坂本龍馬‐人物と時代

坂本龍馬には少なくとも二つの出自があります。一つは土佐藩の下級武士というもの。もう一つは土佐屈指の大金持ちの息子さんというものです。

土佐藩では武士の身分は大きく二つに分かれており、一つは藩主山之内家について山之内一豊とともに土佐に入ってきた譜代の家臣で上士と呼ばれました。もう一つは山之内が入って来る前に長宗我部氏に仕えていた武士で、下士と呼ばれていました。上士と下士は礼儀作法、道の譲り合い、衣服、役職、給与等々で厳しく分けられており、上士は文句なしの支配階級、下士は明らかに被支配階級だったようです。

ただ、坂本龍馬の場合、ご実家が超大金持ちですから、別にそれで困ることはあまりなかったようですし、下士の身分もお金で買い取ったようです。下士の生活は極貧だったようですから、下士の身分を売って生活がましになるならまだその方がいいと思った人もいたのでしょう。

このような事情から坂本家には二つの入り口があったそうです。一つは商人としての立派な構えの入り口、もう一つは下士としての地味で質素な入り口です。お金を注ぎ込んで豪華な入り口を作っても良かったのでしょうけれど、「下士の分際で」と言われることを避けたのだろうと思います。

さて、坂本龍馬は後に脱藩し、女性にモテ、大きな政治構想を語り、薩長同盟を成立させ、大政奉還のアイデアも彼によるものだと言われています。多くの人が、一介の素浪人が日本の歴史を動かしたのですから、そりゃあ、多くの人が憧れるのも納得です。

ただし、坂本龍馬にはわりと潤沢な実家からの仕送りがあったため、他の脱藩浪人と比べれば余裕があります。気持ちの余裕は女性にモテる要因になったでしょうし、大きな政治構想も気持ちの余裕から出るもので、やはりこのようなややほら吹き気味なところも、自身堂々と語ることで、やはり異性にもてる要素になったのではないかと思います。江戸で留学した際には剣術を学んでいた千葉道場の娘さんまで惚れさせていますので、なかなかのやり手です。薩長同盟についてはどうも西郷隆盛がバックについていて、坂本龍馬はそのエージェントみたいなところがあったようなのですが、西郷が自己愛を満たそうとするタイプではなかった分、坂本龍馬の活躍ぶりに目が移るようになっていったのかも知れません。長州の桂小五郎としても、龍馬が間に入ってくれたことでやりやすかったかも知れません。ついでに言うと大政奉還とか立憲主義みたいのは横井湘南、西周、徳川慶喜などが既にある程度、考えをまとめていたようですから、それを龍馬の発案とするのは、やや彼を過大評価しているように思えなくもありません。

坂本龍馬は陸奥宗光のように、彼の部下であったことが政治的な武器になり出世した人も居た上に、暗殺されるという最期を迎えているため、新政府での印象は強く、語り継がれる存在ではあったようです。ただし、さほど有名だったというわけでもなく、土佐藩閥の人々が日露戦争の際、皇后の枕元に坂本龍馬が現れて「日本海海戦では日本が勝つから心配するな」と言って去って行ったという、毒にも薬にもならない話を新聞記者にリークしたことにより、一機に名前が広がって行ったようです。戦後であれば司馬遼太郎さんの貢献は大きかったでしょう。徳川慶喜は維新後になるまで坂本龍馬を知らなかったと言いますから、彼本人が政治の中心に躍り出るところは一切なく、エージェントに徹していたようにも思えます。

坂本龍馬の暗殺については諸説あり、簡単に結論できることはないですし、永遠に結論は出ないでしょうけれども、龍馬は二度も土佐脱藩の身であり、幕府官吏からは指名手配を受けており、薩摩のエージェントでありながら、大政奉還後の新政府には徳川慶喜を推そうとしたそうで、敵は山のようにいる状態でした。自由に生きることは素晴らしいことですが、どうも敵を作り過ぎてしまったので、誰にも殺されてもおかしくなかったとは言えそうな気がします。



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縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画

縄田雄二氏の『一八二七年の幻燈文学‐申緯、ゲーテ、馬琴』という論文が三田文学に掲載されているのを読んで、とてもおもしろかったので、ここで紹介したい。当該の論文ではまず朝鮮半島の文人申緯が一八二七年に書いたとされる漢文の詩を取り上げ、走馬燈を見るような、燈光に関する言及があることを指摘し、続いてゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕を独立させて『ヘレネ 古典的ロマン的幻燈劇』としてやはり一八二七年に出版された作品に目をつけている。論文では鴎外による日本語訳を使用し、「夜の生んだ醜い物を洞穴へ入れる」という表現があることに着目している。このような表現は舞台上でメフィストフェレスが幻影的にたち現れたり、或いはいずこへかと消え去ったりする際に光学機会を用いた影絵のようなものが舞台上の壁なりスクリーンなりに映し出されることが念頭にあるのではないかとの当たりをつけている。続いて同時代の馬琴の『南総里見八犬伝』が幻惑的、または幻術的な表現がなされているのも、実はゲーテのように光学機会を使った幻影装置を見たからではないかとの見立てがなされている。即ち19世紀前半に少なくとも世界の三人の表現者が光学機会を用いた幻燈装置を知っていた可能性を指摘している。

