地中海世界を襲った謎の民族である「海の民」はどんな民族であったと考えていますか?

ギリシャ人の原型だと思います。海の民の来襲はゲルマン民族の大移動のようなもので、それ以前にギリシャに住んでいた人たちは殺されたか追いやられるかしていなくなり、住み着いた海の民が暗黒時代を経て文化的に発展しスパルタやアテネを建設したのではないかと私は想像しています。ホメロスが記述したトロイ戦争も、実は海の民の侵略戦争の一部であり、彼らがギリシャ地方を抑えた後に小アジアへと侵略エリアを広げたということが実際だったのではないかと思ったりもします。古代ギリシャの植民都市が東地中海各地に点在したことも、一度は世界を制覇したかに見えた海の民が衰退し、それでも拠点を残したのがギリシャ人の植民都市であると説明することも不可能ではなさそうにも思えます。



アレクサンダー大王という英雄モデル

敢えて若干おおげさな表現をするとすれば、アレキサンダー大王は世界征服を成し遂げた男と言えます。ジュリアスシーザーも、ナポレオンもアレクサンダー三世を理想とし、そのように生きたい、そのように勝ちたいと望み、到達できなかった高みの存在とも言えます。

何がすごいのかと言うと、少年時代にギリシャ遠征を経験して以来連戦連勝で、アケメネス朝ペルシアを滅亡させ、更に進んでインドまで到達したという当時としては前人未踏とも言える広大な地域を征服したことなわけです。当時、世界の中心を自負していたギリシャ人はペルシアのことは脅威としてよく知っていたに違いありませんが、その先にあるインドになるともはや全然別の世界。現代人の感覚で言えば、月どころか火星くらい遠い場所のように思えたはずですから、インド遠征から帰ってきたアレクサンダー大王のことを、とてつもない偉業を成し遂げた人物として畏敬したに相違ありません。

はるばるインドまで勝ち進んだアレクサンダー大王ですが、そこで戦争に負けたわけではなく、兵隊たちがそれ以上先に進むのを嫌がったためにやむを得ずギリシャ・マケドニアまで帰ったとされています。想像ですがインド亜大陸に入った途端に湿度が上がり、兵隊たちは慣れない気候に耐えられなかったのかも知れません。

アレクサンダー大王が伝説的な存在として語り継がれてきた理由の一つとして、惨めな老境をさらさなかったということもあるかも知れません。35歳の時、アラビア遠征を計画中に熱で倒れ、10日ほどで息を引き取ったと言います。ナポレオンはネルソンに敗れて以降、囚われの身となって大西洋の絶海の孤島であるセントヘレナで亡くなりますが、ナポレオンとしては悶々と先のない晩年を過ごすより、アレクサンダーのように太く短くぱーっと散りたいと願ったのではないかという気がします。ジュリアスシーザーの場合は盟友に裏切られた上に激闘の末の憤死ですので、絵になるかどうかという観点から言えば絵になるとも言えますが、アレクサンダーのようにある意味ではぽっくりと簡単に死ねばという意味では、アレクサンダー的な最期の方がより理想的かも知れません。

なんと言っても史上最大の帝国の継承者について「一番強い者が継承すること」と遺言したことが、中二心をくすぐる気がしてなりません。欲得もなく、死後の名声も願わず、不老不死を願うこともなく、潔く、自分の美学に合う人物→「強い男」に譲るというのが、彼の人生観を示しているのではなかろうかとも思えます。短い人生をばーっと駆け抜けて、やりたいことをすばやくやり遂げてしまい、老いの哀しみも知らずにあの世を旅立つというのは、生きている間にかっこいいところだけを見せて死ぬわけですから、英雄モデルとしては大変によくできていますし、英雄タイプの人間、シーザーやナポレオンが憧れたというのも不思議ではないことに思えます。

アレクサンダー三世が残した帝国は部下の将軍たちに引き継がれ、分裂し相争うようになり、そうこうしているうちに世界の中心はローマ帝国へと移動していきます。

広告



広告

ペロポネソス戦争‐古代ギリシャの終焉

古代ギリシャの最も著名な都市国家といえば、アテネとスパルタの両都市であろうということに異論はないと思います。アテネはデロス同盟を率い、スパルタはペロポネソス同盟を率いて互いに対抗する関係にありました。

対抗関係に入る前は、アケメネス朝ペルシアによるギリシャ侵攻に対して両者は共同して脅威に立ち向かい、独立を維持しましたが、このペルシア戦争での勝利後に対抗関係へと入っていくことになります。

