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李氏朝鮮と明治日本
明治憲法の特徴‐運用を間違えると国滅ぶ
大磯と近代
大磯を歩いてきた。大磯は興味深い場所だ。まずなんといっても風光明媚だ。天気が良ければ富士山が見えるし、そのような日は相模湾の向こうに伊豆大島も見える。景色に占める海と山、人の世界のバランスが絶妙で飽きない。海岸に出て右手を見れば伊豆半島で、左手を見れば江ノ島と三浦半島が見える。これほど贅沢な景色のあるところは日本中探してもそうはあるまい。
そしてもう一つ、おもしろいのは近代に入って別荘地として大磯は人気が高かったことだ。たとえば西園寺公望は大磯に本格的な洋館を建てた。もともとが幼少期のころの明治天皇の遊び相手で、明治・大正・昭和と政界に鎮座し、元老という実質最高権力者の位置に立ち、昭和天皇のアドバイザーというか教育係みたいな人物だった西園寺は、長いフランス生活から帰った後、しばらくの間、大磯で生活した。
西園寺邸よりももう少し二宮方面へ歩くと、吉田茂邸もある。吉田茂は大磯で生涯を閉じた。彼の邸宅は見事なもので、まるで高級旅館である。このほか、原敬、大隈重信、西周、伊藤博文とビッグネームが並ぶ。そして私は山県有朋の名前がないことに気づいた。山県は小田原で別荘を構えていたが大磯には別荘を持っていなかったということなのだろう。で、漠然とではあるが、あることに気づいた。明治から昭和初期にかけての政界は、厳密にではないにせよ、ある程度、漠然とではあっても、小田原派と大磯派に分かれていたであろうと言うことだ。
小田原にいた山県有朋は政党政治を重視せず、超然内閣路線の支持者だった。戦前の帝国憲法では議会に勢力を持っていない人物が首相に指名されることは制度上可能だった。山県は議会の意向を無視した、すなわち、超然とした内閣が組閣されるべきとした政治思想を持ち、国民から嫌われまくって生涯を終えた。
一方、山県とはライバル関係にあった伊藤博文は党人派だった。伊藤の時代に政党政治はまだ、やや早すぎた可能性はあるが、伊藤の理想は現代日本のように、選挙で選ばれた議会の人物が首相になり、議会と行政の両方を抑えて政策運営をすることだった。イギリス型議会政治を目指したと言ってもいいと思う。この伊藤の理想を大正時代に入って実現したのが、初の平民宰相として歴史に名を遺した原敬であり、首相指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に指名する「憲政の常道」を作り上げた西園寺公望だ。伊藤博文、原敬、西園寺公望のような政党政治派の人材がこぞって大磯に別宅を構えたのは偶然ではないように私には思えた。おそらく一時期、大磯派の、即ち党人派の人物たちは東京から離れた大磯で密会して意思決定していたに違いあるまい。
もっとも、それはあまり長くは続かなかった。伊藤は暗殺され、原敬は鎌倉の腰越に別荘を移した。原はその後東京駅で暗殺されている。西園寺も大磯を離れ、昭和期は静岡県で過ごしている。東京から遠すぎるので、226事件の時、西園寺は無事だった。いずれにせよ、党人派はバラバラになってしまったわけだが、その現象と戦前の政党政治の失敗が重なって見えるのは私だけだろうか。もちろん、樺山資紀みたいな党人派とか超然内閣とか関係ない人も大磯に別荘を持っていたので、私に垣間見えたのは、そういった諸事のほんの一部だ。
大磯はそういった近代日本の縮図の一端を垣間見せてくれる土地であり、やはり風光明媚なことに変わりなく、都心からもさほど離れているわけではないということもあって、非常に魅力的な土地だ。できれば私も大磯に別荘がほしい。ま、それは夢ってことで。
明治憲法と元老
明治憲法は表面的に読んだだけでは、実際のことがよく分からないように書かれています。まず、間違いないと思いますが、伊藤博文が故意に、分かりにくく書いたのではないかと私は思っております。以下にその理由を述べたいと思います。
