少なく無い数の日本人が致命的ではない失敗に対して、非寛容的な態度になりがちなのは、何故ですか?

村八分の文化の名残だと思います。たとえば武士は失敗すると切腹することで過ちをチャラにしてもらい名誉を維持されるということになっていたわけですが、江戸時代、東海道中膝栗毛でも分かるように、町民たちは道徳倫理のために命まで差し出すつもりはなく、弥次喜多の無茶し放題を爆笑しつつ共感するようなメンタリティを持っていたわけですね。つまり江戸時代は武士・町人・農村で価値観や行動規範がばらばらだったと言えると思います。

ところが明治に入り、徴兵制度が始まると、全員にあたかも武士であるかのような厳しい倫理観を持つことが求められるようになっていきます。ですが大半が農村出身者ですから、士道に背いているとみなされると農村的感性で村八分にしてしまう。たとえば捕虜になって帰ってきた人は帰還兵として遇してもらえなかったりするわけです。戦後の援護の手続きをするために役所に行くと露骨に後回しにされ、抗議すると、だってあなたは捕虜だったじゃないかと言われてしまったりしたそうです。

で、戦後になると徴兵もないですし、農村も少なくなって、みんな都市部でモダンな生活を送っているはずなんですが、規範から逸脱すると村八分という感性は21世紀になっても根強く残っており、SNSが発達したために、逸脱した人物がいると国民を挙げて村八分にするという現象に至ったのだと思います。



禁煙して二カ月。人生に対する考え方の変化。

禁煙して二カ月くらいになります。便通の問題や禁煙うつの問題などいろいろ乗り越えて、今はやや安定、小康の状態を得ています。禁煙うつは波があるので調子のいい日とそうでない日がありますが、だんだん調子のいい日が増えて来たので、この調子で少しづつ良くなっていければいいなと思っています。コーヒーは今もたくさん飲みますが、少しづつ量が減ってきました。自然に、前ほどほしくないという感じで、食事も量も増やさずに来れており、体重は禁煙前まで戻りました。

さて、禁煙してから、自分はなぜ、以前タバコを吸っていたのだろうということを考えてみたのですが、要するにタバコを吸うといい気分になるので、人生を楽しみたいというある種の甘えた感情からタバコを吸っていたのだと考えるようになりました。タバコと一緒にコーヒーとか、タバコと一緒にお酒とか、そういう風に嗜好品を楽しんでいたのですが、もう、タバコを吸わないのでお酒が前ほど楽しくありません。

以前はおそらく、酒もたばこもない人生は味気ないくらいに考えていた面があるのですが、今は考え方が変わって来て、酒もタバコもなくても人生は楽しい、そういったものに頼らなくても人生を楽しめることが人生の達人への道。くらいのことを考えるようになりました。パラダイム変換が起きている感じで、人生に対する考え方、人生観ががらりと変化しています。自分でも考え方の変化に驚いていますが、むしろ変わっていくからこそ人生はおもしろいのだし、自分は今、変わっていくプロセスにあると思うと、そのプロセスを楽しもうと思えます。このようにして変わっていくことを楽しんだ時に、人生はよりよくなっていくのではないかというような気もするのです。




人生の満足度を上げる5ステップ

本来教養系のブログのつもりでやっているhistoriajaponicaだが、教養を突き詰めると人生とは何か、幸せとは何かへとやがて辿り着く。そこに辿り着かない教養は教養ではなく豆知識でしかない。ブログを書き続けることはそういった思考を突き詰めることにも役立つ。幸福とは何かという問に完全な正解はないが、少なくとも満足度を上げる方法論はある。以下に簡単にその原理から方法論を1、原理、2、初級、3、中級、4、上級、5、達人までの順で述べたい。人生について語るにしては短い文面になるはずだが、神がαにしてΩであるのと同様、ある意味では全てが入っている。

1、原理

人生は主観でできている。客観は存在しない。客観的数字は存在するが、それに意味を付与するのも主観である。従って、自分の人生の満足度も自分の主観の判断による。主観の判断をコントロールすることができれば人生の満足度を上げることは可能だ。物質的な満足度は結果としてついてくるはずである。なぜなら人は自分の主観的世界を生涯をかけて繰り返すようにできており、渇望している人間は更に渇望した人生を作り出し、満たされていると感じている人は更に満たされた人生を創造するからだ。

