【自己訓練】目の前の仕事にきちんと集中する

人には大抵の場合、やりたい仕事があります。「やりたい仕事がない」という人も中にはいるかも知れないのですが、そういう人でもやりたい仕事を見つけていかなくてはいけません。どの場合であったとしてもある程度の年齢に達すれば職業を持たなくてはいけません。希望する職に就ける人もいれば、そうでない人もいるでしょうし、希望する職ではあるけれど、条件が希望通りではなかった、向いていないことに気づいたなどなど、いろいろな理想と現実のはざまで心が動いてしまうものです。

ただし、職業に貴賤はありません。正規・非正規は条件や待遇の違いであって、貴賤とは関係がありません。よりよい人生を得るためには職種や条件にあまりこだわりすぎず、目の前にある仕事をしっかりこなすということが、賢明なのではないかと思います。スタートラインは人さまざまです。有名大学から有名企業に入り、順調に出世するという場合もあるでしょうけれど、大学は出たもののぱっとしない、有名企業に入ったものの窓際だ、反対に無名の企業で給与もよくないけれど、楽しい、やりがいを感じるなどの場合もあるに違いありません。

どのような条件であったとしても目の前の仕事に対してきちんと集中して仕事をしていると、上のような諸条件に負けず、やがて人生で得るべきものが手に入るようになってきます。希望していた職種に就くことができなかったとしても、その仕事に集中してきちんと仕上げていれば、周囲からいろいろな助けや声がかかるようになります。そしてやがて、気づくと望む環境を手に入れていることができるようになっていきます。非正規であったとしても、出来栄えのよい仕事をしていれば、先方から正規になってほしいと声をかけてくるかも知れません。望む職種でなかったとしても、出来栄えの良い仕事をしていると、声望が集まり、組織の中での信用が高まって行けば、次第に自分の関心のある領域に手を出すことができるようになっていきます。もちろん、そこには壁があり、時として勇気とともに一歩を踏み出さなくてはいけない場合もあります。それまでの仕事が認められていたとすれば、新しい一歩は周囲から歓迎を受け、やりやすいものになるでしょう。逆にやりたくない職位だったからという理由で明らかな手抜きが多い場合は新しい一歩を応援してくれる人に出会いにくいので、そういう場合には苦戦せざるを得なくなってしまいます。

チャンスについても同じことが言えます。理想的なチャンスは来ません。頭で思い浮かべる諸条件が整った理想的なチャンスが来ることは一生に一回あるかないかではないかと思います。ですから、理想通りのチャンスでなかったとしても、懸命に取り組むことはよりよい人生を得やすくなる心構えではないかと思います。一歩一歩を歩き、一手一手を撃ち続けていけば、そのうちかなり理想へと近づいていきます。自分の限界も見えてきますから、自分の限界を受け入れるということも大切にはなってきます。しかし、相当に理想に近づくことができれば、そうでない人生よりも遥かに充実した感覚を得ることができるのではないかと思います。

ただし、極端に条件が悪かったり、性格上どうしても無理な仕事や、倫理的に受け入れることができない仕事をさせられることもあるでしょうから、そこを見極め、時にはきっぱり辞めるという勇気も必要です。いつでも辞めてもいいんだという心境になれば、かえって続けられるものでもあるとは言えそうですが。



関連記事
【自己訓練】将来を心配しすぎない
【自己訓練】仕事に根を詰めすぎない勇気を持つ
【自己訓練】嫌いなことはやらない勇気を持つ
【自己訓練】無名でも幸せだと気づく
【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく

【自己訓練】仕事に根を詰めすぎない勇気を持つ

仕事をすること、労働は日本人の美徳です。ですから、仕事をすることそのものは悪いことではもちろんありません。どんな仕事でも積極的に取り組むべきです。ただし、働きすぎ、仕事のし過ぎは禁物です。

人は時として仕事に根を詰めすぎてしまう時があります。そういう時、心の奥底では恐怖心に苛まれているかも知れません。プレゼンに間に合わないかも知れない、プレゼンが不評になるかも知れない、〇〇かも知れない、〇〇だったらどうしよう、という強迫観念でついつい仕事に根を詰めてしまうのです。

のびのびと好きなだけ仕事を楽しむということもあるでしょう。しかし、仕事は辛いことも楽しいこともセットです。楽しいだけで仕事を続けられる人はいないはずだと思います。辛いことがのしかかってくるとき、上に述べたような強迫観念でついつい、仕事に根を詰めることに逃げたくなってしまうという心理が人にはあるのではないかと思います。

