広島と原子爆弾について最近考える時間を持ったので、それについて

実は来月、広島に一泊二日で出張にでかける。せっかく広島に行くのだから、少しでも多く広島のことを勉強して、より実りのあるものにしたい。そのように思い、私は広島に関連する本を何冊か読むことにした。広島と言えば、浅野40万石とか、平清盛の厳島神社とかもあるのだが、やはり原子爆弾を避けて通ることはできない。以前、三田文学傑作選で原民喜の『夏の花』を読んで、難しい内容だとは思ったが、過去に触れた原子爆弾に関して書かれたものの中で特別冷静で且つ具体的に書かれているのがこの作品なのだと気づき、それだけにショックも大きく、私は深く考えさせられた。どんなに考えても起きてしまったことを変えることができないのが悲しいところではあるのだが、考え続ける以外にレクイエムの方法がないので、やはり考えることを放棄してはならないと思う。

最近読んだのは、NHKのディレクターの人が広島で原子爆弾を使用されることを、陸海軍の情報処理部門は気づいていたのではないかとの疑惑に迫るものを一冊。それから、米軍捕虜が広島で被爆したことについて調査した本を一冊。あと、京都が原子爆弾の目標になっていたのに、いつの間にか京都の目標順位が下がり広島が目標として上がってきたことの事情を調査した本が一冊だ。

これは書籍ではなくNHKスペシャルのDVDだが、内容は同じものだ。日本の陸海軍は、アメリカ軍の暗号を解くことはできていなかったが、熱心な傍受により、米軍機が発するコールサインを聞き分けることで、テニアン島に通常の爆撃機とは違った動きを見せる爆撃機戦隊が到着していることに気づいていたとするものだ。これは大いにあり得る話だし、全く疑いを感じなかった。アメリカ、ドイツ、日本が核兵器開発にしのぎを削っていた当時、特殊な任務を帯びているであろう爆撃機が原子爆弾を使用するためのものだということは容易に察知できただろうし、にもかかわらず、なぜ日本側は持てる航空機を総動員して当該爆撃機を落とすことができなかったのかとの問題提起になっている。大いに疑問だと私も思う。特に長崎の場合、既に広島で原子爆弾が使用された後なのだから、不可解な行動をする敵機は原子爆弾を使用する可能性が高いとみて、落とすことはできたのではないかとの疑念は残る。長崎の場合、当時近くに源田実さんの航空部隊がいたのだ。怠慢とか無能とか言われても反論できない事態であろうと言えるだろう。

広島で被爆して命を落としたアメリカ軍捕虜に関する調査も興味深かった。

昭和20年、無数の爆撃機が日本に飛来し、日本の各地を燃やしたが、これは同時にそれだけ米軍将兵を危険にさらすことでもあった。たとえば紫電改みたいな飛行機に狙われれば、爆撃機は足が遅いので落とされる可能性は決して低くない。そういう戦闘行動で落とされた場合もあれば、エンジンの不調みたいなことで不時着する場合もある。一度に千機とか飛来するのだから、整備不良で落ちるのもいるのである。更に、運が悪いのだと高射砲に撃ち落されることもある。高度1万メートルから落とすため、射程距離が数千メートルの高射砲では当たらないことにはなっているが、多分、うっかり高度を保つのを忘れて当たってしまうのもいたかも知れない。名古屋の岡田資中将が捕虜を略式裁判で断罪し、戦後に戦犯に問われたのも、このような落ちてきた捕虜の扱いを巡ってのことだ。

そのような事情から、日本各地では米軍捕虜が増加傾向にあった。日本は戦争が始まった時に東南アジア各地で英米蘭の捕虜を大勢捕まえることになり、彼らは終戦まで捕虜として過ごしたのだが、それとは別に新しい捕虜が入ってきていたというわけなのだ。新しく捕まった捕虜は、最近の敵の事情に詳しい。尋問の対象になった。広島は軍都として栄えていたから、捕虜が広島へ連れて来られる場合もあったのだ。そして、有名な話なのだが、とある捕虜が「おそろしい。おそろしい」と言うので、何が恐ろしいのかと聞いてみると、広島は原子爆弾の目標になっているので、ここにいたら確実に死んでしまう、どこか別の場所に移動させてほしいと懇願したという話である。事実であるとすれば、いかに日本側が情報戦で負けていたとしても、この捕虜の口を通じて広島への原子爆弾使用の計画が日本軍に漏れたことになるので、結果として何もしなかった日本軍の罪は重い。私も海軍にいた祖父が事前にだいたいのことは知っていたとファミリーヒストリー的に聞かされたことがあるので、米兵捕虜のこの言葉は、納得できる。

