昭和天皇の関わった人物、側近は誰でしょうか?

昭和天皇が最も信頼した、側近中の側近は鈴木貫太郎であっただろうと思います。鈴木貫太郎は奥さんが昭和天皇の元お世話係をしていた女性であったということもありますが、鈴木貫太郎自身も昭和天皇の侍従長を務めたことがあったほか、226事件では殺されかけていますので、軍の暴走に対する警戒感は昭和天皇と共有していたに違いありません。昭和20年に入り、軍が本土決戦を主張する中、「こいつらヤバいから早く戦争を終わらせなければならない」と昭和天皇は考えたわけですが、終戦を実現するための首相に鈴木貫太郎が指名されます。憲政の理念では天皇に指名権はありませんが、鈴木が高齢を理由に首相を辞退しようとした際、天皇直々に頼んでいますから、鈴木内閣だけは天皇自身の意思が反映されて組織されと見て良いと思います。で、天皇の周辺を取り巻く、虚々実々の情報を持ち寄って天皇を操ろうとする魑魅魍魎みたいなやつらとは違い、鈴木は天皇の希望通りに戦争を終わらせ、終戦と同時に総辞職という綺麗な身の処し方もしていますから、天皇からの信頼・感謝は厚いものがあったに違いありません。

それとは別に、天皇本人の本音や愚痴のようなものをいろいろ聞いていたのは木戸幸一だと思います。内大臣として天皇と内閣のつなぎやくをしていたのが木戸幸一ですが、戦後、A級戦犯として終身刑を言い渡され、日本が主権を回復するまで服役します。戦争中、天皇は皇居内に建設した防空壕での生活を続けましたが、戦後も天皇は同じ場所での生活を続けました。周囲からもっと快適なところで生活するのはいかがかと提案された際、「木戸がまだ入っているから」と言って提案を退けたそうです。天皇自身が木戸のことを非常に近い人間関係であると認識していて、木戸に気を遣っているのが分かります。木戸の方も自分だけムショに入れられて天皇は全く何の被害もなかったことについて頭に来ていたらしい節もあるので、この2人に関してはやや友達のような、悪友とか同級生みたいな感覚があったのではないかなと思います。木戸は釈放されたのち湘南地方で暮らしましたが、昭和天皇が葉山御用邸に静養に来た際には、木戸はご近所の吉田茂と一緒にお呼ばれしていたそうです。



大磯と近代

大磯を歩いてきた。大磯は興味深い場所だ。まずなんといっても風光明媚だ。天気が良ければ富士山が見えるし、そのような日は相模湾の向こうに伊豆大島も見える。景色に占める海と山、人の世界のバランスが絶妙で飽きない。海岸に出て右手を見れば伊豆半島で、左手を見れば江ノ島と三浦半島が見える。これほど贅沢な景色のあるところは日本中探してもそうはあるまい。

そしてもう一つ、おもしろいのは近代に入って別荘地として大磯は人気が高かったことだ。たとえば西園寺公望は大磯に本格的な洋館を建てた。もともとが幼少期のころの明治天皇の遊び相手で、明治・大正・昭和と政界に鎮座し、元老という実質最高権力者の位置に立ち、昭和天皇のアドバイザーというか教育係みたいな人物だった西園寺は、長いフランス生活から帰った後、しばらくの間、大磯で生活した。

旧西園寺公望邸

西園寺邸よりももう少し二宮方面へ歩くと、吉田茂邸もある。吉田茂は大磯で生涯を閉じた。彼の邸宅は見事なもので、まるで高級旅館である。このほか、原敬、大隈重信、西周、伊藤博文とビッグネームが並ぶ。そして私は山県有朋の名前がないことに気づいた。山県は小田原で別荘を構えていたが大磯には別荘を持っていなかったということなのだろう。で、漠然とではあるが、あることに気づいた。明治から昭和初期にかけての政界は、厳密にではないにせよ、ある程度、漠然とではあっても、小田原派と大磯派に分かれていたであろうと言うことだ。
旧吉田邸
小田原にいた山県有朋は政党政治を重視せず、超然内閣路線の支持者だった。戦前の帝国憲法では議会に勢力を持っていない人物が首相に指名されることは制度上可能だった。山県は議会の意向を無視した、すなわち、超然とした内閣が組閣されるべきとした政治思想を持ち、国民から嫌われまくって生涯を終えた。

