日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。

「日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

幣原喜重郎内閣の時に松本蒸治という人物が憲法改正草案を作らされました。ただ、明治憲法が天皇の大権が全てという建付けになっていたのをある程度制限するという感じのものだったので、マッカーサーががっかりし、マッカーサー三原則を提示して今の憲法が書かれることになったわけです。当時は様々な民間試案も作られたみたいで喧々諤々あったみたいですから、憲法制定史を調べればいろいろ出てくるだろうなと思います。上に述べたのは、ほんのうわべで申し訳ないくらいの薄い内容ですが、まあ、そんな感じです。



玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?

「玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

その通りです。講和が成立するのはサンフランシスコ条約の締結を待たなくてはいけませんから、調印が1951年で、発効が1952年です。

との回答だけですとちょっと意地悪なので、補足します。昭和天皇の終戦放送が8月15日に行われましたが、この段階でアメリカの占領をどのようにして行うか、どんな手続きが踏まれるべきかについては何も決まっていませんでした。19日になって日本軍の代表者が飛行機でフィリピンに飛び、具体的なことが話し合われました。その後、米軍は続々と日本への上陸を開始し、8月30日にマッカーサーが厚木基地に降り立ちます。そして9月2日にミズーリ号艦上で降伏文書への署名という運びになりました。



米国は日本に二度と戦争をさせないために憲法9条を押し付けたというのは俗説で、日本から進んで「戦争放棄」をしたのでしょうか?米国への忖度、米国の糸引きなどはなかったのでしょうか。

「米国は日本に二度と戦争をさせないために憲法9条を押し付けたというのは俗説で、日本から進んで「戦争放棄」をしたのでしょうか?米国への忖度、米国の糸引きなどはなかったのでしょうか。」というquoraでの質問に対する私の回答です。

マッカーサー三原則の一つが平和主義なわけですけど、これから憲法を書くぞ、という時期に幣原喜重郎がマッカーサーにこっそりと頼んで平和主義を盛り込んでもらったと言われています。そのため、憲法9条はアメリカの押し付けではなく、日本人の発案によると考えることもできるとも言われます。

しかしながら、幣原喜重郎がこっそり頼んだということは、要するに密室で決めたということですから、そのことについては慎重でなくてはならないとも思います。自分の政治理念を実現するために、堂々と議会で戦うのではなく、アメリカの外圧だという体裁で突破したからです。現代でも国際機関の日本への要求は財務官僚が裏でシナリオを書いてるなどと揶揄されることがありますが、それと同じということになってしまうわけですね。

そうは言っても、当時のマッカーサーが幣原喜重郎に頼まれたというだけで、平和主義を盛り込んだとはちょっと考えにくいと思います。マッカーサーの占領政策は基本的には昭和天皇との合意で進められていたと私は考えていますし、そのように考えている人はそれなりにいると思います。

というのも、マッカーサーはアメリカ大統領選挙に共和党代表として臨む準備を進めていて、日本の占領政策の成功を政治的な資産にしようと考えていました。占領を最も確実に成功させる手段は昭和天皇と手を組むことだと彼は考えていたようなのです。

根拠としては、有名なマッカーサーと昭和天皇の初面談の美談(昭和天皇が「私はどうなってもいいので、国民を助けてください」と発言したとされるもの)が、マッカーサーの回顧録だけに残っているということに求めることができると思います。というのも、マッカーサーは昭和天皇の人柄が最高なので、この人なしに日本占領は成功しないと思ったという趣旨のことを述べているのですが、これってちょっと斜めに読むと、天皇とマッカーサーを手を結ぶ儀式をしたと読み解くことはそんなに難しいことではないように思うんですね。

昭和天皇は当時の会見の内容は絶対秘密で死ぬまで誰にも言いませんでしたから、マッカーサーの言うところの昭和天皇の人間性が素晴らしい云々は、やっぱりちょっと眉唾だなと思わざるを得ないのです。

