台北の友人(本省人)を久しぶりに訪ねたのですが、友人は周囲の人と話す際にも北京語ばかりで話し、台湾語をほとんど話しません。台北では台湾語は近い将来途絶えるでしょうか?

私もそんな気がします。

私の知る範囲で言えば、台北及び新北市あたりは本省人も外省人も北京語さえ話せればいいという雰囲気があって、30代以下は北京語しか話さないのが普通な気がします。20代の学生でも、おじいちゃんおばあちゃんとは台湾語を使うけれども学校ではオール北京語が普通でした。私は近いうちに北部の台湾語話者はいなくなると思います。

南部の台湾語話者はかなり根強く残り続けるのではないかなとも思います。とはいえ、数十年の差、世代的には2世代かがんばっても3世代でなくなっていくのではないかという気は確かにします。おそらく、今、南部で暮らしている人は、私の意見を聞けば怒って否定するでしょう。南部で台湾語がすたれることなどあり得ないと。

上海を旅行した時、若い人も上海語を使っていましたから、大陸では普通話と現地語が共存しているのだなということが感じられましたけれど、台湾では国民党が北京語オンリーで推し進めたために、それがスタンダードになってしまい、北京語の方がかっこいいという刷り込みも強くなっていて、ちょっと引き返せない段階に入ったと言う気はします。



富裕層が1億人超えた中国では、寄付文化の現状は、どのようなものですか?

深く考えたことはないですが、華人社会では赤の他人にチャリティするという価値観は根付きにくいと思います。血縁、紹介、コネを頼るのが普通なので、たとえば大都会で「李おじさん」が会社経営をして成功している場合、親戚の息子さんとか、その親友とか、田舎の帰省先のご近所の息子さんとかが「李おじさん」を頼って都会に出てきます。で、李おじさんは後見人となっていろいろ面倒を見てあげることになり、助けてもらう側はその恩義に応えるために一生懸命働くというようなことになります。やがて自分が年を取れば、若いころに助けてもらったみたいに後続を助けます。血縁にそういう人がいない場合、誰かと義兄弟の契りを交わし同じようなネットワークを作ります。大袈裟なものだと秘密結社になります。そういうわけですから、ネットワークがないと生きていけないのが普通であり、大抵の人は何らかのネットワークに所属しているため、そこで助けてもらえるのが普通であり、もしネットワークが全くない人物がいたとすれば、それは本人のそれまでの生き方が反映されていますから、自業自得と思われて見捨てられます。台湾映画の蔡明亮『郊遊-ピクニック』という映画でそれがとても良く表現されていると思います。



台湾ドキュメンタリー映画『日常対話』を通じて考える、虐待の過去と向き合うとは

映画の主たる内容

黄惠偵監督の母親であるアヌさんは、台湾での葬儀に呼ばれる道士という特殊な職業についている人だ。そして同時に夫から激しいDVを受けた過去を持ち、またレズビアンであもる。一見、普通の明るいおばあちゃんのように見えるアヌさんは非常に複雑な人生を送ってきたのだということが、映画が進むにつれて次第に明らかになって行く。観客が強い衝撃を受けずにいられないのは、黄監督とアヌさんが、彼女たちが日常生活で使うダイニングテーブルを挟んで向かい合う場面だろう。黄監督は涙をぬぐおうともせずに、父親から性的な虐待を受けていたと告白する。監督は母親に命じられ夜ごと父親の寝室へと行き、性的虐待に耐えなくてはならなかった。アヌさんは「知らなかった」で押し通した。

私の過去とアヌさん

人は誰でも多かれ少なかれ、心の傷を抱えて生きているはずだ。映画でDVを続けた夫のことが語られた時、私は私自身の父親のことを思い出さずにはいられなかった。私は父と過ごしたことがほとんどないのだが、父は帰ってくると深酒を煽り、母に対して執拗な暴力を加え続けた。ギャンブル狂で、借金がかさみ、暴力団員からの借金の取り立ても執拗に続いた。アヌさんの夫は家族に見捨てられ自殺したのだが、私の父は肝臓を悪くして死んでいる。私は幼少期から、自分が父親と同じような人間になるのではないかとのある種の恐怖とともに生きた。母からは私が父の血をひいているという理由で罵られた。それは今も続き、母はメールで罵ってくる。アヌさんは恋人たちに対して、自分の娘のことを「養子だ」と話していたことが映画で語られるが、もしかすると私の母と同様に、自分の子どもは夫の血を引いているために、その存在を受け入れがたいという気持ちがあったのではないかと私には感じられた。

