悪い奴ですよね。明治維新後は慶喜と勝海舟の立場は逆転してしまって、慶喜は何かと勝海舟を頼りにせざるを得ず、明治天皇との会見が実現した時、慶喜は勝海舟に涙を流して頭を下げたそうです。もっとも、こういったことは勝海舟の回想だけがソースで、慶喜が何かを語っているわけではありません。そして勝海舟は明治維新関係者で一番のほら吹きで有名ですから、もしかすると真相はちょっと違ったかも知れませんが、まあ、そういうこともあったという感じで流してもらえればと思います。

将軍になった慶喜は幕府の近代化に力を注ぎました。大きなものとしては、幕府陸軍のバージョンアップ、同海軍の強化、そして三権分立の立憲主義の導入です。幕府陸軍は、三万人の兵力を誇る近代化された軍隊で長州征伐戦争にも参加していましたが、碌な仕事をしていません。独活の大木、無用の長物というわけで、これではいかぬとフランス人将校を軍事顧問に徹底的に旗本の子弟をしごいたそうです。フランスの軍隊は一般市民を徴兵するスタイルのものですから、誇りある旗本子弟たちも上官に怒鳴り散らされて泥まみれになって訓練されるわけですけど、この泥まみれがかなり不評だったらしいのですが、そんなこと言ってる場合かよという風にも思います。なにしろお家が潰れてしまえば、自分たちも失職してしまうわけですが、そのような危機感をあまり感じないんですよね。海軍の方ですけど、こちらはとにかくお金をかけて世界中から最新の軍艦を買いまくっていたわけですね、これももっとやろうということで、小栗上野介に横須賀で造船所を作る計画を進めさせています。で、とにかく海軍の整備はお金がかかりますから、資金はナポレオン三世から大金を借りて進めようということになり、実際には本当に借用書を書く前に徳川幕府がなくなって、借りないままになったはずだとは思いますけど、実現していたら、借金の方に北海道がフランス領になっていた可能性もあったわけですね。そのような売国的なことも厭わず慶喜はバンバン強い幕府軍を作ろうとしました。考え方としては正しいと思います。だって、長州との戦争で、幕府軍が張子の虎だとわかった以上、ハッパかけてかけていくしかないわけですよ。生き残るためには。

で、とても興味深いのは政治に関すること、慶喜の政権構想がとても興味深いんです。慶喜はオランダに幕府の費用で留学して帰ってきた西周を側近として迎え、新しい政治制度と憲法の草案を作るように命じています。西周の憲法草案では、天皇は京都周辺の土地を領地として生活を安定させる一方、日本国の統治には具体的に関与せず、官位を与えたりすることとカレンダーに関することを司ることに専念するとしています。天皇には君臨すれども統治せずというイギリス的な立憲君主になってもらうというわけですね。で、具体的な政治はどうするのかというと、基本的に三権分立で、それらの一番トップに立つのが大君なんですね。大君というのは、要するに大統領みたいな立場なわけで、この大統領(大君)に慶喜が就任し、ある程度いろいろ定まったらその後の大統領は選挙で選ぶというような感じだったらしいです。司法と立法もあって、立法府の方は武士や大名で構成されるとしていました。上下院まで想定していたそうです。一般市民の政治参加について言及されていなかったみたいなんですが、おそらくは段階的に一般市民の政治参加もできるようにしていくというイメージだったのではないでしょうか。このような政治制度はフランスを参考にしたんだと思います。イギリス的な要素とフランス的な要素の両方の学ぶべき点を大いに学んだと言える内容だとは思います。で、そういうことを憲法で明記するというわけです。西周はヨーロッパの政治制度を留学中につぶさに研究したんでしょうね。立憲主義の普及はフリーメイソンの目的の重要な部分だと私は理解しているんですけど、西周もフリーメイソンだったことを思うと、彼は日本をフリーメイソンの理念に合う国にしようとしたんだと言うことができると思いますし、彼と意見が一致していた慶喜もフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかという気がしてなりません。

そのようにして、幕府の力を充実させることで、新しい近代的徳川幕府を再建しようとしていた慶喜ですけれど、ここまで述べてきた感じでわかると思うんですが、大統領制の国家を作るわけですから要するに徳川幕府はもう別に存在しなくても困らないよねと慶喜自身が考えていたと思うんですね。なので、簡単に大政奉還をオプションとして考えることができるということなんだと思うんですよ。大政奉還後の慶喜の政権構想というのは、徳川幕府は消滅した後も、慶喜本人は朝廷の中枢にとどまって、自分が中心となった新政府づくりを行うというもので、気持ちいいくらいに幕府官僚たちを見捨てるという選択肢を選んでいます。