控え目に表現するとしても、この時になんらかの取引が行われたと見られてもおかしくはない状況だったと言えるでしょう。

では、仮に取引があったとして、それが何であったかと言えば、ソビエト連邦を意識したアメリカ軍による日本の長期占領、基地の提供、安全保障条約の締結などであったのではないでしょうか。昭和天皇は天皇制度の維持を条件にそれらの条件を受け入れ、win-winな関係を築いたのではないかと思うのです。

ですから、平和憲法は昭和天皇とマッカーサーの合意の結果、作られたものだと私はとらえています。

じゃ、幣原喜重郎が出る幕ってなんだったんでしょうか?一つは昭和天皇のメッセンジャーとしてマッカーサーに会いに行ったのを、彼は政治家ですから上手の自分の手柄のように吹聴した可能性があります。もう一つはマッカーサーと昭和天皇の合意を知らずに、考えすぎて頼みに行ったということもあるかも知れません。私は前者を採ります。当時の政治の中枢にいるものであれば、マッカーサーと天皇の蜜月に気づかないとは考えられません。幣原は空気を読み流れに乗ったのではないでしょうか。



白山眞理著『報道写真と戦争』で学ぶ日本帝国の宣伝活動

日本帝国政府内閣に「情報部」なるものが設置されたのが昭和1937年9月だ。日中戦争と歩を同一にしており、日本帝国政府が当初から日中戦争を総力戦と位置付けていたことを根拠づける展開の一つだと言うことができる。情報部は一方に於いて内務省警保局から引き継いだ検閲の仕事をし、一方に於いては宣伝・プロパガンダの仕事をした。ナチスの宣伝省をモデルにしていたであろうことは論を待たない。

で、今回は検閲の方の話ではなく宣伝の方の話なのだが、当時の帝国の宣伝対象は大きく3種類に分類することができる。一つは帝国内地の臣民、もう一つは外地・植民地の人々、もう一つが諸外国だ。内閣情報部は帝国臣民に読ませるために『週報』を発行し、やがて『写真週報』を発行するようになるが、他に対外宣伝の目的で『FRONT』『NIPPON』などの雑誌を発行する。英語を含む複数の言語で発行されていたらしい。アメリカの『ライフ』誌をモデルにして発行したもので、これらの雑誌の発行を通じて「報道写真」という分野が対外宣伝のために確立されていく。

内閣情報部の対外宣伝写真がほしいという要請を受けて名取洋之助、木村伊平、土門拳などの著名な写真家たちが日本工房なる会社を銀座に設立し、実際に大陸に渡って写真を撮影して帰って来るようになるのである。白山眞理先生の『報道写真と戦争』は、彼ら写真家たちの戦争中の足跡を戦後に至るまで丹念に情報収集した画期的な研究書だ。

この著作を読んで見えて来ることは、「報道写真」とはそもそもヤラセだということだ。報道写真は記録写真とは全く違うものだ。記録写真は証拠として残すために撮影するものだが、報道写真は情報の受け手が感動する演出を施して、「これが真実だ」と伝達する役割を負っている。演出はするが芸術写真とも異なるというところが微妙で難しく、醍醐味のあるところだとも言える。私は以前新聞記者をしていたことがあって、この手の報道写真を撮影して歩く日々を送っていた。ヤラセなければデスクが納得する写真は撮影できないので、新聞の写真は大抵がヤラセだと思っていい。私は新聞記者がヤラセを日常的に行うことに疑問を感じたが、ヤラセが普通だったので私もそうするしかなかった。白山眞理先生の著作を読んで、この報道写真のルーツをようやく知ることができたと思い、私は長年の謎が一つ解けたような感動を覚えた。

