江ノ島の児玉神社の28センチ榴弾砲

お天気のいい日はどうしても江ノ島に行きたくなる。特に冬はそうだ。短い日照時間を利用して外を歩き、美しい自然に触れて体調や情緒を整えることは現代人にとっては特に必要なことのように思える。私のようなそもそも情緒不安定になりがちな、原因不明な体調不良を起こし勝ちな人物なら尚のことだ。たとえばしばらく抑うつ感の強い状態が続いて寝込んだりしてしまうと、セロトニンのレセプターが減少しているはずなので俄かに運動や散策をしても気分が晴れるとは限らない。日々、気分が晴れる運動を続けることでレセプターが増え、セロトニンを取り込むことがやりやすくなり、いろいろな不調は改善しやすくなる。独自の健康に対する理論だが、さほど間違ったところを指しているとは思わない。2020年のお正月期間、江ノ島に日参して実感していることだ。ゴーン逃走についても、江ノ島で考えたし、山口敬之氏と伊藤詩織さんの裁判のことについても江ノ島で考えた。

以前は江ノ島へ行くと言っても江ノ電小田急の駅を降りて江ノ島の見える海岸までたどり着いたことで満足していたのが、何度も通ううちに島へ渡るだけの気力と体力が得られるようになり、更に上へ上へと昇っていく気力と体力も生まれるようになり、そして遂に、ちょっとマニアックなスポットともいえる児玉神社にたどり着くことができた。身近なところに児玉神社。驚きである。

明治新政府は古事記・日本書紀をベースにし、キリスト教を参照して明治天皇を神格化することに腐心したことの一端については、聖徳記念絵画館に関する記事で述べた。明治新政府は新しい神話体系を作ろうとしていた。明治神宮、東郷神社、児玉神社、靖国神社のような場所が存在するのは近代以降の人もまた神になれるということを示し、近代化後の神話体系の確立が進められたことの証左であると言える。本当に児玉源太郎が神なのかどうかは問うても意味はない。そういうことは関係なく、近現代史マニアとしてはシビれる。

特に、28センチ榴弾砲の砲弾が展示されているとなれば、しびれないわけにはいかない。日露戦争の203高地攻防戦はバルチック艦隊の到着以前に完了させる必要があったため、目に見えない締め切りに追われる戦争だった。児玉・乃木コンビは当初、兵力を犠牲にすることを覚悟で行った強襲突撃によって突破しようとしたが、最先端近代兵器である機関銃に前進を阻まれ、あまりの戦死者の多さに戦慄した。まさかこんなことが起きるとは想像もしていなかったのだ。司馬遼太郎は多大な犠牲者が出た責任を乃木に求めているが、必ずしも正確ではない。児玉源太郎もうっかりしていて、乃木の窮状に気づくのが遅かった。彼らは日清戦争の時と同様に、気合と統率でなんとかなると思い込んでいたのかも知れない。乃木がどうしていいのか途方に暮れてしまい、攻めるに攻めあぐねる状況に陥ってしまったとき、満州方面の主戦場で指揮を執っていた児玉源太郎が短期間、旅順方面に出張してきた。児玉は当事者能力を半ば失っていた乃木に代わり、作戦を指揮して内地から届いた28センチ榴弾砲を使用して203高地を猛爆し、突破口を開いた。

あまり称賛すると思想的に偏っていると思われてしまうので、この辺りにしておくが、上記のエピソードにはしびれざるを得ない。要するにどうしていいか分からなくなってしまったが、なんとかしなければならないという絶体絶命の時にトリックスターの如くに現れた児玉源太郎がさっと指揮をしてなんとかしたのが203高地と28センチ榴弾砲のエピソードというわけなのだ。児玉神社という言葉の響きからは、困ったときになんとかしてくれそうな霊験がありそうな気がするではないか。本当に霊験があると思って頼ってしあったらオカルト主義者みたいに思われてしまうが、霊験がありそうに思えるだけならセーフだ。

そういうわけで、児玉神社に28センチ榴弾砲の砲弾が展示されているというのは、それは正しく児玉の「なんとかする」パワーの象徴であり、まことにふさわしいのである。



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台湾近現代史18 台湾売却論と内地主義

1895年、下関条約とその後に続く台湾民主国平定戦を経て、日本は台湾を名実ともにその施政権下におくことになります。しかし、当初想定していたようなはかばかしい成果を得ることは簡単なことではありませんでした。

樺山資紀が台湾平定戦を終えると初代台湾総督の座を退き、乃木希典が二代目の総督に任命されますが、どうもあまり政治や行政に関する理解に乏しかったらしく、何をどうしていいかよくわからないという感じだったようで、早々に退任願いを出しています。

当初、原敬などは台湾統治に対しては内地主義を主張しており、これは要するに台湾の法体系を日本国内のそれと同じものにするべきだという考えで、そこには差別なき平等な社会という理念もあったのですが、いろいろな意味でうまくいきません。簡単に言えば台湾で暮らす人々の習慣や価値観と急速に西洋化した日本の法体系が合うかどうかという問題もありましたが、仮に完全に内地と同じという方針で行くとすれば、税金や徴兵の制度も同じにするのか、では参政権はどうなのかというちょっとややこしいこともいろいろ出てきます。

世界の例をとってみるとフランスは言わば内地主義で、世界中どこであろうとフランス革命の理念の恩恵を施す一方という建前で推していたわけですが、イギリスの場合は逆で現地主義で行きます。それぞれの土地の事情に合わせ、支配地の法律上の立場も直轄領、自治領、保護国など様々な名称を使い分けています。日本は当初フランス式でやろうとしたわけです。

乃木希典が全然仕事ができなかったことで、日本人はわりとすぐに結論を出したがるところがあるように私には思えるのですが、先を思いやられる台湾経営は諦めてフランスに一億元で売却してはどうかという議論が沸き起こってきます。帝国議会でもそういう発言があったようですが、どうも当時の新聞の方が熱心だったかも知れません。日清戦争で得た巨額の賠償金で日本は産業革命を促進していくことができたわけですが、お金の魅力にまいってしまっているところがあり、もちろんお金は魅力的ですが、ちょっと執着が強くなっている様子で、金だ。金だ。みたいな世論が生まれてきます。日露戦争で賠償金をとれなかったことで日比谷焼き討ち事件にまで発展したのは、以上のような流れがあったからとも言えるかも知れません。

日本の世論が台湾売却論で湧いていると知った台湾・厦門の資産家たちは数千万円の資金を集めて自分たちで台湾を買い取ろうという運動を始めたと言います。彼らの動きはなかなか合理的だと感心しますが、おそらくはそういう動きを受けて日本側が冷却水を浴びせられたようになり、まじめに台湾経営に取り組もうという流れが出て来たかのようにも思えます。

乃木希典が退いて児玉源太郎が第三代台湾総督に選ばれますが、彼は後藤新平を民生長官に任命し、そういったごたごたしたことを何とかするように命じられます。後藤新平は現地の諸事情をかなり細かく調べた結果、土地に合った法と行政の仕組みを用いるのがよりよいとの結論に達し、そういう方向で進められていきます。台湾日日新聞に日本語だけでなく漢文のページも入っていたというあたりにも、ある種の配慮が感じられます。

こうした台湾は50年近い日本の植民地支配を受けることになりますが、その前半においては軍人が総督に就任する武断的スタイルで、後半では文民が総督に就任する文治的スタイルになり、少しずつ日本の文化や価値観などが台湾に輸入されていくことになります。

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