神風特攻隊のこと

日本軍が特攻を採用するのはレイテ沖海戦からで、もっとも本格的に行われたのは沖縄戦の時のことだということはよく知られていると思います。

 若い、これから日本を再建しなくてはいけない男性たちが特攻により戦死しましたが、飛行機を運転するというのは特殊技術であるため、ある程度学歴のある、より将来的に活躍してもらわなくては困る若者がパイロットとして養成されました。

 私の親戚にも特攻隊員として戦死した人がいますが、きっとその人は勉強ができる優秀な人だったのだろうと、その人のことを考えるたびに思います。

 レイテ沖海戦が行われた当時、優秀なパイロットもまだ生き残っていて、アメリカ機と空中戦ができるくらいの腕の持ち主が特攻で失われてしまいましたが、戦争が大詰めを迎えるころには、即席の養成になり、敵艦に体当たりするための急降下だけを何度も練習して出撃する人が多かったそうです。

 そのため、敵艦に辿り着く前に発見され、撃ち落されるというケースもかなりあったと言われています。

 沖縄戦の前半では、それでも戦果は高く、実際的な戦果以外にもアメリカ兵への心理的なショックは相当に強かったそうです。沖縄戦が後半に入るころにはアメリカ軍は沖縄海域全域に周到なレーダー網を構築したことで日本機の発見が容易になり、戦果はあまり上がらなくなりました。

 特攻作戦を指揮したのは宇垣纒司令でしたが、彼は1945年の8月15日の午後、終戦の詔勅ラジオ放送を聴いた後、特攻をしています。2000人近い若者に自殺攻撃を命令した以上、最後は自分も彼らの後を追うと決心していたと言われていますし、そうでなければこのような作戦の指揮を執り続けることは人間としてできなかったのではないかとも思えます。

 宇垣司令が特攻する時、20人ほどの特攻隊員が同行したそうです。その心境を全く理解できないということはありません。ついさっきまで覚悟を決めていた人が、戦争は負けで終了。では帰宅。とはいかないと思います。

 とは言うものの、戦争中ならまだしも、戦争が終わった後に特攻するというのは意味のないことです。宇垣司令はそのことで批判されることもあるようです。

レイテ沖海戦をどう見るか

レイテ沖海戦は、その作戦はほぼ成功しながら、言わば現場の職務放棄とも言える事態で失敗してしまった戦いです。

 フィリピンのレイテ島にアメリカ軍が上陸し、続いて補給部隊が上陸することになっていましたが、その時にフィリピン北方沖に小沢空母艦隊が出撃。アメリカの戦闘機が小沢艦隊に集中している間に巨大戦艦大和と武蔵がレイテ沖に出現してアメリカの補給部隊を砲撃するという、戦国絵巻もののような華麗な作戦です。

 フィリピンは日本とインドネシアの間にある資源ルートで、そこを失えば石油が入ってこなくなり、戦艦も動かせなくなるため、日本は最後の空母艦隊を失う覚悟で囮として使用し、日本海軍の象徴的存在である大和と武蔵で敵の補給部隊、即ち戦争を続けるための核心の部分を撃つことになっていました。捨てるものは捨てるという腹を括った覚悟を決めた作戦であり、全体としてはほぼ成功していたにも関わらず、大和がフィリピンから反転し、最後の目的を遂げることができなかったことは、今日まで謎の反転として知られています。

 結果として空母艦隊も失われ得たものは何もなく、連合艦隊はそれを最後に組織的な作戦を行うことができなくなってしまいます。

 なぜ栗田長官が大和を反転させたのかは現在も議論が続くところです。私個人としては大和の保全(即ち栗田長官個人の身の保全)を優先したのだろうと思いますが、やはり本人が生前そうではなかったと言い張っていた以上、あまりにも不名誉な話ですから、謎ということで曖昧にされているのかも知れません。

 ではもし、大和が作戦通りに砲撃していたらどうなっていたでしょうか?レイテ沖に辿り着く前に武蔵は撃沈されています。アメリカ側は大和の出現を予期していなかったわけではありません。そのため、大和が砲撃していたなら小沢艦隊を沈めた飛行機の群れが返す刀で大和に襲いかかり、大和も撃沈されていた可能性が十分に高かったように思います。

 ただし、それによって補給物資を失ったアメリカ軍はフィリピン作戦で多くの支障をきたしたことでしょうから、戦争はまた違った様相を見せた可能性もあります。

 とはいえ、それも物量の問題に過ぎず、しばらくすればもっと沢山の補給が到着して何ともなかったということも大いにあり得ます。

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