もう一つ興味深いのは、戦争は確かに日本に於ける報道写真というヤラセ撮影の文化を生み出したが、それがアメリカの雑誌をモデルにしているということだ。日本兵の骸骨を机の上に於いてほほ笑んでいる少女の写真とか、硫黄島で星条旗を掲げるアメリカ兵の写真とか、ヤラセなければ撮影できるわけがない。マッカーサーも自己演出のために自発的にヤラセ写真をプレスに撮影させた。フィリピン奪還上陸の写真は自分がかっこよく見えるように撮り直しをさせたと言われているし、昭和天皇と並んで映った写真も、写真がもつ効果を熟知した上でやっていることだ。写真の技術が発達して報道に使用できるようになった時、ヤラセになることは明白な運命だったのだとすら言えるかも知れない。

もともと写真は高価な趣味で、明治時代は徳川慶喜のような元将軍クラスの人物でないと遊べなかった。昭和の初めごろになると誰でも記念写真を撮れる程度には写真は気軽な技術になったが、それでもフィルムと現像の費用を考えれば慎重を要する技術で、見るものを感激させる報道写真を撮影するためにはヤラセるしかなかったのだとも言えるだろう。しかし現代はスマートフォンの普及に伴い、誰でも無限に撮影と録音ができる時代が来た。プロのカメラマンが撮るよりも、現場に居合わせた素人が本物を撮影して報道機関に持ち込んだり、ネットに直接アップロードするのが普通な時代になった。過去、報道写真は時代を作るほどの影響力を持ち得たが、今後は通用しなくなりすたれていくのではないだろうか。



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昭和天皇とマッカーサーの関係をよくよく考えてみた

非常に有名な話だが、マッカーサーは昭和天皇と初対面の時にその人柄に感動し、昭和天皇は日本の再建に必要な人物だと確信したという。私も以前はその話を信じていた。それを否定するべき材料を見つけることができなかったからだ。しかし、最近は違った考えを持つようになってきたので、ここである程度整理しておきたい。

まずマッカーサーが昭和天皇の人柄に感動したという話についてだが、天皇からの対談の申し入れがあった際、マッカーサーは「不安を感じた」とされている。昭和天皇が命乞いに来るのではないかと思ったし、そのようなことは自分の一存では決められないとも思ったからだ。そして、世界征服を企んだ人類の敵をわざわざ助ける義理もないとも言えるかもしれない。しかし、実際に会ってみると昭和天皇からは「自分の身はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言われ感動したのだということになっている。

だが、この話の出どころはマッカーサーの回顧録による。昭和天皇は生涯、実際に何が話し合われたかについては口外しなかった。とすれば、この話は当事者の一方からのみ出た話で、裏付けがとれる類のものではないと言えなくもない。日米双方に通訳者がついていたため、通訳者の証言も残っているが、その証言は大筋ではあっているが微妙な違いがある。もちろん、通訳はある程度意訳しなければならない場合が多いため、微妙な差異があっても不思議ではないのだが、通訳にはそもそも守秘義務があるため、そこで知り得たことを話すことはゆるされない。そのため、裁判などで宣誓した上で証言するならばともかく、そうでない場合、どの程度通訳証言を信用するべきかは難しい問題になる。

また、そもそも「自分はどうなってもいいから他の人を助けてほしい」というのは美談過ぎる。果たしてそのようなある種の自己犠牲的精神論だけでマッカーサーがころっといってしまい天皇を熱烈に支持するようになったという話は、関係者に都合よくできすぎているのではないかという気がしてならないのである。当時、多くの人が昭和天皇はドイツのファシストと同様に罰せられなくてはならないと考えていたはずだし、仮にどれほど人間的に魅力があったとしても起訴すべき訴因があるとすれば、いい人だからという理由だけで責任を免除するということは考えにくい。