アヌさん自身のことも、私には母とオーバーラップして見えざるを得なかった。あまり人に話したことはないが私は姉から継続的な虐待を受けていた。このことを過去に数人のごく親しい人に話したことがあるものの、あまりよく理解してもらえなかった。おそらく、姉から弟への虐待というものは一般的に語られる虐待の構造と合わないため、うまく想像してもらえないのではないかと考えている。私が母に対して、なぜ姉から私を救ってくれなかったのかと問い詰めた時、母は「知らなかった」で押し通した。母は私が苦痛で顔をゆがめ、茫然自失している姿を見ている。だが、現場を見ていないから知らなかったと言うのである。私は、私の母も、アヌさんも、逃げ切ろうとしているという点で共通しているように見えてならなかった。やや執拗になって申し訳ないが、アヌさんが恋愛に対して積極的に生きてきたことも私には母とオーバーラップするものだった。黄監督はアヌさんが恋愛に対して積極的であるにもかかわらず、家族に対してはあまり深く関わろうとしていないことにもどかしさを感じてる。私の母は、私が初めて社会人として勤務した職場近くのアパートの鍵を持っていて、ある時私が帰宅すると、母は私の知らない男性との性行為の最中であったということがある。アヌさんがそこまで酷いとは思わないが、何かが壊れてしまっている点が共通しているような気がしてならなかった。

性被害を受けたとある女性とアヌさん

私は、私の学生だった女性にこの映画に関する意見を求めてみた。彼女は以前、私に対し、彼女がレイプされたことがあるとの経験を語ってくれたことがある。彼女は熱心に、繰り返し、そのことについて語った。私は彼女の語る内容を理解する努力は続けたが、一、二度聞いただけでは深く理解することはできなかった。何度も繰り返し耳を傾けることによって、ようやく少しずつ理解は深まって行った。飽くまでも私の理解だが、彼女が私に訴え続けたことは、そのことによる心の傷は生涯続くもので、被害者は苦しみ続けるということだった。彼女のアヌさんに対する評価は厳しいものだった。アヌさんはレズビアンであるために、本当は男性のことが好きではないのかも知れない。しかし、社会的な圧力のために一度は結婚し、娘を生むところまでは耐えた。だが、それ以上、夫の要求にこたえることができないために、彼女は自分の娘を差し出したのではないかと言う見立てを彼女は私に述べた。尚、このことをブログに掲載することについては、彼女から了承を得ている。

生きることの難しさ

もしアヌさんがあのダイニングテーブルの前でシラを切らなければ、私はもっとアヌさんのことを好きになれただろうと思う。人は過去の過ちを受け入れ、反省するならば、いわゆる悔い改めというプロセスを経るならば、救済され赦されなければならないと私は思うからだ。

アヌさんを断罪すればそれで良いというものではもちろんない。アヌさんは多くを語らなかったが、簡単には語れない複雑な事情もあるはずなのだ。おそらくアヌさんはその多くを墓場まで持っていくつもりなのではないだろうか。

人は誰でも完全ではない。私は私が受けた被害について述べたが、私が加害者にならないとは限らない。人は誰もがアヌさんの立場になる可能性と黄監督の立場になる可能性の両方を秘めているに違いない。

アヌさんと黄監督の今後の人生がどのように展開するのか、私は知りたい。監督はいずれ、アヌさんとの関係をある種の高みへと昇華させてくれるのではないかとの期待が私にはある。また映画作品にまとめられる日が来れば、映画館に足を運びたい。

台湾は人口2400万人位、GDP70兆円位の中でTSMCの投資額が3.3兆円とのこと。凄まじいですね。鴻海もあるし、この30年で、もはや日本とは師弟関係逆転ですね?

「台湾は人口2400万人位、GDP70兆円位の中でTSMCの投資額が3.3兆円とのこと。凄まじいですね。鴻海もあるし、この30年で、もはや日本とは師弟関係逆転ですね?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