2、初級

ここで方法論を述べたい。その後に述べる中級、上級、達人の領域もこれから述べる方法論の応用である。方法論としては日記を書くことがお薦めだ。簡単に言うと「よかったこと日記」を、日々書き連ねるのである。嘘を書いて自分をだます必要はない。その手の自己啓発本を信用する必要もない。その日のできごとの中でよかったことを一つ取り上げて日記に記す。それだけで必要にして充分である。初級編なので分かりやすいのを入れるとすれば「好きな人からメールが来た」とか「天気が良かった」とか「おでんがおいしかった」などのようなことである。よかったことを毎日積み上げるようにして書いていくと、潜在意識が「私の人生はいい人生なのだ」と判断するようになり、よりよい人生を創造できるようになっている。逆に嫌だったことを書き連ねる日記を続けると潜在意識が「私の人生は最悪なのだ」と判断するようになり、最悪な人生を作り上げるような原理が働くのである。潜在意識は生き延びることが優先なので、今日まで最悪で生きてこれたのであれば、明日ももっと最悪にすることで生き延びられる確率を上げようとする。今日まで幸福に生きて来ることができたと判断すると、潜在意識を明日生きのびる確率を上げるために、より幸福な明日を作り出そうとするのである。

3、中級

初級を実践するだけで必要かつ充分で、短い人ならすぐに効果が出るし、どんなにひどい状態の人でも2-3年続ければ必ず効果を得ることができる。中級レベルでは「気づき」が効果的だと言える。何気ない、普通なこと、当たり前なことが実は「良かった」ことなのだと思えるという段階だ。今日食事できたのは私が労働した得た対価の結果だが、仕事がなければ対価が得られず、食事の対価を支払うこともできない。仕事ができてありがてえと思うレベルに達するのが望ましい。他にも公共の施設で働いてくれる人のおかげで自分の生活が便利になっていることへの感謝の気持ちが湧いてきたり、なんだかんだ言って付き合いをしてくれる友人に対する感謝の気持ちが湧いてきたり、暮らせる家があることに自分が恵まれていると感じることができたりすれば、中級である。キリスト教の教会に行って主に今日のパンを感謝するのと同じ感じだと考えてもらえれば分かりやすいだろう。

4、上級

過去に対して実は自分が恵まれていたのだと気づくことができるレベルである。日々「おでんがおいしかった」だの「チョコレートがおいしかった」だの書き続けていれば、自分にその程度の経済力が与えられたのは過去の様々な恵みの結果であることに気づけるはずである。大学に行かせてもらえたのは親のおかげであるとか、大学を卒業できたのは〇〇教授が手心を加えてくれて成績をなんとかしてくれたからだとか、会社で今の部署にいられるのは上司が受け入れてくれたからだとか、そういったいろいろな過去の蓄積があってチョコレートが食えるのである。つまり過去への感謝だ。これはわりと難しいが初級‐中級レベルの日記を繰り返し続けているとこの境地へはやがて辿り着くことができる。疑問に思う人は2-3年その日記をやってみてから疑ってほしい。効果は絶大であり、金はかからない。簡単に言うと過去に対する感謝ができるようになったら上級ということだ。

5、達人

ここはなかなか難しい。難しいが、初級から中、上級までこなすことができれば、やがてここへたどり着く。私の場合は最近やっとこの心境に時々なれる場合があるという程度なので、まだまだ達人ではない。ただ、続けることで「おー、そうか」と達人の心境がふと見えて来るのである。それは私自身に仇をなすものへの感謝である。災いに対する感謝だ。たとえば雨で嫌な気分になるとき、恵みの雨と言い換える。簡単そうだが意外とできない。私をイジメた人がいるから、イジメずにいてくれる人に対する感謝の気持ちが湧いてくる。私に災いをもたらす人からも学びを得ることができる。そう思うと、仇をなす人、災いをもたらす人もまた学びと恵みの一環なのだと気づくことができ、その相手に学ばせてくれてありがとうという心境になるのである。これは禅寺のお坊さんが言いそうなことだが、禅寺のお坊さんでもここまで来れる人に出会えるとは限らない。禅寺のお坊さんもここへたどり着くための修行中の人が多く、禅はここへたどり着くための技術論だからだ。ここまで来ると親に対する感謝が湧いてくる。親を赦せないという人はいると思う。私にも親を赦せない部分はある。だが、その親にしてその子でありである。そこを立脚点に親のことを考え直し、少なくとも感謝できる部分もあると考えるようになった。親を赦した時、大抵のことは赦せるようになるだろうし、結果として人生に対する満足度は上がる。上に述べた原理を理解するのに5-10年程度かかった。それから更に5-10年程度かけてようやく達人の域があるらしいと気づけるようになってきた。どういうわけか掃除も少しはうまくはなった。