一方、山県とはライバル関係にあった伊藤博文は党人派だった。伊藤の時代に政党政治はまだ、やや早すぎた可能性はあるが、伊藤の理想は現代日本のように、選挙で選ばれた議会の人物が首相になり、議会と行政の両方を抑えて政策運営をすることだった。イギリス型議会政治を目指したと言ってもいいと思う。この伊藤の理想を大正時代に入って実現したのが、初の平民宰相として歴史に名を遺した原敬であり、首相指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に指名する「憲政の常道」を作り上げた西園寺公望だ。伊藤博文、原敬、西園寺公望のような政党政治派の人材がこぞって大磯に別宅を構えたのは偶然ではないように私には思えた。おそらく一時期、大磯派の、即ち党人派の人物たちは東京から離れた大磯で密会して意思決定していたに違いあるまい。

もっとも、それはあまり長くは続かなかった。伊藤は暗殺され、原敬は鎌倉の腰越に別荘を移した。原はその後東京駅で暗殺されている。西園寺も大磯を離れ、昭和期は静岡県で過ごしている。東京から遠すぎるので、226事件の時、西園寺は無事だった。いずれにせよ、党人派はバラバラになってしまったわけだが、その現象と戦前の政党政治の失敗が重なって見えるのは私だけだろうか。もちろん、樺山資紀みたいな党人派とか超然内閣とか関係ない人も大磯に別荘を持っていたので、私に垣間見えたのは、そういった諸事のほんの一部だ。

大磯はそういった近代日本の縮図の一端を垣間見せてくれる土地であり、やはり風光明媚なことに変わりなく、都心からもさほど離れているわけではないということもあって、非常に魅力的な土地だ。できれば私も大磯に別荘がほしい。ま、それは夢ってことで。



石橋湛山内閣‐リベラル首相の短命内閣

石橋湛山は東洋経済新報を基盤にリベラルな経済政策を主張し、日本の植民地主義にも反対で、植民地を広げるよりも貿易で繁栄を追及すべきとする「小日本主義」と呼ばれる思想を持っていた人だったと考えられています。

時代が戦後に入ると第一次吉田茂内閣で大蔵大臣を務めますが、後に公職追放されてしまいます。石橋湛山のような軍拡否定主義者が公職追放されることに疑問が残ってしまいますが、東京裁判では検察側「高橋是清軍拡主犯説」みたいなものを否定する証言をしたり、戦時補償債務でGHQと対立したりというのがあったので、そういうのが陰に陽に影響したのかも知れません。

戦時補償債務問題では、石橋湛山は政府がこつこつ戦争によって生じた国民や企業への損害を補償していきたいと考えていたようなのですが、連合国サイドでは日本人を甘やかすんじゃねえという考えがあったようです。

後に占領が終わり、公職追放が解けると鳩山一郎内閣に通産大臣で入閣します。吉田茂の政敵に入閣したことから、石橋湛山の公職追放には吉田茂が絡んでいたのではないかという噂もあるようです。

鳩山一郎時代には、中国やソ連と「等距離」な付き合い方を模索していたようですが、当時のアメリカはそういうのはあまり気に入らなかったようです。朝鮮戦争が停戦して間もないころですし、停戦はしたものの終戦ではないので、国際政治の観点から言えばアメリカはソ連・中国とは潜在的な敵同士ですので、そういう意味でアメリカは石橋湛山が気に入らなかったようです。

鳩山一郎の次の自由民主党総裁選挙では、アメリカ一辺倒主義の岸信介と石橋湛山で争いますが、第一回投票では岸信介が若干の優位で一位、石橋湛山が二位だったものの、決選投票では石橋湛山が三位の石井三次郎と同盟して石橋湛山が勝利します。角福戦争なみのドラマチックな展開です。

