歴史の中でいつから中華帝国とヨーロッパ諸国のテクノロジーの強さが逆転したのでしょうか?また、現代はどうでしょうか?

17世紀前半ごろ、日本が未来永劫カトリックを追放すると決心しスペインとポルトガルを拒絶し、オランダとイギリスに対して管理貿易のみを許可するという強気の態度で臨んだ結果、ヨーロッパは反抗できませんでした。蛇足ですがイギリスが日本との貿易から姿を消したのはオランダとの勢力争いに敗れてしばらく太平洋で活動できなかったからです。それぐらい当時のヨーロッパは弱かったのです。

で、19世紀前半ごろ、イギリスはでアヘン貿易を好き放題やりたかったのでアヘン戦争を起こして勝利したわけですが、日本の幕閣たちはアヘン戦争の報に接しヨーロッパは強いという認識を持つようになったそうです。

ということはこの200年の間に何かが起きていたわけですけれども、言うまでもなく産業革命がヨーロッパで始まったことが大きいと思います。日本も追いかけるように産業革命に成功し、列強入りしていきます。

さて、今起きていることですが、20世紀、中国は何度か産業革命を起こそうとして果たせず、21世紀に入り、新時代の産業革命をやっているところだと思います。

さて、中国と欧米のどっちが先を行っているかということですけれども、多分、まだしばらくの間は欧米が先を行っていると思いますが、その先はやっぱり雌雄を決することになるのではないかなあと思います。言うまでもありませんが、中国対欧米であって、日本が出る幕はないですね。



儒教⽂化圏の問題提起が近代化に与えた影響は何ですか。また、 それは現代のアジア社会において有効だと思いますか?

北京大学で起きた反日的愛国運動を五四運動と呼び、その中心になつたのは北京大学関係者たちで作った新青年という雑誌でした。魯迅の弟の周作人が、与謝野晶子の貞操論と呼ばれるエッセイを中国語に翻訳し、それが新青年に掲載されます。このエッセイでは、親に決められた結婚相手と一生暮らし、心の中でほかの相手を想っているのは、とんでもない浮気者で、自分の意思で結婚し、好きな人と一途に結ばれることこそ真の貞操観念で、仮に相手のことを好きではなくなつたら離婚した方が当人たちのためであるというような内容だったのですけれど、編集サイドは読者に意見を求めました。中国社会も与謝野晶子の言うような価値観を採用すべきかどうか誌上で討論しようと言うわけです。私は掲載された投書を全て読みましたが、その大半は自由恋愛は家制度の維持という観点から望ましくないと言うものでした。中華圏は家制度について日本人よりも遥かに深刻に考えていますが、実際、近代化された後の中華圏の様相を観察する限り、台湾香港もシンガポールもご本家中国も出生率は1程度に落ち込んでおり、家制度の維持などとてもおぼつかない状態になっています。儒教的家制度と近代化は両立しないと思います。どちらが正しいのかというより、どちらを選ぶかと言うことかなと思います。



富裕層が1億人超えた中国では、寄付文化の現状は、どのようなものですか?

深く考えたことはないですが、華人社会では赤の他人にチャリティするという価値観は根付きにくいと思います。血縁、紹介、コネを頼るのが普通なので、たとえば大都会で「李おじさん」が会社経営をして成功している場合、親戚の息子さんとか、その親友とか、田舎の帰省先のご近所の息子さんとかが「李おじさん」を頼って都会に出てきます。で、李おじさんは後見人となっていろいろ面倒を見てあげることになり、助けてもらう側はその恩義に応えるために一生懸命働くというようなことになります。やがて自分が年を取れば、若いころに助けてもらったみたいに後続を助けます。血縁にそういう人がいない場合、誰かと義兄弟の契りを交わし同じようなネットワークを作ります。大袈裟なものだと秘密結社になります。そういうわけですから、ネットワークがないと生きていけないのが普通であり、大抵の人は何らかのネットワークに所属しているため、そこで助けてもらえるのが普通であり、もしネットワークが全くない人物がいたとすれば、それは本人のそれまでの生き方が反映されていますから、自業自得と思われて見捨てられます。台湾映画の蔡明亮『郊遊-ピクニック』という映画でそれがとても良く表現されていると思います。