縄田氏は文化史家フリードリッヒ・キットラーに言及し

(キットラーは)ヨーロッパにおいて幻燈の地位をロマン派文学が襲い、幻燈が見せたような連続映像を文字により見せるようになったっ経緯を叙しているいる。キットラーは、映画が登場したときにヨーロッパと北アメリカにおいて観客がすみやかに動画の文法をのみこんだのは、こうした文学が先に行われていたからと推測し、他文化圏との違いを述べる。補正したい。東アジアも同様であった、と

としている(『三田文学』2018年夏季号194‐195ページ)。

とてもおもしろいと思った。馬琴が映画の原型になる幻燈装置を見たことがあったとすれば、それはとてもおもしろいことだし、ヨーロッパで可能であったことなら、日本でも充分に可能なことであったはずだということを思い出させてくれる。江戸時代の社会ががヨーロッパの事情に全く疎かったという解釈は古い物になっていて、長崎でのオランダ貿易を通じて世界中のものが日本に流入していたことはよく指摘されていることだ。江戸時代は総じて貿易赤字の傾向があったということだから、当時の人々は輸入品を生活の中に取り入れていろいろ楽しんでいたはずだ。馬琴と同時代人の葛飾北斎がヨーロッパから輸入された絵具を試しに使った形跡があることが指摘されているものを以前読んだことがあるし、娘のお栄の描いた夜の街の陰影がヨーロッパの絵画に似ているという指摘もある。というか、浮世絵の美術館に行って実物を見れば素人の私でも一発で分かる。ゴッホは日本の浮世絵に強く影響され激しい憧れを抱いたが、日本とヨーロッパは19世紀の前半、既に互いに影響し合う関係にあったのだと捉えれば、とてもおもしろい新しい歴史と世界のイメージが頭の中で結ばれてくるように感じられる。江戸にヨーロッパ最新の光学幻燈装置が持ち込まれ、それを馬琴が見たとして、または朝鮮の文化人が見たとして全く不思議でも不都合でもない。

武田鉄也が坂本龍馬の役をやっていた『Ronin』という映画の冒頭では、長崎で竜馬が初期的な映画を観て驚く場面がある。で、何かの解説でみたのだが、一般にリュミエール兄弟の作品が1895年に試写会をしたのが映画の始まりとされているので、1860年代が舞台の『Ronin』では、まだ映画は存在せず、竜馬が映画を観ることはあり得ないが、製作者の映画を愛する思いのようなものがそこには込められているのではないかと説明されていた。

しかし、幻燈装置が竜馬よりもっと早い時代、馬琴の時代に輸入されていて、それを観た人々が存在したとすれば、竜馬が幻燈装置という映画の萌芽に触れる機会があったことは充分に考えられる。『Ronin』という映画は図らずも充分にあり得た可能性に触れていたのだ。



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長州征討戦の幕府の敗因

禁門の変で京都に直接の進軍を試みた長州は孝明天皇から朝敵指定を受け、幕府の命令による西国の諸藩の兵を集めた、いわば正規軍が編成され、長州を包囲します。長州藩では藩論が二分し、恭順派と抵抗派で激しい議論が戦わせられますが、恭順派が勝利し、一旦は和平交渉が行われます。
ところが徹底抗戦派の高杉晋作が藩内でクーデターを起こして勝利し、長州藩の態度は硬化。戦端が開かれるという展開になります。

諸藩の兵力は長州藩によって各個撃破されますが、その後幕府軍歩兵が投入され、東方面の戦線は膠着状態に入ります。高杉晋作は西方面の戦線に着目し、九州上陸を画策します。海軍力では幕府軍が圧倒的な戦力を有しており、通常であれば関門海峡を渡ることはとても不可能なことのように思われましたが、巨大な幕府艦隊に対して夜間の接近戦をしかけるという奇策をかけ、坂本龍馬も参加して、これを突破。高杉晋作とその兵力は小倉城を目指して進撃していきます。

小倉藩は幕閣の小笠原氏が藩主をつとめており、長州征討の現地司令官を担当し、各藩に命令する立場にありましたが、長州の積極的な攻勢に対して諸藩は消極的で戦意に乏しく、小倉藩は次第に追い詰められていきます。長州サイドがグラバーから買い入れた最新のミニエーゲベール銃を大量に保有していたことも戦局を分けたとも言えます。幕府軍こそ最新の装備を揃えてはいましたが、長州征討に駆り出された藩の中には火縄銃数十丁というところもあったでしょうから、そういうところはそもそも勝負にならなかったはずです。

