前世の記憶を持つ子供とキリスト教とユング的無意識の世界

アマゾンプライムビデオで、死者の記憶を持つ子供たちというドキュメンタリーを見た。見たのは全六回あるうちの一回だけなのだが、前世があるとしか考えることができない内容だったため、大変に驚いた。前世がアメリカ軍のパイロットで、太平洋戦争の時に父島で撃墜されて戦死したとする男の子の話は大変有名で、このドキュメンタリーでも取り上げられていた。父島を守備していた日本軍は司令官が米軍捕虜を食べたことで起訴され、アメリカ軍の兵士にぼこぼこにされて半死半生で処刑されたと読んだことがあるのだが、米軍の飛行機が攻めてくると、時々飛行機が落ちてくるため、当該の司令官は酒の肴が降ってくると楽しみにしていたという話を思い出し、前世のパイロットは食われなかったのだろうかと余計な心配もしたのだが、この子供の場合、前世の自分の名前、配属された空母の名前、愛機の種類など実際に裏が取れる情報を話し出したため、両親が努力した結果、前世はこの人だったのだと思しき人物も特定でき、その家族にまで会うという驚きの展開に至っている。父親は輪廻転生などないとの立場から、別の原因があるはずだと考えていたが、以上のような情報がいちいち当たっているため、息子は本当に前世を語っていると確信するようになったそうだ。安易にスピリチュアルに走らず、実際に確かめようとする父親の合理精神を私は歓迎するが、それだけに、息子の前世は本当に米軍パイロットとする結論も重みをもつ。

日本では仏教の輪廻転生思想と近代合理主義が同居し、共存共栄しているため、前世の話題が出ても、割り切って受け入れていくことができるように思えるのだが、キリスト教圏に於いてはこれはかなり難しい。イエス・キリストが輪廻転生があるよとか言っていないので、カトリックの公式見解では輪廻転生は存在せず、すべからく人は一度きりの人生を終えた後、最後の審判を待つということになっている。輪廻転生を認めてしまうと、最後の審判の位置づけが難しくなるので、輪廻転生は認めないという感じなのではなかろうかと推察する。

で、前世がアメリカ軍のパイロットでアメリカ生まれのキリスト教徒というパターンの場合、キリスト教徒としては受け入れがたいにもかかわらず、前世があると認めざるを得ないということになると、そもそも神様ってどうなってるの?という疑問にたどり着いてしまうし、ヨーロッパではわりと宗教についてはゆるめの発想法で適当にやっている面があるのだが、アメリカは真剣な清教徒が切り開いた土地であるため、そういうわけにもいかず、生き方、社会の在り方などの結構根本的なことを揺るがしかねないため、前世があるかどうかも真剣な議論の対象になるのである。日本のように占いで楽しめばいいというような感じではなくなってしまう。

遠藤周作先生は最後の長編小説である『深い河』で輪廻転生を扱っているが、遠藤先生がカトリック信徒でありながらも自分で納得する世界観を得たいと願い、敢えて言うとすればカトリックの世界観への挑戦として絶対に彼らが認めないであろう輪廻転生について筆が及んだと見るべきなのだが、遠藤先生のスピリチュアル的な発想法も相まって、面白い内容になっており、前世とかそういったことに関心のある人は一度は読んでみるのをお勧めしたい。いずれにせよ、遠藤先生が輪廻転生について書いたのも、キリスト教圏では真剣な論争になるということを踏まえた上でのことだ。

日本人であれば真剣に突き詰めなくても仏教的死生観には馴染みがあり、私は英国教会の洗礼を受けてはいるが、仏教的輪廻転生を受け入れられないということはない。しかし、だからと言ってすぐにスピリチュアルに走ってしまってバシャールも輪廻転生あるって言ってるよ、とかになっても詰まらないので、もうちょっと近代合理主義的な結論を得られないものかとも思ったのだが、ふと思い出したのはユング先生のことである。ユング先生は人間には集合無意識みたいなのがあって、それがクリエティブなものと結びついていると考えた。芸術家が自分の作品を作るために霊感を得ようとしたとき、その人の発想法を遥かに超えた新しい作品のアイデアを得ることがあるが、これは人類共通の叡智と感性みたいなところ、人類の共有財産みたいなところからアイデアが湧いてくるみたいな感じで考えれば、ユング先生の集合無意識がどのようなものか、イメージしやすいのではないだろうか。ユング先生はかなりスピリチュアルなことに肩入れしたことで有名だが、近代的科学的心理学者として全く疑いのない、不動の評価を得ている先生だ。私は前世の記憶を持つ子供について、ユング的無意識という概念で理解することは可能なのではないかと思い至ったのである。子供が人類の共有財産みたいな深層集合無意識にアクセスし、過去の人物の情報を得ることができたと仮定すれば、キリスト教的世界観を維持したまま、近代合理主義をかなぐり捨てることなく、前世の記憶を持つ子供が存在するという事実も説明可能なものになろうというものだ。