溥儀と宦官

最近、どういうわけか、なんとなく宦官に関する書籍を何冊か読んだ。宦官は今となっては過去の時代のもので、ましてや日本には関係がなく、今さら宦官に関する知識を得てもしかたがないといえばしかたがないのだが、清末期の中国の歴史を知りたいと思った際に、宦官について多少の理解を持つことは有効だと言えるだろう。また、20世紀後半くらいまでは2000年続いた宦官の最終世代がまだ生きていて、インタビューも複数残っている。彼らは光緒帝とか溥儀とか西太后に仕えた経験があるので、生き証人としても貴重なため、インタビューもまた興味深い。インタビューを参照した論考も多い。

で、いろいろ読み進めるうちに分かってきたことは、宦官に対する考え方によって、その記述が大きく異なってくることだ。宦官は男性器を失っているがために、欲望の向かう先が富と権力へと先鋭化していき、そのため貪欲で、しかも権力者の近くにいるため影響力を発揮しやすく、国家の意思決定にも関わるが視野が狭いため最終的に国家を滅ぼす。ホルモンバランスも崩れているので外見や声なども異様。異形の者に操られる末期清王朝。みたいなイメージで描かれていく。

一方で、宦官には宦官の美があると考える書き手もいる。そもそも宮廷内部で勤務する宦官は眉目秀麗であり、おっさんくさくなることは絶対にない。ホルモンバランスが未知の領域なので、美しさもまた絶世の感あり。従ってモテる。最上級の王宮で仕事をしているため、マナーに詳しく気品に溢れている。教養もある。見た目よく、中身よく、マナーもできるのだから、結構完璧な存在だとすら言えるだろう。たとえば浅田次郎さんの蒼穹の昴で登場する宦官は、そういうタイプだ。宦官に憧れる人すら出てきそうな勢いだ。

私が読んだ宦官関連の本から得た感想としては、宦官が清朝の運命を左右するような決定的な意思決定にか関わった痕跡はどうもないらしいということだ。たとえば義和団事件の際に、清朝が列強に宣戦布告をするというような場面で宦官がああするべきだ、こうするべきだなどと述べていたなどの話はない。辛亥革命の際、もっとも影響力を発揮したのは袁世凱だが、袁世凱は宦官ではない。

宦官が宮廷内部でアヘンを売って儲けていたというエピソードはあるが、資本家になったというエピソードはないから大きな視点から見れば小商いに過ぎないとすら言えるだろう。

溥儀が宦官と遊んでいた話は多いが、宦官は基本的に奴隷みたいな存在なので、ひたすら溥儀の意思に合わせて行動するのが宦官だ。皇帝にとって宦官は奴隷であると同時に友達だ。しかし政治の相手ではない。

「最後の宦官」という呼ばれ方をした宦官は何人かいて、本当に本当の最後の人が誰なのかはちょっと悩ましい問題ではあるが、その中の一人に李連英という人物がいて、映画になっている。西太后に仕えた彼は、映画の中でどこまでも優しく西太后を包み込むような存在であり、西太后は体調不良の中、李連英におんぶされて最期を迎える。自分が一番弱っている時に体を預けることができるのが宦官というわけだ。中国映画なので、宦官がどういうものかというイメージはより我々よりも実感がともなった感じになっているとは思うのだが、宦官は優しく穏やかで、滅私奉公の精神を貫いている。ここまで徹してくれるのであれば、ちょっとくらいお金持ちになって余生を暮らしてもいいんじゃね?と思えるレベルだ。

