保元の乱-複雑すぎる人間関係-そして平清盛の時代へ

平安時代の終わりの始まりと言える保元の乱は、知名度の高いできごとであるわりには、内容的なことはさほど知られてはいないと思います。というのも、人間関係が非常に複雑で、更にその時代の慣習に対する理解がないとわけがわからないということが多く、学校の教科書などではとても説明しきれるものではないからなんです。

今回はできるだけ簡潔に、分かりやすく、本質的な肝の部分に集中して述べてみたいと思います。事の発端は天皇家の内紛にあります。当時の天皇家は白河上皇以降、院政をする上皇が政治の実権を握っていました。で、白河上皇の次の堀河上皇の次の鳥羽上皇という人がいて、その人の一番上の息子さんが崇徳天皇になります。崇徳天皇は今回の最重要人物の一人です。この段階で鳥羽上皇が政治の実力者で崇徳天皇は鳥羽上皇の指導監督を受け入れる立場ということになります。ですが、そのことに天皇が不満を抱く必要は本来ありません。自分が天皇を引退して院政をする、その順番を待っているだけのことだからです。ところが、崇徳天皇の場合だけ、そういうわけにはいきませんでした。鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて、上皇を名乗らせるんですが、次の天皇を崇徳天皇の息子である重仁親王ではなく、崇徳天皇の弟を指名し、その人が近衛天皇になります。上皇が院政をする条件は現役天皇の直接の父か祖父であることが原則必須なので、崇徳上皇の弟が天皇になった場合、崇徳上皇の院政をする権利が失われてしまうんですね。崇徳上皇からすれば、親父に騙されたようなものです。もっとも、崇徳上皇は鳥羽上皇の息子ではなく、白河上皇っていう三代前の遊び人上皇の息子説があるので、げ、気持ち悪いって話なんですが、それで鳥羽上皇は崇徳上皇を好きになれなかったという話もあります。本当かどうかは分かりませんけれど、崇徳上皇には罪がないですから、本当だったとしても気の毒ですよね。

で、ですね、この近衛天皇の即位については、母親の影響力の問題もあるんです。崇徳上皇と近衛天皇は兄弟なわけですが、母親が違うんですね。崇徳上皇の母親は待賢門院という人で、近衛天皇の母親は美福門院という人なんです。どちらも鳥羽上皇のお妃さまになるわけですが、母親同士、自分の産んだ息子を天皇にしたいと願う策謀があったとしても理解はできます。近衛天皇の即位はその母親の美福門院の勝利であり、即ち崇徳上皇の母親の待賢門院の敗北を意味しています。このままいけば、近衛天皇の子孫が天皇家を継承していくことになると考えられました。

ところが、番狂わせが起きます。近衛天皇が若くして亡くなってしまうのです。近衛天皇は17歳だったため、皇太子もいなかったのですが、近衛天皇の崩御を受けて、皇室関係者で会議が開かれます。崇徳天皇の息子の重仁親王を押す声もあったようなのですが、鳥羽上皇が全力で拒否し、崇徳天皇のもう一人の弟が後継者として選ばれます。この人が後白河天皇なんですね。源平の戦いとかになると、必ず悪役として語られる超有名なトリックスターです。後白河天皇という人は自分が天皇になれるとは思っていなかったし、周囲もそうは思っていなかったので、遊んで暮らすことしか考えていなかった人で、白拍子の今様とか踊れたとかって話が残ってますから、まあ、現代風に言えばストリートダンスみたいなのが得意な高貴な若者だったような感じだと思うんです。庶民と一緒に遊んでいた人が天皇になるんですから、今だったらけっこう魅力的な人として扱われたかも知れませんね。で、彼が天皇になった時はすでに成人していました。当時は天皇は子どもがなるもので、大人になったら上皇になるのが普通と考えられていましたから、大人になってから天皇になるって実はちょっと変な感じなんですよ。でも、その変な感じなにもかかわらず、みんなでごり押ししちゃったんですね。はっきり言えば、崇徳上皇には権力を渡さないとする鳥羽上皇の強い意志を感じますね。後白河天皇は崇徳上皇と同じ母親を持っていて、先ほど述べた待賢門院なわけですから、待賢門院的には受け入れることができる人選であったと言えるかも知れません。待賢門院と美福門院のばちばちの対決は待賢門院の勝利で決着したわけです。美福門院は反撃するんですけど、それは次回やりますね。