だが、しかしである。もしそうだとすれば、前世があるとかないとかよりももっと大きなスケールで、人はスピリチュアルな存在であり、互いに結びついていて、その結びつきは時間も空間も超えるということになってくるため、キリスト教の世界観であろうと仏教的世界観であろうとぶん投げて、やっぱバシャールすげー。というところにたどり着いてしまいそうな気がする。ま、それでもいいのだが。



【自己訓練】マインドフルネス呼吸法をやってみた

最近、精神科医の和田秀樹さんが監修したアドラー心理学に関するムック本を読んでみたのですが、本の後ろの方でマインドフルネス呼吸法をやってみましょうみたいなことが書いてあったので、ちょっとやってみました。

マインドフルネス呼吸法というのはやり方そのものは簡単で、本の説明に従えば、楽な姿勢で座り、目を閉じ、数秒かけて息を吸い、数秒かけて吐く、というただそれだけのことですから、難しいということは全然ありません。以前、座禅を習ったことがあるのですが、そこでは先生から座禅をする時は雑念を追い払わなくてはいけない、雑念が浮かんでい来たら意図的にそれを排除し「無」の状態を目指さなくてはいけないと教わりました。それを実践するのは意外と難しいもので、雑念は次から次へと湧いてきますから、雑念を追い払おうとする心の動きだけで結構疲れてしまいます。また、座禅の組み方や姿勢の在り方なども、ちゃんとしたお作法やルールがありますから、そっちの方に気を取られ、精神が休まるとかそういう境地にはなかなか辿り着くことができませんでした。もちろん、西田幾多郎が座禅を通じて東洋の思想を西洋的な論理でも理解できるように体系化したことには意義があり、マインドフルネス呼吸法も究極的には西田幾多郎的な善の研究的なところを目指す一歩なのだとは思いますし、ゆくゆくは座禅マスターみたいなところにたどり着きたいという願望のようなものはあります。とはいえ、実践的に今の生活に合うようにというような感じで求めるとすれば、マインドフルネス呼吸法の方がやりやすいなあというのが実感です。マインドフルネスと座禅のどちらかがより優れているかなどという議論を始めてしまえば、むしろ本来の目的にそぐわず、本末転倒かも知れません。

マインドフルネス呼吸法のいいところは、禅を習ったときに禁じられた雑念を放置してオーケーなところです。むしろ、静かに目を閉じ呼吸をしているときは湧いてくる雑念からヒントが得られるのではないかとすら思えます。アニメの一休さんが座禅を組んで頓智を思いつくのも、マインドフルネス的効果なのではなかろうかという気がします。

先日、ちょっとやってみて、頭の中に「無理するな」という言葉が浮かび、あ、そうか、楽に生きよう。などと思え、自分にとってはちょうど自分に必要な言葉だったように思えましたから、自己対話としても活用できるのではないかという気がします。ユングは人の心の中には、女性的な男性性、男性的な女性性、感情的包容力のある女性性、リーダーシップのある男性性などが同居しているとしましたが、自己対話とは、そういった自分の内面にあるいくつかのパーソナリティとの対話であるかも知れず、それは迷ったときや疲れているとき、困ったときなどに叡智に近づく効果的な方法であるかも知れません。

まあ、そこまで深く考えなくとも、休憩としても最適ですから、今後も思い立った時にやってみようと思います。ほんの数分、目を閉じて静かに呼吸するだけで、意外と疲れも減少すると感じます。

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ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。



関連動画 夢野久作‐キューピー【朗読】

フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

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