そのため、私は初対面で両者は全く違った話が行われたのではないかと考えるようになった。具体的に何が話し合われたかは証明不可能だが、その後の歴史の展開を見ると、多少の想像は可能だ。まずマッカーサーは大統領選挙に出馬する意欲を持っていた。そのためには日本占領に成功することが絶対に必要だと考えていたことは間違いない。マッカーサーが最も不安に感じたのは果たして最近まで頑強に抵抗していた日本人が意のままに動くかどうか分からないという点にあったのではないだろうか。当時のアメリカ人であれば、天皇が日本人に対して神秘的な影響力を持っていると考えていても不思議ではないし、マッカーサーの立場であれば、もはや戦争の決着がついた後、わざわざ天皇を訴追して日本人がどういう反応を示すかを心配するよりも、天皇には責任がないことにして占領に利用することを優先したとしても不思議ではない。一方、昭和天皇は天皇家の存続を確保することに主眼があったに違いない。天皇家さえ存続すればたとえば日本が領土を削られたり、国際法上敗戦国として不利な地位に置かれたりしたとしても、いわゆる国体は保持できる。そのためにマッカーサーの支持を取り付けることは必要だっただろうし、譲歩できる部分はいくらでも譲歩する覚悟はあったはずだ。

要するに天皇を保全し、天皇の協力のもとでアメリカ軍による日本占領を完遂するということで両者の利害は一致していたのであり、ある程度の下交渉が行われた上で、初対面の際にそれを確認し合ったということが真相なのではないかと私には思える。

ただし、それを大っぴらに口外することは両者にとって不利である。マッカーサーは世界に対して昭和天皇を訴追しない理由を明らかにしなくてはならなかったし、昭和天皇も日本の半永久的占領と引き換えに国体護持を図ったということは憚られる。そのため、マッカーサーは昭和天皇の美談を創作し、通訳もそれで口車を合わせることになり、昭和天皇は沈黙を貫いたのだとすれば、筋は通る。マッカーサーは天皇を訴追すれば日本国内で叛乱が起き、100万の軍隊が必要になるとワシントンに脅しをかけた。昭和天皇はラジオで人間宣言を放送し、国民感情の慰撫に努めたというわけだ。

それが正しいことだったかについては賛否あるかも知れない。マッカーサーの個人的な政治的野心と、昭和天皇のやはり国体護持という政治的目標が合致して占領政策が行われ、その後日米安保が結ばれたのだとすれば、納得できないと言う人もいるかも知れない。私個人は立憲君主制を支持しているので、天皇家が存続したことは圧倒的敗戦の事実の前では戦争で敗けて交渉で実を獲ったとも言えるので、これでも良かったと思う。果たして天皇が訴追された際、本当に日本国中で叛乱の嵐が吹き荒れたかどうかは疑問だが、そうなってもおかしくはなかったので、ある程度穏便に物事を進めることにはなったと思うし、日本の再建にはよりよい効果があったと思う。もちろん、価値観の問題があるので、飽くまでも私は個人はそう思うということに留めたい。マッカーサーは大統領にはなれなかったが、それは私の知ったことではない。

憲法と歴史

戦後日本では改憲か護憲かで何十年も論争が続いてきたわけですが、それらの議論が必ずしも実りのあるものではなかったようにも思え、憲法論争には「つきあっていられない…」と思うこともありますが、それはそうとして今回は憲法を歴史という観点から考えてみたいと思います。

それぞれの国にそれぞれの憲法があるわけですが、どの憲法もその国の歴史的背景を前提にして編まれていると言われます。そのため、憲法を理解するためには歴史に関する理解が必要だともよく言われるわけです。

たとえばイギリスの場合、王が重税を課すという大問題がありました。マグナカルタとか革命などを何度も経てその都度、王の権力は制限されるようになり、課税に関する議論は議会がするように転換していきました。やがて現在のように「君臨すれども統治せず」という不文律におさまっていくわけですが、そこへ至るには王の課税する権利を段階的に制限していった歴史があるということを理解してようやくイギリスの「書かれざる憲法」に触れることができるのかも知れません。

