西ローマ帝国滅亡後の諸王国乱立時代

西ローマ帝国がオドアケルによって滅ぼされた後、力の空白を埋めようとするかのようにヨーロッパ各地で諸王国が乱立するようになります。たとえばイタリア半島には東ゴート王国、イベリア半島には西ゴート王国(設定的にクラリス姫のご先祖のご先祖)、ブリテン島には七王国、北アフリカにはヴァンダル王国、ブリテン島にはいわゆる七王国(『忘れられた巨人』の時代)というように、旧西ローマ帝国の版図は砕けたガラスのようにバラバラになります。

彼らの多くはフン族の大移動によって西へと押し出されたゲルマン民族の人々で、後のイギリスフランスドイツなどのヨーロッパ諸国の基礎になる世界を作っていった人たちですが、そこへ至るのはまだ少し先のことであり、これらの小王国は3つのスーパーパワーによって圧倒され、整理されていく運命を辿ります。3つのスーパーパワーとは、1、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、2、ウマイヤ朝、3、フランク王国の3つです。1は古典的正統派であるのに対し、ウマイヤ朝は中東世界から力の空白を見つけて張り出してきた新興勢力と言え、3のフランク王国の場合はそもそも世界政治のプレイヤーと認められていなかった人々が時代の変化の波にのって力を蓄えた、新興勢力中の新興勢力と言ってもいいのではないかと思います。

西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルですが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ゼノンと対立します。ゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル征伐を命じ、オドアケルはラヴェンナに追い詰められ、降伏するも殺されるという末路を辿ります。その東ゴート王国もテオドリックの死後に混乱が生じ、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス一世によって滅ぼされます。

東ゴート王国と親戚関係にあると言ってよい西ゴート王国はアフリカづたいに海を渡って北上したウマイヤ朝によって滅ぼされ、混乱は新しい帝国による新世界秩序の形成によって収拾されていきます。ヨーロッパ中央西寄りの辺りではフランク王国が伸長し、ブリテン島も七王国もウェセックスによるイングランド統一がなされ、現代のイギリスの母体になっていきます。イングランドは小王国を併合して作ったことや、バイキングやノルマン人の微妙な力関係が影響し合う土地であったため、現代のような明確に「自分はイギリス人だ(またはイングランド人だ)」というような意識が発達するまでは時間がかかったとも言われています。

このようにしてビザンツ、ウマイヤ、フランクによってヨーロッパが分け合われ、イギリス独自の歴史構造を持つにいたりますが(イギリスEU離脱騒動の際、イギリスはヨーロッパかヨーロッパではないのかという議論がなされたのは、以上のようにヨーロッパ大陸とは歴史に関するパラダイムの違いがあるからとも言えます)、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝はやがて勢力を衰退させ、フランク王国は分裂し、歴史の舞台から去っていくことになります。『薔薇の名前』のような中世ヨーロッパ本番がいよいよ始まります。

ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡

コンスタンティヌス一世によって東西に分割される状態が固定化したローマ帝国は、その後の明暗がはっきりと分かれていきます。東ローマ帝国が15世紀ごろまで存続したのに対し、西ローマ帝国は黄昏て行き、5世紀には滅亡します。

4世紀後半、フン族が黒海北岸あたりに登場し、ヨーロッパの諸民族を圧迫します。彼らが何者でどこから来たのかははっきりとは分かりませんが、中国の歴史に登場する北方騎馬民族の匈奴と同じ人々ではないかと考える人々は多いようです。ハンガリーやフィンランドはフン族の子孫によって構成されていること、少なくともハンガリー語はトルキスタン系の要するにユーラシア大陸内陸騎馬民族の言語を使用していることなどから、そのように考えられています。とはいえフィンランド人もハンガリー人も我々日本人の目から見るとどちらも正真正銘の白人に見えますし、ハンガリー人はスラブ系みたいに見えますから、相当に混血が進んだのかも知れません。まあ、そのあたりははっきりとは分かりません。フン族の王アッティラは東ヨーロッパを中心にアレクサンダー大王を連想させる広大な領地を持つ王国を作りましたが、この大王国はアッティラの死後、解体していき、現在のハンガリーの人々やフィンランドの人々へと分散していくことになります。