ですが、崇徳上皇は納得できませんでした。後白河天皇が弟である以上、自分が院政をすることができないからです。私だったら政治をするより上皇になったら遊びたいですけど、崇徳上皇は多分、よほど鳥羽上皇にいじめられたんでしょうね。そんなことではすまなかったんだと思います。で、鳥羽上皇が亡くなるのを待って、崇徳上皇は兵を集めることにしました。崇徳上皇が兵を集めているという知らせが後白河天皇のところに届き、後白河天皇のところにも兵が集まり始めます。源氏・平氏の武士も分裂して崇徳上皇のところに集まった武士と後白河天皇のところに集まった武士とにわかれました。これからスーパースターになっていく平清盛は後白河天皇のところに自らの兵を率いて集まったんですね。当時、藤原摂関家も跡目相続の争いが起きていて、一旦は相続を約束されたのに反故にされてしまった藤原頼長という人が崇徳上皇の味方につきます。崇徳上皇サイドはなんというか、排除されてしまった人たちの集合体みたいになっていたんでしょうね。

京都を舞台に後白河天皇派と崇徳上皇派がそれぞれに集まって一触即発ということになり、後はどちらが先に手を出すかという感じになりました。崇徳上皇の陣地では、夜明け前に夜襲をかけ、敵の陣地を焼き払えばいいじゃないかとの意見が出ましたが、それは卑怯な手法だとして却下されます。崇徳上皇の側は政治的に敗けてしまった人たちが集まっているため、ここで卑怯な手法をとってそれでも負けてしまったら、やっぱりあいつらはダメなやつらだったんだと言われかねないと不安になったのではないでしょうか。仮に負けたとしても正々堂々と戦ったという名誉は残したいと思ったのかも知れません。非常に気の毒なのは、歴史は勝利者の都合のいいように書かれるので、敗けても有終の美があるというのは、甘美な幻想に近いところがあるんですが、それに崇徳上皇は気づいていなかったというか、そういったイメージにしがみつきたいくらい不安だったのかも知れませんね。

一方の後白河天皇の方でも軍議が開かれ、平清盛は夜襲を主張し、それが受け入れられて彼らは実行に移します。後白河天皇としては崇徳上皇に院政の権利がない以上、自分たちが正統な政権であり、正規の軍事行動によって暴徒を鎮圧するのだから夜襲であっても卑怯でもなんでもないというロジックがあったのかも知れません。

未明になって後白河軍が出撃し、両軍は鴨川を挟んで一進一退したと言われていますが、後白河サイドが崇徳サイドの建物に放火し、崇徳上皇と藤原頼長が脱出して勝負が決まります。藤原頼長は重傷を負い、奈良に逃げてそこで命を失います。崇徳上皇は捕らえられて讃岐に島流しです。崇徳上皇は讃岐でなくなりますが、激しい恨みと憤りを抱えたまま亡くなったために怨霊になったとも言われます。今は崇徳上皇の御霊は手厚く神様としてお祭りされています。

保元の乱はこのようにして幕を閉じましたが、政治の実権は後白河天皇の側に就いた当時最強のインテリである信西が握りました。側近政治が始まったと言っていいでしょう。それまでは天皇家との血縁の距離が政治力を決めましたが、信西は血縁を越えたわけです。当時の常識をくつがえすできごとであったために軋轢がうまれ、反発もうまれ、次の平治の乱で信西は殺されて平清盛の時代へと続きます。保元の乱で実際に戦闘をしたのは武士階級の兵士たちです。たとえ皇族であろうと貴族であろうと、武士が集まって来なければ敗けてしまいますから、実質的に武士が政治のキャスティングボードを握る時代に入ったということもできます。それまでひたすら貴族に従っていた武士が、あ、あれ、俺たちって強いよね?と気づいたと言ってもいいかも知れません。武士の時代の始まりの始まりのスタートラインが保元の乱であったわけです。



信西という人生

保元の乱平治の乱について語る時、信西のことを外すことはできません。藤原氏に生まれたものの、高階氏の養子に入り、当代最高級の知識人と周囲に認められていたにも関わらず、出世の道が閉ざされてしまったことに抗議の意を示すために出家します。

ところが、妻の朝子が雅仁親王の乳母をしており、近衛天皇が亡くなったことを受けて雅仁親王が後白河天皇に即位することで、信西は突然出世します。雅仁親王は天皇になる見込みはないと誰もが考えていたため、信西の人生は想定外の展開を見せます。自分には出世の見込みはなく、育てている雅仁親王も天皇に即位する見込みもない、宮廷の中で冷や飯グループだと思っていたはずです。禍福は糾える縄の如しです。

