現在高校生です。将来は映画監督になりたいのですが、どのような訓練をすればいいのでしょうか。また、今は文学作品を読み漁り、映画を沢山見ているのですが、これはあっているのでしょうか?

渋谷ドキュメンタリー映画の学校があります。その学校に行ったからと言って映画監督としてやっていけるというわけではないですが、そういう学校に行くことで情報も得られるし、その方面に詳しい友人も得られるかも知れません。ドキュメンタリー映画を舐めてはいけません。低予算で作れる一方で、監督がどれくらい問題を深堀しているかがバレるのがドキュメンタリーです。

おそらくエンタメ系の映画監督をなさりたいのだと思いますが、なんらかの形で世に出て行けば、エンタメ系への道も開けて来るのではないかと思います。

例えば原田眞人監督はクライマーズハイ関ケ原燃えよ剣などドラマ映画で著名な人ですが、最初の映画はおニャン子クラブのドキュメンタリー映画でした。私は最近、初めてそのおニャン子の映画を観たのですが、真剣な練習風景には引き込まれてしまい、この人は最初の作品からすでに天才だったのだと恐れ入りました。

そういうわけですので、えり好みせず、自分の才能を発揮できそうな好機があれば、乗って見るべきです。

文学作品を読み漁り映画を沢山みていらっしゃるとのことですが、これは映画監督をめざすかどうかにかかわらず、教養人として当然の努力ですので、がんばってください。



原田眞人監督『関ケ原』の2人の女性の愛

原田眞人監督の『関ケ原』、観てきました。原田監督は「男にとって女性とは何か」を考え抜き、それが作品の内容に反映されていると私には思えます。で、どういう視点になるかというと、男性は女性に愛されなければ生きていけない(ある意味では独立性のない)存在であると規定し、女性から愛されるとどうなるか、愛されなければどうなのか、ということを問いかけてきます。たとえば『自由恋愛』では圧倒的な経済力にものを言わせて2人の女性を手に入れたトヨエツが、最後、女性たちに見放され悲しく退場していくのと対照的に女性たちは女性たちだけで存分に輝く世界が描かれます。『クライマーズハイ』では、妻に愛されなかった新聞記者が、妻以外の女性に愛され、後輩女性記者とは恋愛感情抜き(潜在的には恋愛感情はあるが、顕在化しない状態)で仕事に向き合います。

『関ケ原』では、石田三成を愛する伊賀くノ一の初音と徳川家康を愛する、これもはやはり伊賀のくノ一の蛇白(だったと思う)の2人は同じ伊賀人でありつつ、敵と味方に分かれるという設定になっています。石田三成を美化するスタンスで描かれ、徳川家康のタヌキぶりを強調する感じで描かれていますが、純粋で真っ直ぐな石田三成は行方不明になった初音を思いつつ、戦いに敗れて刑場へと向かいますが、その途上で初音が現れ、あたかも関係者でもなんでもないふりをして軽く会釈をします。石田三成と初音はプラトニックな関係ですが、その分、清潔感があり、石田三成という人物のやはり純粋さを描き切ったように感じられます。生きているということを見せるために彼女は現れたわけですが、石田三成は彼女の無事を知り、安心して刑場へと送られていきます。『ラセーヌの星』というアニメでマリーアントワネットが2人の子供が脱出できたことを知り、安心して刑場へと向かったのと個人的にはダブります。

一方で、徳川家康は話し上手で女性を魅了することも得意です。関ケ原の合戦の最中に陣中に現れた刺客に対し、白蛇が命がけで家康を守ろうとしますが、家康は彼女と刺客をまとめて切り殺してしまいます。原田作品ファンとしては、たとえ時代物映画であったとしても「女性を殺す」というのは最低の行為ということはすぐに察することができますから、家康という人物の悲劇性が描かれているというか、家康が自分の命のためには自分を愛した女性をためらいなく殺してしまう悲しい人生をおくった男という位置づけになるのではないかと思います。

徳川家康は役所広司さんが演じていますが、悪い奴に徹した描かれ方で、多分、この映画のためだと思いますが、全力で太っており、ルックス的にも悪い奴感が全開になっており、監督の求めに応じて役作りをしたこの人は凄い人だとつくづく思えてきます。

