カント-満足する人生

カントは生涯を独身で通したとそうです。感情的に穏やかな生活を送るためには独身の方が都合がよく、女性には関心を持たないことが一番だと考えていたようです(もっとも、もてなかったので、そういう風に考えたのではないかという邪推は可能です)。また、規則正しく生活することを好み、毎日の散歩時間は決まっていたとも言います。更に言うと、大学の中だけで完結するような人生を送っており、相当程度にストイックな思索に耽る生活を好んでいたことが分かります。ルソーのはちゃめちゃな人生やベーコンの栄達や利得を目指す人生と対比させれば、静かで穏やかで、我々がイメージする哲学者の姿によく当てはまる人物であったのではないかと思えます。

カントが79歳で亡くなる際、最期の言葉は「これでよい」であったと言います。即ち、自分の人生に満足していたということが分かります。

ではなぜ、カントは自分の人生に満足することができたのでしょうか。人は若いうちは恋愛がしたいと思いますし、お金もほしいし贅沢もしたいし、えらくなりたいとも思うものです。カントはそういった世俗的な満足を全て切り捨て、思索によって得られる満足に集中し、それに相応しい成果を挙げたからと言えるのではないかと思えます。信長が桶狭間の戦いで今川義元に集中したのと同じような戦略を人生に対して用いたのではないかという気がします。

カントは観察して得られる結果は観察される客体によって決まるのではなく、観察する主体の認識の仕方や枠組みによって決まると考えました。やはり量子論に近い考え方と言えるように思えます。量子論そのものもカントの影響を受けているのかも知れません。いずれにせよ、そういうことなので、絶対は絶対に存在しないし、経験だけで物は言えないし、思索による論証だけでも物はは言えないと考え、それでも「人」とか「女」とか「甘いもの」とかのワードによって頭の中に浮かんでくる観念が存在することだけは間違いないので、観念論という立場に辿り着きます。

カントは両親が真面目なキリスト教徒であったためか、道徳も重視しており、永遠平和という考え方を持つようになり、それはその後に国際連盟や国際連合の創設の理念に影響を与えたとされています。カントの時代はドイツが大戦争をやりまくって分裂して大変に厳しい時期が続いた後でしたので、余計に平和に対する思いや願いが強かったのかも知れません。また、道徳的でありたいとは私たち個々人の願いでもありますから、カントのそういった様々な思索や人生について憧憬や畏敬の念を禁じえません。尤も、道徳とは何かは正義とは何かと同様にすぐに結論することのできない、難しい部分を含んでいることも確かだと認めなくてはいけないかも知れません。

スポンサーリンク


フランシスベーコン‐良くも悪くも現実主義

イギリス経験論哲学の祖とも言えるフランシスコベーコンですが、その発想法の原点は徹底したリアリズムにあったようです。そのため、古代ギリシャ哲学が「宇宙の真理」を探求したことに対しては軽蔑的な態度で臨んでいたとも言われます。観察することによって知識や真理に到達するという点では古代ギリシャ哲学とも共通する部分はあるように思えますが、ベーコンは「役に立つ知識」を重要し、役に立たない知識には関心を持たなかった、或いは「そんな知識を得るための努力は無駄としか思えない、思索にふけって神とか世界とか善とかについて考えるやつってばかじゃね?」くらいに思っていたらしいのです。ベーコンはイギリス近代思想の礎になったとも言えますが、フランス近代思想の礎となったモンテーニュとはその点によって違うがあると言ってもいいかも知れません。

どうも、そのような発想法を持つに至った背景には若いころに苦労し過ぎたということがあったのではないかとも思えます。父親の遺産を受け継ぐことができず、青年期は借金に苦しんだといいます。その後は法曹の世界で活躍し、政治の舞台にも登場して栄達していくわけですが、出世のためには手段を選ばないところがあったらしく、結構、えぐいこともやっていたらしいです。晩年期に入ってから、収賄の罪に問われて失脚し、著述や研究に没頭する日々に入ります。ある時、雪で冷やせば肉の保存期間が長くなるのではないかと考え、その実験をしているときに肺炎になってしまい亡くなってしまいました。想像ですが、ベーコンとしては「もう一花咲かせてやりたい」という思いが強く、「冷蔵技術を確立すれば儲かる」という動機で上のような実験をしたのではないかと思えます。

そのように書くと、人間的に問題のある人で、なんだかなぁ…という結論になってしまいかねませんが、彼の残した4つのイドラという概念は大変に説得的でかつ教訓的でもあると思えます。一つが「種族のイドラ」、次が「洞窟のイドラ」、続いて「市場のイドラ」、そして最後に「劇場のイドラ」があります。イドラとは偏見を意味しており、種族のイドラとは人間という種族が本質的・内在的に有する偏見で、洞窟のイドラは個人的な思い込み、井の中の蛙大海を知らず的なもので、市場のイドラとは市場で飛び交う種々雑多な情報に右往左往させられることを指し、劇場のイドラとは権威にひれ伏しそれを崇拝し、無批判に信じることを指しています。

以上の四つのイドラに自覚的になることはより良い人生を送る上で特に大切なことのように思えますが、ベーコンの場合は以上の4つのイドラを利用して出世したい、おいしい思いがしたいという側面が強く、そういう意味では本人もまた深い業によってイドラに取り込まれた人であったと言えるかも知れません。もっとも、我々人間でも多かれ少なかれイドラを抱え込んでいると言えますので、ベーコンだけが特別にどうとも言い切れず、ベーコンの人生を自分の問題として観察すると、新しい叡智を得られるかも知れません。

ベーコンが以上のようなイドラという概念を著述するに至った経緯は、いわゆるイギリス経験論というある種の研究法則を用いたことがあるわけですが、全ては実験的に経験してみないと分からない(下手な考え休むに似たり)という考え方は現代人の実践主義にも通じるものであるとも思えます。経験論的帰納法によって得られる見解のことを一般に知恵と呼ぶと私は理解していますが、そういう面に於いては、徹底した現実主義者であったベーコンから学べる点もあるように思えます。