あなたの思う、世界史で一番面白い時代はいつですか?

18世紀の終わりごろから19世紀の初期あたりは近代の始まりであり、現代に生きる我々の生活や価値観と直接つながってきますので、大変に興味深いと思います。1776年、アメリカ合衆国が独立しますが、この時、フランスのブルボン王朝はイギリスに対する嫌がらせのためにアメリカに肩入れしていたわけですね。で、そのブルボン王朝は無謀な戦争をやり続けたおかげで財政破綻し、1789年にフランス革命が起き、ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台に消えるというショッキングな事件も起きましたが、これが立憲主義・三権分立・共和制などの近代国家誕生の礎にもなったわけです。フランスはその後、独裁政権が生まれたり王政復古したり紆余曲折しますが、その紆余曲折そのものが近代的政体を模索する正解なき旅路みたいなところもあったわけです。で、その後、ナポレオンの時代が来ますけれども、ナポレオンが最も大きな影響を世界史に与えたできごとは神聖ローマ帝国の解体であったのではないかと私は思います。当時既に形骸化の感の強い神聖ローマ帝国ではありましたが、中世的なローマ教皇と神聖ローマ皇帝の二重権力によるヨーロッパ秩序の維持・支配というものが、完全に終わったことをナポレオンは分かりやすく世の中に示したわけですね。そのインパクトは強く、ベートーベンは『英雄』をコンポーズするくらいに新時代にかぶれることになりましたし、フィヒテは危機感を抱いて演説して歩くことにもなったわけです。ヘーゲルのような哲学者は、なぜナポレオンという、これまでとは全く違ったタイプの政治家・支配者がこの世に登場したのかという疑問を説明する必要を感じて歴史哲学を発展させていくことになります。つまりナポレオンはフランス人で、フランスを変えたはずですが、実はドイツ語圏に多大な影響を与えたわけですね。ナポレオンは同じことをロシアでやろうとして自滅していくことにもなっていきました。私はアドルフヒトラーが同時代のドイツ人に強く支持された理由の一つとして、彼らの記憶の奥深くにナポレオンが生き続け、語り継がれたからではないかという気がしてなりません。歴史には時々英雄が生まれ、歴史そのものを次の段階へ強引に移行させることがある。前回はナポレオンだった。そして今回はアドルフヒトラーなのだと彼らは錯覚してしまったのではないかという気がするのです(アドルフヒトラーの登場は、「面白い」ことでは全くありませんが、考察し続けなければならないという考えから言及しました)。吉田松陰も影響を受け、日本からナポレオンが生まれることを求めました。清朝でも梁啓超が中国人のナポレオンが生まれなくてはならないと主張する文章を書いています。

というような感じで、大変に興味が尽きません。



「悲運の人」と言えば誰を思い浮かべますか?

ルイ17世ですかね。父親のルイ16世と母親のマリーアントワネットの場合、人生で華やかだった時期もあり、それなりに充実していたんじゃないかなとも思うんです。ルイ17世の姉のマリー・テレーズは一かの中でただ一人、ちゃんと長く生きることができたと。

ですが、本来なら次の王様になる予定だったルイ17世は物心ついたときにはフランス革命が起きて幽閉される身分であり、質の悪い監視人たちから両親を罵るように教え込まれ、まだ幼いのに売春婦との性行為を強要されて性病に感染し、夜毎拷問されて苦痛で叫び声をあげ、衰弱死しました。

マリーテレーズは王政が復活した後、家族をなぶり殺しにした者たちを決して許さず、復讐のことばかり考えているとの批判を受けたこともあるそうですが、家族が上に述べたような経緯で殺されたら、それはもちろん一生ゆるさなくて当然だと思います。



フランス革命‐ルイ16世とマリーアントワネットはなぜ死んだのか

18世紀、たとえばルソーのような人物による啓蒙思想がフランスで流行しました。王侯貴族や教会だけが豊かな生活を送り、残り大多数の一般の国民の生活が貧しいという状態は人間の本来あった自然な状態ではないため、それを是正しなければならない。簡単に言えばそういう思想です。個人的には人間は集団で生きる生き物ですから、自然な状態から既に序列があり、不公平があり、不正もあったのではないかと思いますが、文字時代ない時代のことは確認しようがありませんが、少なくともルソーはそのように考えたわけです。そういう意味では、「王侯貴族を打倒するのが正義である」というような風潮が世の中に広がっていたことは、最終的ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台によって命を奪われることを是とする、そうしてもいいではないかという空気も広がっていたのではないかと思えます。

もちろん、ブルボン王朝はアメリカの独立戦争に絡んでみたり、ルイ14世の時代にはオランダ継承戦争やスペイン継承戦争などに戦費を費やし、対して成果も挙げられないということも続いており、財政的な逼迫が著しく、そこはブルボン王朝の問題点ではあったと思いますが、ルイ16世はご先祖様のやらかしたことの後始末をつけさせられたという側面があるように思え、そこは気の毒としか言いようがないのではないかと思います。

一般に、フランス革命はバスチーユ監獄の襲撃から始まったとされています。バスチーユには政治犯が大勢収容されており、これぞブルボン王朝の悪政の象徴だと考えられていたからなのでしょうけれど、実際には監獄に収容されていたのは7人で、少なくともそのうち2人は普通の刑事犯であったようです。それから、もし厳密に考えるのであれば、バスチーユ監獄を襲撃するための武器は、退役軍人のための養老院みたいになっていたインバリッドを襲撃して手に入れたものだということらしいので、とすれば、インバリッド襲撃が革命の契機とする方が正しいのではないか、という気もします。ついでにいうとインバリッドにはいろいろな軍事記念品が今も展示されていて長州藩が外国船に大砲を打ちまくったことで始まった四か国戦争でフランスが長州から鹵獲した大砲が今も中庭に展示されているそうです。更に言えば、ナポレオンの棺も公開されています。インバリッドはパリ市の南西側にあり、バスチーユはパリ市の東の端の方にありますから、民衆はそこまで歩いたのでしょうけれど、半日あれば歩ける距離ですから、問題なく歩いて辿り着くことができたのでしょう。