以上が人生の満足度を上げる全てだ。主観的な満足度は必ず上がることは約束できるし、主観的な満足度が高い人は結果として物理的にも満足できる生活を送りやすくなる。一日一分なので、コストはかからない。スマートフォンやPCで日記を書いてもいいので、ノーリスクと言ってもいい。興味のある人はやってみてほしい。




赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。



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海を見に行っていろいろ考えた話

今年の夏、初めて海を見に行った。海はいつ見てもいいもので、夏でも冬でも美しい。だが、やはりどちらかと言えば夏と海は相性がいい。私は海水浴をしなくなったが、夏と言えば海水浴が頭に刷り込まれているため、夏と言えば海になる。

今回は世界一クールなグーグル社様から広告の一時配信停止という通知を受けてしまい、心理的なショックを癒す目的で、取り敢えず海へ出かけてみようかと思い、電車に乗って出かけていった。一応、私の名誉のために付け加えておくが、広告の一時配信の理由は広告を自己クリックしたということなのだが、私は自分で書いた記事をクリックしたことはない。ただ、広告とオリジナル記事を並べて挿入する仕組みになっているユニット上に於いて、自分の記事をクリックするのも自己クリックとカウントされるという仕組みに気づいていなかったことに起因している(長々と自己弁護ですみません)。個人的な経験から言えば、落ち込むようなことが起きるとだいたい復活するのに二週間くらいかかる。ただ、二週間以内には大抵の場合、次の落ち込むようなことが起きるので、だいたい日々落ち込みながら暮らしているのだが、今回は心理的ショックがヘビーだったので、海を見ることで自分を癒してみることにしたのだ。

太陽は禍々しいほどにまぶしかった。カミュは『異邦人』で太陽がまぶしかったからというだけで殺人を犯すという理由なき殺人を描いたが、私にはそれは単に不良の言い訳にしか思えない。従って私は今日、どんなに暑くても我慢して悪いことは一切しなかった。潔癖には自信がある。親からは性格が堅苦しすぎるとよく言われたが、社会人になってみたらちょっと堅苦しいくらいでちょうどいいという結論に私は達したので、他人はそれぞれ好きにやればいいと思うが、私は潔癖で通すことにしている。

いずれにせよ、太陽に焼かれながら私はたくさん歩いた。波間は眩しかった。そしてよく考えた。このブログをどうしていこうかと。続けることはもちろん続ける。今まで通り、自由に私の好きなことを書く場所として存続させ続けたい。だが、現代心理学では深層心理がその人の人生を形成することは常識になっている。従って、繰り返しになるが、世界一クールなグーグル社様からの広告の一時配信停止というお達しが来たのも、私の深層心理がそれを招いたののではないかと私は考えた。流行の言い方で言えば引き寄せの法則が働いたのである。なぜ、そのような引き寄せの法則が働いたのかと言えば、私に「わー、最近はアクセスが増えてきて嬉しいなあ。収入も増えてきて嬉しいなあ。もっと、もっと、増やしたい」という欲望が強まり、執着する心が生まれ、結果として執着に相応しい出来事が起きたのだと海を眺めつつ汗だくになって軽くふらついていた私は考えた。

人は何を選び、何を行動するかを自分で決めなくてはならない。私は自分のブログに愛着はあるが、やはり仕事をしなくてはいけない。私の場合、仕事とは大学で講義をすることだが、もう一つ、論文を書くというのも仕事のうちに入る。博士論文を書こうと私は改めて決心した。太陽がまぶしいという理由で人を殺している場合ではない。太陽がまぶしかったから、私は博士論文を書きます。

世界一クールな会社であるグーグル社様から広告配信一時停止の通知を受けた話

私のブログはグーグル社様から広告配信を受けています。心理的な衝撃は大きいのですが、運命を粛々と受け入れる以外にはないと心境の整理をしているところです。「自己クリック」をしたとの通知が来たのですが、私は潔癖なところがあって、絶対にそんなことをしていないという自信がありましたから、理解に苦しみました。