『覇王別姫』という梅蘭芳を題材にしたで登場する宦官は、清朝が滅亡したことへのやり場のない怒りを抱え、男性器を失っているためにやはりやり場のない欲望の処理に困り、不正蓄財は思いっきりしているので、それで美少年を買い続けたりしてやがて破産する。この映画での宦官のイメージは悪いというか、かなり気の毒なものだ。但し、中国映画の場合、辛亥革命以前の権威は原則否定されなければいけないので、溥儀のことも西太后のことも大抵は思いっきり批判的な視線で描かれている。中国映画を観ると、清朝関係者は全員最低な人間ばかりみたいな錯覚すら起こしそうになる。実際はどうかは知らないが、全員最低ということはさすがにないだろう。ということは上にあげた李連英の映画の方がやや異色なのかも知れない。史上最悪のイメージの西太后と李連英の心温まる日常というのは、案外と新鮮かつチャレンジングな内容なのだろう。

エドワード・ベアは溥儀の伝記を書くために宦官に取材して思いっきりキレまくられてしまい、インタビューそのものが破綻してしまっている。エドワード・ベア自身の東洋人蔑視も酷いので、宦官の方が心を開いてくれなかったのだろう。エドワード・ベアは田中上奏文が本物だと信じていたような人物なので、あんまり相手にしても仕方がなさそうな気もする。

中国人の賈英華が溥儀に仕えた宦官の孫耀庭にインタビューした時は、結構なんでも赤裸々に親しい感じで話ができているようなので、やはりインタビューはインタビュアー次第なところもありそうだ。このインタビューを読むことで宦官に対する理解はかなり進むのではないかと思える。宦官について知りたい人がどれだけいるかはわからないが、中国近現代史の理解にもつながるので読んで損はない。溥儀の私生活についてかなり突っ込んだことを話しており、私は政治上のアクターとしての溥儀には関心はあるが、彼の私生活には関心がないため、あんまり詳しく述べられても食傷してしまうのだが、溥儀の人物像を知る上では確かに有効だ。

最後の宦官で有名な人でもう一人、小徳張という人がいるのだが、その人に関連する本はまだ読んでいない。読んでみて、新たな知見が得られたらブログに備忘として書き残したい。



張学良をやや深読みして日中関係を語ってみる

毛沢東の率いる中国共産党の打倒に王手をかけていた国民党の蒋介石を誘拐し、国共合作を約束させ中国人が一挙団結して抗日を目指すようになった西安事件は、その後の中国の運命にも日本の運命にも大きな影響を与えたできごととして記憶されている。しかし、事情が複雑すぎるためそれを簡潔に、或いは要点だけを絞って語るのは案外に難しい。当該事件の本質にかかわると思える点について少し述べ、そこから導き出せる現代史の一側面に切り込んでみたい。

事の本質は張学良氏が生き永らえたという一点に絞ることができるだろう。張学良は楊虎城と共謀して蒋介石の誘拐を決心したが、決心する過程においては中国共産党とも密に連絡を取り合い、周恩来の全面的なコミットメントがあったことも知られている。張学良が共産党のエージェントであったと指摘する人もいるが、それは事件が起きるまでに張学良・楊虎城サイドが周恩来と信頼関係を築くことに相当な努力を積み重ねたらしいからである。この三人が何を語り合い、どの程度の合意に達し、いかほどに信頼しあっていたかは不明だと言えるが、事件の前に何度も会っていることは確かなのだ。更に言うと、蒋介石が国共合作の決心を固めたのは監禁されているときに周恩来との会談をしてからのことのように見受けられるので、張学良よりも実は周恩来が事件の黒幕だったのではないかとすら勘繰る人もいるわけである。今となっては誰が黒幕だったのかというのはあまり大きな問題ではない。仮に張学良が全て自発的に企てていたとしても、或いは周恩来が黒幕であったにしても、起きた結果は同じなので、今さらそれを変えることはできない。ただ、そのあたりについて考えることを通じ、未来志向的に物事を見ることができるかどうかの思考実験をやってみたいのだ。

