中曽根康弘内閣‐プラザ合意・ロンヤス・中曽根裁定

鈴木善幸から禅譲を受ける形で、要するに田中角栄のバックアップを受けて中曽根康弘が自民党の総裁に選ばれます。大平正芳首相の時代に福田赴夫とともに田中の盟友である大平を攻撃する側に回っていましたので、今度は田中にくっついて首相にしてもらうのかと風見鶏とあだ名されます。行われた総裁選挙では福田赴夫が中川一郎を出馬されましたが、中川一郎本人はこの時に相当無理をしたらしく、中曽根が勝利した総裁選後に自ら命を絶つという悲劇が起きています。また、中曽根康弘の任期中に日航機事故も起きており、不穏なものも漂う内閣だったと言うこともできるかも知れません。

就任期間は日本の首相としては珍しい5年に及び、行政改革に力を入れ国鉄、日本専売公社、日本電信電話公社の民営化を成し遂げ、外交面ではアメリカのレーガン大統領とロンとヤスで呼び合う仲であることをアピールし、更にはソ連封じ込めには積極的で、日本はアメリカの不沈空母となって場合によっては宗谷海峡や千島列島を封鎖するというようなことまで話し、当時は物議を醸しました。中国に対しても友好的で、中国が作った経済特区に日本の投資を促しています。

経済面では竹下登大蔵大臣がニューヨークで行われたプラザホテルに出席し、ドルの全面安(当時の経済情勢から見て、円も全面高)を容認するプラザ合意が結ばれ、日本はバブル経済へと突入していくことになります。竹下大蔵大臣はその立場上知り得た為替動向に関する情報を利用して首相になるための莫大な資金を手に入れたという噂を聞いたことがありますが、飽くまでも噂なので、本当かどうかは知りません。

この中曽根時代に政治の世界を大きく揺るがしたのは、田中派の竹下登が小沢一郎や梶山清六、橋下龍太郎などの大物を引き連れて新しい派閥を作り、田中派の大半の議員がそちらに流れて行ったという事件です。田中角栄が政権復帰のために大平正芳、鈴木善行、中曽根康弘など他派閥の人物を傀儡首相にしていく一方、田中の子飼いの政治家が首相になることは下剋上を恐れて田中が決して認めなかったことから、竹下登が旗揚げしたもので、佐藤栄作と田中角栄の関係を連想させるものです。

竹下登に裏切られたとも言える田中角栄はそれから完全に酒浸りになってしまい、突然脳梗塞で倒れ、政治活動事態も滞るようになていきます。もちろん、田中の新潟三区は最強鉄板地盤になっていましたので、次の総選挙でも田中角栄は30万票を集めて当選していますが、やがて引退することになります。大変に無念で悲痛な心境だったのではないかと推察します。

田中角栄が倒れたことで、中曽根は自由になったともいわれ、中曽根政権後期では「すでに死にたい。後は引き際」くらいに思われていた人が突如、「死んだふり解散」に討って出、思惑通り300議席という大勝利をおさめ、一年の任期延長を獲得します。

ポスト中曽根という話が飛び交うようになり、竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の誰かということになりましたが、話し合いで後継首相を決めようと言うことになり、中曽根に裁定が一任されます。中曽根は竹下、安倍、宮沢それぞれに自分が選ばれるのではないかと気を持たせていたとも言われています。竹下は安倍とよく会談を開いており、宮澤喜一は結構、相手にされてなかったみたいです。

中曽根康弘は竹下登を後継者として指名し、竹下登内閣が登場することになります。

大平正芳内閣‐40日抗争とハプニング解散

三木おろしの後、福田赴夫と大平正芳の間で結ばれた「大福密約」により、自民党総裁の任期を二年とした上で、二年後には再選を目指さず、福田が大平に禅譲するということで福田赴夫内閣が登場したものの、福田が約束を反故にし再選を目指しますが、福田が再選すれば角福戦争に決着がつき、田中角栄復権の目が摘まれてしまうということを田中派が懸念し、田中派の全面的なバックアップで大平正芳内閣が登場します。