台湾の経済発展が凄まじいのは事実と思います。特に最近の5年から10年での発展ぶりには目を見張るものがあり、生活水準も飛躍的に伸びています。おそらく台北の中心部の有名企業で働く人や起業して成功しているタイプの人であれば、一般の日本人よりも豊かな生活を享受しているのではないかと感じます。特に日本の生活水準が下がっていて、銀座や祇園のような旦那さんが集う贅沢なエリアは全盛期と比較すれば壊滅状態に近く、要するにお金に余裕のある人がいなくて、若い就職したばかりの人に話を聞くとその薄給ぶりには涙を誘うものがあります。私が新聞社に入った時は額面の初任給20万に対して諸手当がたくさんついて手取りは倍近くあるというようなも感覚だったのですが、今は初任給20万から保険や年金などが引かれて手取り3分の2くらいになるそうです。斜陽の国と日の出の国くらいの勢いの違いがあって、もはや日本がアジアで抜きんでて豊かという時代ははっきりと終わったと思います。「師弟関係逆転」と表現するためには、師弟関係が存在していることが前提になりますが、少なくとも日本人の実感としては師匠であったという感覚はないのではないでしょうか。師匠は弟子の幸福や生活に気を配ってやらなくてはいけませんが、日本人はそういうことはしてきませんでした。下請けとしてあごで使ってきただけです。台湾の方としてはいよいよ日本越えが見えてきたというところだと思います。シャープが買収された時、私は台湾にいましたけれど、国を挙げての祝祭ムードは非常に印象的でした。今日本の様々な資産はお買い得ですから、台湾人の不動産購入は拍車がかかると思います。台北の不動産は上がりすぎていて利回りが悪く、日本の不動産の方が儲かるという話がよく出ているようです。日本人は今さら不動産なんか…と手を出しませんから、これからは本格的に買われていくのではないでしょうか。たとえばパリやロンドンの不動産はムスリムの人々に買われまくっているそうですが、同じことが東京でも起きるでしょう。帝国ホテルの最大株主が台湾企業というような時代もすぐそこに来るような気がします。私は以前はもうちょっと日本にがんばってほしいと思っていましたが、最近は諦めました。買われるがままに買われるしかなさそうに思います。



皇民化映画『サヨンの鐘』を解説します

1943年公開の映画で『サヨンの鐘』というのがあるんですね。李香蘭主演の映画で、満州映画協会が制作したものなんです。監督が清水宏さんという方で、松竹の監督なんですね。よく調べてみると、満州映画協会と松竹と台湾総督府が共同で制作したことになってるみたいなんです。で、この映画は日本による台湾での皇民化を宣伝する映画で、サヨンという実在していた少女を李香蘭が演じているという映画なんです。

 そのサヨンという人がどういう人だったのかというと、台湾原住民の少女なんですが、自分が住んでいる地域の日本人の男性のところに召集令状が来て、その男性は、その地域の警察官兼学校の先生という職業の人だったらしいんですが、応召するために山を下りると言うので、荷物を地元の人が協力して運んだんですけど、サヨンさんが荷物を運んでいる時に足を滑らせて川に落ちてしまうという事故が起きてしまいます。で、そのまま彼女は帰らぬ人になってしまったということなんですが、彼女を愛国少女として大いに称賛する動きが出て来たんです。

最初に出てきたのが『サヨンの鐘』という歌なんですね。西条八十作詞、古賀政男作曲で、渡辺はま子という人が歌ったんですけど、これが結構、ヒットしたらしいんです。サヨンの鐘の鐘ってなんなんだってことになりますけど、事故が起きた地元にサヨンを讃える鐘が設置されてですね、その鐘の音を聴いてサヨンを思い出すみたいな感じになっていたんだろうなと思います。

 これが映画になったのが、最初に述べた1943年公開になった作品なんですけど、一般にはまず歌があって、次に映画ができたということ説明されることが多いんですが、実は歌が作られた後に、短編小説も書かれています。台湾在住の日本人作家がサヨンの鐘という短編小説を書いて、これを雑誌に載せてるんですね。これは私が最近発見したことなんで、論文に書いてもいいんですけど、気がはやいものですから、youtubeでしゃべっちゃおうと思ってしゃべってます。

 サヨンが先生に恋心を抱いていてどうこう、というような説明をされることもあるんですが、実際には先生に恋心を抱いていたというよりも、日本帝国への忠誠心が非常に強いというような印象を与える描写が多いですね。そっちの方が、まあ、当時の政治的にも重視されたのは間違いないと思いますし。それに、大正時代には自由恋愛とか流行しましたけど、昭和に入って全体主義が世の中を仕切るようになってきたので、日本男性が植民地の女性にモテるかどうかというのは、あまり気にしていなかったみたいですね。女にデレデレしているようなやつが戦争に勝てるかみたいなところがあって、日本男児は女性のことは忘れて戦場で死ねばいいのだ、みたいな空気はちょっと、いろいろ読んでると感じますね。まあ、それで慰安婦の人たちがいたわけですから、日本軍兵士がご清潔だったとは言いかねますけども、そうは言っても植民地の女性にデレデレされて喜ぶような馬鹿な感じは発揮されなかったわけですから、それはそれで良かったとも思います。

で、ですね、映画版の『サヨンの鐘』なんですが、映画の冒頭で李香蘭が同じ集落の小さい子供たちに、今日は何曜日だ?とか質問するんですね。要するに、日付とか曜日の概念を知っているのが近代文明人の重要なポイントで、それをもたらしたのは日本帝国だ、というようなことを暗に示そうとしているわけです。サヨンは決して単に、兵隊さんになる先生に憧れているとか、そういうキャラ設定じゃなくて、集落の若者同士で人間関係で悩んだりとかしていて、先生は指導者として若者に少しでも生きる希望を与えよう、悩みを解決してあげようという姿勢を示します。