そしてその本質は、繰り返すが張学良が生き延びたという一点に絞り込むことができるのである。蒋介石が国共合作の決心を固めた後、張学良は中国人としての愛国心に突き動かされ、内戦の拡大を予防するためにも蒋介石とともに西安から南京へと移動し、南京で逮捕され軍法会議にかけられたというのが時間軸的な流れなのだが、楊虎城は蒋介石の解放には慎重であり、様々な保証を求めるべきだとして張学良と対立した。張学良と楊虎城はどちらも事件後に監禁される運命をたどるのだが、楊の方は1949年に国民党の特務機関によって家族とともに惨殺された一方で、張学良は台湾で半世紀にわたって監禁され、最晩年はゆるされてハワイで過ごした。

何が両者の運命を分けたのだろうか。張学良は蒋介石とは以前から盟友関係にあり、事件を起こした動機も愛国的民族主義的な近代的理想的中国人の心情によるものであり、蒋介石に対しても誠実であろうと務めたために命だけは助けられたと見ることはできるかも知れない。それはある程度、本当なのだろうと思う。事件が起きる前、張学良は蒋介石に次ぐ地位にあったし、蒋介石は台湾で時々張学良を訪問して語り合っていたらしいので、二人には人間関係が構築されていた。このような張学良神話に触れると、おくびょうな楊虎城は私利私欲がどうしても出てしまってぎりぎりのところで蒋介石にゆるされず殺されたかのような印象が残ってしまうのである。

楊虎城は1949年まで生きていたのだが、国民党が台湾に去る際に行きがけの駄賃みたいに殺害されたようにも見える。蒋介石と周恩来の間で合意されていたことが、1949年には破綻し、それまで命を保障されていた楊虎城の保護条件が失われたために殺されたと見ることもできるだろう。一方で張学良は最後まで命の保障条件が生きていたために生き延びたのかも知れない。だとすれば全てのシナリオを描いたのは周恩来だったと想像することもできる。

張学良は現代中国では英雄である。彼が張作霖から受け継いだあらゆる遺産と権利をかなぐり捨て、西安事件を起こし、その後の監禁生活に甘んじたことは、結果として中国を日本の侵略から救ったとして歴史の教科書に載るくらい立派な人物ということになっている。もちろん、それは嘘ではない。ただ、楊虎城と張学良の運命の違いは何だったのだろうかと多くの人には疑問に残るはずである。蒋介石と周恩来は何を話し合ったのだろうか。

以上のような疑問を提起はしたが、解決する術はない。張学良もこの点は特に秘匿し誰にも話さなかった。張学良を知る人は多いが、上の疑問に答えられる人物はいない。おそらく張学良本当に誰にも話さなかったのだろう。話が上手な人で、客好きで学問もある人だったと言われているが、彼は核心に関わる話題は慎重に避けたようだ。NHKのインタビューでもインタビューする側がそのあたりで非常に苦労したことは後の著作で述べられているし、中国人の大学教授が張学良にインタビューしたものも読んだことがあるが、事件以外の思い出話に終始していて、当時の中国の様子を知ると言う意味では面白い内容だったが、事件の核心を知りたい人にとっては全く役に立たない内容だった。

しかし、そのように情報が限られているからこそ、張学良が無私の人で、愛国心だけに突き動かされて西安事件を起こしたとする神話には磨きがかかり、多くの中国人の尊敬を集めるに至っているのである。晩年の張学良は多くの人の訪問を受けていて、台北に友人は多かったようだが、そのような厚遇を受けたのも張学良愛国神話が生きていたからではなかったかと思える。私は張学良氏をdisるつもりはないので、張学良氏本人の人間的な魅力も多いに彼を助けたに違いないということは付け加えておきたい。彼が西安事件を起こした背景の全てを知ることは不可能だが、動機の一つとしては張作霖の後継者として奉天軍閥の長として認識されるより、より近代的な愛国的行動者として記憶されたいというものがあったはずだ。愛国的行動はモダンでファッション性があったのだ。張作霖は日本の歴史で言えば斎藤道三のような実力主義的戦国大名みたいな感じだが、張学良はそれよりも織田信長のような見識のある、かつ繰り返しになるがファッション性のある存在になりたかったのではないだろうか。それについて私には悪い意見はない。愛国主義的行動にファッション性があると認識できただけでも、彼はモダンな中国人だったと言うことができるし、それを実践したのだから、氏の行動力も抜群である。