ただ、直後に病床についてしまい、国会答弁にも立てない容体になってしまったことから65日で退陣してしまいます。石橋湛山については、高い見識を持っていた人という印象が強いですが、その理由としてはこの時の引き際の良さも影響しているかも知れません。

石橋湛山の次は岸信介が首班指名を受けることになります。

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第二次(第三次第四次第五次)吉田茂内閣

芦田均内閣が昭和電工事件で総辞職すると、GHQの民生局は結成されて間もない民自党の総裁吉田茂ではなく幹事長の山崎猛を首相に擁立しようと動いたと言われています。反吉田派の議員もこれにのっかろうとしますが、吉田派の議員たちが山崎猛を説得し、山崎が議員辞職する(新しい憲法下では衆議院議員でなければ首相になれない)ことで、第二次吉田茂内閣が登場します。長く、かついろいろな仕事をした内閣です。この流れは山崎首班事件とも呼ばれますが、白洲次郎が吉田茂に山崎擁立の動きを報せ、吉田がマッカーサーに確認したところ「そんな話は知らない」と答えたということなので、民自党の内部もガタガタしていますが、GHQの内部でもいろいろとガタガタしていたと推量することができます。

民自党は少数与党であったため、議席数の増加を目論んで衆議院の解散を行おうとしますが、憲法の規定では内閣不信任案が議決された場合か、天皇による解散かだけが認められているため、果たして自己都合解散が可能かどうかで議論されますが、与野党共同で内閣不信任案に賛成し、天皇の解散の詔書も用意して、つまり憲法の規定の両方を満たすことで文句ねえだろうと衆議院を解散します。世間から「馴れ合い解散」と言われます。現在は首相の一存でいつでも解散できることになっていますが、それはその後に確立された慣例と言うことができるかも知れません。

このようにして成立した吉田茂内閣ですが、この長期政権の最大の仕事はサンフランシスコ条約の締結によると日本の主権回復と、日米安保条約の締結と言えます。吉田茂はサンフランシスコ条約には日本人参加者全員の前で署名しましたが、日米安保の方は、後世の汚名を被るのは自分だけでいいからと、場所を変え、目立たずこっそりと一人で署名しています。これだけの大仕事をしたのですし、鳩山一郎の公職追放が解ければ鳩山に政権を返すという約束もしていた吉田ですが、更なる長期政権を目指し、衆議院を解散します。抜き打ち解散と言います。

与党の民主自由党が政党名を自由党に改称し、選挙に臨みましたが、自由党が僅かに過半数を超え、野党は改進党、社会党右派左派で議席を分け合うという結果になりました。社会党右派の西村栄一の質問で「自分の言葉で世界政治を語ってくれ」「自分の言葉で語っている、無礼じゃないか」「無礼とはないか」「バカヤロー」という子どもの喧嘩みたいなことで国会が紛糾し、世に言うバカヤロー解散が行われます。

選挙結果は自由党吉田派だけでは過半数に届かず、改進党の閣外協力を得てどうにか政権を維持できるというところでしたが、造船疑獄事件が起き、検察に対して佐藤栄作逮捕を延期するよう指揮したことで一機に世論の支持を失います。鳩山一郎政権を作ることを自分の仕事だと信じていた三木武吉が吉田の外遊中に鳩山を総裁とする日本民主党を結成し、内閣不信任案で吉田茂に追い込みをかけますが、吉田は当初こそ解散で乗り切るつもりだったものの、造船疑獄と指揮権発動で世論の支持のない状態では選挙で勝てないと判断し、総辞職します。

吉田茂が首相を務めた長い期間には、朝鮮戦争の勃発やアメリカからの再武装の依頼などもありましたが、吉田は再武装は拒否しつつけたものの、政権の末期で自衛隊を成立させます。吉田茂には平和主義という印象や、再軍備すればお金がかかるので、拒否したという観点から、現実主義者と評されることもありますが、個人的には戦前に官僚なり政治家なりを経験した人は軍がどれほど面倒な存在かということを身に染みており、軍が日本を滅ぼしたという実感もあったでしょうから、軍人の復活を嫌っていたのではないかという気もしなくはありません。