まず第一に、天皇は神聖にして犯すべからずとなっており、天皇が国政を総攬するとも書かれてあります。もしこの部分だけを切り取って読めば、天皇親政、天皇が個人の意思で独裁的な政治を行うかのように読むことができます。たとえばロシアのツアーリや中国の皇帝のようなイメージですね。しかし、同時に憲法には天皇は憲法の規定に従うとされており、更に内閣が天皇を輔弼するとも書かれています。つまり、天皇は内閣と一緒に政治をするとも読めますが、ここで意味しているところは、内閣が天皇の代わりに政治をするので、天皇は何もしないと書かれているわけです。国政を総攬するはずの天皇が何もせず、実は内閣が政治をするというわけなのですから、これは分かりにくいに違いありません。
もう一点、和戦の大権、つまり戦争を始めたりやめたりする権利、即ち軍隊に対して指揮命令をする権利は天皇に属しているとされています。軍隊に対する指揮命令権、即ち統帥権を内閣が持っていないことになるわけですが、戦争という手段は当時であれば外交の最終手段です。それを持たない内閣に内政も外交もさせるので、はっきり言えば内閣の権限がそれだけ曖昧になり、議会によって追求される一番いいネタにされてしまいました。講和も軍縮も、議会による政府糾弾のネタになりますし、新聞もおもしろがって騒ぎ立てます。和戦の権利は天皇の大権なのに、政治家が勝手に戦争を辞めようとしている、みたいなレトリックになっていくわけです。日露戦争が終わった後の日比谷焼き討ち事件なんかもそういう種類の話に入ります。
とはいえ、明治日本はなかなかに成功した国家であったということは否定できないと思います。19世紀は弱肉強食の帝国主義、植民地主義が世界の流れでしたが、その中で欧米に植民地化されることもなく、産業化、工業化にも成功し、戦争もまさか勝てるとは思えない相手と始めて勝っています。つまり、うまく機能していたわけですね。憲法は政治家には戦争に関して意思決定できないと書いてあるのに、政治家がきちんと判断して戦争を始めるタイミングを見計らい、終わりのタイミングも見計らって、ちょうどいいところを狙って無理のない講和を結んで行きます。なぜこのようなことができたのかというと、元老という憲法に記載されていない集団が存在し、彼らが実質上の日本の支配者、日本帝国のオーナーだったからです。
元老は伊藤博文や山形有朋、西郷従道のような明治維新の功労者に与えられる称号で、一番多い時には11人ぐらいいたはずです。最後の元老はお公家さんのご出身の西園寺公望でした。西園寺はお公家さんですが、基本的には薩長藩閥で構成されており、明治日本の支配者が薩長藩閥だということが実によく分かります。この元老たちが首相の指名も行い、いろいろなことを話し合いで合意して、日清戦争や日露戦争も進めて行きます。内閣総理大臣は軍隊に対する指揮命令権を持っていないわけですが、元老には指揮命令の権利があると暗黙裡に了解されており、全ては元老たちが決めていたわけですね。で、憲法の縛りもないので、良くも悪くも自由に動くことができ、良く言えば現実的で臨機応変に、悪く言えば寡頭政治で黒幕的な存在として日本を動かしていたということができます。結果として、彼らが元気だった間は彼ら自身がアメリカと戦争しても勝てないことを知っているので、そういう無理なことは最初から考えもしませんし、薩長ともに幕末には英米と戦って彼らの強さをよく知っていますから、英米協調路線でうまく世界と渡り合って行ったと言えると思いますす。
