江戸城無血開城の後も、新政府軍は北上して戊辰戦争は継続されました。内戦ばかり続けている場合ではないはずですが、新政府軍としては、抵抗しそうな相手は武力で抑え込み、誰が真の勝利者なのかをはっきりさせておきたかったのだろうと思います。文字通り、勝てば官軍というわけです。
旧幕臣たちが集まって立ち上げた彰義隊の立てこもる上野を新政府軍が攻略した上野戦争では、長州藩の大村益次郎が、どういうわけか薩摩の兵隊がばんばん死にまくる作戦を立案し、戦いそのものは新政府軍の勝利に終わりましたが、その後、大村益次郎が暗殺されるという事態が起きていますので、おそらく彼は薩摩の人間に恨まれたんでしょうねえ。当時はみんな気が立っていますから、立ち居振る舞いがうまくいかないと、いろいろ大変な時代なんですね。きっと。
新政府軍は更に北へと移動していき、越後長岡藩との間で戦争になりましたが、まあ、もちろん、新政府軍の勝利で、長岡藩の知恵者である河井継之助がいったん占領されたところを取り返すという荒業も見せましたし、石原莞爾が陸軍大学の卒業論文で河井継之助の戦いのことを書いたそうですから、それは見事なものに違いなかったと思いますけれど、やっぱり一旦崩れちゃうと、挽回するのは難しいということだったのでしょうか。戦いに敗れた河井継之助は会津へ向かう途中で命を落としてしまいました。
当時、東北地方の諸藩は、新政府軍に対抗するための奥羽列藩同盟を結成し、河井継之助が目指した会津はその盟主としての役割を担いましたが、新政府軍は極めて激しい攻撃を会津城にしかけたことはつとに有名です。会津藩は藩主松平容保が幕府の命令で京都守護職を担当し、会津藩お預かりだった新選組が長州藩士を追い回したことなどの恨みを一身に受けていましたから、新政府軍は遠慮も容赦もなく会津を潰しかかったみたいです。この会津戦争の会津側の戦死者は三千人くらいだったらしいんですけど、会津藩士って三千人くらいだったらしいので、会津藩の侍たちはほぼ全滅だったということなのだろうと思います。もちろん、会津戦争は単に会津藩と新政府軍の戦いだったというわけではなく、奥羽列藩同盟と新政府軍との戦いでしたから、仙台や米沢あたりからも応援の兵隊は来ていたとは思いますけれど、主力は会津の兵隊だったでしょうから、ほぼ全滅というのはその過酷さは想像するにあまりあります。会津城が砲撃でぼろぼろになった写真も残っていますし、会津城周辺では戦死者の死体で溢れたそうですが、新政府軍は敢えて埋葬せず、より残酷な印象が残るように死体を故意に放置したという話もあるみたいです。長州藩のこの故意に残酷にやってしまう手法が後の日本陸軍に受け継がれたんじゃないかっていう指摘を読んだことがありますけれど、いずれにせよ、そんな風なことが連想されてしまうくらい酷かったらしいです。最近はどうかは知りませんけれど、以前は会津市民の人たちの萩市民への敵意は凄いもので、山口県の人と結婚しようとすると反対されるとか、市長同士でも握手の拒否があるとかという話は有名ですよね。
戦いに敗れても、新政府軍に降伏することを拒否したい人たちは北海道を目指しました。北海道の箱館には、榎本武揚率いる旧幕府海軍が占領し、共和国の建設を始めていたため、旧幕臣たちは、榎本のところに集まっていったそうです。彼らの箱館共和国では、政府総裁を投票で選んでいますから、東洋で最初の共和国であったと言っていいと思います。もっとも、彼らは徳川家の人物を北海道に呼んで、君主にしようという相談もしていたみたいですから、目指していたのは立憲君主制の国家、イギリスみたいな国にしたかったのかも知れません。箱館共和国には、幕府のために軍事顧問をしていたフランス人の軍人たちも参加していました。もう、明らかに仕事というより友情で彼らは結ばれていたと思っていいですよね。これは。
榎本たちは各国領事に国家を旗揚げしたことを宣言し、各国の領事たちは箱館共和国を交戦団体として承認しています。一応、勘違いしてはいけないので、ちょっと細かいことについて述べておきますと、国家として承認したわけではないんですね。交戦団体として承認したんです。国家として承認するかどうかは本国が決めることなので、現地の領事には権限がないんですけれど、内戦状態の土地の交戦団体として承認することは現地の領事にはできたわけです。箱館共和国を名乗る武装集団が日本の領域で正当な政府の支配を受けていない状態で存在することは、日本が内戦中の国であるということを国際法的に認めていることになるので、もしかすると、日本に安定されるより、不安定でいてくれた方がいろいろ都合がいいと思うような、不心得な外交官もいたかも知れません。まあ、考えすぎかもしれませんけれど。