いろいろと調べてみたのですが、関連広告ユニットと呼ばれる広告タイプに対する私の考えが甘かったということが分かりました。関連広告ユニットとは、広告と自分の作成したコンテンツの記事とが並んで表示されるという、便利でナイスでさすがな広告ツールなのですが、私は関連広告ユニットに表示される自分の作成したコンテンツへのクリックをよくやっていました。自分のコンテンツの記事をクリックするわけですから、いわゆる広告料ほしさに誘惑に負けてしまう人がやってしまう自己クリックとは全く性質が違うものだと私は考えていました。実際に私のクリックで不正に支払わなければならない広告主の方はいらっしゃらないわけですから。

しかし、当該のユニットを設置した場合、自分のコンテンツをクリックしただけでも、不正な自己クリックと認定されるとの仮説に至ったわけです。もちろん仮説ですので、真実の理由は不明なのですが、他に理由も見当たりませんので、多分、これだと思います。前科者になってしまったわけなので、心理的な落ち込みは強いのですが、これから一か月、長い一か月は自分を見つめるのにちょうどいいかも知れません。

私がブログを行う理由は複数あります。一つは自分が自由に情報発信できる場所がほしかったから。反社会的なことはもちろん書くつもりはないですが、日常の研究や講義をするに当たり、ふと気づいたこと、論文にするほどでもないこと、でもちょっとおもしろいなと思ったことをどこかに発表したいので、自分のブログで発表できれば他人様に迷惑をかけることなく、自分にとっても自己実現の一部にできると思ったわけです。もう一つは、現実生活とは別に自分の心のよりどころみたいなところが必要で、お金持ちの人でしたらぱーっと気晴らしするとかできるんでしょうけれど、私の場合はそういうわけにもいかないので、ここが私の家、居場所。みたいな感覚もあります。これは始めてから気づきました。あー、ここは僕の秘密基地だ。いい感じ。みたいに思っていたわけです。3つめには文章力の向上というのもあります。大学の教師が仕事ですから、読み書きはそのまま仕事に直結します。ただ、やはり毎日のようにブログを書くというエクストラなライティングトレーニングが積んだことは、本業の論文にもいい影響を与えています。私にとっては訓練になるし、ブログを読みに訪れてくれる人にとってはほしい情報が手に入るので、ウィンウィンでいいじゃないと思っていました。そして最後にやはり収益も私は求めています。ぎりぎりかつかつですので、やはりもう少し余裕のある生活がしたい。そのために頼りたいというものはもちろんあります。

ただ、潔癖症ですから、自分でクリックしたりとか、友達にクリックを頼んだりとか、ブログに「ここをクリックしてください」とかは一切やっていません。性格的にそういうのができないんです。私は記事を書き続けて興味のある人に読んでいただく、その中から興味のある人だけ広告をクリックしていただければいいという信念で今までやってきました。

ですので今は、自分の秘密基地が前科者になってしまったというショックと、収入源としてあてにして育てて来たのに…という心理的な落ち込みと両方あって、辛いので、では私がきっちりお金を払って所有しているこのドメインのこのブログで心情を吐露しようと思い、ここに書いてみた次第です。

一か月の停止ですので、その後、どんな風になるのかは分かりません。ですが私は誓います。自己クリックのようなばかげたことは今までも意図的にしたことはないし、今後もやりません。広告クリックはたまたま訪れてくれた方が関心を持った広告に対して、自分の意思でクリックするという原則を今までも貫いてきましたし、今後もつらぬきます。

あー、一か月つらいな….とはいえ、夏休みの時期で良かったです。学期中だったら授業の準備に追われながら、この心理的ショックにも対応しなくてはいけません。明日は海でも見に行きますかね。さて、諸君、前を向こう。立ち上がり歩くんだ。博士論文も書かなくてはならないのだ。

「お会計は私が」の効果は絶大である

最近、外国の著名な大学の教授が来ると言うので、巡りあわせが重なり、私と友人の詩人の女性の二人で空港まで教授をお迎えすることになった。

一応、先に述べておくが、その女性は既に結婚していてお子さんもいるため、決して私のガールフレンドではない。旦那さんの収入がいいため、詩人という高等遊民ができる恵まれたご婦人であるとは言える。私と彼女との関係は、いわば職業上の同盟者のようなものだ。

それはともかく、その日は教授を空港でお迎えし、こっち側の偉い人と引き合わせて会食し、適当に街を案内して夕方には解散というわりとシンプルなものだったのだが、そのための調整にはかなりのエネルギーを要した。気楽に終われるのが一番だが、気まずく終わることだけは避けなくてはならないため、その教授がご機嫌麗しくお過ごしになることがその日の私の至上命題であった。