さて、このようにみていくと、日中関係史を考える上で極めて重要な点、そして日本ではあまり語られていない点が浮かび上がってくる。中国は1840年のアヘン戦争からその後100年にわたり列強の侵略を受けて弱体化した。多くの日本人が、世界の強国が中国を侵略したにもかかわらず、なぜ日本人だけ永遠に憎まれ続けるのかよく分からないと首をかしげるのは、このような歴史的展開があったからだ。だが、1840年ごろの中国と1940年ごろの中国では全く違うことが一つだけある。1840年ごろ、中国の支配者は満州人であったため、中国愛というものはあまり重要ではなかった。清朝は朝廷を守るという発想法のもとに外交をしたかも知れないが、中国を守るという発想はなかった。一方で1940年ごろの中国は愛国に目覚めた人々が増加していた。文化革命では愛国無罪という言葉多用されたらしいのだが、愛国主義がさほど大きな説得力を持つようになったのは1920年代から40年代にかけてのことである。もうちょっと言うと、第一次世界大戦後の世界は中国に対する不侵略で合意し、9か国条約によって中国の領土保全などが決められた。列強はそれ以上の侵略には二の足を踏むようになった。一方で日本は第一次世界大戦で戦勝国と認められ、ようやく列強の仲間入りを果たしたところである。対象が中国であれシベリアであれ国際法によって拡大に制限がかけられることには不満があった。袁世凱政府に対し日本は対華21か条の要求というものをして世界中からドン引きされてしまったが、そのような動きの背景には第一次世界大戦後の新しい国際秩序の存在があったのである。日本は新世界秩序の抜け穴を探そうとし、列強は新世界秩序に馴染もうとしない日本を警戒するようになった。中国人の目からすると、愛国主義が盛り上がる中、日本だけが中国侵略をいつまでもやり続けようとする最大の敵に見えるようになったのだと言ってもいいだろう。

従って、中国にとって、反日・抗日は中国の近代的愛国主義にとっては最大のテーゼであり、現代中国を語る上では国民党であれ共産党であれ、愛国主義とその絶対的な敵としての日本を語らないことは不可能なのだと言えるだろう。

このような事情について日本人が同意するか同意しないかは別の問題なのだから、異論を唱えることは自由だ。しかし、事情を知らなければ異論を唱えることもできないどころか永遠に解けない疑問の前に立ち尽くすしかなくなってしまうのである。

以上のようなわけで、その愛国主義の最大の功労者が蒋介石に国共合作を決心させた張学良ということになっている。そしてこの愛国主義は今も生きている。昨今の香港での出来事は、共産党サイドからすれば愛国主義的統合が絶対的な正義だと信じるが故に、妥協なく香港の中国化を推し進める動機になっているわけだし、実は多くの香港人も愛国主義を主張されるとたじろいでしまうのだ。そのような中国的ナショナリズムに対抗しようとすると、台湾で以前よく見られたように「我々は中国人ではない」と主張しなくてはならなくなる。自分が中国人だと認めれば愛国主義と民族主義の理想から北京政府との統合・統一に異を唱えることができなくなってしまうからだ。

以上のようなことを知っておくと昨今の中国事情とか香港事情とか台湾事情もより見えやすくなると思うので、ご参考にしていただきたい。




日中戦争1 日中戦争前史‐北京議定書

日中戦争は言うまでもないことですが、1937年に突如として起きたものではありません。そこへ至るまでに何十年もかけて蓄積された圧力のようなものが存在します。

以前、学生から「一体、いつから日本が中国に侵略していくようになったのか?」という趣旨の質問をされた時に、はて、どこから話せばいいのだろうかと考え、私はやっぱり北京議定書から始めるのがいいのではないかと考えるようになりました。

日清戦争から始めても決して間違ってはいないとは思います。ただ、日清戦争はその後の日本の浸食とは性質がやや違うように思います。日清戦争が起きた時、中国は既にアヘン戦争を経験した後の時代で、欧米からの浸食を受けてはいましたが、それでも東アジアの覇権国だという位置づけに違いはありませんでした。日本は新興国の挑戦者であり、両者が朝鮮半島に対する影響力を巡って争ったわけですから、覇権争いの戦いだったと言えます。