最後の元老の西園寺公望は、長くフランスで生活し、議会制民主主義の価値感を充分に学んで帰って来ます。西園寺が帰ってきたころ、日本はまだ建前上は議会政治でしたが、実質上は元老政治が続いていましたので、西園寺が最後の元老になった時、彼は独自の判断で、議会選挙で民意を得た政党の党首を首相に選ぶという「憲政の常道」を確立しようとします。しかし、当時は暗殺が横行していて、首相になったら即暗殺対象みたいな時代でしたので、西園寺本人が議会主義者であったにも関わらず、軍人出身者を首相に指名せざるを得なくなっていきます。このような世相の中、世間からもプリンスとしてもてはやされた近衛文麿を最後の民主主義のカードとして西園寺が切り出したのですが、近衛文麿は多分、社会主義的なことをやろうとしたんだと思いますけれど、大政翼賛会を作って「幕府復活かよ」みたいに揶揄され、日中戦争も深みにはまっていってしまったという悲しい流れになってしまったわけです。西園寺は太平洋戦争が始まる少し前に亡くなっていますが、最後の言葉は「近衛は日本をどこへ連れて行くつもりや」だったそうです。
このように見て行くと、立憲主義は大切ですし、私も立憲主義を支持していますが、条文そのものだけでなく、いかにして運用されるかがより重要なのなのではないかと思えてきます。明治憲法であっても、元老という非法規的集団が政治家と軍人を操って国策を進めていたことで物事を仕切っていました。逆に、教条主義的に憲法を捉えると、統帥権干犯などと言われて現実的な政治ができなくなり、おかしな深みへとはまりこんでしまったと言うことができそうな気がします。これは現代にも通じる教訓になるのではないでしょうか。
帝政ドイツ‐短命の帝国
ナポレオン戦争が終わった後、タレーランとメッテルニヒによってウイーン体制が確立しますが、その新体制ではナポレオンによって消滅に追い込まれた神聖ローマ帝国が復活することはありませんでした。ドイツは30以上の小さな君主国と幾つかの自由都市に分かれた状態(神聖ローマ帝国がそもそも諸王国を従える連邦国家でした)になり、バラバラな状態になっていたと同時に、その統一も模索されるようになります。
オーストリアも同じドイツ語圏なのですが、オーストリア皇帝のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝も握っていたため、神聖ローマ皇帝の存在しないドイツ人の統一にはそもそも不同意であり、しかもオーストリア帝国にはハンガリーも含まれるため、「民族的統一」という点で難が残りってしまう問題もありました。オーストリア帝国を除くドイツ諸邦で最も協力だったのがプロイセン王国で、ドイツ諸邦はプロイセン王国に吸収される形で統一が進み、その帰結として、ハプスブルク家とホーエンツォレルン家のプロイセン王国が睨み合うという状況が生まれます。プロイセンではオーストリア帝国を除いた小ドイツ主義で帝国を作るべしとする意見と、オーストリア帝国も飲み込む大ドイツ主義で帝国を作るべしとの意見の対立が起きます。アドルフヒトラーがオーストリアを併合したのは、この時の議論を根拠としているとも言えますし、当時破竹の勢いのアドルフヒトラーをオーストリア市民が歓喜して迎えたのも、20世紀前半のナショナリズムの高揚によりオーストリアの人々が大ドイツ主義へと傾いていたことも要因と言っていいのではないかと思います。
1866年にプロイセンとオーストリア帝国の間で行われた普墺戦争でプロイセンが勝利し、ビスマルクが北ドイツ連邦を成立させ、ここでオーストリア抜きのドイツ統一を目指すという方針がはっきりと示されることになります。その後、1870年の普仏戦争ではフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜になるという事態に至り、プロイセンがフランスを圧倒します。プロイセン軍はパリ入場を果たし、プロイセン国王がなんとベルサイユ宮殿でドイツ皇帝宇ウイルヘルム1世に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言されるに至ります。