いずれにせよ、このフン族の西方移動により、ゲルマン系の諸民族であるサクソン人、アングロ人、ゴート人などが圧迫されて西方へ移動することになり、西ローマ帝国の領域へと入ってきます。彼らがクラリス姫のご先祖ということになります。ケルト系の人々はゲルマン系の人々に追い込まれ、アイルランドやスコットランドで暮らすようになるわけです。ゲルマン系の人々にとっては生活の場が失われてしまった状態ですので、西ローマ帝国侵入は決死のサバイバルであったに違いなく、守る側の西ローマサイドも相当に苦労したに違いありません。有名なものとしてハドリアノポリスの戦いがあり、この時は東西ローマが統一して戦線に臨みましたが、先陣に立った皇帝が戦死するという展開になってゴート人が勝利し、ローマ帝国域内でゴート人が生活圏を得るということで休戦になります。

西ローマ帝国に衰亡は激しく、410年には西ゴート人がローマに侵入し、略奪戦が繰り広げられます。西ローマ皇帝ホノリウスはラヴェンナに居ましたので、帝国そのものがローマを見捨てたとすら言ってもいいかも知れません。略奪は3日に及び、市民の多くが殺されるか奴隷にされるという悲劇が生まれます。キリスト教の施設は破壊を免れたとも言われていますので、ゴート人にもキリスト教が相当程度認知されていた、或いは信徒が増えていたのかも知れません。

475年、既に西ローマ帝国の実質的支配地域は少なく幾つかの属州でそれぞれに執政官が仕事をしている程度にまで縮小していましたが、西ローマ皇帝が過ごすラヴェンナを占領し、皇帝ユリウス・ネポスを追放して自身の子を皇帝に即位させます。その子はロムルス・アウグストゥスといういかにも気取った風な名前を名乗りましたが、翌年476年に傭兵隊長オドアケルによって廃位されます。一般にはロムルス・アウグストゥスの廃位によって西ローマ帝国の滅亡とされますが、元老院による帝国解散の決議という手続きも踏まれたそうです。力でねじ伏せたオドアケルとしては、そのような手続きはどうでもいいものだったかも知れないですが、ローマ法を重んじる市民を納得させるために必要だったのかも知れません。オドアケル本人が西ローマ皇帝を名乗ることはなく、東ローマ皇帝に臣従する姿勢を示したため、ローマ帝国は図らずも統一されたとも言えますが、東ローマ皇帝がその後、旧ローマ帝国の回復を目指したものの、それが完全になされることはありませんでした。こうしてヨーロッパは中世へと歴史のパラダイムを移していくことになります。

ローマ帝国の黄昏

五賢帝の安定した時代が終わった後、帝政ローマの歴史の中で「危機の3世紀」と呼ばれる時代があります。軍が皇帝を擁立しては廃帝にすると繰り返し、元老院がそれを(まあ、まず間違いなく多分にしぶしぶ)認めるということが繰り返されるようになります。軍の内部の争いがそのまま国政に反映されるという状況であったとも見ることができるかも知れません。

更に、各地で自称ローマ皇帝が乱立するようになり、元老院の認証を受けた「本物」の皇帝がそれら偽物を討伐するのに忙しく、そんなことをしている間に軍の本体から見捨てられるの繰り返しであり、さながら日本の戦国時代のような様相を呈して来ます。そのような事態をどうにか収拾させる目途をつけようとしたのがディオクレティアヌスです。皇帝を二人置き、副帝を二人置き、この四人で帝国を分割して支配するというもので、ディオクレティアヌス本人はトルコ、シリア、エジプトという中東地域を支配します。このような支配方法はそれぞれのパワーバランスや政治的駆け引きなど微妙なところをディオクレティアヌスの手腕によってなんとか秩序を保つというやり方であったため、ディオクレティアヌスが政治を引退した後に再び混乱し始めます。

