台湾近現代史16 劉銘伝の台湾近代化政策

清仏戦争が終わった後、ベトナムを狙っていたはずのフランスが台湾に軍を派遣をしていた事情から、清朝はそれまでよく分からない土地だという理由でわりとほうっておいた台湾をより積極的に統治する方向で動き出します。

想像ですが、基隆におけるフランス占領地包囲戦がわりとうまく作動し、その戦いを通じて台湾に関する情報がより多く北京に届くようになったことや、フランスという外敵が訪れたことによって台湾内部にあった福建系、広東系、客家系などの漢人同士が団結しやすくなったなどの背景があったのではとも思えます。

清朝政府はそれまで福建省の飛び地のように考えていた台湾を台湾省という独立した行政単位に昇格させ、台湾巡撫使という官職を設けます。巡回の巡ですからパトロールや監視の意味がある一方で慰撫する撫ですので、民心を平定するという意味があり、監視しながら平定するという感じで、巡撫使には方面軍司令官兼地域警察長官兼行政長官というべき強い権能が与えられていました。その最初の台湾巡撫使にフランスとの台湾攻防戦で善戦して功績を挙げた劉銘伝が任命されます。

劉銘伝はフランスとの戦闘の経験から学んだのだと思いますが、台湾の近代化が必要であると考え、電信電報設備や鉄道などの通信交通インフラの建設を計画し、炭田開発などの資源開発にも取り組みます。うまく回転するようになれば、炭鉱が産業化し、鉄道で港まで運んで輸出もできますので、台湾にはちょっとした産業革命が起きたかも知れません。砲台や軍需工場などの建設にも着手します。

しかしながら、それらの建設には当然のごとく莫大な費用がかかり、費用が発生するところには利権も生まれ、しかも施設の整備には必ず現地で暮らす人々との調整が必要になります。劉銘伝は強い権力が与えられてはいましたが、国際情勢が切迫していることを熟知する彼は急ぐあまりに現地住民との軋轢が生じるようになっていきます。原住民の反乱もありましたが、漢民族系の人々との軋轢も生まれていたようです。

施九緞という人物が彰化地方での測量の進め方に異議を申し立て、人々の心に火をつけ、当該の地域は騒乱状態に陥り、地方政府を包囲する騒ぎになります。救援部隊が駆けつけますが、群衆によって殺されるという事態にまで至ります。

劉銘伝が新たな部隊を派遣すると群衆は四散し、掃討作戦をかけたものの、施九緞の行方を掴むことはできませんでした。

財政の疲労、官僚の腐敗、民衆の不支持などが重なり、劉銘伝は中国大陸の故郷へと帰ることになり、後任の官僚は劉銘伝が行った近代化政策の多くを中止します。もったいないと言えばもったいないですし、財政的に無理だったらしようがないと言えば、確かにそうかも知れません。

いずれにせよ、そのような経緯を経て、日清戦争の結果、下関条約に拠って台湾は日本に引き渡されます。ただし、日本の台湾平定もそう簡単な仕事ではありませんでした。

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台湾近現代史15 清仏戦争と台湾

1840年代、フランスはインドシナ半島に領土的野心を燃やすようになります。ベトナムの阮朝は南ベトナムの幾分かの行政区域をフランスに事実上の割譲をしますが、フランスは80年代に入ると北ベトナムを視野に入れて北上していきます。

通常の世界植民地化の当時の流れでいけば、このまま一機に併呑ということになっても別に不思議ではないのですが、北上するフランスに対して強大な妨害者が登場します。

劉永福という天地会に所属する人物が、天地会の信条である反清復明に則って中国南部で清朝と対峙していたのもの、ベトナムまで押し出されてしまい結果としてフランス軍とぶつかることになります。重火器においてはフランス側が有利なはずでしたし、当時すでにクリミア戦争の以降の時代ですので機関銃もぶっぱなしますが劉永福の黒旗軍はひるまず、双方泥沼の持久戦になります。

洋務運動を進めていた李鴻章は清朝が近代化を遂げるまでは列強との対立を善しとせずなんとか適当なところで話をまとめたいと思っていたようですが、劉永福が善戦していたために清朝内部の主戦派が活気づき、フランス軍もさほど強いわけでもなく、清仏戦争は一進一退を繰り返すようになります。

そのころ、フランス軍は台湾にもその足跡を残しています。1884年、フランス軍は台湾北部の淡水沖とそこからほど近い基隆沖に現れ、上陸を企図しますが、劉銘伝が率いる清国軍が意外に強いと言うか、兵隊の数が半端なく多いので、フランス側が圧倒され、戦線にも混乱が生じます。淡水では占領を諦めて引き下がった一方、フランス軍は基隆のごくわずかな地域を占領することに成功します。

基隆で包囲されたフランス軍はある意味では善戦し、占領地を死守しますが、ベトナム方面での戦いが停戦合意に至り、その後天津条約で清仏が合意したことを受けて撤収することになります。清軍を指揮した劉銘伝も善戦した名将と称えられ、彼の名をとった銘伝大学が今も台湾の桃園に存在しています。

興味深いのはフランス軍が占拠した一年弱の間に狭い占領地はフランス風に整備された家屋や道路が建設され、あたかもフランスの植民地であるかのような様相を呈していたということです。おそらくは占領した当初から恒久的なフランスのテリトリーであるという印象を形成するための都市計画を実施したということが推察されます。占領地に自国風の地名をつけ、自国風の建物を立ててそのテイストに染めてしまうということはどこでもやることで、日本も大いにそうしたわけですが、それが帝国主義の定石であるということがこの一事からも見て取ることができます。大連旅順、または奉天あたりでも今もロシア風建築が残っているといわれますが、ロシア帝国がそのエリアに影響力を発揮していたのはほんの数年のことですから、急いで都市建設をしたわけですが、そういったことも自然とそうなったのではなくて、意図的に懸命に計画していたと考える方が或いは自然な見方かも知れません。

現代の基隆でフランスの足跡を見つけることは簡単ではありませんが、当時の戦闘で戦死したフランス兵のための墓所が今も残されているそうです。

ローバー号事件牡丹社事件とひたひたと台湾に海外列強の陰が忍び寄り、清仏戦争では本格的な戦場にまでなった台湾ですが、その後、日本の植民地になるという運命を辿ります。なるべく中立的な視点を保つよう意識しながら、その後の展開を辿って行きたいと今は考えています。