ウイルヘルム1世のビスマルクに対する信任は厚かったようなのですが、ビスマルクの外交政策の大方針はフランスの無力化であり、そのため、オーストリア皇帝とロシア皇帝に対しては領土的野心がないことを明確にする三帝同盟を結び、東の不安を取り除きます。この段階ではフランスが敗戦国ですから、西の脅威も当面はないということになり、ビスマルク外交の大きな勝利と呼ぶことができるのではないかと思います。しかしながら、この三帝同盟はさほど長くは続きません。三者それぞれに利害の対立があり、民族的な問題も微妙な絡みを見せ、この穏健な同盟関係はほどなく終了します。正確には何度も復活しては終わるというのを繰り返しますが、事実上機能しなくなっていきます。
ビスマルクの最大の方針はフランスの封じ込めであったため、フランス包囲網を築くべく、イタリア、イギリス、スペイン、更には孤立を恐れるオーストリア帝国も取り込んで、言わば非フランス同盟のようなものができあがります。これを一般にビスマルク体制とも呼びます。ドイツ人の側からすれば、神聖ローマ帝国を滅亡させたフランス憎しであり、フランス人の側からすれば普仏戦争でこてんぱんにやられた上にアルザスロレーヌ地方も奪われて『最後の授業』みたいなことになってしまった上に、その後も包囲網が築かれていくわけですから、フランス人としてもドイツ憎しという感情になるというのは、第三者の目から見れば、確かにお互いそうなるだろうという気はします。双方の怨念が半端ないのが当然だということはヨーロッパの歴史をつらつらと追っていくだけでもよく分かりますし、今日、独仏が強調しているのは歴史的に見れば奇跡的、あるいは感動的とも思えますから、フランスからEUから出る出ないみたいな話は単に経済政策がどうとか、移民問題がどうとかという直近の問題だけではなく、EUから出るということはドイツと再びことを構える覚悟があるのかくらいの大事だということも見えてくるように思います。
ビスマルクの主導により帝政ドイツは瞬く間にヨーロッパ政治の主役へと躍り出て来たと言うことができますし、伊藤博文にビスマルクが眩しく見えたというのもなんとなく分かる気がしなくもありません。伊藤はドイツ憲法を参考にして明治憲法を作ったと言われていますが、ドイツが新興国の帝政国家でであったということも、明治日本がやはり新興の帝政国家であったという点で似通っており、確かにドイツをお手本にしようと思うというのもまたよく理解できるのではないかと思えます。
このように輝かしい時代を迎えた帝政ドイツですが、ウイルヘルム1世が崩御した後、ウイルヘルム2世が皇帝に即位すると、新皇帝が親政を欲したためにビスマルクは首相の辞表を提出させられることになります。その後、第一次世界大戦の末期にドイツ革命が起きてドイツの帝政は終了するのですが、この教訓から学べることは近代という複雑なシステムと高度な知識、迅速かつ的確な判断が必要とされる時代に皇帝や王様の親政は不向きであるということではないかと思います。権威による支配より有能な人物による効率的な支配、機能的な支配ということが求められるようになりますので、ウイルヘルム2世に関して言えば、ちょっと生まれる時代が違ったのではないかなあという気がしてしまいます。
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第二次桂太郎内閣
第二次桂太郎内閣は3年あまり続きましたが、中身は結構濃い内閣だったと言えるかも知れません。まず明治天皇の詔書を引き出し、国家国民一致して維新創業の心を思い出せ的な発破をかけます。
日露戦争の結果、儲かった資本家もいたと思いますが地方の疲弊が激しくなっており、その辺りの不満がいろいろ出てきます。孝徳秋水の大逆事件も第二次桂太郎内閣の時に起きています。孝徳秋水が本気で明治天皇の暗殺を考えていたとはちょっと思えないのですが、天皇暗殺謀議がたとえ冗談半分とは言え半分くらいは本気で考えられていたとも言え、戦争に勝ったわりには世の中が殺伐としており、桂太郎はパワーでそういったものを押しつぶしていこうとしたように見えなくもありません。特に大逆事件では関係ないとしか思えない寺の坊さんや、金持ちの気まぐれ的に社会主義を気取って慈善活動をしていたお医者さんまで逮捕されて処刑されていますので、明らかにやりすぎで、当時の官憲の方を持つ気にはなれません。