一緒に出迎えた人妻の詩人はなかなかの美人なため、教授は彼女が会食に同席していることに相当な満足を得たらしく、その後のご案内の際もタクシーで私が助手席に座り、教授と彼女が二人後ろに座るというシチュエーションで推移した。教授は私のような財力も名声も権力もない半端な男には興味はもちろん湧かないし、会食中も「私は特に君と同席したいとは思っていないし、私には君に対して親愛の情を示す理由は特にない」と私に対して思っていることも露骨に態度や表情から見て取れた。私の方も教授に対して親愛の情を示す理由は特になかったのでお互い様なのだが「ご機嫌麗しくお過ごしいただく」至上命題はなかなかに重く、私にも好感を持ってもらえたという実感を得れば、その命題を解決できたとも感じられるだろうから、どうすればいいかということについて食事しながらも考えを経めぐらせた。

結果として私が選んだのは、あらゆる場面でのお会計を私がするというものだった。当初教授は「いやいや、私もお金を持ってきているから大丈夫だ」と言っていたが、私が「いえ、大丈夫です」とお会計し続けた。そして、それはおそらく彼の胸に響くものがあったらしく、ある瞬間から突如、私に対しても親愛の情を示してくれるようになり、融和的で和やかにその日は解散になった。彼の年収は私の何倍もあるに違いないのだが、にも関わらず懸命に財布を開き続ける姿に男として感動したのかも知れない。

私が支払ったお金は永遠に帰ってこないかも知れないが、いい思い出を作るための投資であったと思えば、数千円単位の出費はどうということはない。今後、どうしても教授に頼まなければならないことが生じた場合、私が門前払いされることもないように思える。権威や権力のある男性にとって、権威も権力もない男性は虫けらと同じに見えるのかも知れないが、「お会計は私が」という最後の手段が残されていることを実感した一日だった。



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心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。



赦せないことを赦せるか
不遇の時期をどう過ごすか

須田慎一郎氏の自己プレゼンテーション

最近は見なくなったんですが、ネット配信で『そこまで言って委員会』をよく見ている時期がありました。で、多分、私が最後に見た回だと思うのですが、パネラーに「自分は何に依存していると思いますか?」という緩めの質問があり、その時に須田信一郎氏が「ネオン症候群」と答えていたことに私は衝撃を受け、人生についてより一歩深く考えることになってしまいました。

ネオン症候群とは要するに夜になるとネオン街へ行きたくなってしまって自分でもコントロールするのが難しいということなのだと思いますが、須田慎一郎氏曰く、「男を磨く」ために夜の街、要するにホステスさんのいるようなお店へ行くのだということらしいのです。

それは私にとって衝撃でした、私は誘われたりして何度か行ったことはありますが、面白いとも何とも思えず、なんだかよく分からん…という心境で帰宅した思い出しかなく、自発的に行きたいとは思わないからです。ですから無駄遣いをするためにでかけるように思えてしまいます。しかし、おそらく想像ですが、客としての気合の入り方が違うのではないかという気がしました。私のような普通の人間の場合、ホステスさんと話しをして「わーきれいな人と話せてよかったな」と思わせるというのがこういうお店のサービスだと思うわけですが、須田氏の場合はそうではなく、本来、従業員として働いているホステスさんが話を合わせてくれるような場所で、客としての自分が気を使い、ホステスさんを楽しめ、結果として人間性を高めるという、そういう場所だと認識しているのではないかと私は考えました。

そのように考えると他の番組で須田氏が出て来た時のアドリブの瞬発力は夜の街で磨かれたものなのではないかという気がしてきます。須田慎一郎氏は顔はめちゃめちゃ怖いです。お会いしたことはないですが、男の私がお会いしてもびびるのではないかという気がします。しかし、彼がテレビで見せているような「おちゃめ」感、自虐もちょっとやってみる感のギャップを彼は意図的に演出していて、目の前の人の心を捉えるというストラテジーを持っているように思えます。こわい顔の人がおちゃめぶるということにどの程度の効果が見込めるのかは正確には分かりませんが、効果の上がる相手がいることは間違いないはずで、そのように思うと、自己投資として夜の街へ出かけていく須田慎一郎さんは凄い人だと私には思えてきます。

