メイデイでの労組のテーマは「命と暮らしを守る」でした。今はコロナ禍が続き、長い不況、少子高齢社会、円安に起因する物価高、ウクライナ戦争と問題山積です。あなたが思う「命と暮らしを守る」は何でしょうか?

私は自由を大切にしていますが、仮に経済活動・社会活動で自由を謳歌するとしても、失敗した人が生活できなくなるという事態が生じることには強い懸念を感じています。自由で何度でも挑戦できる社会を作るためには、失敗した人が生活できなくなって自殺してしまったりというようなことがないように目指していかなくてはいけないと思います。たとえば生活保護受給者に対する差別があってはならないことは当然のことですが、生活保護は誰でも気軽に受給できる制度にしてゆくべきで、理想はベーシックインカムだと思うのです。

というのも、生活保護を審査するのは役所の担当者なわけですが、どうしても偏見や思い込み、判断ミス、情報不足、受給希望者の言葉足らずなどによって、完全に公平な給付ということは考えにくく、実際、生活保護がなくても生活できるであろう人が受給に成功する一方で、明日の食事にもこと欠いた結果、路上生活を選ばざるを得なくなる人もいるわけですね。担当者が審査するという制度そのものが不完全なものであると私は思っていますから、誰でも希望者は受給できる、何なら希望しなくても勝手に振り込まれるくらいでちょうどいいのではないかと思うのです。

必ず生活できるという前提があった上での自由競争が結局はいい果実を人類にもたらし、より多くの人の命と暮らしを守ることにつながると私は思います。



給付金などのモノサシにされる「低所得」ですが「頑張っているのに低所得」なのと「働く気が無くて低所得」など個々の状況は異なります。本当に困っている人を支える為にはどのようにするべきでしょうか?

給付金などのモノサシにされる「低所得」ですが「頑張っているのに低所得」なのと「働く気が無くて低所得」など個々の状況は異なります。本当に困っている人を支える為にはどのようにするべきでしょうか?

というquoraでの質問に対する私の回答です。

本当に困っている人を特定する方法はないと思います。同じ低所得の人でも、資産のある人、親が金を持って居る人、顔がいいのでモテる人、そういったものが何もない人では幸福度も将来への展望も全く異なります。そしてそれらの諸条件の違いを公平に測定することは人間には不可能です。従いまして、所得などで公的支援の範囲を区切るのではなく、ベーシックインカムのようなものを導入することにより自分がどんなに恵まれていなくても生活できなくなることはないんだと誰もが確信できる仕組みを作るべきと思います。現状では役所が支援すべき人とそうでない人を選別していますが、実は支援が必要なのに受け取れない人がいる一方、本当は余裕があるのに知恵が働いてお得な思いができる不公平が生まれてしまいやすくなっていると思います。



AI時代にはBI(ベーシックインカム)を

今年はAIの話題でにぎわっています。
なんでも近い将来、AIが人間の代わりに仕事をするようになるのだそうです。

自動車の自動運転は近く産業化しそうな感じですから、そうなればバスもタクシーも無人運行ということも決してあり得ない話ではないかも知れません。既にゆりかもめは無人で運行されているということを思えば、近い将来本当にそうなるかも知れません。外国語の勉強も研究や教養以外では必要なくなるかも知れません。翻訳や通訳はAIがやってくれるようになりますから、そのような職業も必要なくなります。農業もロボットが全自動でやってくれますので、農家も必要なくなりますし、役所の手続きも自動化され、工場については言うまでもありません。ロケットも宇宙探査も火星開発も全部AIがやってくれます。スペースコロニーもモビルスーツも短期間で設計、製造してくれることでしょう。エヴァンゲリオンも無人で動くので嫌がる碇シンジを強引に搭乗させる必要もないのです。

人間がやることは「〇〇がほしい」「〇〇がしたい」という要望をAIに伝えるだけになるのだそうです。即ち、労働が必要なくなるということらしいのです。

では、そのような労働なき時代に人は幸せになれるでしょうか?2つの方向性が考えられるのではないかと思います。1つは巨大な資本と一部のスーパーエリートが高い収益を得て、残りの人は仕事も収入もない世界です。しかし、このような世界が実現しても人間が幸せになったとは言えません。そのようなことならAIが実現する必要もないように思います。そもそも大衆が消費できなければ、資本主義が持続できません。ですので、考えられるもう一つの方向性は、ベーシックインカム(BI)を導入し、仕事がなくても好きなことだけをして生きていけるという世界です。AIの発達により生産性は想像を遥かに超えて上がるらしいですから、人間が努力をして生産性を上げるということに意味はなくなります。それならば、せっかくAIが働いてくれるのですから、その果実を全員で分け合うというのは人間を幸せにする一つの方向性ではないかと思えます。

私はわりとグローバリスト的な発想が身についていて、人が努力をして成果を得、その成果を楽しむことは自然なことだと思っていましたが、AIという全く新しい条件が与えられるのであれば、無駄に人が苦労する必要はありません。そもそもどんなに努力してもAIに勝てるわけもありません。

人は政治や芸術などの人でなければできないことをやればそれでいいということになります。政治家はやりたい人が手を挙げて、オンラインで主張を訴え、有権者はワンクリックで投票。いわゆる政治資金は基本的ゼロ。芸術方面でもやりたい人が表現をして、採算は度外視というか、そもそも採算が問題にならない。

本当にそのような時代が来るのなら、気持ちも楽です。技術革新ありがとうです。一人に一台ドラえもん。日本国民全員がのび太になってもいいのです。

しかしながら、果たしてそうなるまでどれくらい待たなくてはいけないものでしょうか。ゆりかもめができたのが20年くらい前ですが、その他の地下鉄やJRや私鉄はみんな運転手さんが働いてくれています。銀行の手続きはかなり機械で済ませることができるようになりましたが、今も銀行窓口の人はいます。AIが人の知能を超える、いわゆるシンギュラリティが起きるのは2040年代と言われていますが、日々技術革新が進むこの世界で、20年以上先のことは未来学です。大学で先端技術を研究する偉い教授の先生が笑って「そんな先のことよりも、現実的なビジネスに生かすことを考えましょう」みたいなことを言うのも頷けます。どうも、働かなくてもいい時代が来ると浮かれるには、もしかするとまだ早いかも知れません。がんばろ…。




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