その混乱を押さえて再び帝国を統一したのがコンスタンティヌス1世です。軍人たちなどの間でキリスト教徒が増えたことなどを背景に、自信の母もキリスト教徒だったこともあって、彼はミラノ勅令やニケーア公会議などを通じてキリスト教を公認する政策を選んでいきます。コンスタンティヌス1世は自身の拠点をビザンチウムに置きますので、ローマは実質的に地方都市の地位へと転落します。コンスタンティヌス1世はライバルを死に追い込むなどして唯一の専制君主となり、帝国は一時安定したかに見えるようになります。コンスタンティヌス1世は亡くなる直前にキリスト教の洗礼を受けており、同様の形で人生の幕を閉じた吉田茂を連想させます。

その後、ローマ帝国は共同皇帝を立てるなど、東西ローマ帝国が同じ国なのか違う国なのかよくわからなくなっていきますが、キリスト教を国教にしたテオドシウス1世が一旦、完全に統一した後で二人の息子に帝国を半分づつ継承させ、395年にローマ帝国は東西に完全に分離することになりました。既にゲルマン民族の大移動が始まっており、西ローマ帝国は百年も待たずに滅亡していきますが、コンスタンティノープルに都を置いた東ローマ帝国はその後更に1000年の長い期間にわたって存続し、影響力を保ち続けていくことになります。

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帝政ローマの全盛期‐五賢帝時代

ユリウス・カエサルを出発点に古代ローマは共和制から帝政へと移行していきますが、当初、カリギュラやネロのような「暴君」、または「暗君」を排出する事態に至り、ローマは分裂、内乱の状態に突入します。キリスト教を迫害したことで知られるネロ帝が自死せざるを得ない事態に追い込まれた後、一年で四人の皇帝が擁立された四皇帝の年と呼ばれる異常事態を経て、ネルウァ帝の時代からローマは安定に入り、再び拡大し始めます。ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウスの五人の皇帝の時代で、『ローマ帝国盛衰史』を書いたギボンはこの時代を理想的な平和と繁栄の時代のイメージで語っています。

しかし、ネルウァ帝の場合、就任後も周辺では暗殺や陰謀が頻発し、自身も近衛兵に軟禁されて信じていることを断念させられており、本当にギボンの述べたような平和と安定の時代で語っていいかは多少の疑問も残ります。政争に敗れたネルウヮ帝が、後継者として養子のトラヤヌス帝を指名することで、政局は安定し、トラヤヌスへの帝位継承は円滑なものであったといいます。

トラヤヌスは戦争に強かったことで現代まで知られており、ダキア(現在のルーマニア)遠征を成功させ、同時期に中東のナバテア王国も併合しています。現代人の感覚から言えば、絶好調に「侵略」していたとも言えますが、ヨーロッパ人の目から見れば、ヨーロッパ世界の拡大に貢献したという意味で、いい皇帝だったということになるのかも知れません。トラヤヌスはその後も、アルメニア、メソポタミア、アッシリアへと征服戦争を続けていき、ローマ帝国史上最大の版図を得ますが、形成が悪化する中で戦地で病没してしまい、トラヤヌスの遺言にしたがい、帝位はハドリアヌスが継承していきます。

ハドリアヌスはトラヤヌスの拡大路線を放棄し、ユーフラテス川以東の属州の放棄を決断します。また、ブリテン島では、これ以上北上しても苦労なだけだと考え、現代で言えばだいたいイングランドとスコットランドの間あたりの地域にハドリアヌスの長城を建設し、国境線とします。ハドリアヌスは国内のインフラ強化を重視しており、現代まで残るローマ風建築物を各地に作らせました。カリオストロの城のローマ水道もハドリアヌスの時代に作られたものではないかと想像すれば、軽くムネアツです。