しかし、根を詰めすぎると、必ずしもいい結果へとは結び付きません。なぜなら自分に無理をかけてしまうことになりますから、場合によっては過労で寝込んでしまうかも知れませんし、そこまでいかなくとも疲労が蓄積するとイージーミスが増えたり、仕事以外のところへしわ寄せが行き、他の人に当ってしまうなど、思わぬところに反動が起きてしまうことがあります。何事も過ぎたるは及ばざるが如しなわけです。

ですから、仕事に根を詰めすぎないよう、自分を制御することが現代人には求められるのではないかと思います。ちょっとやりすぎてると感じた時は敢えて休む勇気を持つことが大切です。敢えて休むことによって、かえって仕事のクオリティが上がるという経験をした人は多いはずです。というか真剣に仕事に取り組む人なら必ず休むことの効用を知っていると私は思います。

休むことも勇気。休み時を見計らい、ちゃんと休むことを意識することも自己訓練です。私もついつい根を詰めすぎて慢性的な過労状態になることがあります。そんなときは思い切ってしっかり休む。眠る。休暇を取るということをしています。休暇をとるのは職種や時期によって思うようにいかないかも知れませんが、いつもより早く寝る、作業を少し早めに切り上げるということは日常生活でも可能ではないかと思います。成長するための自己訓練だと思い、仕事に根を詰めすぎず、充分な休息をとるべきです。ついつい忘れがちになってしまいますし、休むと罪悪感もありますが、その罪悪感こそ退治すべき心の動きです。罪悪感に負けず、しっかり休みましょう。



関連記事
【自己訓練】嫌いなことはやらない勇気を持つ
【自己訓練】無名でも幸せだと気づく
【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく
【自己訓練】昼飯程度なら奢る
【自己訓練】問題点に気づいたらできる範囲で改善のための努力をする

【自己訓練】嫌いなことはやらない勇気を持つ

「自己訓練」と言えば、人のやらないことをやる。みたいなことがぱっと頭に思い浮かびます。そういう雑巾がけのようなことももちろん大切ですし、徳を積むという意味ではいいかも知れません。しかし、それでもやるべきではないと思えることもあります。どうしても嫌いな仕事、或いは自分を過度に酷使してしまう仕事です。

どうしても好きになれない仕事とはどういう仕事でしょうか。意味があると思えない仕事などはやはりやりたくないでしょう。雑巾がけ的な仕事とは少しニュアンスが違います。雑巾がけ的な仕事は社会的公益に叶う、または組織の仲間に貢献できるという意味がある場合、それは積極的にやるべきです。しかし、意味があるとは思えなず、単に辛いだけの仕事をするのは、やらない勇気を持つこともよりよい人生を送るためには大切なことではないかと思います。

たとえお金がもらえるとしても、嫌いなことをしていると自分が疲弊していきます。疲弊している中、大切なことに取り組むとミスが増えます。やりたいことをやる時間を削り、ミスをカバーすることになるので、人生から豊かさのようなものが消えてしまい、悪い循環へと落ち込んでしまいます。

これも自己訓練です。やるべきなのにやりたくないことなのか、それとも雑巾がけと思い、下積みのつもりでやるべきことなのか、それとも本当に嫌いなのかを見分ける目を養わなくてはいけません。そして、これが「嫌いなことだ」と気づいたときに、それを辞めるという勇気も持たなくてはいけません。辞める勇気がないとだらだらといつまでもやり続けてしまい、結果として心には何も残らず、疲弊だけがずっしりと肩にのしかかっていたということにもなりかねません。

上ようなことを見極める目を持つこと、見極めがついたらやるべきこととそうでないことを分け、そうでないものを断捨離する、辞めるという勇気を持つことも自己訓練と思います。もちろん、すぐには判断がつかないということも多いでしょう。ただ、上に述べたことを意識するだけで、多少なりとも大切な人生から無駄を省くことができるようになるのではないかと思えます。



関連記事
【自己訓練】無名でも幸せだと気づく
【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく
【自己訓練】昼飯程度なら奢る
【自己訓練】問題点に気づいたらできる範囲で改善のための努力をする
【自己訓練】自分より凄い人に対して、卑屈にならず、かつ反発せずに、自分が劣っていることを認める

【自己訓練】無名でも幸せだと気づく

多くの人には「有名になってみたい」というわりと子供っぽい憧れがあるのではないでしょうか。「有名人」にカテゴリーされると、どこへ行っても注目されていい気分。アイドルや映画俳優になって、注目を浴びたい、或いは本を何冊も出版して著名人と呼ばれたいという願望は私にもないわけではありません(最近は諦めてますが…)