原作を読んだことがなかったので、すぐに書店に行き、原作を買い、現在読んでいるところですが、原作と映画にはかなりの違いがありますし、原田監督としては原作を越えた原田色をしっかり出すということを意識したでしょうから、原作と映画の両方に触れてしっかり楽しむというのがお勧めと思います。

原田監督の作品は、分からない人には分からなくていいというスタンスで作られているため、予備知識がないとなんのことか分からない場面や台詞がたくさん出てきます。私も一部、ちょっとよく分からない部分がありましたが、それはみる側の勉強不足に起因していることになりますから、原作を読んだり、他にもいろいろ勉強してまた映画を観て、そういうことか、と納得するのもありかも知れません。



原田眞人監督『日本で一番長い日』の阿南惟幾と昭和天皇

太平洋戦争がいよいよ終わる少し前、鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣になった阿南惟幾の言動は二律背反するところがあり、相当に苦しんだと思います。

閣議では、陸軍の立場を代表して強硬論を唱えます。強硬論と言っても「絶対戦争続行、一億玉砕ある可し」みたいな感じではないです。ただ、ポツダム宣言の内容に異を唱えます。武装解除と戦争犯罪人の処罰は日本人の手で行う、天皇の地位の保全をもっと確実にしてほしいというものです。

鈴木首相が終戦への決心を固めていて、閣内がポツダム宣言受諾に傾く一方、陸軍省の部下たちに対しては「大丈夫、戦争は継続だ」みたいなことを言っています。確信犯的に使い分けをしているのが分かります。

阿南陸相がポツダム宣言受諾に絶対反対を貫けば、閣内不一致で内閣総辞職です。今なら首相が意見の合わない大臣を辞めさせて、他になり手がいなかったら首相がその大臣も兼任するという荒ワザもできます(海部首相は衆議院の解散を本気で考えた時にその手を使おうかと本気で考えたそうですが、竹下・金丸が解散させてくれなかったという話がありますが、「憲政」の建前で行けば、海部首相が筋が通っていると思います)。

戦前は首相の人事権は現代ほど強くないです。阿南陸相が「辞める」と言ったら内閣総辞職です。ソビエト連邦が北から攻めて来ています。アメリカが三発目を落してくるかも知れません。一刻を争います。広田弘毅さんの時代に陸海軍大臣現役軍人制が復活していますから、内閣は軍に好きに弄ばれる恐れもあります。なので、関係者は阿南陸相が辞めたりしないだろうかとびびっていましたが、そういうことにはなりませんでした。

ポツダム宣言の受諾が決まり、阿南陸相も同意して、これでようやく戦争が終わるわけですが、陸軍の一部がクーデターを起こして終戦阻止を図ります。もちろん、失敗したことは誰でも知っていることです。

阿南陸相は8月15日の早朝、終戦の詔勅が放送される前に自決します。阿南さんは陸相に就任した時から、これは自分が死ぬしかないと思っていたかも知れません。敗軍の将になること必至ですし、終戦の経緯では部下にも嘘をついて話をまとめようとしています。いろいろ不本意なことをやって、最後は死ぬのですから、辛いと思います。そういう意味では武士社会の自分で死んだら名誉回復というのは凄い仕組みです。今の価値観とは合いません。ただ、生きているといろいろ恥ずかしい思いもします。死にたくなることもあります。死んだら名誉回復できる社会なら、死んじゃおうかと思って、それを選んでしまうかも知れません。阿南さんのことはわりといい感じで語られることが多いです。早々に自決したからです。一方、くずくずと引き伸ばしてから自決した軍の偉い人の中には悪く言われている人もいます。そういう意味では安易に人を死に追いやる仕組みです。しかし、死ぬことで自分を通せる、名誉だけはなんとかなるという所に情けを感じなくもないです。余談になりますが、「死ぬ気になったらできる」という精神論や根性論がありますが、あれはいざいよいよとなったら切腹しなさいという意味ですので、部活とかで安易に言ってはいけません。

原田眞人監督はこれまでにいろいろな作品を通じて「戦後」を考え続けてきた人です。私には『日本のいちばん長い日』は、過去の作品の集大成のように見えます。その作品が阿南さんの切腹というのが意味深な気がします。