その次のアントニウス・ピウスもまた、帝国の版図拡大に関心はなく、軍隊とも距離を保っていたとされており、平和を愛する人というイメージで語られます。「ピウス」とはラテン語で慈悲深いという意味があるらしく、元老院からピウスという称号を贈られたあたり、同時代人の目から見ても温厚な人であったと言えそうです。ハドリアヌスの長城よりもうちょっと北に行ったところにアントニウスの長城が建築されますが、おそらくそのあたりのある種の小競り合い程度の戦争しか起きていなかったらしく、ようやくここに来て、ローマの平和、パクスロマーナが実現されたと言ってもいいのかも知れません。アントニウス帝はローマ法の整備にも手をつけ、奴隷解放を促進し、ローマ市民権のハードルを下げます。ローマ法が今日至るまで近代法のお手本みたいにしてもてはやされる基礎が作られたとも言えそうです。ただし、ローマ市民の急速な拡大は、奴隷労働によって維持されていたローマ人の特権的な生活基盤を危うくするものへともつながっていったため、何事も痛しかゆし…。というところかも知れません。

アントニウス帝が病没した後に帝位を継承するのが哲人皇帝として名高いマルクス・アウレリウスです。穏健に理性的な行動と思考を旨とするストア派の学問を身につけた彼は、『自省録』で真理や観念、生死などについて考えたことを散文風に綴っていますが、編纂したのは別の人物ではないかとも言われています。まあ、そのあたりは永遠に分からないでしょうけれど、哲学を学んだ文人風の人がローマ皇帝の仕事をしたというのは好印象です。そうは言っても戦争を全然しなかったというわけでもはなく、ゲルマニアでの反乱鎮圧に忙殺される日々を送る最中、マルクス・アウレリウスも戦地で病没しています。ただし、トラヤヌス帝のような征服戦争ではなく、治安維持または領域防衛のための戦争ですので、ちょっと意味合いは違ってくるかも知れません。マルクス・アウレリウスが亡くなってしばらくすると皇帝が擁立されては殺される軍人皇帝時代に入り、東西ローマの分裂、ゲルマン民族大移動、西ローマ帝国の滅亡まで暗い時代へと入っていくことになります。

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帝政ローマとキリスト教

ナザレのイエスがゴルゴダの丘で受難を迎えた時、ローマ皇帝はティベリウスでした。当時のイスラエルは帝政ローマの属州の一つであり、当時はピラトが総督として派遣され、ユダヤ教の長老たちの協力を得て支配を進めていた時代です。

イエスがエルサレムに入り、反対派から「このコインは誰のものか?」というある種の頓智問答を迫られ「カエサルのものはカエサルに(皇帝のものは皇帝に)」という頓智の利いた切り返しをしたことは有名ですが、通貨の発行と流通は当該の地域の主権は誰が握っているのかを明らかにする分かりやすい指標とも言え、敢えて説明しなくとも、カエサルのものはカエサルにという言葉だけで、当時のイスラエル地方を支配していたのはローマ帝国であるということが分かるようになっています。

イエスが受難した後、ペテロがローマ帝国域内で熱心に布教をしことから現代まで続くローマカトリックの初代教皇はペテロであるとされており、今に至ってもペテロの名を持つ教皇は初代のみで、ペテロ2世は現れておらず、それだけでもペテロという存在がローマカトリックにとって如何に大きなものであるかをうかがい知ることができます。

当初、ローマ帝国はキリスト教を迫害し、特にネロによる迫害がつとに知られています。皇帝ネロは狂気性を帯びた芸術家肌の人で、才能が十分にあったかどうかはともかく、そういう方面を愛した人ですから、その狂気性によってキリスト教徒を迫害したのだとする指摘がある一方で、当時、一般的なローマ人が多神教を信じたことから考えると、一神教を信仰することは受け入れがたく、ネロの迫害は当時の常識としては普通であるとの指摘もあるようです。このあたりは当時を生きた人でなければ分からない、判断のつかないことかも知れません。

