ドイツ語を修得すると、ドイツ人と会話できることを除いて、具体的にどのようなメリットがありますか?

ゲーテのようなドイツ文藝を直読みでき、ヘーゲルのようなドイツ哲学を直読みできるため、ナチスのプロパガンダを直読みすることにより彼らがいにしてドイツ人民をペテンにかけたのかを分析できるようになります。ナチスは頭の悪い大衆を騙したのではなく、優れたインテリを騙したのであり、博士号を持つゲッペルスか巧みにドイツの人文知識の伝統を利用したナチス宣伝を推し進めたのだということにも気付くことができるはずです。それはたとえば、ドイツはマルチンルターの宗教改革が始まった土地であり、皇帝や教皇、貴族の支配を受けない自由都市の気風を重んじる土地であり、要するに伝統を打破することを良しとする伝統があると言えるようなことろがあって、だからこそ、リーフェンシュタールの意志の勝利というタームがウケたりしたというようなことです。



歴史の定義は何ですか?

ヘーゲルであれば、歴史とは社会変動であると言うのかも知れませんが、フランシスフクヤマの歴史の終わり以後も私たちの営みが続くことを目撃した21世紀人の私としては、ヘーゲルぽくない定義をしてみたいと思うのですが、私は、歴史とは記憶の共有であると定義してみたいと思います。従いまして、たとえ実際に起きたことであっても、記憶として後世に残されていなければ、それは歴史ではありません。仮にどこかで記録が発見され、共有されれば、歴史になります。また、事実と異なって記憶されていたとしても、記憶が共有され、事実だと信じられていれば、それは歴史であると言えます。神話などはその類に入るかも知れません。



自由主義と新自由主義はどう違うのですか?

多分、あまり違わないのです。もともとアダムスミスが経済は人それぞれ自由に勝手にやるのが一番いい結果になると、神の見えざる手に導かれるとしたのが自由主義の嚆矢になると思いますけれども、フランス語でこれをレッセフェールと言いますが、ある時からレッセフェールではダメだという意見が生まれ、レッセフェールのままだと貴族や地主、資本家などのアッパークラスが永久に人々を搾取するという問題を持つ人が生まれてきてですね、トマスモア的ユートピアは自然に生まれて来ないので、意図的にヘーゲル的社会変動を起こさなければならないという共産主義革命思想が生まれたり、そこまでやらなくても政府の意図的な財政運用で人々は豊かになれるとするケインズ経済学的思想が生まれたり、いやいや中央銀行が金融を緩めたり引き締めたりするだけでどうとでもできるとするマネタリスト思想が生まれたりして、20世紀はアダムスミス的ではない形での経済金融政策が様々に議論されたのですが、21世紀に入るか入らないかくらいのころに、「ちょっとまて、アダムスミスで良くね?レッセフェール最高じゃね?」と言い出したのが新自由主義者なのだと私は理解しています。ですので、自由主義の中に古典的自由主義と新自由主義が存在し、古典的自由主義と新自由主義の違いは流行した時期の違いだけであるということではないかなと思います。



ショーペンハウアー‐諦めが肝心だ

ショーペンハウアーはこの世界は生きる意志、積極的に生きようとする意志で成り立っていると考えました。現代人の我々の感覚から言えば、「お、積極的でいいね!」と思いそうになりますが、彼の本心は違うところにあったようです。即ち、積極的な生への希望があることこそが苦しみの源であると考え、そのような希望、生きたいという意思を消し去ってしまうことで、幸福や平安を得られると考えたのです。古代ギリシャのエピクロス的快楽主義にも通じるもののようにも思えますし、小乗仏教的な発の想法とも通じるものがあるようにも思えてきます。

ショーペンハウアーは生きようとする意志は盲目的なものであって、且つ往々にして利己的なものであるため、ついでに言うと人権は他者との人権との間で権利の衝突が起きうるという内在的制約があるとも言ってもよく、そういったことはいわゆる欲望であって、欲望に際限がないのはもはや論証するまでもないほど明らかなことであるから、諦めてしまうのが一番。諦めこそがよりよき人生と彼は考えるようになったわけでした。

ベルリン大学で講師になりますが、当時ヘーゲルも同じ大学で講義しており、学生の人気は圧倒的にヘーゲルの方が高かったそうです。ショーペンハウアーは半年で大学を辞めて静かな隠棲生活に入りますが、自分の講座には人気がないということをあっさりすっぱりと受け入れることで、苦痛の少ない生活を選んだあkたり、彼の人生観がよく現れていると言ってもよいのかも知れません。