この映画ではもっくんが昭和天皇をしています。上品で、物静かで、ロイヤルな感じで、かっこいいです。やさしくて、おだやかで、周囲への思いやりがあり、知識人です。発言に重みがあるのに、わざとらしくありません。いろいろな人が映画で昭和天皇の役をしていますが、本木さんの昭和天皇は群を抜いて「神々しい」と思います。本木さんの声で録音された終戦の詔勅は、実際の放送と同じところで言葉が詰まったりしています。声の感じやそのつまり方から昭和天皇の心境が読み取っているように思えます。

実際の昭和天皇は多弁な人だったのではないかという印象が私の内面に勝手にあります。『昭和天皇独白録』で「〇〇という人物は〇〇だ」みたいなことをたくさん話しているので、そういう印象がついてしまったのかも知れません。『昭和天皇独白録』は天皇の戦争犯罪人指名を防止するための、ある種の弁明のために終戦直後にインタビュー形式で録取されたものですから、普段の昭和天皇の言動と同じではないかも知れません。

あと、この映画では建物が美しいです。阿南陸相の官邸とか、首相官邸とか、皇居(多分、京都御所で撮影した)とか、とても美しいです。どこで見つけたんだろうと思います。原田眞人監督は建物を非常にエネルギーを使って選んでいるのだと思います。『自由恋愛』でも建物がきれいだなあと思いました。『魍魎の匣』や『クライマーズハイ』でも建物がとても雰囲気に合っています。

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原田眞人監督『自由恋愛』の新しい女性像と近代

大正デモクラシーの時代は、多分、夢と希望と新しい時代への期待に満ちたいい時代だったに違いありません。近代が近代を謳歌した時代と言えそうな気がします。科学技術の進歩はいかなる不可能も可能にできる、そして科学技術は必ず人間を幸せにすると誰もが素朴に信じることができた時代。男尊女卑が古臭い伝統に縛られた陋習と認定され、新しい自由に生きる女性が提示された時代。第一次世界大戦で日本の実業界が大きく飛躍し、その後に酷い不況が来るとしても日露戦争で借金まみれになった日本の将来が明るいと感じられた、そういう時代だったように思います。

特に当時から盛んになり始めた女性解放にとって「自由恋愛」は欠かすことのできない重要なキーワードになります。現代のわれわれが考える自由恋愛ほども派手なものではないかも知れません。しかし、結婚相手を自分で選ぶ、相手の地位財産名誉家柄などの外的な要因ではなく、自分の意思で好きになった人と結婚するという理想がこの時代に広まります。

しかし、現実はそんなに簡単なことではなかったことを『自由恋愛』という映画では描いています。主人公の長谷川京子は超大金持ちの会社オーナー一族のトヨエツと結婚します。「自由恋愛」の理想を信じていた長谷川京子ですが、実際にはお見合いで結婚します。家にはお姑さんがいて、何かと口うるさくのしかかってきます。

トヨエツは新しい時代に理解のあるリベラルで進歩的な男性のはずですが、長谷川京子の女学校時代の同級生の木村佳乃と不倫関係になります。木村佳乃はトヨエツの子どもを授かり、子どものいない長谷川京子はお払い箱で、木村佳乃が本妻の地位を得ます。ところがトヨエツは元妻の長谷川京子との愛人関係は維持する、お姑さんはいろいろ口うるさいなどが重なり、自由で自分の力で生きる新しい女性像を理想としている木村佳乃は平塚らいてうに喚起され、出奔します。

お金持ちで進歩的でほしいものは全て手に入れてやりたいことは全てやれるトヨエツはだんだん形無しになっていきます。男たちの思慮の浅はかさが暴露されていきます。全ての観客に対して「男って本当に馬鹿だね」と語りかけています。そして私のような半端者は、確かにそれは言えていると頷く以外にはありません。

関東大震災が起きます。それによってトヨエツの会社は消滅します。トヨエツは消息不明。木村佳乃は朝鮮人虐殺事件を語ります。長谷川京子は西洋人の友人たちとともに避難します。西洋、帝国主義という日本の近代がここでぎゅっと凝縮されます。

若い映画人たちが戦争に英雄主義を見出します。太平洋戦争を知っている現代の私たちは戦争に英雄主義を見出すようなことはできません。まだ近代の黎明期なので、近代の恐ろしさが認識されていません。ヨーロッパは第一次世界大戦で辛酸をなめましたが、日本人はそのことにまだ気づいていません。日露戦争の英雄神話が生きていた時代です。アナログな機械化の時代なので、兵器や機械のギミック的な美しさが際立っていた時代とも思えます。アメリカの排日移民法の話題がほんの短く入っています。原田眞人監督にとってアメリカは必ず言及しなくてはいけない、絶対に外せないテーマです。排日移民法がその後の戦争を暗示するという視点はソクーロフ監督の『太陽』とも共通したものです。