愛と赦しを説くキリスト教はその後も人々の間に広まり、コンスタンティヌス1世はミラノ勅令(並立するリキニウス帝と共同で発したと一般的にされているもの)を発し、その後、コンスタンティヌス1世の全ローマ統一が行われた後にニケア公会議によってキリスト教がローマ帝国公認の宗教へと育っていくことになります。旧約聖書の原文がヘブライ語であったのに対し、新約聖書の原文がギリシャ語で書かれたという事実は、ローマ帝国が世界の征服者であった当時であっても、ギリシャ語には高い権威が備わり、共通語としての性質を持っていたことを示すものですが、同時に、新約聖書がよくよく吟味されて編集・整理されたものであるということも示しているように思えます。後にキリスト教はローマ帝国の国教になるわけですが、それに従い、古代ローマの神話に基づいて制作された芸術品などは多く廃棄されたとも言われています。

ローマ帝国はコンスタンティヌス1世の時代からその中心をコンスタンティノープルへと移動させていき、コンスタンティノープルはキリスト教の東方教会の聖地として大いに繁栄していきます。ローマは西ローマ帝国の都ではあるものの、全体的には第二都市の地位へ転落することになります。ローマ帝国の分裂については日を改めて書いてみたいと思います。

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帝政ローマの始まり



カエサルが暗殺された後、生前に書かれた遺書によって第一相続者に指名されたのが、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスであり、彼が後に最初のローマ皇帝の地位を得ることになります。必ずしも、さっと皇帝になったわkではなく、長い長い政治的闘争を経て、元老院に対しても帝政や王政とは違うものだと間違った認識を持たせるように努め、漸くにして手に入れたものです。彼は後にアウグストゥスと名乗り、これは英語のaugustで8月のことですが、カエサルもjuliusという名前が7月を意味するjulyになっており、暦の支配が世界の支配を意味するということを分かりやすく示す事例のようにも思えます。

当時、ローマの軍隊は多くの場合大物政治家の私兵であり、たとえば属州に派遣されたらそこで私兵を集めるとか、あるいは中央にいても権力争いに勝利するために私兵を集めるということが常態化していたようです。

オクタヴィアヌスも同様に私兵を養い、かつてカエサルを殺した犯人たちは政敵、論敵を抑え込んでいくことを目指します。また、完全に力を持つまでは合従連衡を繰り返し、三頭政治を行うなど、悪く言えば狡猾に行動していたようにも思えます。この政治闘争の渦中で、散文家として著名なキケロが殺害されています。徐々に勢力を拡大したオクタヴィアヌスは古代ローマの西半分を手にしますが、東半分は政敵のアントニウスが握っており、クレオパトラのプトレマイオス朝エジプトとも同盟していたため、アントニウスの勢力は安泰なままでしたが、オクタヴィアヌスがローマ市内でアントニウスのネガキャンを張り、アントニウスはエジプトでクレオパトラと暮らしていたために情報戦で窮地に立つことになります。そしてその後、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスが勝利し、アレクサンドリアに撤退したアントニウスとクレオパトラが自ら命を絶つという悲劇を経て、名実ともにローマの最大権力者になるわけです。

ただし、オクタヴィアヌスはおそらく政治的なセンスに人一倍長けていた人らしく、ローマに凱旋した後に、執政官以外の権力を元老院に返上すると宣言し、共和制の維持を明らかにします。元老院は驚嘆し、オクタヴィアヌスへの信頼を深め、共和制維持の宣言の三日後に、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」(全ての権力を持ち、絶対的な尊厳を持つ者=皇帝)の称号を贈ることを全会一致で決定します。まず間違いなく、元老院は飽くまでも形式的な名称に過ぎないと思っていたでしょうし、実際的に強い力を持つオクタヴィアヌスのご機嫌を取らなくては自分の身が危うくなるとの危機意識も働いたうえでのことと察することができます。

オクタヴィアヌスはその後40年にわたり、インペラトルの地位を保ち続け、その後、それを世襲するという政治体制を作り上げていきます。ただし、オクタヴィアヌス本人が後継男子に恵まれず、彼の外戚にあたるクラウディウス家の人物が五代にわたり、皇帝を継承していきます。これをユリウス・クラウディウス朝と呼びますが、長いローマの歴史の中で、王朝も交代していくことになります。それについてはまたいずれ。