アテネは主として海に利権を持ち、スパルタは主として陸に利権を持っており、それぞれに植民都市、衛星都市、同盟都市を従えて繁栄を誇ったものの、アテネを盟主とするデロス同盟から離反する都市が増加し、徐々にアテネにとって形成が不利になっていきます。ペルシア戦争の時はアテネの市民兵士軍団が力を発揮しましたし、彼らの直接民主制は現代の我々の視点からしても、憧れや理想と呼べるものがあるはずなのですが、民主主義の社会ではデマゴギーや有象無象の出現のリスクが常にあり、アテネの政治が迷走してやがて衰退していった原因として直接民主制が衆愚政治を招来したからではないかと考える人もいるようです。アケメネス朝ペルシアと内通する者などもおり、果たして理想と現実はどの程度乖離するものなのかと悩ましくも思えます。現在の日本は間接民主制であり、問題はいろいろあるものの、直接民主制が採用されなかった背景の一つとしてはアテネ的な衰退を招くことを恐れたものと言えます。

アテネとスパルタが決定的に対立するようになって後、緒戦を経てスパルタがアテネを包囲する展開が生まれ、アテネは降伏します。アテネ人のソクラテスはスパルタ支配の下で死刑判決を受け、有名な悪法も法なりという言葉を残して死んでいきます。

古代ギリシャ世界はスパルタが覇権を握り、最終的な勝利者になったかにも見えましたが、ギリシャ世界内部での戦争が続いている間に北方のマケドニアが勢力を伸長させ、フィリッポス二世によるギリシャ侵攻があり、続いてアレキサンダー大王による東方遠征が行われる時代へと入っていき、更にその後、世界の中心はローマへと移動していきます。現代にまで残る文化や思想を育んだ古代ギリシャ世界ですが、成熟の先に互いに反目して衰退していったと見てもいいのではないかと思えます。現代人にも関わる教訓ではないかと個人的には思えます。

広告



広告

ペルシア戦争‐ヨーロッパとアジアの第二回戦

かつて単なる神話と考えられていたトロイ戦争が、シュリーマンの発掘によって大体、それに類似したことは起きたのであろうと言われています。トロイ戦争はギリシャと小アジアの間で起きた戦争であり、ヨーロッパとアジアの対立軸というダイナミズムを人々に認識させるものであり、そういう点から歴史の始まりとも言われます。トロイ戦争、いわばヨーロッパvsアジアの第一回戦はギリシャ側、即ちヨーロッパ側が勝利したわけですが、その第二回戦とも言えるのがペルシア戦争です。やがてペロポネソス戦争に至り、私は個人的には古代の世界大戦と呼んでいます。

さて、それはそうとして、ペルシア戦争についてはヘロドトスの『歴史』がほぼ唯一の資料とされており、ペルシア戦争について語る書物はだいたいヘロドトスを元ネタにしているはずですから、新選組関連の著作が子母澤寛を元ネタにしているのと同じ構図といえるかも知れません。

アケメネス朝ペルシアはアジアですから、人口も多く、相当に豊かな帝国であったらしく、圧倒的な兵力でイオニア地方の諸都市国家を征服します。当時ギリシャ世界は民主制のアテネや国王のいるスパルタなどが激しく抗争している状態でしたが、アケメネス朝ペルシアの拡大に対抗する必要上、一つにまとまっていきます(ペルシア戦争の後に、再び分裂し、ペロポネソス戦争へと展開していきます)。

話題としてよく取り上げられるのは、マラトンの戦いではないかと思います。イオニア地方で起きた反乱を鎮圧したペルシア王ダレイオス一世がエーゲ海の島々を攻略した後にギリシャ半島本土に上陸、アテネを目指します。兵隊の数はペルシア側が圧倒的で、諸説あるようですが、ギリシャ側とは二倍くらいの戦力差はあったようです(ただし、外地を征服するのに兵力差が二倍程度では、ちょっとこころもとないのではと個人的には思えます)。

彼我兵力差を乗り越えて勝利を目指すアテネ軍は長距離を移動した上での奇襲を強行し、集団密集戦法でペルシア軍を敗走させることに成功します。アテネではスパルタに対抗するためにむしろペルシアとの軍事同盟を結ぶべきとの主張を展開する論者もいましたが、マラトンの戦いの結果、ペルシア融和派は追放されることになります。