長谷川京子は女優になって木村佳乃は記者になります。本来恋敵だったはずの二人が手を取り合うようにして最後に記念撮影をする終盤の様子は、和解し合う女性の偉大さと消え入るように去って行くトヨエツのコントラストが印象的です。

原田眞人監督の作品は常に男の心、男のメンツ、男の情がテーマです。この映画も真実のテーマは男です。たいていの男にとって女性は不可欠な存在です。女性がいなければ男は形無しですただ、この映画のトヨエツは違います。形無しのまま去らざるを得ません。女性には新しい時代に順応し、自分を変化させる力があります。男はそういうのはあまり得意ではありません。この映画のトヨエツは話す言葉こそ近代ですが、行動はそういうわけではありません。近代と西洋の波にさらわれた日本の男はどう生きて、新しい時代の女性とどう向き合うかを問うています。物語の舞台は100年も前の日本ですが、時代にかかわらない不変の問題意識が宿っています。

撮影が明治村でされていて「ああ、明治ってきれいな時代だったんだなぁ」という感想を持てるのもいいです。



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原田眞人監督の『クライマーズハイ』は、横山秀夫さんの原作とは大事なところで違いがありますので、その辺りを中心に述べてみたいと思います。

映画でも原作でも、新聞記者の世界が描かれているという点では同じです。私は地方紙の記者ではありませんでしたが、支局にいたころの感覚は近いものがあったように思います。地方の記者は中央の記者のようにぱっと華やかな場面を取材することはあまりありません。地道で地域に密着していて、地元の人と一緒に生きています。土地と一緒に生きる新聞記者が土地の人となれ合うことは決して珍しいことではありません。それゆえに、なれ合わず、ジャーナリズムをやるという矜持を保たなくてはいけません。小さな事件、地元のイベント、目立たないスポーツ大会にであってもジャーナリストとしての矜持とともに取材に行きます。そこがかっこいいのです。大きな事件、有名な事件を扱わなくても矜持を保とうとするからかっこいいのです。尊敬できるのです。

『クライマーズハイ』では、日航機墜落事故の時の架空の地元新聞社が登場します。残酷な事故に地元の記者たちは浮足だちます。大きな事故の現場に取材に行けるからです。不謹慎ですが、新聞記者はそういうあたりが不謹慎になるようにできています。「不謹慎だ」とは思いますが、ああ、新聞記者はこんな風に浮足立つのかというのがよく分かります。編集で怒号が飛び交います。雰囲気がとてもよく出ています。共同通信とNHKの報道を適当にいじって独自の記事みたいに装う場面も「あぁ、わかるわぁ」と思います。

当時、現役で報道の仕事をしていた人から日航機墜落事故の取材の経験を聞かされたことが何度もあります。彼らにとっては「勲章」なのです。この映画では日航機事故に絡む、いわゆる「陰謀論」も目立たないように、しかしはっきりと触れています。「原田監督が触れているのだから本当かな」と私は思ってしまいそうになるのですが、知識不足なので判断することができません。

新聞記者は読者の存在を忘れがちです。人間関係が狭く、業界の人と取材先の人(県庁とか県警の人)に限られてくるので、その人たちが読んでどう思うかだけに関心が向きがちです。自分の書いた記事が他社の記事より詳しいか、他社の記者が知らないことを自分は書くことができたかどうかに意識が向いてしまいます。売り上げと記事の内容は関係がないので、読者の存在を忘れます。映画でも原作でも、事故被害者の遺族の人が新聞がほしくて新聞社に来ます。編集の人は「ちょっと邪魔なんですけど」と言わんばかりに追い払います。主人公の悠木という記者が追いかけて新聞を手渡します。記者は普通の人、普通の読者に寄り添えるかという、実は一番大切かも知れないことが挿入されています。

原作では悠木記者が子どもだったころ、家が貧しくてお母さんが客を取っていたというエピソードが書かれています。映画ではお母さんはアメリカ軍の兵士を相手にしていたと少し変更が加えられています。この変更で、映画だけの持つ意味がぐっと深まります。日本の戦後を語る上で不可欠なアメリカというタームが登場します。私たちがどういう時代を生きているのかを短い場面でさっと問いかけています。