足利尊氏と後醍醐天皇の時代は南朝と北朝のどっちが正統かという南北朝正閏問題が取り沙汰されるようになり、そんな当時から見ても500年も前のどっちでもいいようなことについて本気で議論がされるというあたり、頭でっかちなイデオロギーが歪な形で噴出しているように見えますが、これも世の中の矛盾を明治天皇の「みんな仲良く一致団結」詔書を引き出して、その威光を借りる形で物事を進めようとした結果の副作用と言えるかも知れません。更に日韓併合もこの内閣の時に押し切っていますので、本当にこの内閣が西園寺公望と気脈を通じていたのかと首を傾げざるを得ません。
第二次桂太郎内閣時代に伊藤博文がハルビンで暗殺されていますので、ある意味では重しがとれたとも言えますが、反対の見方をすれば、明治維新を実務的に引っ張った伊藤博文がいなくなったことへの不安も感じていたのではないかと思えます。
一方で小村寿太郎とタッグを組み不平等条約改正を成し遂げていますので、そこは評価して良いのではないかとも思います。条約改正に成功した裏には、日本が一人前の列強というか、帝国主義の国として認められたという面もあると言えますから、この辺り、切り離して考えるわけにはいきませんので、果たしてどう評価するかは難しいところにはなると思います。
大逆事件で揺れていた第二次桂太郎内閣は条約改正の仕事を終えると、西園寺公望と「情意統合」しているという理由で、つまり仲良しだからという理由で、西園寺公望に首相の座を譲り、第二次西園寺公望内閣が登場します。リクルート事件の「竹馬の友」をちらっと思い出さないでもありませんが、当時は桂太郎のような国権派と西園寺公望のような政党政治派が持ちつ持たれつでやっていたことが分かります。
西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が維新第一世代とすれば、伊藤博文、山県有朋が維新第二世代と言え、桂と西園寺は維新第三世代と言ったところですが、大正デモクラシーというある種の結実の時代、原敬内閣登場の時代まではあともう少しと言ったところです。原敬内閣は民主主義の成熟や成功という意味でよく引き合いに出されますが、原敬は同時に政党政治の腐敗はどういうものかをよく示した人でもあり、国民の政党への熱が急速に冷め、西園寺も同じように冷めて軍部独裁の時代へと入って行くことになってしまいます。
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第一次西園寺公望内閣
西園寺公望という人物をもし、簡単にまとめて表現するならば「開明的なお公家さん」というのが適切かも知れません。戊辰戦争では実際に戦線に立ったという経験を持ち、若いころは軍人志望でしたが、後にフランス語を勉強し、パリにも10年ぐらい留学してお金も充分にもらった上での楽しい前半生を送ります。フランスで自由主義的な空気に触れたことで、社会主義的な傾向を持っていた人という印象も多少は受けますが、イギリス型立憲君主制を理想としていたと言われています。
帰国した後はぶらぶらしたり、新聞社の立ち上げに乗っかったりなどしていますが、やがて伊藤博文に見出され、おそらくはフランス語の翻訳・通訳が助かるというのも大きく働いたと思いますが、政治の世界に入って行きます。伊藤博文が立ち上げた立憲政友会の創設メンバーの一人であり、日露戦争中は長州閥の桂太郎内閣に協力しますが、日露戦争が終わった後にいわば見返りとして次の首相の座を得ます。政治家として原敬を育てますが、原敬はわりと性格が激しかったため、西園寺に詰め寄るということもあったらしく、途中から西園寺と原敬は険悪な雰囲気になったとも言われています。
