侯孝賢監督『黒衣の刺客刺客聶隱娘 』の映像美

侯孝賢監督はたとえば『非情城市』で本省人の心の機微を描こうとし、『童年往事』では本省人の心の機微を描こうとしてきた人で、ストーリーそのものよりも何気ない仕草や台詞にリアリティを持たせるということを追及した人です。

ところがこの映画ではそういったものを全部捨て去り、様式美の世界に浸りきった作品になっています。

主人公の女性が舒淇で、育ての親に剣術を完璧に仕込まれた超一流の刺客で、仕事に情を持ち込んではいけないことは承知しているものの、情に深く、しかしそれを顔に出さず、言葉も少なく、多くのことを背中で語ろうとしています。日本で言えば座頭市、西洋の映画で言えば『レオン』です。

中国の武侠小説の世界を作ることを目指しているように思われ、私は全然武侠小説に詳しくないですが、中国版の『サスケ』とか『椿三十郎』みたいなものだと勝手に推量しています。

映像がとてもきれいです。ストーリーが極限まで単純化されていますので、物語の流れや心の機微を描くということは一切捨てて、ただただ美しい画面を作りこむということに情熱が捧げられています。本当にきれいです。

時代は唐の末期なのですが、古代中国と言えばやはり山です。長安は海から遠く離れた内陸の都ですので、中国の古の人たちは深山幽谷を好みました。この映画も山の景色が素晴らしいです。ほとんどトレッキングの世界です。それから貴族的な素晴らしい建築の映像。奈良時代の建築を見ているような錯覚を起こしそうですが、これに関しては唐の方が本家です。

妻夫木聡が鏡師の役で出ていますので、中国語の台詞は大丈夫だろうかと思って観ましたが、台詞はほとんど無いに等しく、素朴で優しい好人物になっています。

敵役は『牯嶺街少年殺人事件』の主人公の張震がしていますが、端整でひたすらかっこいいです。羨ましいです。舒淇が老けてないのも見事です。

以前の侯孝賢さんの作品とは全く違います。こういうものも作れるのだと証明した映画ではないかと思います。まあ、私はそもそも『ラストエンペラー』に感化され、このような美しい中国に憧憬を感じて中国語の勉強を始めた類の人間ですので、こういう映画は文句なし。観れて満足です。敢えて言えば、このような映画を作った動機を知りたいですが、もしかすると中国に帰りたくても帰れないもどかしさを抱えた外省人が、ようやく故郷に回帰したという位置づけができるかも知れません。「どうだ、これが我々の真の世界観だ。まいったか」という感じかも知れません。おそれいりましたと言いたくなるほどとにかく映像が綺麗です。何度でも繰り返し観ることができます。

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仮に、もし、映画を観る目的が現実とは違う夢の世界に入り込むことだとすれば、侯孝賢監督はその真逆を作りこむことに熱心な人であり、この人の作品はもしかすると他人に薦められないかも知れないと思うことがあります。侯孝賢さんは常にリアリティを追及し、映画の画面がまるで実際に自分の視界でその現場を見ているかのような錯覚を起こしてしまう映像を作り上げています。

特に『憂鬱な楽園』はそれを極めきっているというか、単に酷い日常を見せられているという気分に私はなってしまいました。主人公の男性は40歳くらいで食堂を経営しています。私生活は結構ガチでヤンキーだという設定になっています。

私は食堂を経営して、ちゃんとやれているだけで充分に素晴らしい職業人だと思うのですが、主人公はその現実に満足しているわけではありません。上海でレストランを開くという夢を持っていますが、資金をなんとかしなくてはいけません。土地の売買の分け前の話にばかり主人公は熱中していきます。

主人公は上海へ行きたくて、主人公の恋人はアメリカへ行くことを計画しています。日本の話題も出てきます。その他、友達の親類はカナダに行っていて、要するに台湾から出たい、というのがこの映画の主旨のようなものですが、なかなか出られない、ちょっと穿った見方をすれば、潜在意識のレベルで土地と深く結びついているのでそこから逃れることができない、そういうメッセージが込められているように思います。中国語のタイトルが『南國再見,南國(南国さよなら、南国)』からも分かるような、こんな毎日は送っていられねー、やってられねー、おさらばしてー。という身も蓋もなくぶっちゃけたやりきれない感じが伝わってくるように思います。

映像はガチでリアルな台湾で、街もきたないですし、食べ方もきたないですし、素行というか挙動がいちいちださくて、着ている服もださいです。なぜ自分はこんなものを観ることに時間を使っているのかと、観ながらだんだん後悔の念が湧いてきます。