さて、最後の一冊は果たして京都を目標から外したのは誰の力なのかについて調査・論考したものだ。

著者が京都大学の先生なので、恩人探しみたいなっているところがあり、そのかわりに標的にされた広島の人にとってはたまったものではないだろう。だが、アメリカ軍内部での意思決定過程の一端を窺い知るという意味では興味深い。諸説あるようなのだが、スチムソンが京都はやめた方がいいと言い続けたことが大きいようだ。日本人はバブル期、アメリカ人が燃やさなかった京都の町屋を地上げのために一度ほぼ滅亡させた。今ある京都の町屋の多くが最近になって再建されたもののようだ。よく見て歩けば分かる。

今回は以上なのだが、広島は第二次世界大戦でも特別に残酷な惨禍を経験した土地であるということは間違いがない。広島について考えたり述べたりするときは、敬意や慎みを忘れないようにしたい。

京都の天津神社でおみくじをひいた話

数多ある京都の神社の中で密かに人気を集めている小さな神社に天津(あまつ)神社があります。おみくじが良く当たるとの評判ですので、私も一度行ってみたいと思っており、今回の関西旅行で訪問してみました。場所は北野天満宮と平野神社の間あたりで、京都市を仮に四角い将棋盤のようなものだと仮定すれば、正面向かって右手の上あたり、要するに北西の位置にあります。

少し緊張して門をくぐったところ、人影もなくおみくじがひける場所がどこなのかもよく分からず、ちょっと怯んでしまったのですが、建物から神社の関係者と思しきおばさまが出てきてくれました。神社と言えば男性の神主さんというイメージが強いですから、おばさまが出ていらしたことに多少の驚きはありましたし、おばさまは普段着ですので、全く神社らしい印象は受けません。しかし「おみくじですね」と言われ「はい」と答えると親切な雰囲気で畳の上へあがるようにと促してくれました。

畳の敷き詰められた広間の奥に神棚があって、そこに座り二礼二拍手一礼するようにと指示を受け、その通りにすると目の前にガラガラっとふってくじを引くタイプのおみくじの箱があって、おみくじを引いてくださいと指示を受けます。おみくじの箱の隣にはお札がたんまりと積んであり、「相場は1000円以上」ということが分かるようになっています。

おみくじをひくとその言葉を紙に書き留めることができるようになっており、私も書き留めて帰りました。おみくじのお言葉は「縁ありてこそ 信仰に入りぬ よろこんで幸運を守りもらへ」というものでした。神社の方のお話によると、「縁」とは人のことであり、「信仰に入る」とは、縁のある人と人間関係を結ぶという意味なのだそうです。即ち縁のある人に対して感謝すれば、神様はますます守ってくださるということなのだと解説していただきました。大事なことは「悪縁」も縁であるということで、悪縁からも学べるとおっしゃっていただきました。「我以外、みな師なり」と言ったところでしょうか。

私個人にとっては金言です。私はブログをこつこつやるようなタイプですから、人見知りが強い、どちらかと言えば人間嫌い、嫌いな人や苦手な人に合わせていくことができません。嫌いになったらとことん忌避する傾向があります。おみくじにはそこを言い当てられたという感じがしましたので、「良く当たる」と評判の天津神社のおみくじは私にも当たっていたと思います。財布を取り出し「一万円札しかなかったらどうしよう、九千円のお釣りをくださいとはいいづらい…」とちょっと心配でしたが幸い千円札がありましたので、それをお札の束の上に追加して「ありがとうございました」とお礼を述べて立ち去りました。

私の想像になりますが、天津神社のおみくじは全て金言で、誰にでも当てはまる内容のものなのではないかと思います。人には必ず足りないものや、まだまだ人間ができていないという部分があります。そして、貪欲だったり怠惰だったり性格的にねじれていたりというのはある程度誰にでも共通するものですから、どのおみくじをひいてもそれは「当たっている」と言えるのではないかと思います。

とはいえ、だからといっておみくじにご利益がないかと言えばそういうわけでもないと思います。わざわざ京都まで足を運び、更に地図みながら歩き尋ねて神社を訪れ、慎んだ気持ちでくじをひくから心に言葉が響くのではないかと私は思います。ですので、どの言葉をひいてもそれだけの値打ちがあると思えばいいですし、どの言葉をひいても必ず人生の役に立つとも思います。いずれにせよ、私の人生の課題とも言える「人嫌い」を一発でひいたわけですから「天津神社のおみくじは当たる!」と感じました。