フランスの場合も王が重税を課すというのが大問題になりました。ルイ14世あたりが派手に戦争をやっては負けるを繰り返し、戦費はひたすら国民への課税で賄い、ルイ16世の時代になると課税できる対象がなくなるという深刻な事態に陥ります。最後は免税特権を持つ貴族への課税を検討し、大反発を招き、結果としてはルイ16世は王侯貴族の中で孤立状態でいわゆる大革命を迎えます。ロシア革命が成功した背景には軍が皇帝を見棄てたという伏線がありますが、ルイ16世の場合も味方を失い、裸の王様状態になっていたと言えます。そのような歴史的物語を背景にしているため、フランスでは王権そのものを否定することが重要な理念の根幹をなしていると言ってもいいかも知れません。

アメリカの場合もやはりイギリス本国からの課税が深刻な問題だと受け取られていました。「代表なくして課税なし」という有名な言葉がありますが、イギリスの支配から脱して、自分たちの税金の使い道は自分たちで決めるという独立独歩の精神がアメリカ建国の理念と言えます。ボストン茶会事件はつとに知られていますが、現代よく論じられるティーパーティー運動はそのようなアメリカの歴史の物語を前提としているため、賛同者が集まったのだと言えるようにも思えます。

さて、日本の場合ですが、伊藤博文が憲法を書く際に大変に困ったのは日本の天皇とヨーロッパの王権とは似て非なるものだということだったと言います。江戸時代の天皇に徴税権などというご立派なものはく、幕府から賄い金をもらっている状態でしたので、平安時代ならまだしも今さら天皇の徴税権云々などというのは全くのナンセンスです。そういう事情から古事記の記述に照らして「万世一系」という理念を用いて天皇を規定し、憲法を書いたと言われています。憲法が歴史的経過を前提としているものだとすれば、そのあたり、伊藤も相当に知恵を絞ったのだとも思えます。

さて、現行の日本国憲法ですが、そういう意味ではこの憲法も歴史的経過を前提としていると言っていいのだろうと思えます。即ち、過去の戦争の反省から不戦の誓いをするということがその出発になっています。国を挙げて大戦争を始めた挙句ぼこぼこにやられたというのは紛れもない日本独特の歴史的背景であり、そういう意味ではなかなか正しい主張が書かれた憲法のようにも私には思えなくもありません。

さて、しかしながら、実態と合わない場合は改憲すべき。という意見もあるでしょう。例えばイギリスの立憲君主制はこれからも形を変えていくものと想像できますし、王室の人物の不品行が酷い場合、国民の意思で王制が廃止されるということも、実際にはそんなことは起きないとは思いますが、選択肢としては存在しているわけですから、その辺りのことも含んでいろいろと変化していくことで現実に柔軟に合わせて、結果的には王制が続いていくということになるように思えます。アメリカの場合も奴隷制度を廃止するために憲法の修正条項が加えられました。その後、その修正条項の理念に合わせて白人以外の人にも教育を受ける権利や政治に関わる権利が認められていったわけですから、アメリカ人が深く考え、市民とは何かを問い直し、憲法の精神に合わせて少しずつ変化していったと捉えることもできるのではないかなあと思います。更に言えば、憲法に限らず法律は条文に書かれていないことはコモンセンスで埋めていくということが多いです。日本の場合もコモンセンスで埋めていくということでいいのではないかなあと思わなくもありません。コモンセンスも変化していきますから、柔軟にやっていくということが求められるようにも思えます。

ついでに述べるとすると、「マッカーサーがおしつけた憲法だから反対だ。自主憲法が必要だ」という意見があるのも尤もなことです。「幣原喜重郎がマッカーサーに平和憲法を提案したから現行憲法はおしつけではない」という意見には賛同しかねます。憲法の内容がいいか悪いか以前に、幣原喜重郎とマッカーサーが国民の知らないところで密約したという話ですので、だからいいんだとはちょっと思えません。