更にその後、ペルシア王クセルクセス一世が数十万の大軍でギリシャ域内に侵攻し、スパルタ王を戦死させ、一時、圧倒的な優位に立ちます。しかし、その後に行われたサラミスの海戦では逆に戦線の維持が不可能なほどに強い反撃を受け、海上からの支援を失った陸上軍もギリシャ連合軍によって掃討されて行くことになります。クセルクセス一世はペルシアに撤退し、その後暗殺されるという悲劇的な最期を迎えます。ペルシア海軍の隊列が乱れたことが敗因とされているようですが、やはりペルシアは陸の民、ギリシャ人は海の民みたいなところがあって、海上戦ではギリシャにそもそも有利だったのかも知れません。日露戦争の日本海海戦に近いものもあったのかも知れません。ナポレオンがイギリスとの海戦でネルソンに破られますが、やはりイギリスも海洋国ですから、海戦では人材の厚みがものを言う面があるのかも知れません。

アケメネス朝ペルシアの撤退で終わったペルシア戦争ですが、その後、ギリシャ世界が分裂し、ペロポネソス戦争へと発展し、そこにアケメネス朝ペルシアも関わって行きます。そうこうしているうちに古代ペルシアの大王朝は衰退し、滅亡へとつながっていきますが、なんとなく、第一次世界大戦のオスマントルコやロシア帝国を連想させる面もあり、あまり王様の気まぐれで戦争するのはよろしくないということを示しているのかも知れません。強すぎる野心が滅亡を招くということや、味方から敵と内通するデマゴギーが登場することなどは現代に通じる教訓にもなるように思えます。

広告



広告

オデュッセウスとナウシカ



古代ギリシャ関連の必須の教養と言えば、『イリアス』と『オデュッセイア』です。イリアスはトロイ戦争をモチーフにし、オデュッセイアはいわばその後日譚と言ってもいいものですが、よりドラマ性が高いのは、個人的にはオデュッセイアの方ではないかと思うというか、オデュッセイアの方がおもしろいなあと思います。両者はつながっていますから、作者別人説はあるものの、その双方を知らないことには完全には理解できません。源氏物語が光源氏が主人公の前半と後半の匂宮、薫と浮舟の三角関係の物語の双方を知っていて、ちゃんと読んだと言えるのと同じと言えるかもしれません。

それはさておき、前半のイリアスではフランスのパリの語源になったパリス王子がアフロディーテに黄金のリンゴを与え、その引き換えにアフロディーテは世界一の美女ヘレネを手に入れるというところから始まります。神の力によってヘレネはパリスに与えられるわけですが、ヘレネが人妻だったために話がこじれ、とうとう戦争に発展するわけです。世界で最も古い物語がさっそく人妻との許されざる愛情物語というわけですから、人はいつの世も変わらないとも言えますし、ドラマには人妻との愛なり嫉妬なりといった非常事態的かつ普遍的要素を求められるという点で、こういうものに目を通すのもいろいろ勉強になるなあとも思えます。

こうして起きたトロイ戦争では有名なトロイの木馬作戦が成功し、ギリシャ対小アジア、いわばヨーロッパvsアジアのダイナミズム、歴史の始まりとも言われる長期戦はギリシャ側の勝利に終わります。単なる神話だと思われていたものが、シュリーマンが発掘調査をして、遺跡を見つけ出したため現代ではおおよそのことは実際にあったのだろうと考えられているわけです。

勝利の戦争の帰り、神々に祝福されないギリシャ勢は嵐に合うわ、おかしな一つ目の巨人に出会うわで全滅の憂き目に合い、オデュッセウス王だけがなんとか生きて世界のどこかで生きているという事態にまで追い詰められます。故郷では妻と息子が不安な心境で待っている最中、オデュッセウスは女神に愛されて7年も一つの島にとどまって安楽な生活を送ります。その後、故郷へ向けて出航しますが、ポセイドンの怒りを受けて遭難し、浜辺に打ち上げられたところを心優しきナウシカ姫に助け出されるという展開を見せ、ナウシカ姫もオデュッセウスを愛しますが、彼は意を固くしてナウシカのアガペーに感謝しつつも20年ぶりに故郷へ帰り、不在の間に妻に求婚していた男どもをことごとく討ち取って、ようやくかつての愛と平安の日々を手に入れることになります。

このように見ていくと、オデュッセウスのもてっぷりがおおいに目立ち、なんだかとても羨ましいのですが、ナウシカ姫が風の谷のナウシカの原型になっているに相違なく、同姫が無償の愛でオデュッセウスを救助し、しかも自分の願望を押しとどめて身を引くというあたりに宮崎駿さんがぐっときたのかもしれません。



関連記事
クシャナの後ろ姿