一方で、日中戦争は日本側から一方的にフルボッコをかましていこうという戦争をして、まあ、最終的には日本がフルボッコされたわけですけれども、いずれにせよ、日本がいつから中国をフルボッコにして利権を得ようと言うようなことを始めたかということをずっと辿って考えてみると、1900年の義和団の乱がその始まりなんじゃないかという気がします。義和団の乱はわざわざ説明する必要はないと思いますけれども、日本と欧米からどんどん浸食されている中国で、排外的な勢力が叛乱を起こし、普通だったら清朝がそれをなんとか取り締まるはずなんですが、清朝の西太后なんかはこれは外国人をやっつける好機だと思って列強に宣戦布告してしまうという、かなり行き当たりばったりで無計画な戦争状態が中国内部で始まってしまいます。

列強は一致して事態の収拾に臨み、清朝の皇帝と西太后とかは父祖の地である熱河まで避難して、取り敢えず列強が義和団の乱を抑え込んで、清朝とも講和しようという流れになります。『北京五十日』という古い映画があって、この映画でこの一連の事件のことを描いていますが、伊丹十三さんが日本軍の指揮官をやっているんですが、今思い出すと、中国人に対する偏見丸出しで、あんな映画を本当に作っていいのかという疑問もわいてくるんですが、それはともかく、この講和の際に、列強の兵力が中国に進駐すること、海岸地帯の租界から北京まで外国人が安全に通行できるように、そういった辺りにも外国の軍事力が進駐することなんかが決められるんですね。

これが、中国に対して侵略的に日本が入っていった第一歩なんじゃないかなと思いますし、当時、学生にはそんな風に説明しました。

その後、対華21か条要求とか、九か国条約とか、張作霖事件とか、満州事変とか、そういうのが折り重なって複雑怪奇な状態になっていくんですが、それはまた次回以降について考えてみたいと思います。




【英語メディアウォッチ】英語メディアで中国はどう報道されているのか

今日、chinaというキーワードを軸に英語メディアで中国について英語圏でどんな報道がなされているのかをざっと見てみました。いわゆる中国脅威論は想像していた以上に強く打ち出されており、やや驚きでした。スリランカの港の租借がいろいろな意味で注意を集めたらしく、ネオ・インペリアリズムと表現しているものにも出会いました。一帯一路についても、その延長線上で語られているものが多く、全体的に「気をつけろっ」的なものが多いような印象です。

中国オワコン説みたいなものもあまり多くはありませんでしたが、論じられているものを見つけることができました。中国の経済成長の鈍化について異論のある人はいないとは思います。

で、米中対立は結局どうなるのよ?というところに議論が行くわけですけれど、ここは何とも言えないお互いこれから剣が峰、みたいな雰囲気のものが多かったです。数年前なら「アメリカ余裕。中国はまだまだ」が普通の見方だったと思いますから、中国の存在感は相当に大きくなったと見ることもできると思います。ドナルド・トランプ氏が2020年には再選できるかどうか、国内で奮闘しなければならないのに対し、習近平氏は終身国家主席なので、国内の権力基盤では習氏有利。従って米中対決は中国に利があるとする内容のものもありましたが、アリババがアメリカで成功しなかったことを取り上げて「やっぱダメじゃん」という意見もみられました。どうも米中対決の行く末を占うにはまだ早いようですが、米中乖離はある程度進行しているようです。しかし、しかしです。中国には現在、3億人の中間層と、富裕層が少なく見積もって1億人くらいいるわけで、中国は今や世界一の内需国に成長しています。アリババはアメリカで商売できなくても、別に中国で商売できればいいじゃんと割り切ることもできるわけです。

