中世ヨーロッパの封建的主従関係について 国王は有力諸侯と主従関係になりますよね。→家臣 その有力諸侯もより小さい貴族と主従関係になりますよね。→家臣の家臣 この家臣の序列はどれくらいまであるんですか?

ローマ教皇→神聖ローマ皇帝(ローマ教皇から行政権を委任されていることになってはいるが、どっちが偉いかは相当揉めた)、その他フランス国王などはローマ教皇から権力を認証されたことを理由に支配している(王権神授説)→国王に臣従する貴族たち(公爵とか伯爵みたいなやつ。英国王はフランス国王に臣従するフランス貴族であるにもかかわらず、英国王としてフランス王と対等という意味不明な立場だった時代が続き、英国王はそれを理由にフランス侵略。100年戦争に発展し、ジャンヌダルクが現れる)→貴族に臣従する騎士たち(小領主。伯爵とか公爵みたいな大領主によって自分の領地を認めてもらっている)→従者(騎士に従い、戦場までついて行き、身の回りの世話などをする。推察するに領地が小さく従者を雇えない騎士は一人で戦場へ行ったと思われ。古代スパルタでは戦死1人につき、5人か7人かくらいの従者が居たそうな)

くらいじゃないですかね。神聖ローマ帝国の場合、教皇とタイマンして負けを認めたカノッサ屈辱があったり、選帝侯がいたり、ウエストファリア条約で領地が分裂したりして、ちょっと違った構造とになると思いますが、知識を整理した方がいいんですけど、今ちょっと帰宅したばかりで疲れているので、ご勘弁ください。すみません。

中世は1000年続きましたし、ヨーロッパも広いですから、スペイン国王とか、ロシア皇帝とか、それぞれ事情が違えば細部も異なるとは思います。



神聖ローマ帝国‐教皇権と皇帝権のせめぎあい



フランク王国ではメロヴィング朝が廃止され、宰相であったカロリング家が国王の座を得るようになります。領土の拡大もあり、メロヴィング朝を倒したカールマルテルの子であるピピンがローマ教皇に教皇領を寄進したことから、カロリング朝とローマカトリックの関係は良好なものとなり、ピピンの子であるカール大帝はロンバルト王国と倒すほどの軍事的強さも理由だったと思いますが、当時のローマ教皇レオ三世から西ローマ帝国の称号を与えられます。更にオットー1世にも皇帝の権威が授けられますが、これが神聖ローマ帝国の始まりになります。

フランク王国は東西に分裂しフランス王国の建設へとつながっていきます。西フランク王国ではカロリング家の後継者が断絶したことで、ユーグ・カペーがカペー朝を開き、ルイ16世がブルボン王朝の王位をはく奪された際、ルイ・カペーと名乗らされましたが、カペー朝の名称がその時代まで生きていた名残のようなものであったからこそ、そういう名前を名乗らされたのではないかという気がしないでもありません。

さて、いずれにせよ神聖ローマ皇帝は現代のドイツとその周辺の広大な地域を支配し、ドイツは封建的な領主・貴族がひしめき合っていましたが、その頂点としてローマ教皇から認められた絶大な権力を持つ者として君臨し、爵位や領地の与奪の権利を持つようになります。日本の歴史で言えば源頼朝が鎌倉幕府を開いたみたいな感じと言ってもいいのかも知れません。

当初はローマ教皇が最高権威者で、神聖ローマ皇帝は授権された立場であったと解されていましたが、実際の軍事力と経済力を持つ神聖ローマ皇帝の方がより高い力を持つようにないます。両者の対立は深まりましたが、ローマ教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門にし、赦しを請うために数日間門の前で皇帝が立つというカノッサの屈辱事件は、これは皇帝権よりも教皇権が優越することを人々の目にはっきりと分からせるという効果があったようです(もっとも、その後ハインリヒ4世は反撃に出、グレゴリウス7世は「憤死」に追い込まれます。その状況について詳しいことについて書かれてあるのを読んだことはないのですが、戦死という理解でいいのではないかと思います)。また、神聖ローマ皇帝はプロイセン王国などの諸侯の集合体であったため、強いといってもそこまで強いというわけでもなく、皇帝空位の時代が続くという時期もあり、そこまで安定していなかったとも言えるかも知れません。カール4世は、7選帝侯という制度を作ることで、ドイツ諸侯・貴族が皇帝に協力する構造を作ろうとしましたが、却って諸侯が皇帝を選ぶというシステムは、皇帝の権威を更におとしめたと捉えることもできるかも知れません。独立した自治権を持つ都市も多く、「都市は人々を自由にする」という言葉もあるように、皇帝権はいずれかの段階で名誉職になっていった感もなくもありません。

15世紀ごろからはハプスブルク家が事実上の世襲をする状況で落ち着きますが、ナポレオンの時代に残り少ない領地をあっさり切り取られて、事実上の自然死消滅みたいな感じになってしまいますので、そんなにすっげー活躍したとも、ヨーロッパの主役!という感じではなかったという印象です。

その後、カペー朝はフランスとしてのまとまりを持つようになり、神聖ローマ帝国はドイツ+アルファ、イタリアは教皇領+都市国家、とそれぞれの特色を持つようになっていきますが、当時、なんと言っても強いのはウマイヤ朝、その語はセルジュークトルコ、更にその後はオスマントルコと中東・ムスリムの世界からの圧迫を受けるようになり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が防波堤の役割を果たしていましたが、やがてビザンツ帝国の滅亡とともにムスリムのヨーロッパ進出という、当時のヨーロッパ人としてはかなりびびったであろう展開が待っていることになります。

もっとも、ビザンツ帝国滅亡の前には十字軍というあまり評判の良くない遠征活動が行なわれたり、同帝国滅亡の後には結果としてルネッサンスが起きるわけですから、それはそれでおもしろいのですが、その辺りはまた後の機会に述べたいと思います。