フランス啓蒙思想-神の支配と王の支配と法の支配

ヨーロッパでは王権神授説を振りかざす絶対王政が威力を持つ時代が続きましたが、18世紀に入るあたりから、そういった絶対王政を否定し、民主主義、三権分立、カトリックの伝説や教義を絶対的に信じるわけではない実証主義が登場します。啓蒙思想と呼ばれるものです。

特に有名な人物がモンテスキューではないかと思います。『法の精神』を著し、三権分立を説いたモンテスキューは、王の気分次第でなんでもできる、王が命令した法律はなんでも通用するとする価値観を否定し、法律には条文を云々する前に自然法があって、イギリス風に言えばそれはコモンセンスに基づくものであって、もうちょっと言うと法治主義ではなく法の支配があるべきと考えたのだと言えるとも思えます。
法治主義であれば、法律に書いてあることはどんなに理不尽なことでもまかり通るため、ソクラテスのように「悪法も法なり」ということになるのですが、法の支配であれば、たとえ法律に書いてあったとしてもそれが明らかに理不尽な内容であった場合には条文よりもその精神に基づいて判断されなくてはいけないということになります。今日まで続く普遍性を持った思想と言えるのではないかと思えます。

ヴォルテールの場合、神と教会を問題にしました。私個人はカトリックを批判したりする目的でこのブログを書いているわけではないのですが、少なくともヴォルテールはカトリックを批判しました。福音書イエスキリストの人生を読めば、感動するところはたくさんあり、人を愛するとはどういうことかということについて、考えさせられたり、啓発されたりする部分があることは事実ですが、処女の女性が子どもを産んだり、人間が水の上を歩いたり、死んだ後に三日してから生き返ったりするというのは合理性という面では納得できるとは言いかねます。カトリックではそれを奇跡と呼び、奇跡が神性の証なので納得しないほうがいけないということになるわけですが、問題はそのドグマ自体よりも、カトリックに異端指定されると袋叩きにされる、追放される、殺されるという個別の人間に具体的な危険が迫ることにあったとも言え、宗教戦争で人が殺されまくるという歴史もヨーロッパは経験していますから、ヴォルテールは宗教的寛容が必要であると考えました。また、自然秩序そのものが神であるとする理神論の立場を採るに至りますが、これは遠藤周作さんの『深い河』にも共通する形而上の立場とも言え、多分に仏教の法とも通じ合うのものがあるのではないかと思えます。

啓蒙思想の思想家たちは百科全書派とも重なりますが、具体的で観察可能な知識を積み重ね、タランベールのようにそれらの知識を利用して実証的な議論をするという発想がその根本にあったと言えると思います。百科全書派の中にはディドロという人物もいて、彼も具体的かつ観察可能な事実から諸事について検証・思索することを重視したため、唯物論へとつながっていきます。神が実在するかどうかはの中の問題であって、物理的には観察不可能ですから、観察可能な事象を積み重ねようとすれば唯物論へとつながっていくことは理解できないわけでもありません。

最近は量子研究が盛んになり、どんなにミクロな世界、さらにはナノの世界、もうちょっと言えばパラレルな世界へと入り込んで行ったとしても整然とした秩序があり、そこに神という設計者がいたのではないかと思いたくなる面もありますし、人間の心が観察対象に影響を与えうるとする世界があると言われるようになって、即ち、心と物理はつながっているということになってきているため、唯物論を完全に受け入れるべきかどうか、個人的には判断に迷うところではありますし、唯物論は飽くまでもカトリックとの対立軸として理解されるべきものではないかとも思いますので、カトリックに関する議論を忘れて唯物論だけを取り出して、絶対的な真理として議論することも難しいのではないかなあ、馴染まないのではないかなあとも思えます。難しいことなので断言することはできないところではありますが。

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