世界史において権力のあり方が複雑過ぎた地域、時代にはどのようなものがありますか?

たとえば中世ヨーロッパでは、ローマ教皇の権力と神聖ローマ皇帝の権力がせめぎ合い、1077年にはローマ教皇グレゴリウス7世と、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が対立した結果、ハインリヒ4世はローマ教皇から破門されるという事態に至ったことがあります。ハインリヒ4世はカノッサ城に滞在中のグレゴリウス7世に赦しを請うため、裸足で3日立ち続けたと言われています。尚、最近の研究では裸足で3日間立ち続けたかどうかについては疑問視されています。それはそうとして、これをカノッサの屈辱と呼びますが、教皇権が皇帝権を超越していることが明らかになった事例のように言われたりします。とはいえ、後にまきかえしたハインリヒ4世はローマに進撃し、グレゴリウス7世はローマから逃亡していますので、武力があれば教皇権に勝てることを証明した事例であると考える方がいいのかも知れません。

さて、中世ヨーロッパの権力関係はかくも複雑なものでしたが、これと同じくらい複雑であったのが日本の権力関係ではなかったかと思います。たとえば白河上皇が始め、後白河法皇の時代に絶頂期を迎えた院政期、名目上の主権者は帝でありながら、帝の眷属であるとの立場で法王が実権を握り、しかし実際には院の近臣が政治を動かしていて、その外側には藤原摂関家がいて、平家がいて、気づくと源氏が将軍になってると。複雑すぎてわけわからんわけです。こんなの外国人に説明できません。

これよりはもう少しましですが、19世紀、諸外国の艦隊が日本にやってきたとき、徳川幕府は将軍のことを大君と呼び、英語ではtyqoonと表記され、tyqoonとは即ち日本国皇帝であると理解されたのですが、よくよく観察してみたところ、京都に朝廷があって、江戸に幕府があり、tyqoonは江戸の幕府の頂点でしかなく、京都の朝廷から政治権力を委任されている、つまり首相のような存在であるということがわかってくるわけですね。ところが実際の政治は大君がやっているのではなくて、老中がやっていて、大老のような臨時職がもうけられることもあって、彼らが独裁的に日本国の意思決定をしているにもかかわらず、どういうわけかコンセンサスが形成されていくわけです。多分、当時のペリーやハリスたちは意味不明であると思ったのではないでしょうか。



物語などによくあるように、中世ヨーロッパの貴族たちは国民から搾取してすごく贅沢な暮らしをしていたのですか?

「物語などによくあるように、中世ヨーロッパの貴族たちは国民から搾取してすごく贅沢な暮らしをしていたのですか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

中世はヨーロッパという土地自体がまだまだ経済発展していませんから、搾取したところで高が知れており、すごく贅沢な暮らしはそもそも存在し得なかったであろうと思います。

しかしながら、こういったことは相対的なものですから、当時の下層階級の人から見ると、貴族階級がぜいたくしていると見える可能性は充分にあったであろうと思います。

たとえば読み書きができるというのは、おそらくは上級階級だけが独占していた楽しみだったでしょうから、本が読める、手紙が書ける、ラテン語の聖書が読めるということになると、それだけで天使か神様のような輝きを放つ存在に見えたに相違ないのではないかと思います。

或いは、ヨーロッパのタペストリーを博物館などで見てみると気づくのですが、あれは相当に手間がかかっています。私個人はあんなものはほしいとは思いませんが、ああいうのを作らせるだけの経済力がある貴族はやはり格差社会の上の方にいたということも言えると思います。

さはさりながら、ですけれども、「贅沢」の定義や条件にもよるとは思いますが、そもそも贅沢するための材料がないので、やはり、すごく贅沢することはなかったでしょうし、少なくとも現代人の目から見ると、素朴な生活を送っていたと言えるのだと思います。

朝起きて、まずは軽い運動をし、楽器の練習をして、詩を書く。パンと肉のスープの食事をして夜はワイン。寝る前に詩を読んで、友達が遊びに来たら朗読をした楽しむ。って、暇そうだけど質素ですよね。

派手好きなルイ14世の絶対王政というのは、近代の始まりみたいなものですから、中世の典型ではないでわけですしね。



西ローマ帝国滅亡後の諸王国乱立時代

西ローマ帝国がオドアケルによって滅ぼされた後、力の空白を埋めようとするかのようにヨーロッパ各地で諸王国が乱立するようになります。たとえばイタリア半島には東ゴート王国、イベリア半島には西ゴート王国(設定的にクラリス姫のご先祖のご先祖)、ブリテン島には七王国、北アフリカにはヴァンダル王国、ブリテン島にはいわゆる七王国(『忘れられた巨人』の時代)というように、旧西ローマ帝国の版図は砕けたガラスのようにバラバラになります。

彼らの多くはフン族の大移動によって西へと押し出されたゲルマン民族の人々で、後のイギリスフランスドイツなどのヨーロッパ諸国の基礎になる世界を作っていった人たちですが、そこへ至るのはまだ少し先のことであり、これらの小王国は3つのスーパーパワーによって圧倒され、整理されていく運命を辿ります。3つのスーパーパワーとは、1、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、2、ウマイヤ朝、3、フランク王国の3つです。1は古典的正統派であるのに対し、ウマイヤ朝は中東世界から力の空白を見つけて張り出してきた新興勢力と言え、3のフランク王国の場合はそもそも世界政治のプレイヤーと認められていなかった人々が時代の変化の波にのって力を蓄えた、新興勢力中の新興勢力と言ってもいいのではないかと思います。

西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルですが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ゼノンと対立します。ゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル征伐を命じ、オドアケルはラヴェンナに追い詰められ、降伏するも殺されるという末路を辿ります。その東ゴート王国もテオドリックの死後に混乱が生じ、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス一世によって滅ぼされます。

東ゴート王国と親戚関係にあると言ってよい西ゴート王国はアフリカづたいに海を渡って北上したウマイヤ朝によって滅ぼされ、混乱は新しい帝国による新世界秩序の形成によって収拾されていきます。ヨーロッパ中央西寄りの辺りではフランク王国が伸長し、ブリテン島も七王国もウェセックスによるイングランド統一がなされ、現代のイギリスの母体になっていきます。イングランドは小王国を併合して作ったことや、バイキングやノルマン人の微妙な力関係が影響し合う土地であったため、現代のような明確に「自分はイギリス人だ(またはイングランド人だ)」というような意識が発達するまでは時間がかかったとも言われています。

このようにしてビザンツ、ウマイヤ、フランクによってヨーロッパが分け合われ、イギリス独自の歴史構造を持つにいたりますが(イギリスEU離脱騒動の際、イギリスはヨーロッパかヨーロッパではないのかという議論がなされたのは、以上のようにヨーロッパ大陸とは歴史に関するパラダイムの違いがあるからとも言えます)、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝はやがて勢力を衰退させ、フランク王国は分裂し、歴史の舞台から去っていくことになります。『薔薇の名前』のような中世ヨーロッパ本番がいよいよ始まります。