ユリウスカエサルと共和制ローマ



ユリウスカエサルは少年期に於いて必ずしも恵まれた環境にあったわけでもなかったようです。カエサルと縁戚関係にあたるマリウスが政敵スッラと死闘を続けていましたが、マリウスが病没したことでスッラによるマリウス派に対する粛清が行われ、カエサルも一時期は処刑対象者になったとされています。各方面から助命を嘆願され、命は助かりましたが、スッラが亡くなるまで小アジアに亡命生活を送っています。

スッラが亡くなると官僚として属州に派遣されるようになります。アレクサンダー大王が亡くなった年齢に達したにもかかわらず、属州に派遣される官僚身分という自分の運命に嘆息したとも伝えられていますが、その後、共和制ローマの運命を握る巨大な政治家へと育っていくことになります。大器晩成ということかも知れません。

一般に、カエサルとポンペイウス、クラッススによる三頭政治が行われ、ガリアを平定したカエサルがルビコン川を渡りポンペイウスと対決して勝利し、終身独裁官になるものの共和s制が破壊されることを恐れた反カエサル派によって暗殺されたと説明されていますが、スッラによる独裁政治がそれ以前に行われていましたから、ローマ市民社会そのものが変貌せざるを得ない時期に至っていたと言えるのかも知れません。

カエサルの書いた『ガリア戦記』は散文としての評価が高く、古代ローマではキケロとカエサルが散文の二大才能として賞賛されることがよくあります。カエサルはエジプトに遠征したときもクレオパトラと組んで戦争に勝っていますし、有名な「見た、来た、勝った」という言葉も残しているくらいですから、文才も戦争の才能もあったという意味で、傑出した存在だったのかも知れません。更に、女性からおおいにもてたということですから、羨ましい限りではありますが、いろいろな意味でカエサルの非凡さは際立っています。莫大な借金があって、貸し倒れを恐れた貸主たちがカエサルを支えたという話も残っていますから、普通だったら殺されていてもおかしくないところを、そのような運命を手にしてしまうという意味で、超絶に運のいい男だったとも言えますし、その運の良さを女性が本能的に見抜いて彼に好意を寄せたのかも知れません。

さて、上に述べたように、カエサルは政敵を全て倒して終身独裁官に就任しますが、権力を完全に手中に入れてからほぼ一年ほど後に信頼する周囲の人々に裏切られ、シェイクスピアが「ブルータス、お前もか」と書いた最期を迎えます。カエサルは相当に滅多刺しにされたらしいので、暗殺者グループはかなりカエサルのことが怖かったのかも知れません。

自分のやるべき仕事がだいたい終わると突然に運勢が尽きて殺されてしまうというのは、坂本龍馬に近いものを感じさせるもので、人間の運命というものに思いを馳せざるを得ません。ただし、共和制の維持のためにブルータスたちはカエサルを殺したにもかかわらず、ローマは帝政へと移行していきます。カエサルが事前に残しておいた遺書で養子のオクタヴィアヌスを後継者に指名していたことも大きく作用したとは思いますが、暗殺者グループの中でも、その後の政見を持っていなかった、どのように政治を運営していくかビジョンを持たず、カエサルさえ殺してしまえば全ては以前と同様の元通りのローマに戻るだろうという甘い楽観的な考えを頼っていたからと言えなくもない気がします。

カエサルの死後、オクタヴィアヌスがローマ政界で強い力を持つようになり、ブルータスは海外に亡命して、亡命地で包囲されて自害するという運命を辿りました。オクタヴィアヌスはカエサルの遺言を受けているということが大いなるウリになっており、カエサルをこれでもかと高めることで自分の権威を高めるという手法を取りましたから、カエサルは確かに伝説的な人物ですが、オクタヴィアヌスによる伝説化も現代のカエサルに対するイメージに影響しているのかも知れません。