このようにして榎本のところに集まった男たちの中に、新選組副長だった土方歳三がいました。土方は会津戦争にも参加していましたが、戦況が悪化して北上せざるを得なかったんですね。彼は榎本の政府で陸軍奉行並という職位を得て、要するに参謀総長みたいな立場で箱館共和国に参加したわけです。陸軍奉行並という職位は、陸軍奉行じゃないんだけれど、陸軍奉行と同じくらいの立場。という意味なので、だったら陸軍奉行にしてあげてと思わなくもないんですが、土方は伝統的な徳川家臣、いわゆる三河武士ではないので、ちょっと格下扱いされてしまったのでしょうか。
この土方歳三の北海道での戦いは、非常に見事であったと言われています。土方は彼らが陣取った五稜郭の近くに存在していた松前藩の城を陥落させ、江差エリアも占領しています。彼は故意に坂の上のあたりに陣取って、攻め寄せる敵は土方の部下たちによって狙い撃ちされて、とても坂を越せなかったそうですが、このような銃を使った用兵を見事にやってのけた土方は、おそらく、鳥羽伏見の戦いで、自分たちが加納鷲男みたいな伊東甲子太郎の残党に高いところから狙い撃ちにされた経験から学び、同じことを敵に対してやってみせたということではないかと思います。土方が健在な限り、箱館共和国は陸戦では無敵であるかのように見えましたし、実際、箱館での土方は負け知らずでした。それでも、海軍戦力で言うと、土方を援護するために出撃した虎の子の軍艦開陽丸が座礁して沈没するという痛恨のミスもあって、だんだん箱館共和国は次第に追い詰められていきました。幕府が注文した軍艦を新政府軍が受け取って使用したりとかしていたそうなので、もはや孤立無援の箱館共和国はあまり大きな希望のある将来は期待できなかったのかも知れません。
土方歳三の写真は一枚だけ存在しています。いよいよ新政府軍による五稜郭総攻撃が行われるという直前に撮影したと考えられるもので、彼は若い部下に写真を持たせて五稜郭を脱出させています。その部下が東京の日野の土方の家族に写真を届けたため、今もその写真を我々は見ることができるというわけです。土方は京都でそれは女性にモテたそうですけど、確かにかっこいい顔立ちだと思います。現代でも通用する美男子だと言っていいのではないでしょうか。土方は新政府軍の戦いの最中、銃撃を受けて戦死しているところを発見されました。そのような状態であったため、果たして誰の攻撃によって死んだのか、どんな風に倒れたのかといったことは全く分かってはいません。映画やドラマでも土方の最期の描き方には統一感がなく、はっきり言ってばらばらなのですが、そんな風になってしまうのも、土方の最期を目撃した人がいなかったからだと言っていいと思います。気づいた時には土方は倒れていたわけです。
戊辰戦争の最後の戦場になった箱館に土方のような男がいたことについて、私はわりと感動してしまいます。徳川慶喜も新選組の働きは認めていたように、幕末でぱっとしない幕府軍関係者の中で、新選組は群を抜いていたというか、新選組だけがんばっていた感じがあるので、その新選組を実務面で引っ張ていた土方歳三が途中で逃げたり諦めたり捕まったりせず、ちゃんと戦い抜いてくれたと思うと、むねあつになっちゃうんですね。絵になるというか、伝説になる戦い方をしてくれたというか、まあ、簡単に憧れてしまいます。司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』で描かれる土方が戦死する前夜の感じとか、ちょっと泣けちゃうんですよ。
個人的に箱館に行ったときに、土方の倒れていた場所にも訪れてみました。土方の写真のコピーが置かれていて、ちゃんとここで倒れていましたよと分かるようになっているんですけど、文字通り聖地巡礼みたいな感じでしみじみと眺めてしまいましたね。土方がしっかり戦ってくれたので、新政府軍の側も遠慮なく戦争に没頭することができたので、明治はすっかり江戸時代のことを振り切ってなりふり構わぬ近代化に突き進むことができたのかも知れません。