皇居に行って、大嘗祭のお宮を参観してきたよ

12月初旬は前の天皇陛下、要するに今の上皇陛下の時代に、より市民に開放された皇室づくりの一環として、皇居が解放され、皇居の中の紅葉を人々が見られるようになった。今まで行かなかったのだが、今年は特別だ。今年は皇居で大嘗祭が行われたので、新築の大嘗宮が今も皇居に立っており、そのお宮を参観できるというのだから、実物を見る絶好のチャンスなのだ。というわけで、千代田線の二重橋前で下車し、坂下門から入って皇居の乾通りから大嘗宮まで、さらに二の丸あたりを歩いて大手門から出てきたことについて、なるべく要点を絞って書き残しておきたい。

まず戸惑ってしまうのは、お堀の内側から石垣を見ると言う点だ。いつも外側からしか見ないので、内側がどうなっているのかあまり考えたことがなかったし、一生見る機会もないんじゃないかくらいに思い、要するに、まあ、別にいいやと想像力を膨らませることもしていなかったのだが、内側から見ると石垣は極めて巨大である。安土桃山式の大阪城の石垣のように石が整列している場所もあれば、もうちょっと古い戦国風のギシギシ石を詰め込んだ石垣もあった。建造時期の違いによるのかも知れない。太田道灌が江戸城を作った部分が残っていて、その上に徳川家康が増築させて、場合によってはその後の将軍による回収部分などもあって、その時代、その時代の特徴のようなものが残されているのではないかと私には思えた。フランスバルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの城が増築時期によって建築様式が異なり、ここに来ると建築史が分かるというのが観光客を誘う文句になっているのだが、ちょっとそれに近いものを皇居=千代田のお城に見出すことができそうに思えたのだ。

皇居の内側から見た石垣

皇居内の冬桜

では、どんな風にいろいろなものが重なっているのかというと、まずは太田道灌の土地の匂いがふんだんに残る田舎城、敢えて言えば豪族風。森が鬱蒼としていて、森の中に城主が暮らしている感じ。そしてその上に、ドカーンと徳川幕府の武家風が乗っかっている。今回訪問してみても、基本は徳川時代の造りや区画が皇居の雰囲気を決める最大の要素だということがよく分かった。江戸時代の武家風、特に将軍とか大大名とかは雄大なものを好む。巨大な松。巨大な池。中国の古典にインスパイアされて再構成された自然・宇宙。のようなものだ。皇居のそれはとてつもなくでっかいのだが、もうちょっと分かりやすいのは京都の二条城のお庭とか、名古屋の徳川美術館のお庭とか、福岡の大濠公園とか、そういったところを歩いてみると分かる。お殿様一人が「うーむ。よい気分である」と言うためだけにとことん凝った庭造りがなされている。江戸城の庭造りも凝ってはいるが、広すぎてやや持て余しているようにも見えた。そしてその上にあるのが近代天皇の世界だ。近代天皇は非常に安定した政治的アクターだが、江戸城内の土地建物ベースで見る限り、それは徳川氏の巨大な遺物の上に乗っかっている程度のものに見えた。現代の天皇陛下が活動される御所の範囲はそんなに広くなく、今回は遠くからなんとなく見える程度の距離で見せてもらえたが、鉄とコンクリートで京都の御所っぽいものを外国人にもおーっと思わせる程度に権威主義的に作ってあるという印象で、正直に言ってあまり素敵ではなかった。誤解のないように言っておくが、私は現代の天皇制度を支持している。

太田道灌の時代を連想させる皇居内の豊かな自然

京都御所は桜の季節に一般開放されたときに中を見たことがあるが、江戸城に比べれば手狭なものの、庭の造り込みが素晴らしく、いい意味で異世界であり、なるほど殿上人の浮世離れした世界という印象で、このような芸術作品みたいな空間が大切に維持・継承されることの意義はよく感じることができた。今の京都御所は幕末に燃えたものを再建したものだが、これは確かに再建する価値おおいにありというか、再建しなければもったいないと思えた。天皇様が京都御所でお暮しになる方が日本人の感性には会うのではないだろうかとも思える。それぐらい江戸城はだだっぴろい。
皇居内のすばらしい自然。美しい紅葉。

そのだだっぴろいものを管理しやすくするためにコンクリートやアスファルトが使用されている。たとえば徳川時代のものと思しき建物の壁もコンクリートで固めてあるし、プレハブみたいな建物もあって、管理しやすければOK感が半端ない。道もコンクリートかアスファルトだ。江戸城がだだっぴろくて管理に困るというのはすぐに想像がつくが、なので効率よくやっちゃおうという、近代日本の官僚制度の特徴がよく分かるように思えてならなかった。この発想法で、日本は北から南までコンクリートとアスファルトで敷き固められ、どこへ行っても似たような風景が広がることになったのだろう…という感想を持った。
御所の遠景