サヨンの先生の恋心みたいな説明をしている人って本当に映画みたのかな…と疑問に思います。先生とサヨンのロマンスみたいなのは一切ないです。

で、サヨン役の李香蘭さんがですね、先生を見送るのに万歳とか叫んじゃうんですね。恋愛感情のような私的ものじゃなくて、先生が日本のために戦いに行くからかっこいいと思うわけです。日本帝国っていう大きな物語があって、彼女はそっちに心酔しているという設定になっているわけですね。先生は帝国のために戦いに行くし、それを見送っている自分も帝国の一部になったような気がして、そのことで心境が昂揚して万歳!と叫ぶんです。で、足を滑らせて川に落ちてしまうということなんですね。

実在したサヨンさんが、本心ではどんなことを考えていたかとかそういうのはわからないですから、飽くまでもサヨンさんを素材にしてですね、ある種のサヨン伝説みたいなものが築き上げられたというようなところに注目するとですね、ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体っていう本ありますけど、あの本みたいにですね、人々が自分が国家の一部だと感じるためにどんな装置が作られたのかということの議論につなげることができると思うんですね。で、最近だったら、国家がどうこうというのはちょっと時代に合わないというか、今さら近代国家論じるのもださいぜとか思っちゃうんですけど、何らかの共同体とか、コミュニティで独自の伝説があって、人々がその伝説を大事に守っているみたいな現象はいろいろあると思いますから、そういうのを理解する理解する一環として、サヨンの伝説化がどんなものだったかというのを考えるのは価値があると思います。




張学良をやや深読みして日中関係を語ってみる

毛沢東の率いる中国共産党の打倒に王手をかけていた国民党の蒋介石を誘拐し、国共合作を約束させ中国人が一挙団結して抗日を目指すようになった西安事件は、その後の中国の運命にも日本の運命にも大きな影響を与えたできごととして記憶されている。しかし、事情が複雑すぎるためそれを簡潔に、或いは要点だけを絞って語るのは案外に難しい。当該事件の本質にかかわると思える点について少し述べ、そこから導き出せる現代史の一側面に切り込んでみたい。

事の本質は張学良氏が生き永らえたという一点に絞ることができるだろう。張学良は楊虎城と共謀して蒋介石の誘拐を決心したが、決心する過程においては中国共産党とも密に連絡を取り合い、周恩来の全面的なコミットメントがあったことも知られている。張学良が共産党のエージェントであったと指摘する人もいるが、それは事件が起きるまでに張学良・楊虎城サイドが周恩来と信頼関係を築くことに相当な努力を積み重ねたらしいからである。この三人が何を語り合い、どの程度の合意に達し、いかほどに信頼しあっていたかは不明だと言えるが、事件の前に何度も会っていることは確かなのだ。更に言うと、蒋介石が国共合作の決心を固めたのは監禁されているときに周恩来との会談をしてからのことのように見受けられるので、張学良よりも実は周恩来が事件の黒幕だったのではないかとすら勘繰る人もいるわけである。今となっては誰が黒幕だったのかというのはあまり大きな問題ではない。仮に張学良が全て自発的に企てていたとしても、或いは周恩来が黒幕であったにしても、起きた結果は同じなので、今さらそれを変えることはできない。ただ、そのあたりについて考えることを通じ、未来志向的に物事を見ることができるかどうかの思考実験をやってみたいのだ。

そしてその本質は、繰り返すが張学良が生き延びたという一点に絞り込むことができるのである。蒋介石が国共合作の決心を固めた後、張学良は中国人としての愛国心に突き動かされ、内戦の拡大を予防するためにも蒋介石とともに西安から南京へと移動し、南京で逮捕され軍法会議にかけられたというのが時間軸的な流れなのだが、楊虎城は蒋介石の解放には慎重であり、様々な保証を求めるべきだとして張学良と対立した。張学良と楊虎城はどちらも事件後に監禁される運命をたどるのだが、楊の方は1949年に国民党の特務機関によって家族とともに惨殺された一方で、張学良は台湾で半世紀にわたって監禁され、最晩年はゆるされてハワイで過ごした。