第一次西園寺内閣は主たる仕事は日露戦争後のいわば新秩序の形成で、日露協約、日仏協約を結ぶことで幕末以来の不平等外交を実質的に終わらせたというのは注目に値すると言っていいかも知れません。既に保護国化していた大韓帝国に対しては韓国統監の権限強化を認めさせる第三次日韓協約を結んでおり、日本の帝国主義を一歩進めたという面もあったとすることも可能かも知れません。
当時は日露戦争の戦勝で日本の帝国主義が自信を持ち始めていた時期と重なるため、韓国を日本の植民地にするべきだという意見も出始めており、伊藤博文は保護国の状態で結構という立場で、西園寺公望としてはそのバランスをとるのに苦慮せざるを得なかったという面もあったことでしょう。
山県有朋が西園寺公望のリベラル志向を警戒して西園寺下ろしを始めたことに気づくと、西園寺はさっさと首相を辞めてしまいます。後ろ盾になってくれたであろう伊藤博文が韓国統監になって中央政治との距離があったことも陰に陽に影響していたかも知れません。
政権は再び桂太郎に移り、第二次桂太郎内閣が組織されますが、当面は西園寺と桂がキャッチボール風に政権をやりとりする桂園時代が続くことになります。
西園寺公望は政党政治の確立に積極的でしたが、昭和に入ると政党政治に絶望するようになっていき、自らの手で政党政治を終わらせていきます。
日露戦争をざっくりがっつりと語る
日清戦争によって日本は「やったー!朝鮮半島は日本の勢力下だ!」と一瞬湧きましたが、三国干渉で遼東半島の租借は諦めなくてはいけなくなります。李王朝の高宗と閔妃は清があまり頼りにならないということが分かると、親ロシアへと傾いていきます。朝鮮宮廷内で身の安全が確保できないと感じるとロシア公使館に避難してそこで政治を行ったりするようになります。
ロシア公使館から夫妻が戻ると、日本の兵隊やゴロツキみたいなのが集団になって朝鮮王宮に乱入し、閔妃を殺害するという常識ではとても考えられない事件が起きます。背後に在朝鮮公使の三浦梧楼がいたと言われています。当時は閔妃と大院君が本気の殺し合いをしていたので、日本軍を手引きしたのが大院君ではなかったかという説もあるようです。まず第一に日本の兵隊は閔妃の顔を知らないので女官に紛れると誰が閔妃なのか分かりません。閔妃の写真とされるものがあったという説もありますが、過去に閔妃の写真であったと言われていたものほは現在では別人のものだとも考えられるようになっており、大院君の手引きがなければ閔妃の殺害は難しかったのではないかということらしいです。いたましい事件であることは間違いありませんので、あんまり適当なことは言えませんが、いずれにせよ閔妃は亡くなってしまい、朝鮮の親ロシア派の勢力が大きく打撃を受けることになります。
ロシアは朝鮮半島各地に軍事拠点を作り始め、李鴻章を抱き込んで露清鉄道を建設し、大連まで引き込んでくるということになり、シベリア鉄道の複線化工事にも着手され、それらの鉄道網が完成すればヨーロッパからいくらでも兵隊と武器を運べるようになりますので、こうなっては日本は手出しができなくなるとの焦りが日本側に生じます。
小村寿太郎がイギリスと話をつけて日英同盟を結びます。これはどちらかの国がどこかの国と戦争になった場合は中立を守るという、「同盟」と呼ぶわりにはパンチ力に欠ける内容で、日本とロシアが戦争することを前提に、イギリスはロシアと戦争しなくてすむという免責事項みたいなものですが、日本とイギリスが同盟関係にあるということは有形無形に日露戦争で優位に働きます。
日本とロシアの交渉で、北緯39度を境に朝鮮半島を日本とロシアで分け合うという提案がされますが、ロシア側は難色を示します。ニコライ二世が皇太子時代に日本を訪問した際に巡査に殺されそうになったことで、日本嫌いが強かったという説もありますが、開戦ぎりぎり直前にニコライ二世から明治天皇に宛てて譲歩の意思を示す親書を送るはずが極東総督が握りつぶしたという話もあり、ちょっとはっきりしません。