そもそも、なぜ慶喜が大政奉還をしたのかというと、当時、徳川が政治をする正統性は何かという議論が盛んになっていて、それは朝廷から政治を委任されているからだというロジックが生まれてですね、これを大政委任論と言うんですけれど、この大政委任論を前提にしてですね、委任された政治を朝廷にお返ししますというのが大政奉還なわけです。一般に、大政奉還は坂本龍馬が思いついて、それを後藤象二郎に話し、後藤象二郎が山之内容堂に伝えて、山之内容堂がそのアイデアを難しい漢文を使った格調高い文章で建白書に書いて、それを読んだ徳川慶喜が在京諸藩の重役の意見を聞いた上で決断されたことになっています。しかし、大政奉還論そのものは、少なくとも横井小楠が慶喜がまだ将軍後見職だった時期にすでに述べているもので、そこまで目新しいものとも言えません。坂本龍馬が思いついたというのは、横井小楠が松平春嶽のところで政治顧問をやっていて、坂本龍馬も勝海舟の紹介状を持って会いに行ったことがあって、その時に大政奉還論を教えてもらっていて、薩長同盟が成立した後に、あ、そういえば横井さんが大政奉還って言ってたなあ、あれいいよね。じゃ、ぱくっちゃおう。というのが真相であったであろうと思います。それで坂本龍馬が悪いとかダメだとか言いたいんじゃなくて、そういう風にあんまり重苦しく考えずに、誰もが頭で分かっていながら、まさかと思っていることを、じゃ、そうすればいいじゃん、と言ってのけるのが龍馬も面白いところだと思いますし、大政奉還に至る流れも、龍馬のじゃ、そうすればいいじゃん精神の発露の結果ともいえるのが、まあ、やっぱり面白いと言えると思うんですね。

で、慶喜はもちろん大政奉還論を知っていて、それを信頼している山之内容堂から建白されたものですから、ある意味ではこのまま渡りに船で行っちゃおうと思ったんじゃないでしょうか。どのみちいずれ自分で徳川幕府を解散させるつもりだったわけですから、ちょうどよかったんですよ。

慶喜はこの大政奉還によって、岩倉具視と大久保一蔵が強引に引き出した倒幕の密勅を空振りにさせたと言われています。倒幕の密勅では、幕府が政治をわたくししているからけしからんので征伐するという論理展開になる予定だったのが、政治権力を返上されたわけですから、もはや政治を私物化しているとか言えなくなるというわけですね。これが本当だとすると、本当に慶喜にとってナイスタイミングで山之内容堂の建白があったということになり、それがこのような政局を切り抜ける切り札になったというのも興味深いですが、慶喜が自分の政治目的と政局遊泳という二つの違う性質のことを一挙にやってしまったというのも、彼の手腕みたいなものが尋常ではないということを示していると思います。カミソリ慶喜ですね。岩倉具視も大久保一蔵も西郷吉之助も慶喜の頭脳の回転には舌を巻いたと言われていますが、そりゃ、確かにそうですね。将軍が大政奉還やっちゃうんですから。ついでですけど、大政奉還のあの有名な絵は事実とは違ったそうです。将軍が諸藩の重役と対面するとか当時の常識では絶対にあり得なくて、慶喜は別室にいて、諸藩重役と直接話したのは老中の板倉さんだったそうですよ。

で、ですね、更におもしろいのは、慶喜はこの大政奉還によって、自分の政治権力を完璧なものにできるという見通しまで、まず確実に持っていたというところが凄いんですよ。大政奉還をしたところで、朝廷には政治を実際になんとかする能力はないわけですね。当面は幕府に引き続き具体的な行政とか外交とかは担当してほしいという話になって、朝廷内部では慶喜には関白になってもらおうかという話まで出たそうです。もし鳥羽伏見の戦いが起きずに、徳川軍がじっと我慢して状況が好転するのを待っていたら、朝廷から慶喜個人への政治の全権委任みたいなことになって、労せずして徳川慶喜大統領誕生みたいな話になっていた可能性もあるわけですよ。まあ、実際にはそうはならなかったわけですけれどね。

大政奉還後、慶喜中心の政府が樹立されそうな気配なので、焦った薩長が京都御所を武力で制圧するという、いわゆる薩長クーデターが起きます。岩倉、大久保、西郷の打倒慶喜の策略は全て成功しなかったので、結局最終手段として、武力に頼ったというわけです。禁門の変のときの長州藩がやったことと同じだったというわけです。