個人的に中国脅威論を無用に煽るようなことには興味はありませんが、英語メディアで中国脅威論がかなり広がっているということは驚きでした。また、中国有理論も強く、複合させて考えるとすれば、米中は乖離していて、中国有利、これはとんでもないことになっている、うかうかしていられない、という風になっているわけですね。で、関税戦争ではむしろアメリカが返り血を浴びているという風に脅威を煽っているという印象でした。どっちが勝つのか、或いは穏やかに収まるのかはもうしばらく様子を見ないと分かりません。ソフトバンクの孫さんが両張りしていたのはさすがと言うべきとも思えます。

私事ですが、今日は体調不良でやむを得ず自宅で英語メディアをチェックして過ごしましたが、これはこれでブログやyoutubeで発信できる分野だなあと思いましたので、これからも時々やってみたいと思います。英語メディアウォッチをした日は体調不良で寝込んでいた日です。もう少し、youtubeの配信にも慣れて来たら、中国語メディアウォッチも合わせ技でやってみようと思います。一応、歴史中心の教養系のつもりなので、元気な時は歴史の方もがんばります。




2019年、中国経済は旧正月明けに注目

たとえば日本のバブル崩壊がお正月休み明けにあったのが分かりやすい例ですが、中国の場合は似たような現象が旧正月明けに起きやすく、そろそろ注目かなと思っています。お正月休暇の時期に入るとみんな少し休んで心理的に余裕が出ますから、さて、今後どうしようかと考えることになるわけですが、中華圏の場合はそれが旧正月ということになり、親戚一同集まりますから、資産形成の話題ものぼるわけです。たとえば息子さんがそろそろ大学に進学するような年齢になるということになれば、資産を売却して息子さんの留学費用を捻出する、みたいな話題にもなるはずです。特に中華圏の少子高齢かはすさまじい速度で進んでいますので、息子さんや娘さんへの投資が半端ではなく、子どもの留学のためなら今まで土地バブルなんかで得た含み益確定売りみたいなことは充分に起きるというか、バンバン起きると思ってちょうどいいと思います。

米中貿易摩擦がどうしたとか、中国の貿易統計が目に見えて現象しているとか、下げ材料もたっぷりあるわけで、今年の旧正月明けは何が起きるかちょっと注目と考えています。そうは言っても株でも土地でも急落防止のためにいろいろな手も打たれて行きますし、良いか悪いかは別にして共産圏だと議会を通さずにばんばんを手を打っていくこともできるわけですから、旧正月にわらわらと崩壊していくみたいなことはちょっと考えにくいことも忘れるわけにはいきません。

もちろん、上げ材料もあります。減税に金融緩和をやれるだけやっていく方針らしいと聞いてますから、手短かに話を省略して言うと、日本のリフレ派がやるべしと主張していることを、中国ではバンバンやっていくことになりそうだし、日本のリフレ派の主張を勉強しているのではないかと思うほど、そういう手の打ち方をしているように思えます。

で、結論としては下げ材料がどかっとある中、上げ材料もなくはないという状態で、旧正月明けでどういう動きが見られるかに注目かなあと思います。ここまで下げ材料が揃っている中、踏みとどまるか、ある程度、崩壊現象が起きるか、みたいなところでしょうか。

何年か前に上海総合指数が急上昇してばんっとバブル崩壊みたいな状態が起き、その時も「お、中国崩壊か」みたいな話がばーっと出回りましたが、話はそこまで単純ではありません。ま、いずれにせよどうなるか、ちょっと見て行きたいなあと思っています。香港、台北、シンガポールも連動しますんで、その辺りも含んで見て行く感じになると思います。









【中国】2049年までに台湾と統一‐武力行使も辞さない‐ということは、当面は何もない

2019年に入り、中国の習近平氏が2049年までに台湾と統一することを目標にすると述べたことは、表面的な強気な発言だけに注目した場合、中国の強い意志の表明のように見えなくもないのですが、ちょっとよく考えてみると、2049年まであと30年あるわけです。ということは、当面は統一するために無理はしないと発言しているように思えなくもありません。「3年以内」とかだと驚きますが、30年以内ですから一世代未来のことですね。