何が両者の運命を分けたのだろうか。張学良は蒋介石とは以前から盟友関係にあり、事件を起こした動機も愛国的民族主義的な近代的理想的中国人の心情によるものであり、蒋介石に対しても誠実であろうと務めたために命だけは助けられたと見ることはできるかも知れない。それはある程度、本当なのだろうと思う。事件が起きる前、張学良は蒋介石に次ぐ地位にあったし、蒋介石は台湾で時々張学良を訪問して語り合っていたらしいので、二人には人間関係が構築されていた。このような張学良神話に触れると、おくびょうな楊虎城は私利私欲がどうしても出てしまってぎりぎりのところで蒋介石にゆるされず殺されたかのような印象が残ってしまうのである。

楊虎城は1949年まで生きていたのだが、国民党が台湾に去る際に行きがけの駄賃みたいに殺害されたようにも見える。蒋介石と周恩来の間で合意されていたことが、1949年には破綻し、それまで命を保障されていた楊虎城の保護条件が失われたために殺されたと見ることもできるだろう。一方で張学良は最後まで命の保障条件が生きていたために生き延びたのかも知れない。だとすれば全てのシナリオを描いたのは周恩来だったと想像することもできる。

張学良は現代中国では英雄である。彼が張作霖から受け継いだあらゆる遺産と権利をかなぐり捨て、西安事件を起こし、その後の監禁生活に甘んじたことは、結果として中国を日本の侵略から救ったとして歴史の教科書に載るくらい立派な人物ということになっている。もちろん、それは嘘ではない。ただ、楊虎城と張学良の運命の違いは何だったのだろうかと多くの人には疑問に残るはずである。蒋介石と周恩来は何を話し合ったのだろうか。

以上のような疑問を提起はしたが、解決する術はない。張学良もこの点は特に秘匿し誰にも話さなかった。張学良を知る人は多いが、上の疑問に答えられる人物はいない。おそらく張学良本当に誰にも話さなかったのだろう。話が上手な人で、客好きで学問もある人だったと言われているが、彼は核心に関わる話題は慎重に避けたようだ。NHKのインタビューでもインタビューする側がそのあたりで非常に苦労したことは後の著作で述べられているし、中国人の大学教授が張学良にインタビューしたものも読んだことがあるが、事件以外の思い出話に終始していて、当時の中国の様子を知ると言う意味では面白い内容だったが、事件の核心を知りたい人にとっては全く役に立たない内容だった。

しかし、そのように情報が限られているからこそ、張学良が無私の人で、愛国心だけに突き動かされて西安事件を起こしたとする神話には磨きがかかり、多くの中国人の尊敬を集めるに至っているのである。晩年の張学良は多くの人の訪問を受けていて、台北に友人は多かったようだが、そのような厚遇を受けたのも張学良愛国神話が生きていたからではなかったかと思える。私は張学良氏をdisるつもりはないので、張学良氏本人の人間的な魅力も多いに彼を助けたに違いないということは付け加えておきたい。彼が西安事件を起こした背景の全てを知ることは不可能だが、動機の一つとしては張作霖の後継者として奉天軍閥の長として認識されるより、より近代的な愛国的行動者として記憶されたいというものがあったはずだ。愛国的行動はモダンでファッション性があったのだ。張作霖は日本の歴史で言えば斎藤道三のような実力主義的戦国大名みたいな感じだが、張学良はそれよりも織田信長のような見識のある、かつ繰り返しになるがファッション性のある存在になりたかったのではないだろうか。それについて私には悪い意見はない。愛国主義的行動にファッション性があると認識できただけでも、彼はモダンな中国人だったと言うことができるし、それを実践したのだから、氏の行動力も抜群である。

さて、このようにみていくと、日中関係史を考える上で極めて重要な点、そして日本ではあまり語られていない点が浮かび上がってくる。中国は1840年のアヘン戦争からその後100年にわたり列強の侵略を受けて弱体化した。多くの日本人が、世界の強国が中国を侵略したにもかかわらず、なぜ日本人だけ永遠に憎まれ続けるのかよく分からないと首をかしげるのは、このような歴史的展開があったからだ。だが、1840年ごろの中国と1940年ごろの中国では全く違うことが一つだけある。1840年ごろ、中国の支配者は満州人であったため、中国愛というものはあまり重要ではなかった。清朝は朝廷を守るという発想法のもとに外交をしたかも知れないが、中国を守るという発想はなかった。一方で1940年ごろの中国は愛国に目覚めた人々が増加していた。文化革命では愛国無罪という言葉多用されたらしいのだが、愛国主義がさほど大きな説得力を持つようになったのは1920年代から40年代にかけてのことである。もうちょっと言うと、第一次世界大戦後の世界は中国に対する不侵略で合意し、9か国条約によって中国の領土保全などが決められた。列強はそれ以上の侵略には二の足を踏むようになった。一方で日本は第一次世界大戦で戦勝国と認められ、ようやく列強の仲間入りを果たしたところである。対象が中国であれシベリアであれ国際法によって拡大に制限がかけられることには不満があった。袁世凱政府に対し日本は対華21か条の要求というものをして世界中からドン引きされてしまったが、そのような動きの背景には第一次世界大戦後の新しい国際秩序の存在があったのである。日本は新世界秩序の抜け穴を探そうとし、列強は新世界秩序に馴染もうとしない日本を警戒するようになった。中国人の目からすると、愛国主義が盛り上がる中、日本だけが中国侵略をいつまでもやり続けようとする最大の敵に見えるようになったのだと言ってもいいだろう。