これによって信西が中央政界に躍り出て、更に保元の乱で後白河天皇サイドが勝利し、いよいよ盤石。後白河天皇の即位にも彼は策動していたのではないかとの推測があり、保元の乱の戦略会議でも積極策を提案してそれが図星になるなど、狙った通りに物事が動いていくことに彼は自分でも驚いたのではないかと思います。

ただ、想像ですが賢しらさが目につく人ではなかったかと思えます。試行錯誤を経て訓練されて人間性が磨かれたり、知恵がついていくのなら良いかも知れないのですが、信西の場合はもともと自分の頭脳は優れているという自信があったことにプラスして急に出世したこと、更に実際に狙い通りに物事が動いたことで「自分の目に狂いはない」という過信が生まれたのかも知れません。また、策略家であるが故に、やはり策士策に溺れるという様を呈してしまいがちになったのではないかとも思えます。

近衛天皇が亡くなることで運を得て出世できたのですが、自分の才覚で出世できたとどこかで勘違いを始めた、どこまでが運でどこからが才覚によって結果を得られたのか分からなくなっていったのかも知れません。あるいは運勢とかそういったものは一切信用せず、全て自分の才覚で上へ行けたと考えたのかも知れません。だからこそより、自分の策だけを頼りにしたのではないかと思えます。もし、近衛天皇が17歳の元気のさかりで亡くなったことも信西のはかりごとによる結果だとすれば、自分の頭脳に湧いてくる策略だけが頼りだと思うのも、無理はないです。

朝廷全体に反信西派が形成され、後白河天皇派と二条天皇派に割れていた貴族たちが平治の乱では一致して信西排除に動いたと見られるあたり、そういう賢しらさが災いしたのではないかという気もします。また、あまりに策略だけで動き過ぎたことで友人がいなくなってしまったということもあるかも知れません。源義朝からの婚礼の申し出を断って、平清盛と婚礼を進めたのも、策をめぐらし過ぎて不信を買ったであろう彼の一側面をうかがわせています。

完全に想像ですが、若いころに不遇だったことで、心の底で出世していくことへの不安も湧いたことでしょうし、何かがおかしい、こんなに物事が簡単に進むはずがないという恐怖も覚えたかも知れません。不安だから更に策をめぐらせるを繰り返し、策はたいていの場合、誰かに見抜かれますから、不信を買うという悪いスパイラルに入って行ったようにも思えます。

平治の乱で郊外に落ちのび、土の中に隠れて敵をやり過ごそうとしますが、発見され最期を迎えます。このような土遁の術のような奇計を思いつくのも、信西らしいと言えば信西らしいやり方かも知れません。

実際に会えば嫌な人だったに違いないとも思いますが、不遇の人生の中で僅かな運と才覚を頼りに出世しようとした信西に同情してしまいます。かわいそうな人です。素直にそう思います。

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保元の乱に見る勝ち方

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保元の乱は、弟が後白河天皇として即位することで院政への道が閉ざされた崇徳上皇が切れまくり、兄との権力闘争で不利になっていた藤原頼長がそこに加わり、源氏と平氏が分裂して天皇方と上皇方に分かれて戦争になったことは、つとに知られています。人間関係が複雑で、名前も似たような人がいっぱい出てくるので、誰が誰だかよく分からなくなってしまいそうですが、

勝利者      敗者
後白河天皇 vs 崇徳上皇と、
藤原忠通  vs 藤原頼長

とだけ抑えておけば、だいたい理解していると言っていいのではないかと思います。『保元物語』では、上皇方の源為朝が、戦争に負ける側を美しく描くという価値観に則って美化されているため、彼の活躍が目立ちます。天皇方についた義朝もびびって一旦退却するという場面も描かれますが、実際は数時間でけりがついたようです。

この戦いで勝者と敗者を分けたものは何か、という点について『保元物語』では、崇徳上皇サイドがわりと悠長に事を構えていて、為朝が「先手必勝、夜襲をかける」と建言したのを「天皇と上皇の戦争なのにそんな品性のない戦いができるか」と退け、朝になったら出陣して日中堂々と雅に戦おうと計画していたところ、後白河天皇サイドでは義朝が信西と相談して「先手必勝、夜襲をかける」で合意し、早々と兵を出しています。

このように見ると「先に決断をした方が戦争に勝てる」という法則性を見出すことができるかも知れません。とはいえ、21世紀に生きる我々は真珠湾攻撃で先手必勝しようとしつつも無残に日本が敗けたことを知っていますので、先手必勝であればいいというものでもないように思います。

『保元物語』によれば、源為朝が豪傑で敵を寄せ付けず、一進一退を繰り返したとされており、義朝が信西に「崇徳院の居所に火をつけるのがいいと思うが、恐れ多くてできない」という使者を送り、信西の方から「今手をゆるめてどうする、いいから燃やせ」という返事を受け取ってそれを実行し、崇徳上皇たちは脱出。雌雄が決しました。