昨年あたりは2020年中国台湾に武力侵攻説みたいなネット伝説的噂が広がったことがあって、「わー、本当だったら具体的に着々と進んでいる」と思ったこともありますが、2049年まで余裕のある目標設定がなされている以上、2020年武力侵攻説は、まずなさそうな感じです。

ではなぜ、習近平氏がわざわざ30年未来の目標について発言したのだろうかと考えてみると、取り敢えず年頭に何か強気なことを言わなければいけないんだけど、何を言おうかなあ、あ、そうだ、30年以内に台湾と統一ってことでどうかな。と思ったんじゃないかなと思います。

私は30年後に生きている自信はないので、ぶっちゃけ自分が死んだ後のことはどうでもいいのですが、習近平氏も多分、30年後に目標設定したことで、当面は何もしなくていいやーと思っているような気がします。私が誤った理解をしていたら謝ります。すみません。

2049年は中華人民共和国建国100年ですから、きりもちょうどよく、すっと聴衆に受け入れられやすいのではとも思いますが、「30年以内」と「2049年まで」では、聞いた瞬間の印象が異なります。そのあたりの細部の計算はさすがだなあと思わなくもないですね。









【漢文】易経とは何か

私は現代中国語ならかなりのレベルで使いこなす自信はあるのだが、漢文が読めない。詳しい人に相談したところ、現代中国語と漢文は全く違うものなので、別途勉強しなければ永遠に身につかないという厳しい現実を教えてもらい、夏休みを利用して漢文の肝になるところだけでも教えてもらうことにした。

で、一発目に教えてもらったのが易経についてである。いわゆる四書五経の一つに入る。で、この易経というのがなかなか奥が深いのだが、漢の武帝の時代までは六経で、武帝の時にされて五経になったらしい。隷書で書かれているそうだ。で、五経博士という特権的専門家が五経研究というのをしたわけだが、鄭玄という人物がこの五経に注釈をつけている。あまりに見事な注釈であったため、経神と呼ばれるそうだ。

で、易経なのだが、明朝以前は周易と呼ばれていたという。周の時代から存在したからだ。伏義という伝説の男(三皇五帝の三皇の一人で、厳密には三皇は「神」の部類に入るそうな)が八卦という占いを編み出したのだが、八卦は方位天地、神羅万象を表すもので、陰陽五行道の原点でもあり、今の韓国の太極旗のマークと同じものを使って方角を見て吉凶を占うというのをやっていた。で、周の時代に文王が64卦に増やしている。八×八で64だから、それだけ細分化して占いの精度を上げることになったということらしい。更にこれを孔子が究めたのが『十翼』と呼ぶのだが、このように時間をかけて洗練されて作られたのが「易経」なのだそうだ。

従って、極めて制度の高い占いの手引書として今に至るまで信用が高く、日本では当たるも八卦当たらぬも八卦と言われるが、中華圏ではもっと精密なものとして扱われている。また、よほど訓練を積んだものでなければ易経を体系的に使用できないので外すのであり、充分に訓練を積めば、かなりの確率で当たるのだという。易占いは確率論であり、たとえば明日告白してオーケーをもらえる確率は〇〇%みたいな感じで出てくるので、イエスかノーかの結果が出るものではない。しかし、それだけにかえって信憑性が高いのだと言えるかも知れない。今でもスポーツの試合でどちらか勝つかに八卦を用いるという人がいて、とある人がやってみたところ「分からない」という結果になり、その試合は逆転に次ぐ逆転の接戦を繰り返し、占いの結果が「分からない」というのも納得であるとの説明をされた。

私は四書五経は知っていたが、そのうちの一つが易だということを知らなかった。いや、ぼんやりとは知っていたが、それが占いだということに気づいていなかった。漢文の易経の存在は知っていたが、中身については何も知らず、言われてみれば易と言えば占いではないかと、説明されて気づいたのである。それだけでも大発見というか奥深き中国古典の入り口に私はようやく立てたわけだが、果たしてそんなに奥深いものをどこまで追求できるのか…自信はない。よく中国の世界観は孔子の時に完成してしまい、以後、変動しないというような言い方をする人がいるが、納得できる。