大平正芳政権下ではソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻と、それに対する抗議としての西側諸国のモスクワオリンピックへのボイコットがあり、ある意味では冷戦がクライマックスを迎えようとしていた時期とも言えます。その後、ゴルバチョフが登場して冷戦終結とソビエト連邦の崩壊まで10年ちょっとですが、当時はまだそういうことは分かりません。米ソそれぞれに人類を何十回でも滅亡させることができる核ミサイルを保有していつでも撃てるように相手に照準を合わせている時期であり、相互確証破壊だから安全なのか危険なのか判断できかねるというか、核戦争への漠然とした不安もつきまとうような時代だったとも言えそうです。

大平政権下で行われた総選挙では定数511に対して自民党の獲得議席が248と振るわず、福田・中曽根が大平に辞任を迫るという、いわゆる40日抗争が起きます。角福戦争的にも特に見どころのある、これはこれでクライマックスと言えます。自民党が敗けた理由としては、田中角栄への批判が強い中、大平が田中の下僕であるかのように見えたことは大きいかも知れませんが、三木おろし、大福密約と、政治の世界が椅子取りゲームに熱中している様子に対して国民に嫌気がさしたということもあるかも知れず、そういう意味では大平正芳に責任があるというよりは福田にも責任があるとも言えそうですが、いずれにせよ、自民党が分裂状態に陥り、大平は少数内閣でのかじ取りを迫られます。より田中依存を強めざるを得ないという、矛盾と心労のかさむ状況になっていたと言ってもいいかも知れません。

衆議院選挙後の首班指名選挙では、大平と福田に票が割れるという政党政治が機能としているとはとても言えない状況に陥りますが、決選投票で僅差で大平が勝利します。

翌年、社会党が、ハマコーがラスベガスで大損したことまで持ち出して内閣不信任決議案を提出すると、福田派、中曾根派議員が退場。どこにでもとりあえず噛んでくる三木派の議員も退場します。結果、不信任決議案が可決されるという、社会党も予期していなかった事態に至り、大平は解散権を行使。衆議院選挙が行われます。

公示日になって大平正芳は体調を崩して虎の門病院に入院し、小康を得た後に回復の兆しもありましたが、投票日を前にして亡くなってしまいます。自民党に同情票が集まり、自民党は284議席の安定多数を獲得します。

このように見てみると、大平正芳首相は就任後の解散で自民党の議席を減らし、福田・中曽根・三木にさんざん突かれて心労で亡くなったようにしか思えず、大変に気の毒で、結果として自民党が選挙に勝ったということは、それらの人間的過ちのつけを社会党が支払いというなんだかよく分からない展開を見せていたということができるかも知れません。

自民党の新総裁は田中角栄の意向が反映され、鈴木善幸が選ばれます。


三木武夫内閣‐椎名裁定とクリーン三木と三木おろし

三角大福中の一人である三木武夫という人は、その名前のわりには印象が薄く、何をしたのかと問われればよく分からない、政争のしぶきから生まれて政争のしぶきで去って行った人という感じがします。

戦前から政治の世界で活躍し、占領下で三木首相が取り沙汰されたこともありましたが、その時は断り、いわば周回遅れで吉田佐藤の後の時代になって再び首相候補として目されていくようになります。実際には三木派は自民党内では少数派閥で、必ずしも本格的な首相候補だったとも言えませんが、田中角栄が金脈問題で追い込まれたことで好機が巡ってきます。

田中角栄は一旦、副総裁の椎名悦三郎に首相の座を譲り、ほとぼりが冷めてから政権にカムバックという絵を描いていたと言われていますが、大平正芳が椎名政権構想を新聞記者にリークすることで紛糾し、椎名政権案は潰れます。

田中角栄vs福田赴夫の党内抗争が激しく、田中に近い大平正芳を指名すれば福田派が自民党離脱をも辞さない構えであり、一方の田中派も仮に福田赴夫が指名されれば自民党を潰す覚悟もありそうな勢いだったとも言え、パワーバランス的にふわっと重力が持ち上がるようにして三木武夫の名前が浮かび上がってきます。

