或いは、この世界は脆弱なのかも知れない

死生学の権威として知られるキューブラーロスは、医療関係者、特にターミナルケアに関係する人は必ず学ぶと言われるほど高名な人物です。彼女は晩年はスピリチュアルな方向へと関心を広げていき、神や死後の存在を確信するようになったとされています。ただし、ここは想像になりますが、宇宙人と話したとかそういうことを言い出していたようなので、おそらくは退行催眠またはそれに類する手法によってスピリチュアルな知見を得ることになったのではないかと思います。退行催眠のような技術が心理的な治療法として用いられ、それを受けた人の人生がよりよくなるのであれば、私はもちろん全く反対する必要は感じないのですが、そのようにして得られる知見は飽くまでも個人的、主観的、そしておそらくは恣意的な面もあるに違いなく、それによって永遠の命を知覚したり、神の存在を知覚したりするのは、どこまで行ってもその個人の主観的な帰結としか言えないようにも思えてしまいます。

死とは何か、死後の世界はあるのかについて、科学的、客観的な根拠を求めた人として有名な日本人は立花隆さんですが、立花さんの著作を読む限り、氏は臨死体験を脳内現象でだいたい説明がつくとして、唯物論的に説明可能という立場をとっています。私も立花さんの著作は何冊か拝読しましたが、著作の内容に矛盾を感じることはなく、たとえば死んだ家族が迎えに来てくれたり、神様がお迎えに来てくれるという現象も脳内現象として説明できるということには頷かざるを得ないと思えました。

キリスト教は永遠の命を約束しています。仏教では少し違って輪廻転生という言葉で説明されます。エネルギー不滅の法則を人の心のエネルギーも含むとすれば、人が死んだらその精神力が失われることが説明できず、かといって現実に人は死に、その人はいなくなるわけですから、輪廻転生という言葉を使わないと説明できないという気もしなくもありません。ニーチェは神を否定しつつも精神の不滅は信じ、東洋思想を援用して永遠回帰という仮説を立てました

村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、私が多分、唯一、村上春樹さんの作品の中で好きな小説なのですが、その作品は死と永遠の命について興味深い仮説が述べられています。即ち、客観的・物理的な死が個人を訪れたとしても、その人の主観的な内面世界では死が訪れる直前の瞬間から時間が無限に細分化され、結果として永遠の命をやはり主観的に得るというものです。死は全ての人に必ず訪れる客観的な現象ですが、その死がどのように進行するかは主観に委ねられるという大変におもしろい仮説のように思えます。もちろん、実際に死んでみないと分からないので、真実はいずれ確かめることができますから、それまで待つのがいいのかも知れません。

さて、問題に思えるのは、キリスト教が永遠の命を約束し、仏教が輪廻転生は誰もが逃れられない絶対法則だから諦めろと諭し、キューブラーロスは死に希望を見出そうとし、立花隆さんは唯物論的にそれでも最期を幸福な臨死体験にしようと決意し、村上春樹さんが自分の主観に委ねようとする死がなぜ存在するのかということです。なぜ人は死ぬのでしょうか。キリスト教が永遠の命を約束するのであれば、わざわざ肉体を一旦与えて取り上げるという面倒くさいことをする必要性がどこにあるのか理解に苦しみます。輪廻転生もまた、なんでそんなトリッキーな世界になっているのか、やはり理解に苦しみます。立花隆さんのように、或いは村上春樹さんのように唯物論的かつ主観的に死を迎えるという風に考えたくなるのも、なんでわざわざ死ななくてはいけないのかという素朴な疑問が出発点としてあるようにも思えます。

思うに、仮に永遠の命なり輪廻転生なりがあるとして、それでも人の肉体が滅びなくてはいけないのは、世界はそもそも適度にリセットされなくては維持できないほど脆弱なものなのではないのだろうかという気がします。地球は回転しないとその形を維持できません。しかも太陽の周りを公転しながら自転しているわけですから、一体どこまでこの世は回転が好きなのかと勘ぐってしまいます。太陽系は回転しており、銀河系も回転しており、月の場合は地球の周りを回っているのに裏側を人類に見せることはないという実にトリッキーな動きをしています。それくらいこの世は回転・循環・リセットを繰り返さなくては維持できないほどに脆弱なものなのだと言えるのかも知れないという気がします。量子論も突き詰めればどのみち小さなものがくるくる回っているということなのではないかとすら勝手に結論したくなってきます。地球が回転して季節が変わるのと同様に、生命も生まれて死ぬという循環しなければ維持し得ないのがこの世界なのかも知れません。