人格磨きと呼ぶべきなのか、それとも自己プレゼンテーションの訓練と呼ぶべきかは微妙なところはありますが、人間関係に於ける自己プレゼンテーションがうまくなれば、単に女性相手だけでなく、磨き込むことによって男性相手でも人の心の機微に入り込むことができるようになるのではないかと私は想像します。人格磨きという点では私は大学で学生相手にかなり揉まれています。教師は偉いから学生相手は楽だということは全然ありません。教育サービスを真剣に受けたい学生と楽に単位を取りたい学生の両方がいて、彼らはみな気まぐれで、気に入らなければ授業にも出てきません。強制できませんから、授業に来たいと思ってもらえる内容作りに私は心身をすり減らし、これは人間性の訓練であり、職業人としての試練でもあると思って努力しています。なので、須田さんも私も同じなのだと強引に結論して自分を安心させることにします。きっと他の人も、みんなそうです。職場や学校で人格磨きをして、人としても職業人としても向上の努力をしていくしかありません。いつの日か「あーむくわれたなあ」と思えるかどうか。努力しなければ思える日は来ません。がんばりまっす。

【自己訓練】目の前の仕事にきちんと集中する

人には大抵の場合、やりたい仕事があります。「やりたい仕事がない」という人も中にはいるかも知れないのですが、そういう人でもやりたい仕事を見つけていかなくてはいけません。どの場合であったとしてもある程度の年齢に達すれば職業を持たなくてはいけません。希望する職に就ける人もいれば、そうでない人もいるでしょうし、希望する職ではあるけれど、条件が希望通りではなかった、向いていないことに気づいたなどなど、いろいろな理想と現実のはざまで心が動いてしまうものです。

ただし、職業に貴賤はありません。正規・非正規は条件や待遇の違いであって、貴賤とは関係がありません。よりよい人生を得るためには職種や条件にあまりこだわりすぎず、目の前にある仕事をしっかりこなすということが、賢明なのではないかと思います。スタートラインは人さまざまです。有名大学から有名企業に入り、順調に出世するという場合もあるでしょうけれど、大学は出たもののぱっとしない、有名企業に入ったものの窓際だ、反対に無名の企業で給与もよくないけれど、楽しい、やりがいを感じるなどの場合もあるに違いありません。

どのような条件であったとしても目の前の仕事に対してきちんと集中して仕事をしていると、上のような諸条件に負けず、やがて人生で得るべきものが手に入るようになってきます。希望していた職種に就くことができなかったとしても、その仕事に集中してきちんと仕上げていれば、周囲からいろいろな助けや声がかかるようになります。そしてやがて、気づくと望む環境を手に入れていることができるようになっていきます。非正規であったとしても、出来栄えのよい仕事をしていれば、先方から正規になってほしいと声をかけてくるかも知れません。望む職種でなかったとしても、出来栄えの良い仕事をしていると、声望が集まり、組織の中での信用が高まって行けば、次第に自分の関心のある領域に手を出すことができるようになっていきます。もちろん、そこには壁があり、時として勇気とともに一歩を踏み出さなくてはいけない場合もあります。それまでの仕事が認められていたとすれば、新しい一歩は周囲から歓迎を受け、やりやすいものになるでしょう。逆にやりたくない職位だったからという理由で明らかな手抜きが多い場合は新しい一歩を応援してくれる人に出会いにくいので、そういう場合には苦戦せざるを得なくなってしまいます。

チャンスについても同じことが言えます。理想的なチャンスは来ません。頭で思い浮かべる諸条件が整った理想的なチャンスが来ることは一生に一回あるかないかではないかと思います。ですから、理想通りのチャンスでなかったとしても、懸命に取り組むことはよりよい人生を得やすくなる心構えではないかと思います。一歩一歩を歩き、一手一手を撃ち続けていけば、そのうちかなり理想へと近づいていきます。自分の限界も見えてきますから、自分の限界を受け入れるということも大切にはなってきます。しかし、相当に理想に近づくことができれば、そうでない人生よりも遥かに充実した感覚を得ることができるのではないかと思います。

ただし、極端に条件が悪かったり、性格上どうしても無理な仕事や、倫理的に受け入れることができない仕事をさせられることもあるでしょうから、そこを見極め、時にはきっぱり辞めるという勇気も必要です。いつでも辞めてもいいんだという心境になれば、かえって続けられるものでもあるとは言えそうですが。



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