いわゆる椎名裁定では、総裁と幹事長を別の派閥から出すことと、当然のことながら椎名悦三郎本人を指名することがないという前提で党内の合意が図られ、椎名悦三郎が誰を指名しようとそれに服するということで三木武夫が指名されました。その時、三木武夫は「青天の霹靂」とコメントしましたが、前日には三木番の新聞記者から椎名悦三郎の結論が三木武夫に知らされており、裁定文には三木本人が校正を入れるなどしており、晴天の霹靂どころか「うまくものごとがまわってきたわい」と思っていたに違いなく、そうは言っても三木が首相に指名されたことに三木の実力はほとんど関係もなかったわけですから、人生には時としてチャンスの神様が降りて来るということの見本のようなものにも思えます。

田中角栄とのキャラの違いが際立ち「クリーン三木」ともてはやされますが、政治資金規正法の強化などで田中角栄以外にも資金源を必要としている政治家たちからの反発に遭い、いわゆる三木おろしが始まります。一度目の三木おろしは三木が政策的に妥協することで終わりましたが、二度目の三木おろしが起きたとき、三木は解散総選挙も辞さない構えを見せるものの、閣僚の大半が不同意で、三木は解散のチャンスを逃します。解散総選挙は気迫や空気がものを言いますので、そのまま任期満了による解散にずれ込んでしまい、選挙の結果では過半数は確保したものの定員増にも関わらずの議席減ということで責任を負う形で総辞職になります。

このように振り返ってみると、あれ…やっぱりこの人、何をした人なんだろう…という不思議な気持ちになります。振り返れば風が吹いているだけです。


田中角栄内閣‐日中国交正常化と暗転

佐藤栄作の派閥議員を大方抱き込んで田中角栄は田中派を旗揚げします。佐藤栄作は後継総裁に福田赴夫を推していましたが、福田を破り、田中角栄内閣が登場します。三角大福中時代の始まりであり、角福戦争の始まりでもあります。

田中角栄は戦争中からその才覚を発揮し、朝鮮半島に軍需工場を建てる計画(敗戦でとん挫)から巨額の富を得て、金満政治家として政界で頭角を表し吉田茂の側近とも言われていきますが、同時にその人間性に惚れた人も多かったと巷で言われています。ただ、どんな風に豊かな人間性を持っていたのか、少なくとも今残っている動画や写真からは推し量り難いものがあり、実際に会った人ではないと分からなかった部分もあったのかも知れません。

ある時、東京の椿山荘で田中角栄がスピーチをすると、いかにも良家のお嬢様という感じの方が角栄に花束を贈呈した際、角栄はお嬢様にポケットから一万円札を取り出して握らせようとし、公衆の面前でお金を受け取ることに躊躇していたお嬢様は角栄の顔を潰すわけにもいかないので渋々受け取ったというエピソードがあるそうです。その時、周囲の人から「お嬢様が困っていたじゃないですか」と言われ「君ね、お金をもらって嬉しくない人間はいないんだ」と反論したと言います。

私はこのエピソードに田中角栄という人物のいろいろなものが詰まっているように思えてなりません。おそらく田中角栄はこの時、感激したんだと思います。華やぐように美しく、かつ清楚で身ぎれいな良家のお嬢様がわざわざ自分に花束を届けてくれたということに感動したんだと思います。そして、その感激と感謝の気持ちを即座に表したいと思って彼の頭に浮かんだのはお札を渡すことだったのです。

どこまで言ってもお金の人とも言えますし、良家のお嬢様に感激する素朴さに私は心が打たれる部分もありますが、田中角栄の限界が見える気がしないわけでもありません。

佐藤栄作と福田赴夫を倒して首相の座についた田中角栄は、日中国交正常化という大仕事を成し遂げます。結果として台湾が完全につまはじきにされることにもなりますので、良かったのか悪かったのかはもう少し後世にならないと、少なくとも中国と台湾の間で話がつかないことには判断しかねるようにも思えます。

その後、文芸春秋に『田中角栄研究』が掲載され、田中金脈政治が世に問われることになり、激しい批判の中で田中角栄内閣は総辞職する展開に至ります。当時、新聞記者たちは田中角栄のお金をばら撒く政治首相をよく知っており、知っているけど、書くほどのことではないと思って書かなかったのだと言われます。いわゆる記者クラブと政治がどういう関係にあったかが推察できるエピソードであったとも言えます。

その後の政治の世界は首相返り咲きを狙う田中角栄と、後に首相になってやはり返り咲きの好機を伺う角福戦争の文脈で語られるようになっていきます。