また、映画では悠木記者の息子がヨーロッパで育ち(離婚して元奥さんはスイスに行ったのについていった)、白人の女性と結婚してニュージーランドで牧場を経営しているという場面が最後の方に短く入っています。奥さんの白人の女性は決ずしも目の覚めるような「美人」というわけではありません。普通の人です。それ故にこの息子さんが「西洋」の幻影を追うような人生を送っているわけではないことが分かります。普通に出会い、普通に愛を育て、普通に努力し、懸命に、でも多分幸せに生きていることが分かります。悠木記者のお母さんはアメリカ軍の兵隊に買われる存在でしたが、息子さんは愛情によって西洋の人と結ばれています。その間にある乗り越えるべき何かを息子さんは乗り越えたということを暗示しています。今を生きる日本人の私たちに、そういう何かを乗り越えて行こう、乗り越えるべきだ、乗り越えられるというメッセージを監督が込めているように私は感じます。

原田眞人監督の映画は『バウンスkoGALS』の時から一貫して、戦後の日本を問いかけています。近代の日本にとって西洋は欠かすことのできないタームであり、戦後の日本にとってアメリカは欠かすことのできないタームです。『バウンスkoGALS』の主人公がアメリカに留学するとはどういうことか、私たちの人生にとってアメリカとは何かを考えてほしいと言っているように私には感じられます。『おニャン子危機一髪』はみてないのでわかりません。

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原田眞人監督『魍魎の匣』の日本の戦後

原田眞人監督は日本の戦後を問い続けている人としてつとに知られています。京極夏彦さんが原作の映画の『魍魎の匣』は美少女をめぐる推理映画ですが、原田監督は作品に「戦後」を挿入して今を生きる私たちにいろいろなことを問いかけています。

撮影は上海の郊外で行われたそうなのですが、いかにも終戦直後の日本に見えます。上海の郊外が武蔵野に見えます。さりげなく光クラブの話題が入っています。ほんの短い時間に早口で話しているので、一瞬「?」となりますが、何度も観ると「あぁ、光クラブ」と分かります。一回目で分かる人もたくさんいると思います。私は鈍いので何度も観ないとわかりませんでした。凄い映画は細部にいろいろ凝っています。『エリザベス』と同じです。

終戦直後は新しい時代が始まる予感と戦争に負けたことの劣等感が相半ばする不思議な時代だったろうと思います。この映画はその最中に生きる人の心を掴もうとしています。登場人物が「自分は歯ブラシの工場を経営している」と偽る場面があります。今もきっと日本に歯ブラシの工場があると思います。絶対に世界最高水準の歯ブラシを作っていらっしゃると思います。ただ、やはり歯ブラシの工場という言葉にちょっと前の日本を想起させられます。

京極夏彦さんの原作では登戸の陸軍の研究所の話題が出てきます。映画では登戸という地名は出てきませんが、陸軍から予算をぶんどった研究所は出てきます。死なない研究をしています。戦争中に兵隊が何度でも再生できる技術を開発しようとします。うまくいきません。戦争が終わった後も死なない研究を続けています。いろいろ口実を作って予算を手に入れています。この研究所では戦争は終わっていません。というか、研究所にとっては戦争はそもそも始まっていません。戦争とは関係なく、研究のために研究を続ける自動装置に成長しています。ナウシカのドルク帝国の首都の研究所みたいなものです。戦争も人命も研究を続けるための口実でしかありません。戦争の本質の一端を掴もうとしています。

アメリカと戦争するかどうかという問題と組織の自己実現の区別がつかないまま日本は戦争を始めます。アメリカとの戦争と陸海軍の予算の配分が混同されて議論が進みます。研究所はその本質を表現する存在です。

戦争とか戦後とか、そういう時代を語っても突き詰めれば個々人の人生が集合したものです。突き詰めれば個々人の物語になります。刑事、探偵、作家、編集者、神主、女優、研究者が出てきます。それぞれに人生を背負っています。人生の矛盾を解消するために超人的な努力をする人がいます。戦争で人生が歪む人がいます。登場人物のそれぞれの内面を想像しながら観ると更に楽しめます。



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