従って、中国にとって、反日・抗日は中国の近代的愛国主義にとっては最大のテーゼであり、現代中国を語る上では国民党であれ共産党であれ、愛国主義とその絶対的な敵としての日本を語らないことは不可能なのだと言えるだろう。

このような事情について日本人が同意するか同意しないかは別の問題なのだから、異論を唱えることは自由だ。しかし、事情を知らなければ異論を唱えることもできないどころか永遠に解けない疑問の前に立ち尽くすしかなくなってしまうのである。

以上のようなわけで、その愛国主義の最大の功労者が蒋介石に国共合作を決心させた張学良ということになっている。そしてこの愛国主義は今も生きている。昨今の香港での出来事は、共産党サイドからすれば愛国主義的統合が絶対的な正義だと信じるが故に、妥協なく香港の中国化を推し進める動機になっているわけだし、実は多くの香港人も愛国主義を主張されるとたじろいでしまうのだ。そのような中国的ナショナリズムに対抗しようとすると、台湾で以前よく見られたように「我々は中国人ではない」と主張しなくてはならなくなる。自分が中国人だと認めれば愛国主義と民族主義の理想から北京政府との統合・統一に異を唱えることができなくなってしまうからだ。

以上のようなことを知っておくと昨今の中国事情とか香港事情とか台湾事情もより見えやすくなると思うので、ご参考にしていただきたい。




【中国】2049年までに台湾と統一‐武力行使も辞さない‐ということは、当面は何もない

2019年に入り、中国の習近平氏が2049年までに台湾と統一することを目標にすると述べたことは、表面的な強気な発言だけに注目した場合、中国の強い意志の表明のように見えなくもないのですが、ちょっとよく考えてみると、2049年まであと30年あるわけです。ということは、当面は統一するために無理はしないと発言しているように思えなくもありません。「3年以内」とかだと驚きますが、30年以内ですから一世代未来のことですね。

昨年あたりは2020年中国台湾に武力侵攻説みたいなネット伝説的噂が広がったことがあって、「わー、本当だったら具体的に着々と進んでいる」と思ったこともありますが、2049年まで余裕のある目標設定がなされている以上、2020年武力侵攻説は、まずなさそうな感じです。

ではなぜ、習近平氏がわざわざ30年未来の目標について発言したのだろうかと考えてみると、取り敢えず年頭に何か強気なことを言わなければいけないんだけど、何を言おうかなあ、あ、そうだ、30年以内に台湾と統一ってことでどうかな。と思ったんじゃないかなと思います。

私は30年後に生きている自信はないので、ぶっちゃけ自分が死んだ後のことはどうでもいいのですが、習近平氏も多分、30年後に目標設定したことで、当面は何もしなくていいやーと思っているような気がします。私が誤った理解をしていたら謝ります。すみません。

2049年は中華人民共和国建国100年ですから、きりもちょうどよく、すっと聴衆に受け入れられやすいのではとも思いますが、「30年以内」と「2049年まで」では、聞いた瞬間の印象が異なります。そのあたりの細部の計算はさすがだなあと思わなくもないですね。









2020年中国が台湾に侵攻する説を考える

インターネットで中国、台湾、2020と検索すれば、中国がその年に台湾を侵攻するとする説でもちきりなのが分かる。中国語のブログなども参考にしてざっくりとしたことを述べると、軍拡に熱心な中国は2020年には台湾に侵攻しても他国の干渉を排除できるだけの体制を整えることができると台湾の防衛白書に書いてあるらしいのである。

仮にそのようなことが書かれてあるとしてその真実性について考えてみたい。

中国の台湾に実質的な施政権を及ぼしたいという念願は強く、最優先の国策国是になっていると言ってもいい。そのため、現在の共産党政府が存続する限り、台湾を吸収編入しようとする努力は続けられると考えていい。だとすれば問題は、①中国共産党政権が存続し続けるか ②存続し続けるとして、彼らは台湾編入をなし得るかということになる。まず①から考えたい。