共和制ローマとハンニバル

千年続いた古代ローマの出発点は王政で、狼に育てられたという少年ロムルスによってされたとローマ神話では伝えられています。ロムルスはトロイアの末裔ということになっていますので、ローマ人がギリシャ人とある程度の神話や伝承、記憶を共有しており、同時にロムルスがトロイアの末裔であるということで、ギリシャ人とは違う民族であるという自意識を持っていたということも、ここから導き出すことが可能のように思えます。

ロムルスは王政を確立しましたが、ある雷鳴の日にロムルスは行方不明となり、その後、王は世襲ではなく市民によって選ばれるようになっていきます。終身大統領に近いイメージのものかも知れません。その後、王位がエトルリア人によって独占されるようになり、ローマ市民がエトルリア人を追放し、執政官と元老院による共和制が開かれていきます。

この仕組みは大いに成功し、共和制ローマは拡大してゆき、その分、周辺諸国との軋轢が強くなっていきます。拡大するローマの版図の前に立ちはだかり、死闘を繰り広げた国として有名なのがカルタゴであり、カルタゴの武将であったハンニバルは、ローマ付近までせし寄せ、ローマ市民を震え上がらせたことでその名が知られています。

ローマとカルタゴの戦いはポエニ戦争と呼ばれていますが、第一次ポエニ戦争ではカルタゴが海戦で破れてローマに降伏し、一旦、それで状況は沈静化します。しかし、カルタゴの繁栄はその後も続き、ローマ議会ではカルタゴを滅ぼすべしとの声が盛り上がっていくようになります。カルタゴでもローマへの憎悪は忘れられることはなく、ハンニバルもまた、ローマに対する敵意を教え込まれて育ったと言います。第一次ポエニ戦争以降、制海権はローマが握っていたため、ハンニバルはスペインからアルプス山脈へと移動し、同山脈を越えて陸路ローマに到達するという作戦を立て、実際に象たちと兵士たちを連れて不可能と言われたアルプス越えを果たします。

ローマではハンニバル迫るの報に接して恐慌状態に陥りますが、カルタゴではハンニバルを全面支援するかどうかで意見が割れており、ハンニバルが勝てば良し。負ければ、うちは知りません。彼が独断でやったことです。で乗り切ろうとします。アルプス越えを果たした時点で兵力の損耗が激しかったハンニバルは本国からの支援が得られないままの状態でも、信じられないことに緒戦での勝利を果たします。また、ハンニバルは短期決戦を避け、ローマ周辺の諸都市を陥落させてローマを兵糧攻めにするという計略で動いていきます。

一方、ローマのスキピオがハンニバルの輸送経路(即ち生命線)であるスペインを攻略し、慌てたハンニバルがスペインへ撤退。主戦場は北アフリカのザマに移り、ザマの戦いでスキピオのローマ軍がハンニバル軍を包囲することに成功。ハンニバル軍は事実上の全滅へと追い込まれます。

その後、カルタゴは再び降伏し、ハンニバルはカルタゴ再興に力を尽くします。しかし、ローマ側はハンニバルの追い落としを狙い、ハンニバルはシリアへ亡命。その後、ローマの追手に追い詰められて自ら命を絶ったとされています。カルタゴは完全に破壊され、草木も生えぬ荒地にすることを目的に塩までまかれたと言われており、ローマがいかにカルタゴを恐れたかを示すエピソードであるとも言えます。

ローマとカルタゴの死闘の結果、勝利者となったローマは属と州を増やし、地中海世界の覇権を握り、ローマの平和を確立していくようになります。

イタリアではお母さんが子どもをしかりつけるときに「ハンニバルが来るよ」みたいに言うらしいのですが、如何にハンニバルが強く記憶に残ったかを示すものと言えるかも知れません。

アレクサンダー大王の記憶がインドやアフガニスタンのような東方世界で伝承されているという着想でショーンコネリーの出演している『王になろうとした男』が制作されましたが、アジア各地の王族がジンギスカンの子孫を名乗ったり、ロシアには「タタールのくびき」という言葉が残っていたりで、人類の歴史にやたらと強烈に印象に残る人物は、たとえその活躍期間が短かったとしても語り継がれていくものだというのは興味深いことのように思えます。

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