ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。

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フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

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デカルト‐神と私、精神と肉体、感情と理性の二元論

デカルトは「方法的懐疑」という手法を通じて真理に迫ろうと考えました。即ち、いかなるものに対して疑いの目を向けてみる、例えば「東京湾は東京都に隣接している」という命題があった際、本当に東京湾と東京都は隣接しているのか、地図を見れば隣接しているように見えるが、地図が間違っているかも知れないし、自分の目が間違っているかも知れない、経験的に正しいと思っていることも、五感の経験が錯覚や夢のようなものではないという保証はないと考えたわけです。そして、それを突き詰めた結果、それについて考えている自分の主観が存在するということだけは疑いようのない事実であるとの結論に達し、有名な「我思う、故に我あり」に辿り着きます。

認識していることがどれだけ正しいのかわからない不完全な私が存在することを前提に、不完全が存在する以上、論理的に考えて完全が存在する余地は残されており、その思索の結果として完全な神は存在すると結論します。パスカルは人間が理性で考えて神が存在すると結論すること事態が傲慢不遜であると批判したと言いますが、神の存在証明を論理的帰結に求めるか、神秘的経験に求めるか、聖書的奇跡に求めるかは当時のヨーロッパ人にとっては重要な問題だったのかも知れません。現代人であれば、神は主観の問題であるということで結論に代えることも可能ではないかとも思えます。私は個人的に、それを神と呼ぶかどうかは別として、いわゆるサムシングレートみたいな存在はあるのではないかなあと思ってはいますが、これも主観に過ぎません。

さて、デカルトの立場であれば、神を経験的に感知することはできませんから、理性を用いて演繹的にその存在を証明しかないということになり、いわゆる大陸的合理主義としてイギリス経験論との対比関係と位置付けられています。

この演繹的思考法を用いれば、神であろうと宇宙人であろうと地底人であろうと演繹的のその存在、不存在を論証することが可能になります。詭弁に陥りやすいため、注意は必要ですが、詭弁はいつの時代にも存在すると考えれば、デカルトに限らず、いかなる学問にも共通して注意しなければならないとも言えそうにも思います。

デカルトはこの演繹的思考により、精神は肉体とは別個の存在であるとの立場に立ち(主観を持ち考えている私は肉体の存在不存在とは直接関係しない)、精神と肉体の二元論に至ります。考えに考え抜いたわりには普通の結論のように思えなくもありません。真理は常識の中に存在しているのかも知れません。

心の動きに於いても理性と感情の二元論で説明することが可能であり、デカルトは理性によって感情を抑制することをその道徳律としました。フロイトが人間の心を意識と無意識に分けたのは、デカルトの理性と感情の二元論に対するカウンターパートであると考えていたのかも知れません。理性と感情がはっきりしていれば、理性によって感情を支配することは論理的に可能ですが、人は必ずへんな癖があったり、わかっちゃいるけどやめられないことがあったり、うまく説明できないけどどうしてもやりたいことがあったりする、非論理的な側面を持っており、しばしば理性によってコントロールすることに限界が生じます。そのため、デカルトの思考法だけでは日常生活に応用することに限界があるため、フロイトとしては意識と無意識という分け方を用いることによって、人間の心をより実際に近い形で説明できると考えたのではないかとも私には思えます。

よくポストモダンで脱二項対立という言い方がされましたが、まずはデカルトの二元論を知らないと、ポストモダンの意味するところもはっきりせず、理解に苦しむことになると思います。尤も、二元論だの二項対立だの脱二項対立だのというのはヨーロッパ人の教養から生まれて来た発想法であるため、日本人がそのことで悩む必要はないかも知れません。日本の場合、例えば能の世界観であったり、或いは盂蘭盆の習慣であったりというように、そもそも死者と生者の境界が曖昧で、その曖昧さを楽しむという独特のスタイルがありますので、それはそれで大切にすればいいのではないかとも思えます。