中国経済の衰退の兆候は様々に見られる。しかし、現在までに破綻や衰亡のような危機的状況に至っているかといえば、そうとは言いがたい。中国経済の指標には嘘やデタラメ、インチキが多いという指摘は多いし、もしかするとそれは当たっているかも知れない。たとえばソビエト連邦が崩壊した後、彼らが相当にデタラメな数字を使って実際には火の車の経済を糊塗していたことが分かってきたため、中国共産党政府も同じ運命をたどるのではないかと言う指摘があることも確かである。しかし現状、共産党政府が崩壊する外形的な兆しはない。経済的な衰退と言っても前ほど伸びなくなったというだけであり、日本に比べれば羨ましいほどの成長力は今も備わっていると見るべきだ。あるいは帳簿が二重だったり、数字がごまかされていたり、約束の不履行が次々と明るみになるということはあり得るが、我々が生きている間に、それらの綻びが共産党政府を破綻させるに至るほどのものになるかどうかは分からないし、当面はなさそうに見える。中国共産党政府は当面存続するだろうし、台湾編入の努力は引き続き熱心に行われることだろう。

では、彼らは果たして本当にそれをなし得るかということが議論されなくてはならない。台湾が中国に吸収される日は本当に来るのだろうか?2020年に外国の干渉をゆるさないほどに強力な軍事力を整えるということは、一言で言えばアメリカよりも強くなるということだ。アメリカは今も世界の覇権国だが、近い将来中国がアメリカに取って代わるかどうかは今のところは何とも言えない。取って代わるかも知れないと思えるほどに中国は巨大である。ただ、アメリカが衰退しているわけでもない。アメリカの世界経済に対するプレゼンスが下がっているのは確かだが、アメリカ経済そのものは堅調であり、他の地域、特に中国が急速に発展したためにアメリカのプレゼンスが相対的に下がったということでしかない。そのため、アメリカが中国よりも更に強い軍事的なパワーを維持したいと考えているとすれば当面の間、それは可能だし、台湾を西側の砦として守り抜くというアメリカの姿勢が崩されることは、これも当面の間はなさそうである。

とすれば、将来的に中国かアメリカのどちらかが台湾を諦めるまでこの紛糾は続くということになり、また、どちらが諦めるかを見届けることは最終的にどちらかが勝ったかを見届けることにもなると言えそうだ。

それはある程度遠い将来のことかも知れないが、意外と近い将来にそれを占うことができそうな外交日程がある。米朝首脳会談は実現の可能性が相当に高まってきているし、本当に実現すれば米朝平和条約も雲をつかむような話ではなくなってくる。その場合は中身が問題になってくるわけだが、先日行われた南北首脳会談では朝鮮半島の非核化を目指すことが声明されており、北朝鮮が核放棄をする見返りに在韓米軍は撤退することを目指したものだと言って良い。北朝鮮のリーダーは必ずしも世間で言われているほど愚かな人間ではないことは最近になってはっきりしてきた。中国にも二度に渡って訪問しており、背後には強力な味方がついていることをアピールしたからだ。アメリカに対しては北朝鮮は甘くないというメッセージになっただろうし、中国に対しては北朝鮮は従順であるというメッセージになった。

即ち、米朝首脳会談は実際には米中の駆け引きとせめぎ合いであり、どちらが外交達者かを見極められる舞台になるはずだ。トランプ大統領が適当に折り合いをつけ、例えば限定的な核査察しか行われないのにそれを認めたり、在韓米軍も撤退とまではいかなくとも縮小することに同意したりすれば、中国は台湾に関しても同じように駆け引きができると考えるだろう。そうなれば俄然、台湾の中国への編入は現実味を帯びてくることになる。反対にトランプ大統領がかなりの強硬姿勢で完全な核査察の実現にこだわり、在韓米軍も撤退しないということで話がつくのであれば、中国は台湾に関することでもアメリカがどういう態度で臨んでくるかを予想することができるため、台湾を強引に編入することには躊躇することになるはずだ。

尤も、中国が台湾を武力的に襲撃して占領するということは考えにくい。そのような目立つやり方をすれば世界から警戒され非難されるということは議論するまでもないことだ。そのため、台湾人の自発的な統一への意思に沿うという体裁で統一を進めて行くはずである。私が当局者であれば、台湾で国民党政権が返り咲くのを待つし、国民党政権復活のために協力できることをやろうとするだろう。そして国民党政権下で躊躇なく統一の手続きを進めようと考えるはずだ。国民党の中にも統一を良しとしないグループは存在するため、そのことにも手を打たなくてはならないが、説得するか粛清するか利益誘導するかして何とかするということになるはずだ。

