日本の文化は他の国とはどのように異なりますか?

柳田国男は日本各地の様々な風習を収集しましたが、じっくり読んでいくうちに気づきますけれど、彼は日本の領域の限界がどこにあるのかを見定めようとしていたように思えるのですね。稲作に関わるお祭りについて、概念や儀式・儀礼・語彙などは東西南北どこまで共通しているのか、それはアイヌにも片鱗は見られるのか、琉球はどうか、台湾の原住民の場合はどうなのかと、国境とは関係なく、本当に根気よく探し歩いたわけですね。なぜこんなことをしなければならないかと言えば、実は日本と外側の境界線というのは曖昧なもので、アイヌや琉球とヤマトとの境目はそんなに明確なものではないし、戦前であれば日本帝国は皇民化を進めていましたから、たとえば台湾や朝鮮半島で共通する祭礼を見つけることができれば、帝国主義を正当化する根拠にできるかも知れないと言うこともあったわけですね。

というわけですから、日本文化の特徴として、どこまで広がり、つながっているか、実は意外とはっきりしないというのがあると思います。民族意識・国民国家のような概念は19世紀まで明確ではなかったと思いますから、日本と日本以外の境界線が不明確であることにそこまで強い違和感も昔はなかったのかも知れません。

もう一つ、興味深い例として、日本の古い舞踊である幸若舞の題目として知られる『百合若大臣』についてもちょっと述べておきたいと思います。百合若という武者が元寇のために出征し、裏切られて帰れなくなり、死んだと思われていたら生きていて、裏切り者が自分の妻を狙っていたのですけれど、百合若が帰ってきて復讐を果たすというものなのですが、明治に入り、坪内逍遥が『早稲田文学』で百合若はユリシーズのことではないかとの指摘をします。戦争に行って死んだと思われていたら帰ってきて妻を寝取ろうとする男をやっつけるというあらすじが共通しており、名前も百合若とユリシーズですから、ユリつながりであるということを指摘するわけですね。で、大航海時代にユリシーズのお話が日本に入ってきて、幸若舞が採り入れたのだろうという議論になるわけです。

実は純日本風と思われている文化である千利休の茶道も大航海時代の影響を受けたのではないかとの指摘があります。利休はお茶会の参加者にお茶碗をシェアさせてお茶を飲ませましたが、これがカトリックのミサとそっくりだというわけですね。

とするとですね、日本は飛鳥・奈良時代は中国の影響をもろ受けていますけれども、戦国時代にはヨーロッパの影響をがっちり受けていたということがよく分かるわけです。

ですので、日本文化のもう一つの特徴として、海外の文物を上手に採り入れ、自分たちのものにしてしまうのに大変に長けているということもあるのではないかなと思います。明治維新以前より、日本人はそういうのがうまかったという感じですかね。

むしろ近代化後の方が、永井荷風みたいな西洋帰りを中心に「外国のマネなんかするな!」という人を多く輩出していると考えた方が、実際に近いかも知れません。



秀吉と利休

堺の商人の息子である千利休は大人になってからお茶の神様みたいな存在へと変貌していきましたが、そうなっていく過程に於いて織田信長のことを語らないわけにはいきません。利休が政治の世界に登場する第一歩は、信長が堺方面を手中に収めたことをきっかけに、信長のお茶の家庭教師になったことと関係があります。もうちょっと踏み込んで言うなら、利休は信長のお茶担当官僚であって、信長にお茶を教える一方でお茶会を管理監督し、信長の社交を支えたのだと捉えることもできると思います。お茶顧問とも言えるかもしれません。

今でもお茶を飲んで人と交流することは普通の行為ですが、それを教養や芸術の域にまで高めて緊張感を持たせることにより、交流しつつ自らを高めるという非常に興味深い分野へと昇華させていったのは利休であると言われています。