熊本藩の細川氏がアームストロング法を所持しており、小倉城の手前に布陣。長州の兵はアームストロング法に阻まれて前進できないという事態に陥ります。長州の兵隊にとって小倉上周辺は「敵地」ですので、戦闘の長期化は兵站の疲弊を招く恐れがあり、仮にここでの膠着状態が長期にわたれば、結果は違っていたかも知れません。

しかし、小倉藩の弱みは細川氏の軍だけにしか頼れなかったという点にあり、まことに心細いもので、結果として細川氏の軍だけが常時最前線に立たされるという厳しい状況が生まれ、細川軍に疲労と不満が蓄積され、最終的には戦闘の継続を拒否し、撤兵します。

アームストロング砲のプレッシャーから解放された長州軍は前進を開始しますが、小倉藩は小倉城に放火して後退。戦闘はその後しばらく続くものの終始長州の有利で推移します。ここに来て小倉軍の戦線が完全な崩壊を見せるという事態に陥らなかったことには、小倉側が背水の陣にならざるを得ず、徹底抗戦したためと考えることもできます。

長州優位の状態で停戦が成立し、講和の使者としては干されていた勝海舟が人脈力を買われて広島へ送られます。長州は朝敵指定が解除され、面目躍如。風前の灯だったはずの長州藩は息を吹き返し、幕府打倒に邁進していくことになります。

ここで気になるのは圧倒的な兵力を誇っていたはずの征討軍がなぜかくも赤子の手をひねる如くに負けたかということなのですが、最大の要因は諸藩の寄せ集めであったため、指揮あ上がらず、それぞれの大名は戦争させられるのを迷惑だくらいに感じていて、積極的な動きを見せようとしなかったことにその要因があるように思えます。大軍よりも少数精鋭の方が充分に役に立つということは源義経や楠木正成の例で証明されているとすら言えるかも知れません。

それを悟ったからこそ、徳川慶喜は直参の兵力で改めての長州攻略を構想しますが、徳川慶喜自身がわりとポジショントークに終始する人で、もし幕府軍精鋭だけで戦線を形成し、おそらくは失敗した場合は自分の責任問題になると考えてそれを撤回。この段階で徳川幕府崩壊は決定的なものになったと考えることもできるかも知れません。

以上のようなことを総合すると、責任感のある上司と少数精鋭の二つが成功の要因ではないかと思えてきます。長州征討ではその両方がなかったために、負けるのは必定だったとすら言えるかも知れません。




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徳川慶喜と坂本龍馬

徳川慶喜による大政奉還は海外でも世界史を学ぶ人にはよく知られています。「将軍」または「大君」というネーミングがブランド化しており、神聖ローマ皇帝みたいなイメージで語られますので、将軍自らがその権力を手放した大政奉還という出来事はヨーロッパの歴史で言えばカノッサの屈辱なみによく知られており、且つ、細かいことまでは海外では知られていませんから、なぜそんな不思議なことが起きるのかと首を傾げる人も多いように思います。

大政奉還というアイデアを出した人物は必ずしも坂本龍馬が最初というわけでもないらしいのですが、一応、坂本龍馬の発案ということで記憶している人は多いと思います。実際、徳川慶喜が大政奉還をする直接のきっかけになったのは山之内容堂の建白書で、その建白書は後藤象二郎から山之内容堂に働きかけて書かれたもので、後藤象二郎は坂本龍馬からその案をもらっていますので、「坂本龍馬が大政奉還を発案して徳川慶喜を動かした」というのは間違ってはいないと思います。

徳川が政権を返上した後の新しい政府の政権構想では、坂本龍馬は徳川慶喜を中心にした新政府を考えていたとも言われており、大政奉還がなされた時に、徳川慶喜の器量の大きさを知った龍馬は感激し、命をこの人に捧げるとまで書き残し、坂本龍馬暗殺薩摩主犯説が唱えられる背景には、坂本龍馬の慶喜への傾倒が主要因だともされていますので、徳川慶喜は坂本龍馬人生最大の仕事の相手であり、命を落とすことになった原因であったとすら言えますが、その当の徳川慶喜は明治維新後になるまで坂本龍馬の存在を知らなかったようです。

維新後、静岡県に引っ込んで世の中との交わりを絶つようにして生活していた徳川慶喜ですが、維新後にいろいろと刊行された維新秘話モノなどの本は読みまくっていたらしく、それらの書物の中で坂本龍馬の名前を発見し、薩長同盟も坂本龍馬が間に入ってしたということも知り、そんなことがあったのかと驚いたそうです。

幕末維新モノの本については普通の人はだいたい、一般的な意味での興味があったり、知識がほしいと思って読むものだと思いますが、徳川慶喜は当事者ですから、あの時、その時、いろいろ胸の中で去来し、その背景に何があったのか、自分の知らないところでどういう動きがあったのか、納得のいく説明がほしいと思うこともいろいろあったでしょうから、単なる回想ものでも自分と直接関連することとしてついつい食い入るように読んだのではないかと想像します。そして、ああ、あの時のことは背後関係にこういうことがあったのかと合点したり、あの野郎、裏でそんなことを…と思ったり、いろいろだったのではないでしょうか。




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