昨今の2020年に中国が台湾に侵攻する説は、台湾の独立を志向するグループから広められたのではないかと私には思える。蔡英文総統の二期目があるかどうかは意外と不透明で、独立派はまずは蔡英文氏の二期目の当選を確かなものにしたいからだ。2020年というリアルな時間軸は、危機感を煽ることで蔡英文氏が選挙戦で有利になることを狙っているのではないかと考えることができる。私の想像、推測、憶測である。

しばらくは米朝首脳会談の結果を待つしかなさそうだ。会談が実現するかどうかもまだ分からないのだ。直前のキャンセルもあり得るのだから。

昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。


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昭和15年8月15日付のとある情報機関の機関紙に、台北帝国大学の浅井恵倫教授がオランダの植民地政策がどういうものかを論じる原稿を寄せていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。この浅井教授という人がどういう人なのか検索をかけてみたところ、オランダに留学してライデン大学で台湾原住民の言語の研究で博士号を取得した人で、その後台湾で教授になり、戦後もしばらく中華民国のために台湾で仕事をした人であったことが分かりました。要するにオランダと台湾のプロということになりますから、オランダの植民地政策と日本の植民地政策の違いを論じるのにうってつけの人物と言えるかも知れません。で、当該の記事によると、オランダのような小国がどうしてインドネシアのような広大な地域を支配し続けることができているのかという点について、当該地域の王族を優遇し、王族を通じて現地の人を間接支配をしたからだということらしいです。このことについて、浅井教授の原稿では

王族を通じて一般土民(ママ)は自由に操縦され、飽くなき搾取に搾取は繰り返され、蘭印民衆の永久に立つことのできない様に、仕組んでしまったのである。その仕打ちたるや正に悪辣といふか、非人道的と言ふか、これを台湾の植民地政策と比較対照した時、まさに雲泥の差があるといはなければならない。そこには、東洋と西洋に於ける、自らの民族的見解の差があるのではあるが、一は精神的同化を目指し、一は物質的搾取を目的とする、東西の両極端をよく表現してゐるものと言へよう。

としています。日本帝国の敗戦後、日本の皇民化は内心の自由を奪おうとしたという観点から批判されるわけですが、当該の原稿では日本の植民地政策は精神的な合一、即ち愛情があるのに対して、オランダの植民地政策には単なる物理的な搾取があるのみで、現地の人を幸福にしようとか、そういうものは全然ないという批判をしています。

現代人の観点に立つとすれば、半分当たっていて半分当たっていないという感じではないかと思います。日本帝国が台湾の開発に大変に熱心であったことはよく知られています。良いか悪いかは別にして農業を振興させ、資源を開発し、現地の人に義務教育を施し、工業化も目指しました。長い目で見れば植民地が農工業で発展している方が、帝国の収支は良くなるという意味で帝国にとっては優良資産になりますし、現地の人にとっても生活の向上につながります。李登輝さんが総統をしていた時代にはよくこういった点が良い評価がなされていました。ですが一方で、皇民化という取り組みは「私は何者なのか」という大切な内心な問題に介入し、日本人だと信じ込むように誘導したという点では、やはり必ずしも高く評価することはできないのではないかとも思えます。戦後の日本国憲法では内心の自由を重視しますから、その憲法下で教育を受けた戦後世代としては内心の自由を侵す皇民化は問題視せざるを得ません。ですので、浅井教授の指摘は半分は当たっているけど半分は外れていると言う結論になってしまいます。

尤も、当時は日中戦争の真っ最中に情報機関のプロパガンダ紙に原稿を書くわけですから、浅井教授としても日本の帝国主義を批判するわけにはいかなかったでしょうから、先に引用したような内容にならざるを得なかったとも思えます。当時は「日本人になれること=良いこと」を大前提にしないと原稿が書けなかったでしょうから、上のような体裁にするしかなかったのかも知れません。

当該の原稿では最後の方で「来たるべき日のために」という、なかなか意味深長な言葉も含まれています。当時既にオランダ本国はナチスドイツの支配下に入っており、やがてアンネフランクが隠れ家で後に世界が涙する日記を書くことになるわけですが、オランダ領インドネシアは本国のバックアップなしに経営を続けなければならないという逼迫した状態に置かれていたわけで、当該の記事では今こそ現地住民が立つことができるという趣旨のことを述べています。日本帝国はインドネシアの現地の人々を助けることができるし、台湾は南進政策の重大な拠点なので、その持つ意味は大きいという趣旨のことも述べられています。「大東亜共栄圏言説」なるものがどういうものかがよく分かると記事だと言うこともできるようにも思います。大東亜共栄圏は結果としては失敗でしたし、日本人にとって何らメリットはなく、戦後も批判の対象になるわけですが、当時の日本人が「大東亜共栄圏」にどういうイメージを持っていたかを感じ取れたような気がしなくもありません。

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