ただ、私はここで台湾をディスりたいわけではありません。侯孝賢さんが『童年往事』で外省人を描き、『非情城市』で本省人を描き、その先に『憂鬱な楽園』に行きついたということが気になるのです。

『憂鬱な楽園』の主人公の父親は外省人で、ばしっとした外省人風中国語を話します。主人公は台湾風中国語で、台湾語も普通に使いこなします。この映画はほぼ全編台湾語で展開していますので、私も字幕に頼らざるを得ませんでしたが、要するに外省人の息子は台湾化しているわけで、どれほど上海にレストランを開きたいとかの夢を持っても、心と体は台湾人になっていて、繰り返しになってしまいますが、土地と深く結びついているので、とても違う世界は羽ばたいていけるという風には見えません。ということは『童年往事』で描かれたことをもう一度なぞっている、ただし、世代は一つ下の世代になっているのだということに気づきます。

『非情城市』で登場するようなまっとうで誠実な本省人も『憂鬱な楽園』には登場しません。出てくるのは利権に関心のあるおっさんか喧嘩っぱやい若者か、大人になりきれない40男(主人公)など、碌でもない、全然見たいと思わない人たちばかりです。

私は個人的に日本時代の台湾が美しかったなどと言うつもりは毛頭ありませんが、侯孝賢さんが時代と共に変化する人々の変化も捉えているように思えて「今の台湾ってこんなところだ。やってられねーと思うだろ?」と言っているように思えますし、それでもなおこの土地を愛しているというメッセージもあるのだと受け取ることも可能かも知れません。この映画は日本の資本も入っている合作映画ですが、外国資本が絡む映画でよくこんなの作ったなあと、いろいろな意味で監督の腹の内に関心してしまうのです。

ただ、音楽はもしかすると好きな人もいるかなあと思います。要所要所で中国語のラップが使われています。音楽に詳しい人なら、そこに注目するのではないかなあと思います。音楽がどういう感じなのかをチェックするためだけに一回観てみるのもありだと思います。


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侯孝賢監督『童年往事 時の流れ』-外省人の家族物語

侯孝賢監督個人の生育環境を強く反映した作品です。蒋介石の国民党が台湾にわたってきた時に、家族全員で台湾にわたってきたとある家族の物語で、主人公の少年は広東生まれの台湾育ちです。

おばあちゃんは故郷の中国の話ばかりを孫たちに聴かせます。おばあちゃんもお父さんもいずれは中国に帰還するという前提で台湾での生活を送ります。このような人たちが数百万単位で一挙に出現したというのは、世界的にも稀有なことかも知れませんし、東アジアの近現代史を理解する上で知っておくべきことの一つのように個人的には思います。また、そういう外省人の背負っているものを知識としてでも知っておかないと台湾映画を観ても何のことかわからないことが多いので、台湾の作品を観たり、語ったりする上でも押さえておくべきことのように思います。

家族は終戦後に日本人から接収した畳の家で暮らしています。お父さんは肺を悪くしていて、映画の中盤に入るまでに亡くなってしまいます。お母さんは喉に腫瘍が出来てしまい、台北の病院へ行きますが、舌を切除する手術をしなくてはいけないと告げられ、手術を拒否し、家に帰ってきます。

主人公の息子はどうしているのかというと、仲間の少年たちと徒党を組み、不良生活を送っています。喧嘩ばかりしています。台湾の映画を観ると、少年期を描くには岸和田愚連隊みたいな要素をどうしても入れないと気が済まないのかと突っ込みたくなることもあるのですが、いずれにせよ、祖母や父の世代が一言では語り尽くせないものを背負っていて、中国への夢を抱えたまま時間が止まってしまっているのに対し、主人子の少年やその兄弟姉妹たち、子どもたちは台湾で成長し、台湾の風景を自分の自分の故郷として受け入れ、台湾人になっていくということが、地元で岸和田少年愚連隊風の生活を送る少年の姿から感じ取ることができるように思います。

侯孝賢監督のバイオグラフィーを日本語に翻訳する仕事を請けたことがありますが、そこでも監督は、もはや大陸に還れることはないということがはっきりしているのに、それを受け入れることができない大人たちと、台湾人として成長する子どもたちの対比みたいなことを言っていました。

やがてお母さんが病で亡くなってしまい、しばらくしておばあちゃんが老衰で亡くなります。おばあちゃんは畳の上で寝ていて、安らかに眠るようにして死んで行きます。ただ、気づくと亡くなっていたという感じで、息を引き取ってからどれくらい時間がたったか子どもたちにもよく分かりません。ご遺体を扱う業者の人来たときに、畳がいろいろな分泌物で濡れているのを見つけ、「おばあちゃんを放っておいた不孝者」という目で子どもたちを見ます。そこが言わばこの映画の最もジーンと来るところというか、ぐっとくるところというか、見せ場みたいなものになっています。静かな見せ場です。

