明・清時代の漢民族と満州族の文化、社会、政府の大きな違いにはどのようなものがあったのでしょうか?

ほんの部分的な話題しかできずに恐縮なのですが、清王朝の場合、官僚制度は満州族の貴人と科挙に合格した漢民族の地方出身者の二重構造になっており、やはり漢民族の方が出世するための苦労が多いものですから、満人は恨まれやすく、康有為のように一方に於いて科挙に合格したことを大いに自慢しつつ、一方に於いて光緒帝をうまく使い、憲法を導入して満人中心社会の終焉を狙うようなトリッキーな人物も出てくるわけです。彼のしたことは清皇室を維持しつつも清王朝の無力化を狙うものであるため、科挙に合格した官僚の身分としては自己矛盾をきたすのですが、ルサンチマンの塊になってしまっているので、光緒帝の命を危険にさらすところまで突き進むわけですね。一方のもうちょっと古い明王朝の場合、漢民族の王朝ですから、官僚制度に上に述べたような複雑な構造を抱える必要はなかったわけですね。ですが、最終的には社会矛盾みたいなことが原因で滅亡していきます。案外、清王朝の方が、自分たちは少数民族だという自覚が強いため、民衆を慰撫する努力をしたのかも知れません。

今書きつつ、「皇帝の末路」という言葉が思い浮かんだのですが、最も特異な人生を歩んだのは清朝の最後の皇帝の溥儀だと思いますけれど、明の最後の皇帝の崇禎帝は李自成に包囲される中、家族をほぼ皆殺しにして自殺してますから、その悲惨さという点では明の方が凄まじい最期を迎えたと言えると思います。



第三次伊藤博文内閣

第二次松方正義内閣が衆議院を解散した日に辞任するというどたばた劇を兎にも角にも収集するために伊藤博文が三度目の組閣をします。とりあえずは選挙管理内閣としてスタートしたと言っていいかも知れません。

選挙結果では板垣退助の自由党が第一党となり、大隈重信の進歩党が僅か一議席の差で第二党となります。この時代になると官の政党は影も形もないありさまとなっており、議会で政府をつつきまくってきた大隈なり板垣なりの協力がないと政策が全然通らないという状況になっていきます。

伊藤博文は外交面では対ロシア融和策をうまくこなしており、日清戦争後の日露対立を避けることに一応は成功していますが、内政面ではなにしろ反政府の大隈と板垣の二大政党で三分の二を獲っている状態ですので増税もできなければ選挙制度改革もできず、伊藤は衆議院解散をうちます。自由党と進歩党が合併して憲政党結成して伊藤に対抗しようとしますが、嫌気がさしたであろう伊藤は辞任し、清・朝鮮半島への旅に出てしまいます。

政権の担い手がいなくなり、首相を推薦する元老会議で「大隈重信で行こうか」という話になり、第一次大隈重信内閣が誕生しますが、大隈と板垣の間で亀裂が生まれ、要するに「なぜ大隈重信が総理大臣で板垣退助が内大臣なのか」というポストの問題で感情的な溝が深まり、憲政党は分裂するというカオスった状態が生まれて行きます。

第一次大隈重信内閣は日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられており、それは確かに意義のあることのように思いますが、一方でゴネれば順番が回ってくるという悪い循環が生まれたようにも思えますし、それまで文句を言っていれば仕事していることになっていたのが責任のある立場になってブーメラン現象に見舞われるというお決まりのパターンもこの時から生じていたように思えます。

この時期、清では康有為や梁啓超などによる明治維新をモデルにした戊戌の変法運動とその瓦解という政変が起きており、最近の研究では国内政治を投げ出して外遊中だった伊藤博文が一枚噛んでいたらしいという説もあるようです。その説によると、康有為と伊藤博文が協議して英米日清の合邦を光緒帝に奏上したということらしく、それが本当なら清は戦わずして外国の植民地になってしまう恐れがあり、それを知った西太后が待ったをかけて愛国ゆえの血の粛清を行ったということになるらしいです。私にはそれを否定する根拠はありませんが、伊藤が独断で外国との合併を進めたというのはちょっと話ができすぎのような気がしなくもありません。


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