利休本人の芸術性のようなことに関しては、三千家のような非常に格式の高い方々が継承し、研究されていますから、私がここで偉そうなことは何も言えません。

今回の主たるテーマは秀吉と利休です。

信長でお茶の家庭教師をしていた利休は、信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉のお茶顧問になります。秀吉にパトロンになってもらいながら、利休は茶道具の開発に力を入れました。その活動は評判が評判を呼び、利休が認めた茶器にとてつもない高値がつくという現象が起きたことはつとに知られています。利休が商人の息子であるということと、このような新しいビジネスを生み出したということは、あるいは関係があるのかもしれません。私は経済が発展した現代に於いて、ビジネスが生まれることはいいことだと思いますが、当時はまだ経済に対する考え方が現代ほど整備されていないので、もしかすると眉をひそめる人もいたかもしれません。野上弥生子さんの『秀吉と利休』という作品では、冒頭で利休がそろばんを弾いています。これは、芸術家としての利休だけではなく、金銭的な利益に敏感な利休の姿も描こうとしたわけであり、芸術性とビジネス性の両方の面を見なければ利休を知ることはできないとの作者の考え方があらわれているのだと思います。

正親町天皇と秀吉の茶会を仕切ったり、秀吉が京都に築いた聚楽第の中に居住したりと、彼は秀吉の取り立てによって商人としてはほとんど極限と言えるのではないかと思えるほどの出世道を歩きます。極めて成功した人生でした。正親町天皇と秀吉の茶会では、有名な黄金の茶室が用いられています。

有名な話ですが、秀吉の弟の秀長が、九州の大大名である大友宗麟に「公式な要件は私に言ってください。ちょっとプライベートな要件の場合は利休に相談してください」と言ったという話があります。利休はそれだけ、秀吉の個人的な心の隙間に入り込んでいたということが想像できます。おそらく利休と秀吉は共依存の関係になっていたのではないでしょうか。遠藤周作さんの作品では、大友宗麟と利休が対面したとき、利休の表情がほんのわずかにゆがむことで、内心、彼が秀吉を見下しているらしいという含みを持たせる場面が描かれています。『王の挽歌』という作品です。

後に利休は秀吉によって切腹させられるわけですが、その原因は未だによくわかっておらず、利休の秀吉に対する軽蔑が、その底流にはあったのではないかとの推測から遠藤周作さんはそのような作品を書いたのだと思います。

さて、ここからは秀吉と利休がどのように仲たがいすることになったのかということについて、考えてみたいと思います。私は利休の弟子である山上宗二の死と関係があるとみるべきなのではないかなあと思います。山上宗二は利休の弟子の中でも極めてランクが高かったそうなのですが、秀吉と口論になり、追放されています。宗二は前田利家のところへ行き、ついで小田原へ行って北条氏に仕えるのですが、秀吉が天下統一の仕上げのために小田原へと来たことで、まるで腐れ縁みたいに両者は再開することになります。

利休が秀吉に宗二と面会するように頼み、その場で彼を赦免してほしいと期待していたのですが、秀吉と宗二は再び口論になり、激高した秀吉の命によって宗二は殺されたのでした。宗二は秀吉のことが嫌いだったのでしょうね。推測ですが、秀吉が織田氏の政権を簒奪して天下統一に動いていたことは誰もが知っていることです。ですから、当時の政治の動きをよく知る人であれば、秀吉に対して批判的な目を向けることは十分にあり得ることです。おそらく宗二もそうだったのではないでしょうか。秀吉もそういう目で見られていることはよく知っていたはずですから、宗二の批判的な目に過剰に反応してしまい、殺してしまったのかもしれません。

このようなことは利休にとって深い心の傷になったに違いありません。なぜなら、たとえ口論になったとしても、それを理由の殺すなどということは人の倫理として受け入れることはとてもできないからです。戦国の武将たちは互いに殺し合いましたが、そこに大義名分があったり、そうせざるを得ない深い理由があったりして、戦いにも作法やルールがあります。飽くまでも武将たちの事情によって戦争が行われていたのであって、武将ではない宗二が、犯罪をおかしたわけでもなく、単に口論したというだけで殺していいということには、たとえ戦国の世であっても、それでいいということなるわけがないのです。ですから、利休の心中としては、秀吉にはパトロンになってもらって世話になってるから、感謝もしているけれど、だけれど、そんな理由で自分の大切な弟子を殺した秀吉を心理的にゆるす気にはどうしてもなれなかったのではないでしょうか。