そうは言っても前文なんかなかなかいい感じな内容なじゃないかともおもったりします。




第二次(第三次第四次第五次)吉田茂内閣

芦田均内閣が昭和電工事件で総辞職すると、GHQの民生局は結成されて間もない民自党の総裁吉田茂ではなく幹事長の山崎猛を首相に擁立しようと動いたと言われています。反吉田派の議員もこれにのっかろうとしますが、吉田派の議員たちが山崎猛を説得し、山崎が議員辞職する(新しい憲法下では衆議院議員でなければ首相になれない)ことで、第二次吉田茂内閣が登場します。長く、かついろいろな仕事をした内閣です。この流れは山崎首班事件とも呼ばれますが、白洲次郎が吉田茂に山崎擁立の動きを報せ、吉田がマッカーサーに確認したところ「そんな話は知らない」と答えたということなので、民自党の内部もガタガタしていますが、GHQの内部でもいろいろとガタガタしていたと推量することができます。

民自党は少数与党であったため、議席数の増加を目論んで衆議院の解散を行おうとしますが、憲法の規定では内閣不信任案が議決された場合か、天皇による解散かだけが認められているため、果たして自己都合解散が可能かどうかで議論されますが、与野党共同で内閣不信任案に賛成し、天皇の解散の詔書も用意して、つまり憲法の規定の両方を満たすことで文句ねえだろうと衆議院を解散します。世間から「馴れ合い解散」と言われます。現在は首相の一存でいつでも解散できることになっていますが、それはその後に確立された慣例と言うことができるかも知れません。

このようにして成立した吉田茂内閣ですが、この長期政権の最大の仕事はサンフランシスコ条約の締結によると日本の主権回復と、日米安保条約の締結と言えます。吉田茂はサンフランシスコ条約には日本人参加者全員の前で署名しましたが、日米安保の方は、後世の汚名を被るのは自分だけでいいからと、場所を変え、目立たずこっそりと一人で署名しています。これだけの大仕事をしたのですし、鳩山一郎の公職追放が解ければ鳩山に政権を返すという約束もしていた吉田ですが、更なる長期政権を目指し、衆議院を解散します。抜き打ち解散と言います。

与党の民主自由党が政党名を自由党に改称し、選挙に臨みましたが、自由党が僅かに過半数を超え、野党は改進党、社会党右派左派で議席を分け合うという結果になりました。社会党右派の西村栄一の質問で「自分の言葉で世界政治を語ってくれ」「自分の言葉で語っている、無礼じゃないか」「無礼とはないか」「バカヤロー」という子どもの喧嘩みたいなことで国会が紛糾し、世に言うバカヤロー解散が行われます。

選挙結果は自由党吉田派だけでは過半数に届かず、改進党の閣外協力を得てどうにか政権を維持できるというところでしたが、造船疑獄事件が起き、検察に対して佐藤栄作逮捕を延期するよう指揮したことで一機に世論の支持を失います。鳩山一郎政権を作ることを自分の仕事だと信じていた三木武吉が吉田の外遊中に鳩山を総裁とする日本民主党を結成し、内閣不信任案で吉田茂に追い込みをかけますが、吉田は当初こそ解散で乗り切るつもりだったものの、造船疑獄と指揮権発動で世論の支持のない状態では選挙で勝てないと判断し、総辞職します。

吉田茂が首相を務めた長い期間には、朝鮮戦争の勃発やアメリカからの再武装の依頼などもありましたが、吉田は再武装は拒否しつつけたものの、政権の末期で自衛隊を成立させます。吉田茂には平和主義という印象や、再軍備すればお金がかかるので、拒否したという観点から、現実主義者と評されることもありますが、個人的には戦前に官僚なり政治家なりを経験した人は軍がどれほど面倒な存在かということを身に染みており、軍が日本を滅ぼしたという実感もあったでしょうから、軍人の復活を嫌っていたのではないかという気もしなくはありません。