果たして永遠の命が本当にあるのか、永遠回帰するしかないのか、輪廻転生でバリエーションに富んだ様々な生を経験するのか、それとも単なる脳内現象で説明されるのか、或いは主観に委ねられるものなのかは、やっぱり経験してみないと分かりませんし、焦って経験する必要もありませんから、ゆっくり待つのが一番ですかねえ。

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ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』の永遠回帰

ニーチェが生きた時代、世界は産業革命という人による奇跡に湧きました。燃料機関による移動や生産が行われる姿は、人々をして人力を超えるものを人が生み出した、即ち、神の技を人が手に入れたと感じたとして不思議なことではないように思えます。

そして、人が神の技を使えるようになった以上、もはや毎日曜日に神に礼拝をして人生や運命を預けるという習慣そのものにも疑いの目が向けられていくようになります。現代とは少し違うかもしれません。現代では、科学技術の進歩によって神というデザイナーが存在しなければかくも精緻な世界が誕生するはずがないと科学者たちが真剣に考える時代になりましたが、当時は科学技術が「トレンド」になっていたとも言え、ニーチェのツァラストラが言うように、神は死んだと考えるのも無理はないとも思えます。

さて、『ツァラストラかく語りき』の興味深いところは、神なき人の世を人がいかに生きるかについて永遠回帰という視点が用いられているところです。永遠回帰という言葉は、要するに人は何度となく生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すというもので、ニーチェの言う「超人」に到達しない限り、その永遠回帰から抜け出すことはできないとしている点です。

何かによく似ているわけですが、仏教的な世界観にとてもよく似ています。仏教でも人は何度となく生まれ変わり、輪廻によって与えられる修行をクリアしたものだけが菩薩になり、仏陀になれるとされています。ニーチェはキリスト教文明を否定しましたが、その結果行きついたのが仏教的悟りの境地を目指せ!という結論だったわけです。仏教の存在は当然に西洋にも知られているものですから、ニーチェもまた当然にそれを知っていたと考えて間違っているとは思えません。キリスト教の神を否定するニーチェが仏教的世界観に新たな境地を見出そうとしたことは大変に興味深いことのように思えます。尤も、古代ギリシャでも輪廻転生の概念はありましたから、そっちのほうの影響のほうが強い可能性も否定しません。

もちろん、ニーチェが絶対に正しいわけではありません。輪廻転生を繰り返すためには、人の魂の永遠性が前提にならざるを得ないわけですが、果たして本当に人の魂が永遠なのかどうかは死んでみなければわかりませんし、死んだ後では生きている人に報告することもできませんから、人にとって死は永遠に未知なものです。

しかしながら、人は死後の世界について考えないわけにはいきません。近く立花隆さんの臨死体験に関する取材についてもブログで書いてみたいと思っていますが、なぜ人が臨死体験なる不思議な経験をするのかについては、唯物論的な立場にたったとしても完全に説明することはできません。臨死体験のプロセスについては取材案件を重ねることで分かっては来ているようですが、なぜそんな経験をするのかは謎なままなわけです。

そういったことも考たうえで、ニーチェの「超人」とはどんなものかについて思案するのも生きている人間の悦びの一つなのかもしれません。

ショーペンハウアー‐諦めが肝心だ

ショーペンハウアーはこの世界は生きる意志、積極的に生きようとする意志で成り立っていると考えました。現代人の我々の感覚から言えば、「お、積極的でいいね!」と思いそうになりますが、彼の本心は違うところにあったようです。即ち、積極的な生への希望があることこそが苦しみの源であると考え、そのような希望、生きたいという意思を消し去ってしまうことで、幸福や平安を得られると考えたのです。古代ギリシャのエピクロス的快楽主義にも通じるもののようにも思えますし、小乗仏教的な発の想法とも通じるものがあるようにも思えてきます。

ショーペンハウアーは生きようとする意志は盲目的なものであって、且つ往々にして利己的なものであるため、ついでに言うと人権は他者との人権との間で権利の衝突が起きうるという内在的制約があるとも言ってもよく、そういったことはいわゆる欲望であって、欲望に際限がないのはもはや論証するまでもないほど明らかなことであるから、諦めてしまうのが一番。諦めこそがよりよき人生と彼は考えるようになったわけでした。

ベルリン大学で講師になりますが、当時ヘーゲルも同じ大学で講義しており、学生の人気は圧倒的にヘーゲルの方が高かったそうです。ショーペンハウアーは半年で大学を辞めて静かな隠棲生活に入りますが、自分の講座には人気がないということをあっさりすっぱりと受け入れることで、苦痛の少ない生活を選んだあkたり、彼の人生観がよく現れていると言ってもよいのかも知れません。