私も大学で講義する身ですので、そこから想像するに、若い学生の人たちは「かっこいい」知性に憧れを抱いています。ヘーゲルのように、テーゼとアンチテーゼ、アウフヘーベンとジンテーゼという用語を使って世界が一方向の極相へ向かって動いているという考え方はいかにもかっこよく、新しくてかつかっこいい、世界の真実に触れることができると学生たちが感じたとしても、無理はありません。一方で、ショーペンハウアーの講義内容が「人間の欲望にはきりがないのだから、諦めなさい。あなたが自分で情熱と思っていることも、欲望の一種にすぎませんから諦めなさい」というような内容であったとすれば、夢や希望が膨らむことを望む学生たちはがっくりしてしまったのではないかと思えます。私個人はショーペンハウアーの言うことには一理も二理もあるように思えますが、実践するのは至難のこととも言えます。まだ学生さんの立場であれば受け入れがたい、面白いと思えないと感じるのも充分に頷けることのようにも思えます。

市井で静かに隠棲するのも、また、哲学者らしくていいのではないかと思わなくもありません。

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ヘーゲル‐かくして自由と理想は達成される

ヘーゲルは弁証法によってより高次の理想が達成されると考えました。即ちテーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったとき、それを克服するための第三の道が見つけ出され、より高次のものへとつながっていくというわけです。このようにより高次のものへと上昇していくことをアウフヘーベンと呼び、テーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったときにアウフヘーベンが起きると考えたわけです。

アウフヘーベンが起きた後、新しいテーゼ、ジンテーゼが生まれますが、やがてそのジンテーゼに対するアンチテーゼが登場し、ぶつかり合ってアウフヘーベンが起きます。それは人類の不断の営みと呼べるものですが、いずれはジンテーゼが限界に達します。それはアンチテーゼの生まれようのない理想的な世界であり、理想が達成された極相に到達したと考えることができます。

このようなテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いで分かりやすいのは技術革新で、それこそAI開発の研究者や技術者たちはこの繰り返しをしているに違いないのですが、ヘーゲルの場合は、同じことが人類の歴史に於いても起きると考えました。

ヘーゲルは自由と善が達成された社会を理想としており、市民社会では自由はある程度達成されたと言えますが、各人が自己の欲求の追求に邁進するために必ずしも善が達成されるとは限りません。ヘーゲルはそのような状態で国家が善を達成すると考え、またそのように善を達成し得るものが国家として相応しいと考えました。

時代背景的にフランス革命からナポレオン戦争へと続くヨーロッパが壮大な転換点を迎えていたことと、ヘーゲルが以上のようなことを考えたことは当然に大きな相関関係があるように思えます。ヘーゲルはフランス革命が起きた時、友人と記念の植樹をして祝ったと言いますが、その後のナポレオンの姿を見て「世界精神が行く」と言ったとも言われています。即ち、ヘーゲルにとってフランス革命はテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いの結果発生したアウフヘーベンであり、その後に登場したナポレオンはジンテーゼそのものであり、自由平等博愛を旨とするフランス革命がナポレオンに輸出されることは是であり、フランス革命的自由に彼は夢や理想を感じたに違いありません。アウフヘーベンが繰り返されればいずれは人間の歴史もその極相に達すると考えた背景には、稀に見る歴史的転換点に彼が触れることができたからなのかも知れません。

ヘーゲルの弁証法によって東西冷戦の終結を説明しようとしたのがフランシスフクヤマの『歴史の終わり』であるわけですが、ヘーゲル的な考え方によって全てが説明できるかどうか、何とも言い難いところは残ります。奢れる平家は久しからず、盛者必衰の理を表すとする東洋的な輪廻の世界観では、ヘーゲル的弁証法によってアウフヘーベンが極限まで達した結果、理想の世界が達成されるとする一直線且つ不可逆な世界観を受け入れることは容易なことではありません。実際、今の世界のいろいろな出来事には、東西冷戦時代の方がまだ整然としていてましだったのではないかと思えることも多いため、フランシスフクヤマの著作は少々勇み足であったのではないかとも思えます。

世界が不可逆の方向へ進むという思想はヘーゲルしかり、マルクスしかりですが、マルクスの対極にあるはずのキリスト教でもそうであり、やはりヨーロッパに伝統的に続いている、いずれ世界は終わるという思想と無関係には理解できないのかも知れません。

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