侯孝賢監督の初期の作品で、この作品では外省人の物語を表現し、その後、本省人の目から台湾の風景を捉えなおそうとして有名な『非情城市』を作ることになります。『童年往事』と『非情城市』の両方を観ると、監督の作品世界をよりぐっと理解することができると思います。

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侯孝賢監督『非情城市』の日本人と外省人と内省人とラジオ

この映画では、冒頭から昭和天皇の終戦の詔勅のラジオ放送が流れます。そのラジオ放送を背景に子どもが生まれるという場面になっています。日本帝国の滅亡が宣言されているその瞬間、新しい命が生まれて新しい時代を生きることになるわけですが、その子供が果たして本当に幸福に生き抜くことができるのか?という問いかけがなされているように感じます。

この映画の主題は戦後すぐのころに台湾で国民党系の外省人と内省人との間で起きた228事件とその後に続いた白色テロですが、侯孝賢監督は外省人の息子ですから、果たしてそのような人物に真実に内省人の内面を描くことができるのかという議論がされたこともあったようです。

私は何度か繰り返してみているうちに、侯孝賢監督本人が台湾は自分の故郷であることを認め、それを受け入れ、時間をかけて丹念に内省人の内面を観察し、よく考え、自分の良心にも反しない姿勢でこの映画を作ったのだということを感じ取れるようになった気がします。

228事件とその後の白色テロは主として国民党という新しくやってきた権力による不当な弾圧であることは言うまでもないことですが、同時に外省人が内省人に狙われるケースがなかったわけではなく、言い方はよくないのですが、ある種の殺し合いのような様相を呈していたとの話も私は聴いたことがあり、この映画の中ではトニーレオンが耳が聴こえずに話ができない内省人という設定で登場しますが、トニーレオンが外省人狩りをする内省人に「外省人だ」と判断されて襲われそうになるという場面も短いですが挿入されています。228事件を語るにあたり、そのことを省略することはできないと侯孝賢氏は考えていたのではないかと私は想像します。

全編ほぼ台湾語の作品で、主役で招かれた香港人のトニーレオンは当初は台湾語の台詞を話す予定でしたが、どんなに練習しても台湾語がうまくならず、やむを得ず話せない人という設定に変更したそうです。

結果としては、背中で語る、表情で語る、動きで語る、声なき声で語るという味になっていてより印象に残る、ぐっとくる演出になっていると思えます。

この映画をみて「詰まらなかった」という日本人に多く会いました。228事件とその後の白色テロについて多少なりとも知識がないと何のことかわからない映画です。詳しいことを分かるように説明してくれる映画ではありません。事情を知らない人が観ても「つまらない」と思うのは自然なことだと思います。私も最初に見たときは228事件のことは知りませんでしたから、「退屈だ」としか感じませんでした。

作品中、浙江なまりと思しき中国語で戒厳令について述べるラジオ放送が何度か挿入されます。北京語を覚える前はこの場面の意味がよく理解できなかったのですが、北京語を覚えてからこの放送を聴いてみると、浙江なまりというのは一つのポイントになっていて、いかにも他所から来た人が台湾人を支配しているというのがより生々しく伝わってくるというのが理解できます。1945年から1949年までの時代を扱っているので、蒋介石本人のラジオ放送ではなく、当初の行政長官だった陳儀によるものと思います(蒋介石も陳儀も浙江省出身なので、どちらも浙江省なまりが強かったようです。蒋介石の音声を聞いたことがありますが、いわゆる北京語の発音とは随分違ってなまっているなあという印象を受けたことがあります)。このラジオ放送は映画の冒頭の昭和天皇のラジオ放送と同じ役割を果たしており、政治的な意思決定は全て台湾人の声ではなくそれ以外の土地の人の声で宣言され、しかも相手は電波ですから台湾人には指一本触れることができないということへの無力感を象徴するものであるように思えます。

映画の終わりの方で、トニーレオンと恋人が結婚し、子どもが生まれます。侯孝賢監督は1947年生まれですので、その赤ちゃんに自分を擬しているのではないかなあと思えなくもありません。

映画に歴史の真実を映すことはできません。映画の役目は人の心の中の真実を映すことではないかと私は思います。ですので、この映画だけで実際の228事件について語れるようにはならないと思いますが、台湾でなぜこのような映画が物語られたのかを考える意義は大いにあるのではないかと思います。

