溝口健二監督『雨月物語』の生者と亡者

人は欲望によって身を滅ぼすが、愛によって身を持ちなおす。そういう含意のある映画です。戦国時代、近江のいずこかに兄弟がそれぞれに結婚して隣同士で暮らしています。兄は地道な働き者で、焼き物の職人をしています。土地的には信楽焼ではないかと思います。弟は立身出世を夢見る浮ついた性格で、戦国の世で手柄を立てて家来を持てる身分になりたいと思っています。

兄は琵琶湖を舟で渡り、街で自分の焼いた品物を売ります。戦国の時代、どこも品不足で焼き物が飛ぶように売れ、味を占めた兄弟は再び大量に品物を街へと売りに行きます。稼いだ金を持って、弟は具足と槍を買いに行き、そのまま行方が知れなくなります。弟の嫁さんは悪い武者たちに襲われて、遊女に身を落してしまいます。兄は商売の最中に名家のお姫様に誘われて、そのお姫様と夢のような日々を送ります。お姫様は京マチ子です。『羅生門』でもお姫様です。それはもう不世出の美人です。たとえ正体が幽霊でも物の怪でも構いません。今この時、楽しければいいという享楽的、刹那的な日々を送ります。嫁さんが家で待っているのにすっかり忘れてしまいます。

弟の方はただの幸運で出世をし、立身出世と喜んでいますが、宿屋で遊女になった嫁さんと再会。自分が守ってやれなかったからこんなことになったのだと改心し、偉い武士になる夢を捨てて、地道に働くと約束して一緒に家に帰ります。

一方、兄の方ですが、ある時、街に出て「死相が出ている」と言われます。そのお屋敷は織田信長に滅ぼされた一族の家で今は幽霊屋敷だと知らされます。まるで『わが青春のマリアンヌ』です。そのうちお姫様に引っ張られてあの世へ行ってしまうというのです。男は突然怖くなり、家に帰ろうとしますが、亡霊たちは絶対に彼をかえすまい、このまま命をとってしまおうと荒れ狂います。「かえしませぬ」と言う時の京マチ子の形相の恐ろしさ。魂魄この世に留まりての強い執念で観ている側は身震いします。

彼は体中に梵字を描いて結界とし、亡霊たちから身を守ります。亡霊たちが無念の口上を語ります。能で言えば序、破、急の急の部分です。亡霊には亡霊の事情があるというわけです。亡霊は単なる悪では決してなく、同情を誘います。梵字に護られた彼は最後には夢から覚めて家に帰ってきます。嫁さんと再開を喜び合いますが、実は嫁さんは落ち武者に殺されていたことが分かります。亡霊には生きている人と同じように愛があり、哀しみがあります。生者と亡者は大差ないという仏教的な世界観も垣間見えます。幸い子どもは無事で、彼は子どものためにも再び真面目に仕事をするようになります。

欲望に身を焦がして大きな夢を描くより、半径5メートルを大切に。と人生の大事なことを考えさせられます。



勅使河原宏監督『他人の顔』の失われた自己愛

仲代達也が会社の偉い人ですが、勤務中の事故で顔全体にヤケドを負います。人と会うときは常に包帯を顔にぐるぐる巻きにしていて、素顔を見せないようにしています。ただ、イライラがつのり、周囲に嫌味を言ったり、不平を言ったりが止まりません。夫婦仲も良くないですし、会社の人との関係もだんだんギクシャクしていきます。

仲代達也が病院を訪れます。医者は平幹二郎です。平幹二郎が若いです。それから、常識人の役をしています。子どものころから平幹二郎と言えば怖い人か悪い人という印象が強い私にとって平幹二郎が常識人の役をしているというのが新鮮です。素晴らしい、本物に見える仮面を作成します。仲代達也はそれによって包帯から解放され、その代わりに完璧なマスクをつけて「他人」になります。もみあげからあごにかけて立派な付け髭があって、『猿の惑星』のコーネリアスみたいになります。職業や家庭などのあらゆる立場やレッテルから自由になった時、人はどうなってしまうのかということもこの映画のテーマになっています。

他人になりきったつもりになって奥さんに近づき、誘惑します。奥さんの京マチ子はその誘惑に簡単に乗り、仲代達也が密かに借りたアパートで情事が行われます。全て終わった後で仲代達也が怒り出します。簡単に他人に肌を許したと怒るのです。一方で、京マチ子は「あなただということは気づいてました」と言い放ちます。夫だと気づいた上で、誘惑されているふりをしていたのだと言うのです。これで夫婦仲が完全に終わってしまいます。男がどんなに別人になったふりをしても、どれほど手の込んだギミックをしても女は全部見通すものだという、原作者の安倍公房の男女観が書かれています。安倍公房は男にとって女とは何かを追及し続けた人と言えるかも知れません。学生時代に随分読みましたが、だいぶ忘れてしまいました。

この映画では、仲代達也夫婦とは関係のない姉妹が登場します。兄と妹が二人で暮らしています。妹はとても美しい人ですが、顔に大きな痣があります。二人で海を見に旅館に出かけ、妹は海に入って自殺してしまいます。