ですから、記録には残ってはいませんけれど、利休は秀吉を二人きりのときに批判するということもあったかもしれません。あるいは、芸術論議の中にさりげなく皮肉や嘲笑を交えて秀吉を侮辱し、ついに秀吉はそれに耐えられなくなったのかもしれません。秀吉は利休に受け入れてもらえないことへの苦しみがおかしな形で爆発し、利休に死を命じることになったのではないかと思えてなりません。

山上宗二が死んだ次の年に利休は切腹させられていますが、秀吉が利休に切腹を命じた理由として、大徳寺の山門に利休の木像が置かれて、大徳寺を参拝する人は利休の像の足の下をくぐらなくてはならなくなったから、とか、いろいろな茶器に高値をつけて暴利をむさぼったからとか、秀吉の朝鮮出兵に反対意見を持っていたからとか、いろいろ言われていますが、どれも切腹させるようなことではありません。こじつけや言いがかりの類であり、むしろそんな話しかないということが、利休は何も悪いことをしていないということを証明しているとも言え、秀吉との心理的ないさかいに要因があったのであろうと推測することがもっとも理にかなった解釈なのではないかと思えます。

後に徳川家康は、豊臣秀頼が奉納したお寺の鐘の文言に問題があるとして、要するに言いがかりで大坂城包囲戦を行い、豊臣氏を滅亡させました。歴史のめぐりあわせの皮肉さを思わずにいられません。



豊臣秀吉と豊臣秀次

豊臣秀吉は、人の心を掴むのがうまい、いわゆる人たらしとしてよく知られた人ですが、その心の中は真逆でひたすら冷たい人物だったのではないかと私は想像しています。身分の上下を越えておべっかを言い続ける一方で、利用価値がなくなればさっと切り捨ててしまうタイプだったのだろうという気がします。子どものころに読んだ子供向けの『太閤記』などではその人柄の良さが強調されており、あれを読むと、おー、秀吉ってすごい人だなあと思ってしまいますが、大人になっていろいろ読んだり知識を得たりする中で、どうも秀吉という人物は子どものころに教わったのとは真逆の人物だったようだなあという風に感じられるようになっていきます。そういう私の内面的な過程を経て、私は豊臣秀吉はやっぱり好きになれないなあというある種の結論に至っています。

そのような好きになれない秀吉の一面をよく伝えているのが、豊臣秀次に関するエピソードです。天下人になって向かうところ敵なしの秀吉は多くの姫様を側室にして嫡子の誕生を目指しますが、最初に生まれた鶴松は早世してしまいます。秀吉は自分の子どもへの相続を諦めて、姉の息子である豊臣秀次を後継者に指名して関白の職を譲り、豊臣氏という新しい姓の氏の長者とします。

ところが人生とは不思議なもので、それからしばらくして淀殿が懐妊し、豊臣秀頼が誕生します。その後の秀吉の動きなのですが、秀次を謀反人と決めつけて高野山に幽閉し、秀次に切腹を命じます。更に、秀次一族郎党みな京都で斬首という酷い仕打ちをしています。1595年の出来事ですので、秀吉が利休を切腹させた後のことなのですが、推量するしかないものの、千利休を切腹させたことで秀吉の中の何かが壊れてしまい、自分の心の中にある何かが止まらなくなり、絶対的な権力者なのでそれを止めるものもなく、誰もが心の中に持つ「鬼」の部分が暴走したのかも知れません。

秀次は浅井朝倉攻めの時には秀吉の調略のために人質として差し出されたことがあったほか、本能寺の変の後ではこれも秀吉の政略の道具として三好氏に養子として出されたこともあり、秀吉は秀次を政治的な道具として大変重宝して使っていたわけですが、秀頼が生まれたからというごくごく私的な理由で邪魔になったから殺す、しかも一族郎党全員の命を奪うというのはどうしても人間的に受け入れることができません。

秀吉の姉は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後も、徳川家の人物と交流したりしていますが、秀次の件を経験してしまった以上、大阪城の淀殿や秀頼に対しては冷淡な気持ちが生まれてしまったでしょうから、豊臣家滅亡後もそのことで徳川家を憎むという心境にはあまりなかったのではないかという気がします。因果応報という言葉が心中を去来したかも知れません。

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