私も大学で講義する身ですので、そこから想像するに、若い学生の人たちは「かっこいい」知性に憧れを抱いています。ヘーゲルのように、テーゼとアンチテーゼ、アウフヘーベンとジンテーゼという用語を使って世界が一方向の極相へ向かって動いているという考え方はいかにもかっこよく、新しくてかつかっこいい、世界の真実に触れることができると学生たちが感じたとしても、無理はありません。一方で、ショーペンハウアーの講義内容が「人間の欲望にはきりがないのだから、諦めなさい。あなたが自分で情熱と思っていることも、欲望の一種にすぎませんから諦めなさい」というような内容であったとすれば、夢や希望が膨らむことを望む学生たちはがっくりしてしまったのではないかと思えます。私個人はショーペンハウアーの言うことには一理も二理もあるように思えますが、実践するのは至難のこととも言えます。まだ学生さんの立場であれば受け入れがたい、面白いと思えないと感じるのも充分に頷けることのようにも思えます。

市井で静かに隠棲するのも、また、哲学者らしくていいのではないかと思わなくもありません。

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フランス啓蒙思想-神の支配と王の支配と法の支配

ヨーロッパでは王権神授説を振りかざす絶対王政が威力を持つ時代が続きましたが、18世紀に入るあたりから、そういった絶対王政を否定し、民主主義、三権分立、カトリックの伝説や教義を絶対的に信じるわけではない実証主義が登場します。啓蒙思想と呼ばれるものです。

特に有名な人物がモンテスキューではないかと思います。『法の精神』を著し、三権分立を説いたモンテスキューは、王の気分次第でなんでもできる、王が命令した法律はなんでも通用するとする価値観を否定し、法律には条文を云々する前に自然法があって、イギリス風に言えばそれはコモンセンスに基づくものであって、もうちょっと言うと法治主義ではなく法の支配があるべきと考えたのだと言えるとも思えます。
法治主義であれば、法律に書いてあることはどんなに理不尽なことでもまかり通るため、ソクラテスのように「悪法も法なり」ということになるのですが、法の支配であれば、たとえ法律に書いてあったとしてもそれが明らかに理不尽な内容であった場合には条文よりもその精神に基づいて判断されなくてはいけないということになります。今日まで続く普遍性を持った思想と言えるのではないかと思えます。

ヴォルテールの場合、神と教会を問題にしました。私個人はカトリックを批判したりする目的でこのブログを書いているわけではないのですが、少なくともヴォルテールはカトリックを批判しました。福音書イエスキリストの人生を読めば、感動するところはたくさんあり、人を愛するとはどういうことかということについて、考えさせられたり、啓発されたりする部分があることは事実ですが、処女の女性が子どもを産んだり、人間が水の上を歩いたり、死んだ後に三日してから生き返ったりするというのは合理性という面では納得できるとは言いかねます。カトリックではそれを奇跡と呼び、奇跡が神性の証なので納得しないほうがいけないということになるわけですが、問題はそのドグマ自体よりも、カトリックに異端指定されると袋叩きにされる、追放される、殺されるという個別の人間に具体的な危険が迫ることにあったとも言え、宗教戦争で人が殺されまくるという歴史もヨーロッパは経験していますから、ヴォルテールは宗教的寛容が必要であると考えました。また、自然秩序そのものが神であるとする理神論の立場を採るに至りますが、これは遠藤周作さんの『深い河』にも共通する形而上の立場とも言え、多分に仏教の法とも通じ合うのものがあるのではないかと思えます。

啓蒙思想の思想家たちは百科全書派とも重なりますが、具体的で観察可能な知識を積み重ね、タランベールのようにそれらの知識を利用して実証的な議論をするという発想がその根本にあったと言えると思います。百科全書派の中にはディドロという人物もいて、彼も具体的かつ観察可能な事実から諸事について検証・思索することを重視したため、唯物論へとつながっていきます。神が実在するかどうかはの中の問題であって、物理的には観察不可能ですから、観察可能な事象を積み重ねようとすれば唯物論へとつながっていくことは理解できないわけでもありません。

最近は量子研究が盛んになり、どんなにミクロな世界、さらにはナノの世界、もうちょっと言えばパラレルな世界へと入り込んで行ったとしても整然とした秩序があり、そこに神という設計者がいたのではないかと思いたくなる面もありますし、人間の心が観察対象に影響を与えうるとする世界があると言われるようになって、即ち、心と物理はつながっているということになってきているため、唯物論を完全に受け入れるべきかどうか、個人的には判断に迷うところではありますし、唯物論は飽くまでもカトリックとの対立軸として理解されるべきものではないかとも思いますので、カトリックに関する議論を忘れて唯物論だけを取り出して、絶対的な真理として議論することも難しいのではないかなあ、馴染まないのではないかなあとも思えます。難しいことなので断言することはできないところではありますが。

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