吉田茂の次は鳩山一郎が政権を継ぎ、保守合同、55年体制の確立へとつながっていきます。

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片山哲内閣・芦田均‐挙国一致?内閣

吉田茂が衆議院選挙の結果を受けて退陣したことを受け、議会で過半数は得ていなかったものの、第一党に躍り出た日本社会党の片山哲委員長が首相に指名されます。少数政党による政策運営の停滞を危惧した片山は民主党の力を得、最終的には挙国一内閣を目指していきます。

ところが、自由党の大野伴睦らが「社会党左派がモスクワとつながっている」として入閣に拒否。大野はやむを得ず、親任式には一人で登場するという前代未聞の一人内閣が登場します。議会では信任を得ていると言っていいのに大臣のなり手がいないというのはまさしく永田町複雑怪奇の見本のような様相を呈していたとも言えるでしょう。

初の無産政党の首相として、社会主義的改革を推し進めようとしますが、かえって反発を招き、政策は思うように進まなくなってしまいます。民主党の幣原喜重郎が造反したほか、社会党左派も「生ぬるい」言い捨てるが如き有様で片山哲を見棄てて行きます。それらの収集に右往左往していることが国民にも報道され、万事休すを悟った片山は辞表を提出するに至ります。

後継首相は同じ政党間の枠組みを引き継ぐ形で芦田均が首班主命されますが、当事者能力がほぼないと自他ともに認める形での早期の退陣ということになってしまいます。芦田政権では昭和電工事件など、わりとベタな政治と金の問題が表面化したことが最後の背中を押した部分がありますが、憲政が新しくなったばかりの時代からこその混乱という部分もあったのかも知れません。

芦田の次は、本格内閣として吉田茂が再登板し、長期政権を作り上げていくことになります。

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第一次吉田茂内閣

第22回衆議院選挙の結果、幣原喜重郎が軸足を置く進歩党が第二党となったことで、幣原喜重郎内閣は総辞職し、次の後継首相は憲政の常道に照らして比較第一党となった日本自由党の総裁である鳩山一郎が組閣を命じられるのではないかと考えられましたが、GHQが鳩山一郎を公職追放に指名したため、誰か別の人を…と人選で右往左往することになります。

会津藩主松平容保の息子である松平恆雄を指名する案も浮上しましたが、いろいろ錯誤を経て吉田茂がいいのではないかということで決着します。吉田は何度も拒みましたが、「1、資金作りはしない 2、閣僚人事には一切口を出させない 3、辞めたくなったらいつでも辞める」を条件に首相指名を受け入れます。なんとなく徳川慶喜に似ています。

吉田茂が首相に就任した一年後、第23回衆議院選挙が行われましたが、これは初めての新憲法下に於ける選挙であったため、旧憲法の制度下で首相に指名された吉田茂内閣を信任するかどうかを国民に問うた選挙でした。憲法上、その後は議会が首相を指名することになりますので、選挙で負ければ吉田内閣は退陣するしかありません。過去の山県有朋のような超然内閣とかそういうものはもはやあり得ないわけです。この総選挙では社会党が比較第一党となり、直後に行われた参議院選挙でも社会党が比較第一党になるという今ではちょっと考えられない結果が出ました。

吉田茂には自由党と民主党での連立内閣を組織して政権を維持するという道もありましたが、憲政の常道の精神を重視し、比較第一党に政権を譲ることが望ましいと考え、総辞職します。吉田茂の次は、社会党の片山哲が民主党の協力も得て新しい内閣を組閣することになります。

これだけ見ると、吉田茂は一体何の仕事をしたのか、何であんなに有名なのか、という疑問が湧いてきますが、吉田は片山哲・芦田均内閣の後に第二次・第三次・第四次・第五次の長期政権を築き上げ、サンフランシスコ講和条約によって日本の主権を回復し、同時に日米安保条約にも署名して今日まで続く火種を残したと同時に、日本の安全保障の基盤を作ったともいえます。そういう大仕事についてはまた改めて述べたいと思います。