で、慶喜としてはここで戦争をやっては全ての布石が無駄になると考えました。仮に戦争になっても徳川軍が勝てば問題ないわけですが、長州征伐で、いかに幕府軍がダメダメかを知っている慶喜としては、徳川の軍隊は数だけは多いので、威嚇には使えても実戦では役に立たないと判断し、戦争を避けようとしたわけですね。慶喜と徳川将兵は二条城に籠っていたんですけど、二条城と京都御所はめちゃめちゃ近いので、当時の一触即発な状況下で何かが起きてはいけませんから、慶喜の命令で徳川軍は大坂城まで引いていきます。大坂と京都くらい離れていれば、うっかり戦端が開かれるということはないとの判断だったわけですね。そしておそらく、この時のこの判断が、痛恨だったのではないか、慶喜はそうとは述べていないはずですが、晩年の彼はそのように考えていたのだと思います。大坂にひいた徳川軍は、再び京都に入ろうとしたものの、二度と入ることはありませんでした。明治維新後も、慶喜は二度と京都を訪問することはありませんでした。維新後、慶喜は京都から大坂へと移動する時のことを何度も夢に見たそうです。あれが分水嶺だった、あの時の戦略的撤退が、永久追放になってしまったと慶喜は気づいていたんだと思います。ちなみに慶喜がまだ二条城にいたとき、京都御所内部の小御所というところで、有名な小御所会議が開かれ、そこで慶喜の辞官納地が決定されています。辞官納地とは、慶喜が権力を乱用したとかの罪があるから、官位を辞職して領地も朝廷に返上しなければならないと命令することを指すのですが、小御所会議に参加していた慶喜支持派の山之内容堂とか松平春嶽とかは熱心に慶喜を弁護しています。松平春嶽の方はわりと理知的に、論理的かつ現実的にみんなが納得しそうな解決策を提案していて、それも彼の性格の一面を表していると思えて興味深いのですが、辞官納地を主張する人たちはどのみち慶喜は受け入れないだろうから、その時は武力で征伐だ!という話に持っていこうとしていたようなんですね。薩長としては武力で徳川と勝負をつけて天下を獲るというのが基本戦略で、慶喜が武力衝突に乗ってこないのでジリジリしていたわけです。それに対し松平春嶽は、慶喜はちゃんと応じると思うから、みんな冷静にやろうよ、とうようなことを発言していたみたいです。山之内容堂は酒乱で有名な人で、酔っぱらって会議に出ていたんですが、彼も慶喜無罪論で気炎を吐きました。確かに慶喜には具体的な訴因になるような罪状とか別にないですから、犯罪者として追及することはそもそも無理筋なため、山之内容堂の言うことも説得力があったんですね。で、大久保一蔵が困ってしまって、外で待っていた西郷吉之助に相談したところ、山之内容堂を殺せばいいじゃないか(短刀一本あれば充分でごわす)と発言し、そんなことを西郷が言っていたというのを山之内容堂も小耳に挟んでしまって、彼は沈黙してしまい、そのようにして議論が決着したそうです。

慶喜は大坂城に入ると、各国の外交官を集め、今後も外交は自分が仕切るから心配するなと宣言しています。彼の戦略では、じっと待っていれば京都の新政府はいろいろ困って慶喜を頼ってくるので、慶喜的には以前とは何も変わらないとの自信があったんでしょうね。慶喜には時間を味方にする余裕がありましたが、大久保・西郷はそういうわけにはいきません短期決戦するしかなく、焦りがあったに違いありません。とにかく戦争に持ち込みたい大久保・西郷が最後の手段としてやったのが、江戸の薩摩藩邸がなんでもいいのでトラブルを起こすというもので、そもそも本当にそれで大坂城の慶喜たちが怒りまくって戦争に乗ってくるかどうか、分からなかったと思いますけど、あんまりにも江戸の薩摩藩邸に出入りする不良浪人たちの乱暴狼藉がひどいものですから、江戸では薩摩藩邸焼き討ち事件が起きちゃうんですね。で、それを知った大坂城の徳川将兵たちがいきりたち、薩長と戦争させてくよというエネルギーが大きくなりすぎて、暴発しちゃって、慶喜が最も嫌がっていたであろう戦略なき戦争になってしまい、鳥羽伏見の戦いへと発展していきます。

このように慶喜の政局運営を見ていくと、慶喜が極めて優れた策略家であることは分かるのですが、策略家でしかないというところに彼の限界があるということも分かってきます。なぜそんな風になってしまうのかというと、やはり彼には信頼できる部下がいなかったということが大きいのだろうと思います。幕末、一番活躍した幕臣は勝海舟だろうと思いますけれど、その勝海舟は慶喜と仲が悪くて互いに嫌いだったみたいですし、他にあんまりめぼしい優秀な幕臣とか名前が思い当たらないんですよね。山岡鉄舟もいいとは思うんですけど、幕臣として歴史残る活躍は西郷との交渉くらいしかないわけですし、それは確かに慶喜の命を救うという意味で大仕事であったことは確かですけど、強大な幕府陸軍は役に立たないし、官僚たちの多くは水戸出身の慶喜に対する警戒心の方が強かったみたいですし、大奥も慶喜を支持していたとも言い難い感じなので、慶喜は孤立無援の状態で自分の頭脳だけで大久保とか西郷みたいなしつこいのを相手に戦わなければならなかったわけですね。それには同情してしまいます。私個人の意見ですが、慶喜はほぼ全ての局面でその時その時に考え得る最高の対処法をしています。ただ、怒りまくる徳川将兵を抑えることに失敗したことで全てがダメになってしまいました。やっぱり身内の要因でダメになってしまったわけですから、やっぱ同情するしかないですかね。

鳥羽伏見の戦いについてとか、江戸無血開城のあたりは慶喜の助命運動と絡めてまたやりたいと思います。