自分とは誰か、ということ、そして自分を愛するとはどういうことかということが、この映画では問われています。愛が赦し、受け入れる行為だとすれば、自分を完全に受け入れることが自分を愛することだと言えます。仲代達也と海に入ってしまった女性はともに、顔に傷を受けてしまった自分を赦し、受け入れることができません。

映画は、全くの別人になれたと信じた仲代達也が秘密を知る平幹二郎を殺し、誰でもない人間として一人、サイコパスのように解き放たれるというところで終わります。人は誰でも、時には全くの別人になりたいという夢のようなことを考えます。そして同時に、私は私であって、それ以外の何者でもないと自分に執着します。完全な別人になることは不可能で、そのような心境で生きていくことは精神的に負担です。かと言って、自分に執着し過ぎるのも健全ではないかも知れません。バランス、ということになりますが、私たちは往々にしてそのバランスを欠いてしまうもので、時には自分に執着し過ぎて過度な自己愛に陥り、時には何もかも馬鹿らしくなって自己を放棄したくなります。少なくとも私はそうです。

この映画では、過度な自己愛に陥ってしまった人物が、今度は180度逆に自己を放棄した状態になる姿を描きます。結局のところ、自分の姿を受け入れられない以上、健全な自己愛が失われた仲代達也に明るい未来は待っていそうにありません。自分の生き方を考える上で、いい材料になる映画だと思います。

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映画『羅生門』の陰影と顔芸と成功する人生

黒澤明監督の『羅生門』がどれほどよくできた傑作かということについては、もはやここで語るまでもないことです。何度みても、その良さにひきこまれ、何回もみているのにもったいなくてよそに目を向けることができません。本当にいい作品です。

なんと言っても陰影の映像美が素晴らしいです。空、雲、太陽、木漏れ日、人の顔、立ち姿。白黒映画なので全部陰影ですから、当たり前と当たり前ですが、白黒のパワーが全開です。立つ姿だけで物語ることができます。台詞がなくても物語ることができます。男の走る姿、女の座る姿、台詞を必要としないエネルギーに満ちています。谷崎潤一郎の言う陰影礼賛が映画になったらこういう感じか、と思ってしまいます。

三船敏郎の顔芸が素晴らしいです。強さも弱さも余裕も窮地も顔で表現できています。顔の彫りが深いからかも知れません。表情だけで物語ることができます。この点は『エリザベス』にも共通したものです。もうちょっと言うと、動きと表情が男のエロスに満ちています。天分なのかも知れません。訓練ではカバーし切れないものを持って生まれてきた人と言ってもいいのではないかと思います。人生とはそういうものかも知れないです。人生で成功するためには「こんな風になりたい」と憧れをもって努力するよりも、自分の天分を見極め、天分のあるものを突き詰めていく方が効率がいいかも知れないということをこの映画を観ると考えてしまいます。

殺される武士の役の森雅之の彫りも深いです。しかし、顔芸が三船敏郎ほど豊かではありません。怒っている時も悲しんでいる時も喜んでいる時もあんまり変わりません。喜怒哀楽の変化を感じさせません。もし、三船敏郎と森雅之のどちらか端整かと問えば、文句なしに森雅之です。彫刻のように美しい顔をしています。しかし、弱さが似合いません。森雅之タイプが弱さを見せれば、単に情けなく見えてしまいます。一方で三船敏郎が弱さを見せるのも絵になります。かわいいやつに見えます。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも時々見せる弱さや困惑が魅力的に映ります。男も女も三船も惚れます。弱さが絵になるというのは実にうらやましいことです。無敵です。やはり、これも天分と考えるのが妥当のように思えます。

京マチ子の顔芸もいいです。京マチ子はちょっとだけ雰囲気が田中裕子に似ていると思います。異論もあるかもしれないですが、仮に原節子や吉永小百合を引き合いに出すとすれば、田中裕子に近いと思います。私の好みが影響していますので、異論のある方に対してはすみませんとしか言えません。泣いても笑っても怒っていても絵になります。京マチ子の説明不可能な魅力は三分の一は訓練、三分の一は魂、残りの三分の一は持って生まれた顔の造形に原因するものではないかと思います。人間が生まれた後で伸ばすことができるのは訓練だけですから、どんなにがんばっても天分のない人は京マチ子になれません。私がいかに努力しようと三船敏郎になれないのと同じです。

霊媒師の岸田今日子が恐いです。本領が発揮されています。絶賛以外の言葉はありません。

誰がどの役にふさわしいかを見極めて適材適所した黒澤明が最終的には一番凄いということなのかも知れません。晩年の『夢』とかぶっちゃけそんなにおもしろくないですし、『乱』もちょっと多弁ではなかろうかと思わなくもありません。そういう意味では『羅生門』は監督の才能、役者さんやスタッフの巡りあわせ、時運の全てがかっちりと合わさって生まれた奇跡とも言えそうな気がします。

人生の成功は持って生まれた天分の見極めにあり、と言えるのではなかろうかと、今回改めて『羅生門』を観て思った次第です。

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