戦争はまず日本側が旅順のロシア旅順艦隊に砲撃を浴びせるという形で始まります。児玉源太郎は朝鮮半島に上陸した後に北進して満州にいたクロパトキン軍を全滅させてヨーロッパから援軍が来る前に講和に持ち込むという構想を持っていたようですが、想定外の難題が持ち上がります。
日本の連合艦隊が旅順港を包囲していましたが、ヨーロッパからロシアバルチック艦隊が出撃し、半年くらいで日本まで攻めて来るということになり、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭う恐れが生じ、早期に旅順艦隊を叩きたいのだけれど旅順艦隊は旅順港に閉じこもって出て来ない、日清戦争の時に北洋艦隊の母港を陸戦で攻略したのを同じように旅順を攻略してほしいと言う話が湧いて出ます。連合艦隊が挟み撃ちに遭って全滅したら、対馬海峡の制海権がロシア側に移りますので、兵站が途切れてしまい、大陸の日本軍は立ち枯れして日本終了のお知らせになってしまいます。ちなみに清は局外中立を宣言し、好きにしてくれわしゃ知らんという立場を採ります。
ロシアは旅順港を取り巻く山々に堅固なコンクリートの要塞を築いていましたが、児玉源太郎は別に放っておけばいいと思っていて、旅順要塞の攻略をあまり重視しておらず、乃木希典の第三軍を送り込んだものの「突撃でばーっとやったら旅順要塞も陥落するだろう」という甘い考えで対処します。
気の毒なのは乃木希典の方で、コンクリートと機関銃でがちがちに固めてあるところに「突撃でばーっとやって、何とかしろ」と言われたのでその通りにやってみたら大量に戦死者が出るという展開になってしまいます。普通に考えてそれは無理というもので、司馬遼太郎さんは乃木希典が無能だったからだという観点から『坂の上の雲』を描きましたが、私は乃木希典が悪いというよりも「突撃でばーっとやれ」と言った児玉源太郎の方に問題があるのではないかというように私には思えます。
旅順要塞そのものを獲れるかどうかは戦略的な観点からははっきり言えばどちらでもよく、どこか一か所でもいいから旅順港が見える高台を奪取して砲撃で旅順艦隊を撃滅するのがいいということが分かって来たので、乃木希典の第三軍は旅順港を望見できる203高地に攻撃の軸足を変えます。ここもなかなか手ごわいですが、内地から送られてきた巨大な大砲でバンバン撃ち込みながら兵隊もどんどん突撃させて、味方の弾で兵隊がちょっとぐらい死んでもいいという無慈悲な作戦では203高地はようやく陥落。旅順艦隊を砲撃して同艦隊は全滅します。連合艦隊はこれで安心して佐世保に帰り、艦隊をきちんと修理してバルチック艦隊との決戦に臨むことになります。
次の問題はバルチック艦隊がどのルートで来るのかよくわからないということで、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートが想定され、討ち漏らしたら大変だと秋山真之参謀はのたうち回るように悩み抜きますが、バルチック艦隊のような巨大な船の集団が安全に通ろうと思えば充分な深さと幅のある対馬海峡を選ぶに違いなく、ここは東郷平八郎長官の見立てが正しかったと思えます。
有名な日本海海戦は秋山参謀の考えた丁字作戦でバルチック艦隊を全滅させたということになっていますが、最近の研究ではどうもぐねぐねに回りこんだりしていたようです。いずれにせよ稀に見る圧勝で海の方は心配なくなります。
陸の方では奉天の会戦でクロパトキンのロシア軍が北へと撤退します。日本が勝ったというよりもクロパトキン的には日本をどんどん北へおびきよせて兵站を疲れさせるという作戦で、日本軍が疲れ切るころにはヨーロッパからも兵隊がどっさり来て日本軍全滅でやっぱり日本終了のお知らせになるという予定でしたし、実際、奉天会戦で日本軍は疲れ切り大砲の弾もろくに残っていないという状態になってしまいます。