宮内庁近景

とはいえ、まだまだ見どころはある。なんといっても大嘗宮の現物が見えるのだ。柳田国男先生とか、折口信夫先生が書き残したものを読み、後世の者は「ふーん。そうなのか」と思うしかなかったが、儀式は見れなくとも儀式が行われた建物を見ることができれば、より本質に迫った理解ができるようになるはずだ。で、そのお宮なのだが、想像していた以上に大きい。新しい白木の建物。伊勢神宮みたいだなあと思った。驚きだったのは、太陽の光を反射する白木の建物は、まるで黄金のようにキラキラしていたのだ。なるほど、最初にこのような建築を思いついた2000年ぐらい前の人(もし天武天皇が最初だったら1300年ほど前ということになる)は、白木が黄金色に輝くことを狙ってこんな風にしたのだと私は気づくことができた。伊勢神宮が20年に一度立て直されるのも、建物の耐用年数というよりも、黄金色に反射できる年数が考慮されてのことではなかろうか。
大嘗宮を正面から撮影した写真。壮絶な人ごみだった。警察の人も大変そうだった。

そして最後に休憩所に立ち寄ってのどが渇いて疲れていたのでジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだ。運がいいことにシャアとララァの絵の入ったのがでてきた。
皇居二の丸を過ぎたあたりにあった休憩所で買ったジョージア微糖のガンダムコーヒーの缶に描かれたシャア

シャアの反対側に描かれているのはララァだった

もう二度と皇居に入ることはないかも知れないが、私は単に皇居に入ったけの人物ではない。ジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだことで、私は皇居でコーヒーを飲んで帰ってきた男になれたのである。なかなかおもしろい経験ができました。

安全と秩序維持のため、警察官のほか、多くのスタッフの方々が寒空の下を立っていた。多くの人がこごえて震えていたし、独り言をつぶやいてやや壊れかけている人もいた。参観客は珍しがってよく歩くからそれでいいが、じっと立ってしごとするスタッフの方々は大変に違いない。ねぎらいの気持ちを持ちたい。




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大正天皇の大嘗祭と柳田国男

柳田国男の『日本の祭』という講義録では、日本各地のお祭りの形態とその起源、天皇との関係などについて議論されている。私は民俗学にはちょっと疎いところがあるので、どこぞのお祭りには〇〇のようなことがなされているというような話にはあまり興味を持つことができなかったのだが、神社のお祭りが天皇との関係に収斂されていくのは興味深いことだと思えた。

天皇家の宮中行事は仔細にわたると言われており、よほどの専門家でない限り判然としない部分があるのだが、平安朝あたりまでわりと真面目に行われていた宮中行事がだんだん手抜きになっていき、大嘗祭のような天皇即位の手続きの一部とすら言える重要行事もやったりやらなかったりだったらしい。他の書籍に拠るのだが、明治に入って改めて宮中行事が見直され、復古主義的に様々な伝統が復活したという側面があるようだ。天皇のお田植は昭和に入ってから始まったものなので、創造された伝統もいろいろあるのではないかと私は個人的に想像している。

で、柳田国男の『日本の祭』に戻るのだが、柳田国男はさすが帝国最後の枢密院顧問官に就任するほどの人なので、大正天皇の大嘗祭にかかわっていたという話が載っている。それだけなら、「ふーん」で済むのだが、大嘗祭は夜を徹して行われる重大行事で、大正天皇の時は京都でそれが行われたのだが、火災の不安があるということで本来なら蝋燭を使用すべきところを蝋燭風の電灯に替えて使用したという話だった。この講義録では、日本の祭が時とともに変化していること、原始古代のままの状態から中国の影響を受けたり、紙などの「発明品」を使用するようになったりなどの事情を判明している範囲で話してくれていて大正天皇の大嘗祭もその一環としての話題なのだが、火災が心配なので電灯を使ったというあたりに私は何かしら納得のいかないものを感じてしまった。というのも、帝国は一方で天皇家の伝統を国家の重大事とやたらと騒ぎ立てて持ち上げておきながら、火災が心配という官僚的な事なかれ主義で都合よく伝統を変更しているということに、なんだか飲み下せないものが残るのだ。

ちょっと言いすぎかもしれないのだが、一方で伝統や歴史などの事大主義的、或いは悪い言い方をすれば夜郎自大的な発想法で国体明徴論争などをやっておきながら、一方で伝統や歴史を都合良く変更していくという行動には矛盾があり、私にはそういった矛盾が「まあまあ、いいじゃない」で放置されたことと、戦争に敗けたこととの間には通底するものがあるような気がしてならないのだ。分かりやすい例で言えば、インパール作戦を根性論で強行し、なかなか失敗を認めようとず、責任を取るべき牟田口廉也中将も帰国して予備役編入で済んだということと、「火災が心配だから」と伝統行事を適当に変更することには重要な部分を曖昧にするという共通項があるように思えてしかたがないのだ。

柳田国男先生のこの講義は昭和16年夏という、日本の近現代史としてはかなり切羽詰まった時期に行われたもので、柳田先生の立場としては「民族的」な精神的支柱を「近代的」に確立しなければならないという思いで歴史の再編集の必要に迫られていたのだろうと思う。歴史は常に再編集されるものなので、再編集されること自体には良いも悪いもない。ただ、矛盾する部分があればそれは矛盾だと指摘することも大切なことだ。そういう時期的な背景があるということを踏まえて読むと緊迫感もあっていいかも知れない。




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