それはともかく、民衆がちょっとばかり騒いだくらいで何ができるこということもありません。通常、王は強大な実力組織と王権神授説のようなものに支えられた輝かしい権威がありますから、びくともしないと思うのが普通です。ところが、バスチーユ監獄襲撃から3か月後、国民がベルサイユ宮殿まで行進し、スイス人傭兵が殺され、国王一家はパリ市内のテュイルリー宮殿に連行され、監視された生活を送ることになります。私にはこの辺りがどうもうまく理解できません。民衆が少々の武器を持っていたところで、組織され、訓練された軍隊が守っていれば、どうということはありません。フィリピン革命やリビアの革命的事件が成功したのは、背後でアメリカが資金なり武器なりを供給していたからだというのは、もはやわざわざ議論しなくても誰でも知っていることであり、リビアでの場合はカダフィ大佐の軍があまりに強いので、むしろ訓練されたプロというのはそう甘い相手ではないのだということを見せつけた感があり、フランス革命の場合も国王を守る軍はヨーロッパで戦争をやりまくって練磨された集団であったはずですから、そう簡単にやられてしまうというのは、不自然に思えてなりません。ロシア革命に於いても、軍が皇帝を見放したというのが主たる成功要因とも思えますから、民衆の情熱や団結だけではやっぱり革命というのは難しいのではないかと思えてしまいます(民衆の情熱や団結は長期間続かないからです)。王位簒奪を目論むオルレアン公ルイ・フィリップ黒幕説というのもあって、ルイ・フィリップ本人は王位を狙っているという理由で後に断頭台で命を落としますが、ルイ・フィリップが黒幕であったかどうかはともかくとして、誰かが何かを画策したのではないか、という気がどうしてもしてしまいます。ルイ・フィリップはフリーメイソンのメンバーだったそうですから、フリーメイソン黒幕説も仮説としては無くもないかも知れないのですが、だとすれば、ルイ・フィリップが後に断頭台に消えたことは、フリーメイソンも失敗していたということになり、この辺りは大変に複雑に思えます。

さて、失敗の種は常に内側にあるということが本当だとすれば、ルイ16世とマリーアントワネットにもその種は潜んでいたはずです。ルイ16世は国民に対して宥和的であり、なるべく譲歩しようとしていたフシがあり、一方で貴族からは見放される傾向にありました。軍の将校や司令官クラスは貴族によって占められていたでしょうから、軍が大事なところで国王を見放した要因をそこに見出すこともできるかも知れません。ルイ16世はそういう意味では温厚で、国王として国民のために貢献しなくてはならないと本気で考えていたフシすらあり、それが仇となって特権階級と国民の板挟みに合い、結果として双方から生贄にされてしまったという面があったのではないかとも思えてしまいます。一般的には宥和的で譲歩の姿勢を見せれば、相手も宥和的になり譲歩し、双方平和的に丸く収まるという気がするのですが、国王の譲歩がかえって国民に「押せばやれる」という感覚を抱かせ、押しに押しまくり遂には監禁して死刑の議決を下すという流れになってしまったのではないかと思えます。

ベルサイユ行進からルイ16世が処刑されるまでには4年ほどの期間があり、国民も今後ルイ16世とその一家どう扱うかについて迷っていたようにも思えます。マリーアントワネットの実家であるオーストリアのハプスブルク家からは、もし国王一家に危害が及べば戦争するという脅しもそれなりに効いたかも知れないのですが、国王一家はオーストリアのハプスブルク家を頼るべく密かにチュイルリー宮殿を抜け出し、オーストリアへ向かいます。世に言うヴァレンヌ事件です。このヴァレンヌ事件で国王夫妻がオーストリアと通牒しているということになり、連れ戻された夫妻は断頭台へ送られるわけですが、ヴァレンヌ行きは馬車でゆっくりと移動し、途中で休憩も含み、しかも一泊していたわけですから、大変に悠長なものであったように思えます。ルイ16世一人なら、メッテルニヒのように洗濯物の馬車に紛れて逃げ出すこともできたかも知れないのですが、確かに女性のマリーアントワネットと幼い男の子と女の子の4人の逃避行ですから、無理できないという気持ちは分かります。しかし、あの場合であれば何としても非常線突破の覚悟を持つべきであったとも言え、やはり、絶対に脱出するという覚悟に欠けていたのではないかという気がしないわけではありません。やはり、一度決心したら振り返ってはいけないということなのかも知れません。

国王一家に同情的な内容で書き進めましたが、ルイ16世とマリーアントワネットに殺されなければならないほどの罪があったとは個人的には思えず、息子のルイ17世はタンプル塔で虐待死していることも合わせて考えれば、同情的にならざるを得ません。

フランス革命はその後、ジャコバン派の独裁があり、ジャコバン派も粛清され、ナポレオンが登場し、ナポレオンが失脚した後にタレーランの外交で王政復古へと辿り、結果としては何が何だかよく分からない、何が変わったかもよく分からない、はっきりしているのは国王一家は無駄に殺されたことだけのように思え、ちょっと追悼文みたいになってしまいました。『ラセーヌの星』では、国王夫妻の二人の子供は実は脱出したという設定されていますが、作者の心情は私にはよく理解できる気がします。