徳川慶喜と孝明天皇

徳川慶喜は京都の政界で活躍中、概ね、京都の朝廷関係者からは好意的に受け入れられており、その実感が慶喜の政権運営への自身を持たせたのではないかと推量します。政治に忙殺されていた時期は江戸に立ち寄ることもなく、ひたすら京都か大阪にいて幕閣を江戸から呼び寄せて仕事をしていたのも、近畿にいるとシンパが多くて狙い通りに物事が動くということが強い理由としてあったかも知れません。

特に孝明天皇が徳川慶喜びいきで、時の天皇が慶喜に厚い信頼を寄せている以上、他の公達もなかなか反対というわけにもいかず、親長州反幕府の公卿たちは自業自得の面もあったとはいえ都落ちさせられています。

江戸幕府にとって京都はある意味では敵地とも言えるはずですが、そのような土地で慶喜がかくも優位に振る舞うことができたことの理由としては、母親が有栖川家の正真正銘の皇族で、血筋的に文句がつかなかったというのが大きかったかも知れません。慶喜を関白に推す声が上がったのも、そういう母方の血筋が影響しているように思えます。また、水戸学が熱心な尊王思想で、慶喜はその教養を身につけていたでしょうから、そういうことも朝廷からは好意的に受け入れられていたように見受けられます。

慶喜は将軍就任後に宮様の側室を得ようと画策した時期があったようなのですが、もしかすると宮様との間に生まれたことも嫡流にしようという目論見もあったかも知れず、慶喜自身も自分の母親が宮様であるということの計り知れない利点をよく知っていたということの証左と言えるかも知れません。

慶喜がわりとあっさりと大政奉還で江戸幕府を解散してしまうのも、自分は朝廷派の人間であるという自覚があり、先方を焦らせて狙い通りの政治を進めると言う、時に大胆とも思える戦略で政治に臨んだのも、以上述べたことからくる大きな自信に裏打ちされいたのではないかとも思えます。

そのような経緯があったため、薩長クーデターで京都が占領され、慶喜が一旦大阪城へ退いた時、家臣たちが憤慨する一方で慶喜がじっと待ちの姿勢に入り、自分に泣きついてくるのを待つというのは過去の経験から導き出されたなかなかの上策であったとも言えるでしょう。ただ孝明天皇が亡くなり、明治天皇の抱き込み見込みは立っていなかったので、計算がうまく立たない時期に入ったと言えるかも知れません。

慶喜は家臣団の怒りを鎮めることができず、やむを得ない形で軍を大阪から京都へと進めさせます。兵隊の数で言えば徳川軍が圧倒的に有利、装備の点でもフランス式陸軍連隊を投入していますので、必ずしも徳川軍が劣っていたとも言えません。戦場に楠木正成以来の「錦の御旗」が登場し、そこで形成が決定的になったというのは私には何となく信じられないのですが、大阪城で戦況の報告を待っていた徳川慶喜がその報せを受けたときの心理的なショックは相当に大きかったものと想像できます。

朝廷の支持を得ているということを権力の基盤にしていた慶喜にとって錦の御旗に弾を打ち込むということは自己否定にならざるを得ず、これはもはや戦闘停止、ゲームオーバーと彼が考えたとしても全く無理はありません。 

兵隊を見棄てて自分だけ江戸へ軍艦で逃げ帰るという最後の最後でみっともない姿を見せるのことになったのは、慶喜本人がこの段階でゲームオーバーであるということを充分に理解していたからであり、江戸でフランス公使のロッシュからの協力を申し出られても断ってお寺に謹慎する道を選んだというのも、江戸には慶喜の権力基盤がないという現実をよく分かっていたということの証左のように思えます。この辺りを充分に見通したあたり、確かに聡明です。慶喜が政争で一か八かの賭けをしたことはなく、必ず状況を分析した上で勝てる戦略を立てて事に臨んでいましたので、江戸へやってくる官軍を迎え撃つというのは勝てるかどうかわからない、やってみなければわからない賭けになりましたので、そういうリスクは取らなかったのでしょう。慶喜の心中はそれまでに交流した朝廷の面々の顔が浮かび、今や朝敵指定された自分のことをどう言っているかというのが去来したことと想像します。

政治にも軍事にもずば抜けて明るかったであろう慶喜が維新後に沈黙を守り抜いたのは、ある意味では拗ねて見せていたというのもありそうな気がしますし、過去の面白い大政治をしていたことから考えれば、それよりも格下の政治ゲームに参加する気になれないというのもあったのではないかと思います。幸いにして彼は多趣味で、写真を撮ったり油絵を描いたりして長い晩年を送ります。結果としては潔い、いい晩年ではなかったかと思えます。




関連記事
ナポレオン三世と徳川慶喜
徳川慶喜と家慶と家定
品川駅構内のサザコーヒーで将軍珈琲を飲んだ話