このように見ると、一旦決心した後は怯むことなく、臆することもなく、前進し、良くも悪くも後先考えず、勝てそうな見込みを得られるものは全部やる、という姿勢によって勝利を得たことが分かります。

太平洋戦争では、国民には強気のメッセージが送られていた反面、真珠湾攻撃後の戦略については指導者たちは弱気と強気が入り混じって煩悶しており、いざいよいよという時に判断の迷いによって追い詰められていく場面が幾度も見られます。

そう思うと、より早く、そしてより強く決心した方が勝つ。ということも言えるかも知れません。

ただし、前提条件として、保元の乱では後白河天皇サイドが兵力において勝っており、後白河天皇が「現政権」に当たりますので正統性という点からも優位で、周囲の協力を得やすいという環境があったということを忘れることはできません。勝てるという環境が整った上で決心するという正攻法的な決断の手順が踏まれているとも言えますので、やはり運頼み、出たとこ勝負では周到に準備している相手には勝てないということの証左になるような気もします。何事も周到さが肝心要なのかも知れません。私のようなしがないブロガーに言えたことではありませんが…。

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後白河天皇即位に見る天皇家の母親の力

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近衛天皇が17歳の若さで亡くなった時、子どもがいなかったことから後継者の問題が浮上します。そのような若さで亡くなることが全くないとも言えませんが、やはり一番元気な時期ですので、当時でも想定外なことだったのではないかと思います。

崇徳上皇の皇子の重仁親王が次の継承者と目されていましたが、近衛天皇の母親の美福門院から横やりが入り、当時29歳だった雅仁親王が即位して後白河天皇になります(ちなみに後白河天皇の母親は待賢門院)。近衛天皇の母親の美福門院の立場からすれば、自分の息子の系統が今後の皇統を引き継いでいくという前提で暮らしていたでしょうから、崇徳上皇の系統にそれがスイッチしてしまうことに耐え難いと感じていろいろ工作したのであろうと、保元物語ではそれとなく、察してくださいという風に書いています。そしてこれは崇徳上皇にとってかなり痛い打撃にもなりました。

白河上皇以後、平安後期から天皇は若々しい男子が少年期に継承し、大人になると自分の子どもに継承させる。自分は上皇になって、実際の政治は上皇の意思によって行われ、天皇は儀礼的な存在というのがパターン化していきます。いわゆる院政です。ただし、院政ができる上皇には条件があり、時の天皇の父親か祖父の立場でなければ院政をする資格が認められません。そうでない場合は単なる称号になってしまいます。

鳥羽上皇が崇徳天皇を退位させ、崇徳天皇の弟の近衛天皇に即位させますが、この場合、崇徳上皇は天皇の兄の立場になりますので、院政をする資格が認められません。崇徳上皇からすれば、この皇位のシフトは受け入れがたいと感じたでしょうから、近衛天皇を暗殺したいという動機を持っていたことすら推測は可能と思います。

崇徳上皇のもう一人の弟の雅仁親王は、天皇になれるわけがないと目されていたため、次の天皇は崇徳上皇の皇子の重仁親王と目されたわけですが、美福門院派が崇徳上皇の院政だけは絶対に阻止するという意図のもと、雅仁親王の皇位継承が実現します。雅仁親王は崇徳上皇の弟ですので、院政の条件が満たされません。保元物語では美福門院が鳥羽上皇を説得したことになっており、鳥羽上皇が耳を傾けた背景には崇徳上皇が本当は鳥羽上皇の息子ではく、本当は白河上皇の息子ではないのかとする噂があったことをこれも保元物語では察してくださいという感じで書いています。

天皇家内部の人間関係が非常に複雑で、藤原氏の内紛が加わり、源氏と平氏も分裂して保元の乱に発展していくわけですが、その根源を求めれば、当時の天皇家内部の崇徳上皇はずしとも言える抗争があり、崇徳上皇はずしの決定打を放ったのが近衛天皇の母の美福門院ということになります。

かつて、天皇家では後継者を絶やさないために複数の女性を周囲に置くのが通常だったわけですが、複数の男の子が産まれて来た時に、誰が次の継承者になるのかを決める際、カギを握るのは「母親は誰か」です。母親は自分の実家、実父(だいたい、藤原氏の誰か)と連携して権力保持に動きます。

この複雑な人間関係について考える時、やはり最後に決定的なパワーを発揮するのは女性なのだなあとつくづく思うのです。

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