吉田茂の次は鳩山一郎が政権を継ぎ、保守合同、55年体制の確立へとつながっていきます。

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終戦直後に登場した東久邇宮稔彦王内閣は、当初こそ皇族首相による指導力を期待されていましたが、かえって共産主義革命を煽りかねないという不安が頭をもたげ、短命で総辞職します。続いて木戸幸一主導で首相指名されたのが幣原喜重郎でした。久しく政界から遠ざかっていましたが、過去の親英米協調外交路線が評価されての政界復帰となります。

幣原喜重郎首相時代、やはり最大の注目点は新憲法です。新しい憲法は果たして誰が書いたと考えるべきでしょうか。当時GHQに示された松本烝治案がマッカーサーによって拒否され、マッカーサー三原則に基づいてアメリカ軍の法律チームが新憲法草案を書き、日本の議会で多少の修正が行て現行憲法になったと言われていますが、一方でマッカーサー三原則の一つである非武装平和主義は幣原喜重郎の方からマッカーサーに提案し、それをマッカーサーが受け入れて同三原則が作られたとも言われています。

仮に幣原喜重郎が発案者であったとすれば、「アメリカ人が書いた憲法を押し付けられた」という歴史観は正しくないということになり、日本人が自発的に考え出した憲法だという議論をすることは可能です。ただ、一方で、国民の知らないところで幣原とマッカーサーが個人的に話し合って「密約」したとすれば、それをして日本人の総意と解釈することも難しいことのように思えます。更に言えば、マッカーサーの同意を得なければ自由に作れなかったという意味で、制限下に作られた憲法であることは議論の余地がないのではないかとも思えます。

一方、70年変更して来なかったことは日本人がその憲法に同意しているからだという議論があり、またその一方で、改正のハードルが高すぎて憲法が改正できないようにマッカーサーが仕組んだのだという陰謀論めいた議論もあります。

私個人の意見ですが、アメリカでは憲法の修正には議会の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州の賛成を必要としていますので、日本の議会の3分の2以上の賛成と国民の過半数の賛成は必ずしもハードルが高いというわけでもないように思えます。日本がこれまで憲法を変えて来なかったことの背景には別の要因があるのではないかと思えます。

私個人の経験から言いと、アメリカ人はわりと天真爛漫ですので、そこがアメリカ人のいいところなのですが、あんまり細かいことは気にせず、憲法を書いたのはアメリカ人だが、それを保持し続けているのは日本人だから、日本人は自分の意思で現行憲法を使っているのだと思っている人が多いように感じます。一方で、中華圏の人は現行憲法には敗戦国の日本に対する懲罰的な意味が込められており、それを変更しようとすることは日本人が過去の反省を忘れる歴史修正主義だというように認識している人が多いように感じます。アメリカ人と中華圏の二種類しかサンプルがなくて申し訳ないのですが、中華圏の人とこの手の議論をする場合は相手が感情的に反論してくることが多いので、そういうことはなるべく議論しないようにしています。

永久平和の理想も確かに尊いものですから、現行憲法が悪いとは私は必ずしも思いませんが、現実と乖離している面があるのもまた確かかも知れません。法律に書いていないことは慣習なりコモンセンスで埋めていくのが法律の基本ではないかと私は思っていますので、安全保障や国際貢献に関しては必要に応じて対応することにして、わざわざ感情的な議論を引き起こす憲法改正のような手続きに出なくてもいいのではないかと私個人は考えています。

それはそうとして、幣原喜重郎内閣では第22回衆議院総選挙が行われ、それは婦人参政権もあるという画期的なものでした。その結果は日本自由党が第一党で、日本進歩党が第二党というもので、過半数を獲る政党はなく、幣原喜重郎は日本進歩党に近く、紛糾が生まれ、総辞職に至ります。幣原喜重郎の次は、いよいよ吉田茂の登場です。