弾がないということがバレる前に何とか講和しないと、繰り返しになりますが日本終了のお知らせになるのですが、伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送り込み、セオドアルーズベルトに頼み込んで講和の仲介をしてもらえることになり、ポーツマス会議が行われます。
ポーツマス条約では賠償金はもらえませんでしたが、ここで戦争が終わっただけでも御の字で「賠償金が獲れてない!」と新聞が煽ったことで日比谷焼き討ち事件が起きますが、それは無理難題というものです。
このように見ていくと、現場の努力が多大であったことは間違いないないと思いますが、戦争が更に長期化していれば、日本軍の全滅は必至だったと言えること、高橋是がアメリカとイギリスで公債を売りまくって借金まみれで財政的にも限界が見えていたこともあり、アメリカとイギリスが日本に対して好意的で、戦争がやめられるように話をつけさせてくれたという天祐のおかげで体裁上「勝てた」ということが分かってきます。運が良かったからと言うこともできますが、そこが神話化されて後の世代では太平洋戦争が行われることになりますので、勝って兜の緒を締めよという意味のことを秋山真之が述べていますが、実際、その通りだということを40年後に身を以て示すことになってしまいます。
第一次桂太郎内閣
桂太郎は戊辰戦争に参加したいわば歴戦の勇士みたいな人ですが、維新後短期ドイツに留学し、帰国後に大尉クラスで陸軍に入り、山県有朋派で軍歴を積んだ人です。
第四次伊藤博文内閣が政党政治運営をしようとして行き詰まり、次の首相の成り手がいない中で「桂にでもやらせよう」みたいなノリで首相に選ばれますが、結果としては政治の世界の世代交代につながった上に、桂太郎と西園寺公望が交代で首相になるという桂西時代を作っていくことにもなります。
発足当初は伊藤博文の立憲政友会が議会で小村寿太郎に協力しないというまさかの嫌がらせにも遭っており、よく見てみると伊藤と山県のつばぜりあいの道具に桂が使われていた側面があったようにも思えます。桂は立憲政友会側の西園寺公望を次の首相に推すという密約をすることで、政局をどうにか乗り切ったと言われており、桂と西園寺の仲介をしたのが原敬だという話もあるようです。
桂太郎内閣では小村寿太郎が外務大臣になり、日英同盟の締結に成功した他、日露戦争でも勝利し、小村寿太郎がポーツマス条約でどうにかぎりぎり日本が勝ったと言える内容に持ち込んだと言うのも桂太郎内閣の功績と言えるかも知れません。
日英同盟が結ばれたのは、ロシアの東洋進出を妨害したいイギリスと進出される側の日本の思惑が一致したからと言えますが、当時から火中の栗を日本が拾わされるのだという揶揄もあったものの、日清戦争が始まると議会が一致して伊藤博文に協力するという展開になったこともあったように、結果としては対外戦争によって国が一致団結し政権が国内的に安定するという効果があったように見え、そういう意味では明治憲法時代の内閣には潜在的に戦争を許容するというか、場合によっては戦争で内閣が延命できるという無言の法則ができたというような、戦争に親和性の高い内閣が作られやすくなっていったという側面あったのではないかという気がしないわけでもありません。
日露戦争では局地戦では日本が連戦連勝と言っていい成果を収めたものの、ポーツマス条約ではいろいろ難航してしまい、南樺太という当初は両国民雑居の地として主権が曖昧だったところを日本がどうにか手に入れることができた他、日清戦争によって得た当然の権益をロシアに横取りされたと当時の人が考えていた遼東半島の租借権を得ただけで、賠償金はなしということで話を収めたことから、桂太郎に非難が集まり、というか新聞が煽って市民が激昂して日比谷焼き討ち事件も起きて、桂太郎は西園寺公望に首相の座を譲ることになります。ただ、その後は桂と西園寺が交代で政権を担うようになり、伊藤・山県時代が少しずつ終わっていくことになります。