この映画では一人の日本人女性が登場します。戦争中にお兄さんが特攻隊で戦死したらしいことが暗示されています。凛した感じの穏やかな女性なのですが、やがてこの女性は引き揚げていきます。私は日本人の女性が登場することには彼らの心象風景を知る上で大きな意味を持つのではないかと思います。『海角七号』でも登場する主要な日本人は女性です。「日本人=女性的な穏やかさ」という心象風景が持たれており、それ故に『海角七号』はかくも台湾人の心を捉えたということも可能なのではないかという気がします。

『海角七号』『セデックバレ』『KANO』の三部作はセットで観ないと制作者が何を言いたいのかというのがよく分からなくなってしまうのですが、『セデックバレ』では「警察官」と「日本軍」というお決まりの悪い男たちがぞろぞろと登場し、『KANO』で永瀬が優しくて大きな愛で台湾の若い人を包み込むという流れになっており、台湾人が日本人をどのように見て何を期待しているのか、通して観るとよく分かってくるように思えます。

付け足しになりますが、『非情城市』の最後の最後の方では、トニーレオンが白色テロでどこかへ連れ去られてその生死すらわからなくなってしまうことが観客に告げられます。そして残された家族が食事をしている場面で終わるのですが、食事をする場面はそれだけで多くのことを物語る難しいと言えば難しい、やりやすいと言えばやりやすい場面のように思います。『ゴッドファーザーpart2』の一番最後の場面が雑談しながら食事する家族の姿であり、あの短い時間で多くのことを語っています。映画の食事場面は実におもしろいというか、重要というか、見逃せない場面と言えるかも知れません。



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侯孝賢監督『風櫃の少年』の「都会」の物語

台湾の澎湖諸島の風櫃の悪ガキどもの物語です。「悪ガキ」と言ってもそろそろ二十歳前後で分別も付き始める年齢です。それでもぶらぶらとあちこちを歩いて喧嘩をしたり、女の子に声をかけたりするだけで、無為に過ごしているというか、あまりにアホな感じなので、むしろ愛すべきアホに見えてきます(褒めています)。

悪ガキの三人が台湾南部の大都会である高雄へと出て行きます。それなりに何かを成し遂げたくて、うまく説明できないけれど、何か夢が見たくて三人は都会へと行きます。

映画に映し出される高雄の街は雑然としていてきたないです。ちょっと昔の日本みたいです。その騒然とした都会で工場で働く仕事を見つけ、三人はとりあえず、何かになろうとしていて、その何かが分からない、そういうもどかしい感じです。

都会とは何か。を語ろうとしているように見えなくもありません。都会とはそういう「何か」を掴みたくて、夢がほしくて人が集まる場所、だけれどそれは本当に漠然としたもので、高の知れた給料で、「しょせん、そんなもの」と現実を知る場所なのかも知れないと言いたい映画のように私は思います。

それはたとえば「エッチな映画が観られる」と騙されて工事中のビルの部屋へと入って行き、金は払ったものの何もない、ぽっかりと開いた壁から都会の景色が見える。確かに騙されたけれど、そこから見える都会の景色に何かを感じる、そしてそれにはちょっとくらいお金を払ってでも見る価値はあったと感じる。くらいの漠然としたものです。

日本語の勉強に取り組む場面もあります。外国語は現状を変える、違う将来を手に入れる、という意味ではとても分かりやすい記号として機能します。しかし、外国語の習得はそんなに甘いものではありません(個人的な経験です)。それでも外国語に取り組む姿は、やはり、何かを掴みたいと思うからです。

淡い恋心を抱きます。その相手は台北へと去って行きます。台北は更に大きな都会です。上には上があるというか、高雄まで来たけれど、更にその先には台北があり、淡い恋心はそのもっと大きくて遠い所へと去って行きます。

都会に来て、現実を知り、喪失を味わい、これからどうするか分からないけど叫び出したいような衝動だけは心の内で激しくエネルギーを発散している。そういう若い時期の説明できないもやもやしたものをこの映画は捉えようとしています。

ロングショット、窓越し、道路越しなどのカメラワークが多用されています。少し前の日本映画でよく見られるそういった撮影技法はやはり日本映画の影響を受けているのかも知れません。

画面はフィルムの質感がよく出ていて、デジタルもきれいでいいのですが、フィルムでしか出せない雰囲気がかえって新鮮に思えます。繊細なバイオリンの音楽が随所随所で挿入されます。一見、ただの悪たれですが、心の中にバイオリンの旋律のような繊細なものを秘めていることが分かります。侯孝賢監督の出世作です。



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