ただし、この世に生まれてきた人の大半の人は有名にならずに人生を終えていきます。有名にならないことが普通なのです。ですから、有名にならなくては幸せになれないという思い込みがあると大抵の場合は不幸への道を歩むことになりかねません。

そのため、「無名でも幸せだ」と思うように自己訓練することは、よりよい人生を得るために有効なことと思えます。もちろん、有名になることを目指すなというわけではありません。有名になることだけを願い、それだけを目指して動くというのはバックボーンや信念が軽佻浮薄なため、有名になったとしても短期間、場合によっては些細なことで足元をすくわれて表舞台から去っていくことにってしまうことも珍しいことではありません。

むしろお勧めしたいのは、有名になることを目指すのではなく、自分の仕事をこつこつしっかりとやることではないかと思います。人生では何回か追い風が吹いてくることがありますから、その追い風に乗って著名人と呼ばれる人になることは充分にあり得ます。しかも、自分の仕事をしっかりやってきたという基盤の上の名声ですから、少々のことで揺らぐことはありません。

そのような追い風、神風を味方につけるためには、やはり今目の前にある仕事にしっかりこつこつ取り組むことではないかと思います。それはアルバイトであったとしても、普通の社員の人であったとしても、自由業、自営業であったとしても同じだと私は考えています。目の前の仕事にしっかりこつこつ取り組む以外の生き方はないのではないか、その結果、様々な実を結ぶ。それ以外にはないと私は思います。そうしている人だけが追い風に乗るだけの力がつくし、追い風が吹いたときにワンステップ上に行けるのではないか、人生とはそういうものではないかと思います。それまでは焦らずじわじわです。

さて、今日もがんばりますか。



関連記事
【自己訓練】贅沢しなくても幸せだと気づく
【自己訓練】昼飯程度なら奢る
【自己訓練】問題点に気づいたらできる範囲で改善のための努力をする
【自己訓練】自分より凄い人に対して、卑屈にならず、かつ反発せずに、自分が劣っていることを認める
【自己訓練】弱い人を守るという意思を持つ

【自己訓練】他人の仕事の出来栄えを批判することで優越感を得ようとしない

人は誰でもよりよい仕事を成し遂げたいと望むものだと私は思います。それは配達の仕事であったり、接客の仕事であったり、農業であったり、或いは家庭内での子育てであったとしても、よりよい成果を出したい、よりいい感じにきめたいと望むに違いありません。しかし、そのよりよい仕事を達成するための一つの心理的な大きな壁になるのが、他人の仕事の出来栄えを認めたくないという心理的な作用です。

どんなに頑張っても自分よりいい仕事をする人はいます。世界一にならない限り、自分よりいい仕事をする人が存在します。そして世界一になることはなまなかなことではありません。ですから人は努力しつつも、他人の仕事の出来栄えが自分より良かったとしても、それを認めたくないという心理的な作用が起きるわけです。

そして、あの人の仕事にはああいう問題点がある、あの人はああ言ってるけど実は、あの仕事の裏はどうせ…などと批判を加えることで自己評価を維持しようとしたくなります。私にもそういう傾向はありますから、なるべく意識して自分を戒めるようにしています。

なぜ他人の仕事の出来栄えを批判することが「よりよい仕事を達成するための壁になる」のでしょうか。答えは簡単で、他人の仕事の出来栄えを批判することで心理的な小康を得、自分の仕事を錬磨することの手を休めてしまうからです。ガリガリやればいいというものではもちろんありませんが、他人を批判することは自分の仕事の手を休める罠だと思くらいでちょうどいいのではないかと思っています。

人は優越感を得たい生き物です。他人を低くすることで自分が優越感を得ることほど簡単なことはありません。それゆえにそのような優越感には中身がなく、脆弱なものにならざるを得ません。自分の仕事より、更に出来栄えの良い仕事をする人がいたら、素直に認め、賞賛する勇気を持つ方が、自分自身の成長には役立つのではないかと思います。他人の良い仕事を認めて賞賛すると、自ずとどの点に於いて自分より優れているのかについて思考が展開します。結果として自分の仕事の改善につながりますから、よりよい仕事をしている人に対する賞賛を惜しむべきではありません。プライドが邪魔をして言葉に出して賞賛できない場合であっても、少なくとも心の中で認めるという努力はするべきと思います。

これもまた心理的な訓練です。このような訓練を経て、自分の仕事の質が上がるのであれば、安上がりな訓練とも思えます。



関連記事
他人の失敗をなじらない
席を譲る
道を譲る
少額の募金をする
失敗した自分を赦す